山路諸領。灰暦34年の徴発運送と、帰りを待つ家のその後。
イレク — 三度目の便
イレクは、帰りの車へ麦を積めるだけの空きを残したかった。
刈り取りが始まっていた。村の下の畑から束を上げるには、車が要る。最初の徴発では二往復で済むと言われた。二度目に呼ばれた時は、予備の便だと言われた。今度の荷台には、樽のほかに橋を直す板と釘まで積まれていた。
リセが外套の袖を引いた。穴へ糸を通しながら、前より長いか、と聞く。
「橋が二つ、使えないらしい」
「では、麦の方は頼んでおく」
イレクは帰りに間に合うと言いかけた。リセは針を抜き、袖を放した。雑な縫い目が腕へ当たった。
「車が戻れば、下の畑へ行く」
それだけ言った。リセは頷き、馬へ水を飲ませた。
積み替え場へ入ると、樽を並べる場所が足りなかった。先の車は荷を下ろしていたのに、道へ出ることができない。空いた所へイレクが止めると、灰油樽をもう一つ載せろと呼ばれた。
「橋の板もある」
「その板を先へ運ばなければ、樽が通れん」
イレクは馬の腹帯を緩めた。もう一つ積むなら休ませる。急ぐという声は、馬へ水を持って来る声にはならなかった。
道の脇で、谷を渡る送液管が見えた。細い歩き板が、その横へついている。栓のそばには兵がいた。
「戦が始まった年、あそこで柄まで外させたんだ」
古くからこの場を使う車夫が言った。
「閉じれば油が来ない。それで樽をこっちへ回した。今は管の通らない先にも、車で送れと言う」
イレクは、直せば通るのではないか、と聞いた。車夫は管でなく兵を見た。イレクもそちらを見て、樽の縄へ戻った。
夕方、ダム家筋だという石工たちが来た。腰の札には、どの橋を直すかが刻んである。イレクはその札を覗き、補修は明日までかと聞いた。
「明日まで持たせる。明日終わるとは言ってない」
年かさの石工が答えた。イレクは笑った。石工も少し笑ったが、次の車が来ると、どちらも道を空けた。
翌日、名のない支橋で列が止まった。
橋面の半分が下がり、仮板の端が川へ向いていた。空車なら渡せる、と石工は言った。徴発官の随員が樽を見て、なら車から下ろして渡せと言った。
イレクは二本の縄を取り、樽へ回した。持つ所がないので、二人で端を持ち、地面を少しずつ転がす。橋へ着いた所で持ち上げた。石工が下から声を掛け、歩く位置を指定した。
真ん中まで来ると、向こうで受ける男がまだ別の樽を片づけていた。イレクは止まった。相手が待てないと言い、縄を引いた。
樽の脇が板へ当たった。縄へ油が滲んでいる。イレクの掌から細い端が抜け、相手が片手を離した。
樽が橋面へ落ち、割れた。続いて荷台から下ろされていたもう一本も、濡れた仮板を転がった。受け手がつかむ前に、川へ落ちた。
下へ行けと言われ、イレクは水の方を見た。拾える樽はもう見えなかった。
「損耗に入れる」
随員が言った。イレクは、誰が払う分に入れるのか、と聞いた。男はまず渡せと言い、先の車へ向かった。
残りの樽には、荷台の板を一枚添えた。二人で板ごと支え、先に向こうの受け手を呼ぶ。待つあいだ馬が脚を踏み替えた。イレクは樽を戻すことにし、一度だけ馬へ寄った。
鼻の横へ手を置くと、馬は水の匂いを探すように首を動かした。イレクは桶を持って来た。自分も飲みたかったが、先に馬へ寄せた。
次の樽は渡った。空車も向こうへ行った。積み直す頃には、板を外した場所へ靴の泥が溜まっていた。
樽を落とした時、仮板へ押しつけた足首が痛んでいた。見れば靴の上へ擦れた所がある。イレクはリセの縫った袖を触り、同じ糸なら少し貰っておけばよかったと思った。
