山路諸領。灰油の送液管が谷を渡る、小さな橋の補修現場。
セトは、自分の道具で継手を締めたかった。
前の仕事までは、親方が終えた所を撫で、漏れがないかを見ていた。今日は親方が別の現場へ行き、谷の受け台を自分に任せた。手伝いのロウも、セトさん、と呼んだ。
「さんは、いらん」
セトは言ったが、もう一度呼ばれるまで、訂正しなかった。
谷を渡る管の脇に、細い歩き板があった。修繕に使う道だが、近くの家の者も川向こうへ抜ける時に通る。朝には粉の袋を抱えた女が来て、昼までに終わるか、と聞いた。
「歩く所は、先に直す」
女が渡ると、板が下がった。セトは古い釘を抜き、傷んだ二枚を外した。下の川が見えるようになり、ロウが腰の縄を確かめた。
管の受け台も傾いていた。灰油は継目から少しずつ滲み、下へ置いた桶へ落ちていた。北から来る油が、西の港へ届く途中の一か所だった。
セトは、上手の栓を閉じて流れを止めた。漏れた油を足で踏まないよう桶を移し、受け台へ支えを入れた。木の重みが戻る。継手を触った指へ、今度は余計な揺れが来なかった。
ロウが、管も休むと静かだな、と言った。
「静かなうちにやる」
セトは新しい板を受け取った。角が合うと、嬉しくなった。削りすぎなかった。誰かを呼んで確かめなくても、足を掛けた時の戻り方で分かった。
そこへ兵が来た。
川下の道からではなく、山側の細道を下りてきた。先頭の男が橋を見て、後ろへ手を上げる。兵の一人は、受け台へ差し込んだ支えを跨いでから、引っかかる所はないかと自分の裾を見た。
先頭の男が栓を指した。
「これを閉じたのは」
「私です。今、直しています」
「開くな」
セトは管と男を交互に見た。
「まだ漏れます。終わったら」
「終わっても開くな。三都市へ通す油を止める」
男は後ろの兵を栓のそばへ残した。ロウが新しい釘を口から取った。谷の下では、さっきの女が粉袋を肩へ移していた。こちらの声は届かなかった。
送液路を巡って、都市側と山岳領が争っていると聞いていた。道へ兵が増え、荷車が引き返すのも見た。セトは戦が始まったかを男に聞いた。男は、もう始まっている、と答えた。
「こちらの道具が要るなら、昼まで待ってください」
セトは言った。そういう頼みで来たと思いたかった。
男は道具を見て、油を止めることだけ確かめたい、と言った。
「開ける柄を外せるか」
「外せます」
「外して渡せ」
セトは柄へ手を掛けた。朝に自分で閉じた同じ栓だった。締めた先で管を直し、終われば戻す。その順だけを考えていた。
男の言う通りに外すと、柄は思ったより軽かった。男が受け取り、そばの兵へ渡した。兵はそれを荷の間へ差し込んだ。ロウが、手で戻せないのか、と小さく聞いた。
「今は、戻せない」
セトも小さい声で返した。
男は橋の向こうを見ていた。山から下りる道と、川沿いの道が合う所にもう一人の兵を立たせた。管の位置を押さえれば、道の方も押さえられるらしかった。
「仕事は続けていいのですか」
「漏れる所は直せ。こちらでも使う」
男はそう言って、傷んだ歩き板の横へ立った。
「人を通す方は、外したままにしておけ」
セトは板を持っていた。管を支える材と違い、その板は人の足を受ける。朝に渡った女が、あとで戻ってくる。
「ここは修繕にも使います」
「今、なくてもやれている」
セトは腰の縄を見た。板を外した場所では、受け台の縁へ足を掛け、縄で身体を支えて管へ寄せている。ロウは手前に残る板の上から道具を渡していた。
男が、夕方までには戻る、と言った。セトはその間に何を終えたことにすればよいか分からず、返事をしなかった。兵が二人、橋の両側へ残った。
ロウが板を下ろした。
「これなら、今日はもう帰れますね」
「受け台が、まだだ」
「開けないんでしょう」
セトは傾いた所を指した。油を通さなくても、重い管はそこへ載っている。
二人で支えを組み直し、継手を締めた。ロウが手前の板から道具を投げようとしたので、セトは投げるなと言った。身体を伸ばして受けると、縄が腰へ食い込んだ。
支えの一本が、持って来た物より少し長かった。ロウは削ろうとした。セトは古い受け台へ当て、反対側から見た。端を削ってしまうと、台のへこんだ所でまた揺れる。
「ここへ当てる」
セトは木の向きを変えた。ロウに持たせ、自分で下の角を少し落とす。押し込むと、二人で持っていた重みが台へ移った。
