西部陶工村の工房。
ユナ — 焼く前の土
ユナは小壺を返し、底へ残った土を削った。置いてみると、傾かずに座った。
「その列を、昼までに」
焼成係が棚を指した。窯のそばでは積む順を待つ壺が並び、戸口には荷を運ぶ男がいた。男の肩の向こうに、家へ戻る細い道が見えた。
妹は今朝も熱があった。ユナが水を置くと、冷たい所へ寝たいと言った。床へ降りると熱が下がると思っていた。
家の甕には、底が見えるくらいしか水がない。父に汲んでおいてと言ったが、返事を聞く前に、仕事へ出る時刻になった。
ユナは次の壺を返した。工房の床は水気を含み、台の下に土の削り屑が貼りついていた。こちらへ持ってくれば、妹が涼しいと言うだろうか。窯の口から熱い空気が来て、その考えを追い出した。
台の端に、先の欠けた骨べらがあった。釉薬の桶をこそげるには使いづらいが、細い所へは先が入る。ユナは持ち替え、壺底の縁をなぞった。
土はまだ柔らかかった。傷をつければ、乾く前なら指で消せる。
いきるぶん のこせ。
そう書こうとした。最初の一字へべらを置き、止まった。
賃を渡す日に、父の前借りの分だと引かれたことがあった。父は借りていないと言った。どちらに聞いても、同じ話の先へ行けない。薬湯を作る水まで、前借りの中へ入った気がした。
ユナは短く刻んだ。
のこせ。
三つの小さい字が、底の丸い所へ収まった。
「何してる」
見習いの男が通りかかった。ユナは壺を台へ戻した。
「座りを見た」
男は口縁へ指を当て、自分の壺の方へ行った。ユナは置いたままの底を撫でた。字は見えなかったが、浅い溝が指へ引っかかった。
誰かへ見せれば、何を残せと言うんだ、と聞かれる。水、と答えれば、そんなことはここで言うなと返される。賃、と答えれば、父へ聞けと言われる。
何のつもりかは自分でも一つにできなかった。ユナは壺を乾かす棚へ載せ、底を人の方へ向けなかった。
昼に、帳付のラクが品数を確かめに来た。小壺の数、口縁の欠け、焼かずに置く分を帳へ入れる。ユナは一つ持ち上げて見せ、まだ乾いていないと伝えた。
自分が書いた三字を、ラクへ読まれる気がした。ラクは指で口縁を叩き、棚へ返した。
次の市へ出す荷が揃う頃、ユナは焼けた小壺を持った。底へ爪を当てても、あの字は消えない。口を下へ向けると、のこせ、と見えた。
焼成係が藁を引き寄せた。ユナは壺を渡した。男が詰めるあいだ、何も言わないので、ユナも言わなかった。荷が戸口を通る。肩の向こうに見えた道が、また空いた。
しばらくすると、他の底にも傷が見えるようになった。
焼成係の中壺には、ぬすむな、とあった。彼はユナが見ていることに気づき、持つなら底を上にするな、と言った。別の壺には女の名らしい字があり、途中からこすられていた。字ではなく、家の印に似た線を入れた物もあった。
誰が始めたかは話さなかった。古い割れ壺にも、それらしい傷がある。ユナはそちらを確かめに行かず、自分の列を整えた。
ある日、釉を掛ける女が、焼く前の壺を抱えて台へ来た。底に、かえ、と書いてあった。その先が、字なのか傷なのか分からなかった。
「続き、これでいい?」
女は骨べらを持ち上げた。ユナは、かえせ、と刻みかけた。いつも賃が遅いので、そういうことだと思った。
土を運んで来たサドが、女の壺を覗いた。
「何を、返してほしいの」
女は首を振った。
「帰る。早く、帰る」
ユナの手が止まった。女は家に残した子の話をした。隣へ頼んであるが、市前になるといつも戻るのが遅い。今日は、その子が戸口で待っている。
サドは台の柔らかい土へ、かえる、と書いた。
「これ?」
「今日は、ってつけたい」
サドは指で試しの字を消した。女にもう一度言ってもらい、今日はかえる、と並べ直す。ユナは壺底に入れかけた線を潰した。
「あんまり入らないね」
女が言った。サドは、短くするか、と聞いた。女は字を眺め、少し小さく書けば全部入る、と答えた。
ユナはべらを渡した。女の手が動くのを、台の端で待った。
サドは土の籠を下ろすと、包みから本の端を出した。焦げた所が、綴じた布から少し覗いた。ユナがそちらを見ている間に、女は壺を持ち上げた。
「帰るって、まだ言ってないけど」
サドは顔を上げた。
「じゃ、字より先に言ってきな」