ロウが手を離し、笑った。
「先に見てよかった」
セトも手を離した。親方がこの場にいれば、同じ所を叩いて音を聞いただろう。セトは自分で叩いた。谷から戻る音が少し違い、ロウがもう一度叩きたがった。
「確かめるためだ。太鼓じゃない」
兵がこちらを見た。セトは黙り、工具を持ち直した。
漏れを受けた桶を脇へ寄せ、継手の周りを拭いた。止めたままだから、新しい滲みは出ない。いつもの最後の確かめができなかった。
「直った?」
ロウが聞いた。セトは継目を撫でた。
「流さなければ、最後までは分からん」
「じゃあ、終わらない」
セトは工具を下ろした。任された最初の現場で、終わったと言うことも、もう一度やることもできない。栓のそばの兵は、彼の手より山の道を見ていた。
昼を過ぎて、女が戻ってきた。袋は小さくなっている。朝に通った板がないので、川向こうで足を止めた。
「荷を下ろす所まで行って、戻って来ただけ」
女は兵へ話した。兵が先頭の男を呼びに行こうとした。女は袋を置き、橋のこちら側の道を指した。家はその道の途中にあり、ここからも屋根が見えた。
兵がセトを見た。
「いつ通せる」
「板を置けば、通せます」
「外したままにしろと言われた」
「あなたが向こうへ行く時も、同じです」
兵は管を見た。跨げば渡れると思ったらしかった。片足を掛け、管が丸いことを膝で確かめるように止まった。
セトは、そこへ乗らないでくれ、と言った。
「台を直したばかりです」
兵が足を戻した。橋を渡るより、栓を守る方へ仕事を貰っていた。後ろの兵へ聞いても、同じ返事になりそうだった。
女が袋へ腰を下ろした。中身が潰れる、とロウが言った。女は、なら持っていて、と袋をロウへ差し出した。
ロウは手を伸ばしかけ、板のない所を見て腕を引いた。女が笑いかけ、笑うのをやめた。
女は川の方を覗いた。セトも下を見た。降りる足場は、修繕材を運び込むための狭い物しかない。向こう岸へ渡る所ではなかった。朝、この橋から見えた道が、今は袋一つの幅より遠かった。
セトは板を持ち上げた。朝に削った角が、手の中で同じ形をしていた。
「置きます。ここで見ていてください」
「勝手に通すな」
「通す人は、あなたが見ればいい。管の上へ乗られると、また漏れます」
兵は、上の男に言え、と答えた。セトは、戻った時に自分が言う、と返した。縄を掛け直し、板を向こうの台へ渡す。ロウが端を押さえた。
釘を打つ音で、女が立った。セトは足を掛け、重みを移した。ロウも確かめた。新しい板へ靴の泥が二つついた。
兵は女に名前と行き先を聞き、袋の中を見た。粉と空いた包みだけだった。女はそれを抱え直し、一人分の幅を渡った。
「また、明日も来るけど」
女が言った。兵は答えなかった。セトも明日のことは言えなかった。
夕方、先頭の男が戻った。新しい板を見て、セトを呼んだ。
「外しておけと言った」
セトは谷の下を指した。仕事を終えた者が上がってきていた。管を跨いで渡ろうとした兵のことも話した。
「そこを通すなら、兵を立たせてください。油を止めるのと、帰る足を止めるのは、同じ物でできません」
男は板の端へ足を置いた。朝の板は、同じ場所で下がった。今は沈まない。男は足を外し、栓のそばの兵を橋の入口へ移した。
「俺たちが通す者だけだ」
セトは頷かなかったが、板を外しもしなかった。
男は、翌日も来て受け台を見ておけ、と言った。セトは最終の漏れを確かめられないままだと答えた。男が油を使う時に開ける、と言うので、開ける時には呼ぶよう頼んだ。
「それまでは、使えても、直ったとは言わんでください」
男は工具の包みを見た。
「お前が、ここを直す者か」
セトは、今日はそうです、と答えた。
帰り道で、ロウが、明日もセトさんでいいですね、と言った。セトは、手伝いをお前に頼むとはまだ言っていない、と返した。
ロウは首を回し、橋を見た。
「釘、何本残ってます」
セトは包みを開いた。二人で数えると、半端な数だった。朝には、余れば次へ持っていけると思っていた。明日もあの板へ使うかもしれない。
ロウが袋を差し出し、セトは残りを入れた。兵はもう、新しい歩き板の上で人を止めていた。通された者は、修繕した角へ靴を掛けずに渡った。
セトは袋の口を結んだ。谷の中で管は冷え、油の音はしなかった。自分の工具を肩へ掛けると、歩いたぶんだけ金具が鳴った。