女は笑わずに頷き、焼成係の方へ行った。ユナは行き先を見た。自分でべらを渡したのに、もう一度、台に戻って来る気がした。
焼成係はその日の列を指し、あとこれだけ、と言った。女は、これだけだとまた遅い、と返した。男が壺を数え直す間に、ユナは自分の列から乾いた物を選び、空いた場所へ移した。
全部を代わるのではない。ユナも家へ帰る。女が釉を掛け終えた分を、自分が焼成係の所へ運べば、その分だけ早くなる。
「ここまで。あとは、明日の列」
ユナが言うと、焼成係は口を尖らせた。けれど、乾いていない壺を持ち上げ、台へ戻した。
女は濡れた前掛けを外した。底の字を見せて帰るわけではなかった。ユナは戸口で背中を見送り、明日の棚が一段増えたのを見た。
大壺の注文が入った日、あの見習いが口縁を欠いた。別の女工が渡す時にぶつけた、と言って台を指した。女工は、自分が持った時にはもう欠けていた、と返した。
ユナは男の指が欠けを探る所を見ていた。男もそれを知っていた。ユナの方へ顔を向けたので、先に自分の壺を持ち上げ、場所を空けた。
焼成係が来た。いつ欠けたかと聞かれ、ユナは、ここへ来た時には、と答えた。女工が受け取る前から、端が白かった。
男は、座りばかり見ているくせに、と言った。
それ以上を聞かれる前に、次の列が呼ばれた。ユナは大壺を返した。表の模様は注文の通りにする。底を整えると、広い空きができた。
べらを持ったまま、しばらく見た。
のこせ、とは違った。かえせ、と書けば、また誰かの言葉まで自分の賃へ近づけてしまいそうだった。
ユナは、みている、と刻んだ。
誰が、と続けそうになり、止めた。今、男に答えたことをここへ全部置く気はなかった。女工が台の向こうで土を削っていた。ユナは、その手の動きまで文字にしなかった。
大壺を返すと、焼成係が持ちに来た。底へ指を掛けて運ぶ。彼が字を読んだかどうかは、分からなかった。
壺を受け取る娘 — 丘の下の家
工房の最初の小壺は、荷に混じって丘の下の家へ来た。
娘は、買って来た壺を母から受け取った。母は口縁を撫で、ひびがなければ井戸で洗えと言った。娘が運ぶと、土間の段へ足がかかった。慌てて抱え直した時、底が顔へ向いた。
浅い線があった。窯でできた傷とは違い、三つとも、どこかで見た形だった。
井戸の脇へしゃがみ、壺を膝で返した。
のこせ。
口に出すと、井戸端の女が、何を、と聞いた。
「分からない。ここに」
壺底を見せると、女は覗き、工房の者が何か書いたんだろう、と言った。娘は壺を洗った。底をこすりすぎないようにするつもりはなかったが、手は口の方へ回った。
母は壺へ水を入れ、涼しい壁際に据えた。夕飯の時には、父がそこから椀へ注いだ。誰も壺を返さなかった。
娘はもう一度読みたくなり、壺を持ち上げかけた。水が重かった。返せばこぼれるので、壁際へ戻した。
娘は水を汲み足す番になった。抱えるたび、底へ指を回す。見えなくても、どの辺りに字があるか分かるようになった。
ある晩、母が隣の家へ行った。戸を閉める前に、残っている粉で小さい餅を焼け、と言った。父の分も残すよう念を押した。
娘は妹と二人で火を起こした。最初の一つは端を焦がした。妹が手を出し、熱い、と言って引っ込めた。娘は割って皿へ置き、冷めるのを待たせた。
残りは二つ焼けた。父の分を戸棚へしまい、もう一つを二人で分けることにした。
妹は皿を見てから、戸棚を見た。
「あっちの、まだある」
娘はあると答えた。少しだけ分けようとして、手を止めた。父が帰った時には、もう粉がない。
二人で食べた。妹が眠ると、娘は使った椀を洗った。新しい壺へ残りの水を戻す。その時に底へ爪がかかり、今日もあの字があると思った。
のこせ。今夜は、それが自分に言われたようだった。
娘は指を外した。工房の誰が書いたのかは知らない。その者が、今日の餅まで知っているはずはなかった。
洗った椀を棚へ伏せた。火を落とす前に、浮いていた床板を上げ、炭の先で裏へ小さい線を引いた。字ではなかった。二本引き、その間をもう一本でつないだ。
置き直すと線は見えなくなった。娘は板を足で確かめた。妹が寝返りを打つ。戸棚の餅はそのままにして、火の灰を寄せた。
丘の上の工房では、ユナの大壺も焼き上がっていた。水を溜めるか穀を入れるか、まだ決まっていない。底に刻まれた字は、荷を待つ床の方を向いていた。