山の北側で、別の列へ車を回せと言われた。
「この荷を下ろせば、帰りだ」
イレクが言うと、呼びに来た男は、向こうの列でも下ろす、と答えた。板と釘をまだ積んでいる。先の橋に要るらしかった。
イレクは車を動かした。同行の車夫が、村へ戻る便があれば伝えることはあるか、と聞いた。
「下の畑の麦を先に上げてくれ、と。車は、まだだ」
車夫が頷いた。イレクは馬の向きを変え、別の列の間へ入った。後ろから呼ばれた名へ、一度だけ振り向いた。
リセ — 家の戸口
伝言が来た時、麦はもう人の車を借りて上げていた。
リセは礼の分を束から抜き、残りを軒へ寄せた。戻って来た車夫は、イレクが別の列へ入った所まで見たと言った。足を痛めていたが歩いていた。その先は一緒ではない。
リセは、どこで荷を下ろしたかを聞いた。男は知らなかった。夫の言った下の畑のことだけは、もう一度、同じ言葉で答えた。
村の記録には、未帰着と残った。
リセは戸口の籠へ、その紙を入れた。夕飯を一人分にするのか迷い、多めに煮た。翌朝に温め直す。もう一度、多めに煮る。それを繰り返すと、薪だけが先に減った。
冬を越えて、リセは五港の裏帳場へ出た。夫の荷賃を受け取れる分だけでも確かめたい。家の屋根から水が入るようになり、村で待っているだけでは、麦も薪も減っていく。
書記は徴発の紙と運送の控えを並べた。樽数と車数は残っている。イレクの名は途中の便にあるが、家へ戻った印はない。
「戦死ではありません」
書記が言った。リセは、生きていると分かったのかと聞いた。書記は首を振った。
「荷を運ぶために出た人なので、軍の名簿とは別です」
リセは帰っていないと言い、書記は分かっていると答えた。荷賃の一部には、通過した印が欠けている。受け取れる額をその場で決めることもできなかった。
リセは紙を引き寄せた。戸口で使った籠よりも小さい紙が、机の上では広く見えた。
「帰らなかった人の話は、どこへ」
書記が机の下から別の束を出した。家族と同行者が残した私記だった。公式に死亡を決めた物ではない。北の橋で別れたという話、別便へ移ったという話、捕まったと聞いたが誰に聞いたか忘れたという話があった。
リセは夫らしい話を探した。どれにも、同じような外套の色や脚の傷が出る。しばらく読んでから、イレクの伝言を自分も残したい、と言った。
書記は、下の畑の麦を上げてくれ、車はまだだ、と書いた。その後ろへ、伝えた車夫と、見た場所を添えた。
「この続きを、聞けたら」
リセが言うと、書記は連絡を受ける所を聞いた。彼女は村の家を答えかけ、口を閉じた。
下の宿で、洗い物と釜の番をする仕事を頼めると聞いていた。働く間の寝床もある。夫が戻るなら元の家へ戻りたい。けれど今は、屋根の下へ一人で薪を足している。
「村へ戻ってから、決めて知らせます」
書記はそこを空け、持ち帰る紙を渡した。リセは道のことと荷賃のことを別々に確かめてから、席を立った。
村へ帰ると、夫の帰りを待つ椅子が窓のそばにあった。イレクがいつも靴を直していた場所だった。リセは腰を下ろし、宿へ持って行ける物を数えた。
鍋を全部持てば、戻った者が使う物がない。一つ置けば、新しい寝床のそばに置く物が減る。二つのうち小さい方を包み、大きい方には布を掛けた。
隣の女が来た。畑を見てもらう話をすると、刈る時だけでは足りない、と言われた。リセは種を置く場所と、今年の麦を分ける分を相談した。大きな畑ではないが、戸を閉めれば勝手に眠ってくれる物でもなかった。
「あんたがいなくなったら、イレクはどこへ帰る」
女が聞いた。
リセは、大きい鍋の布を押さえた。
「ここへ帰っていい。私のいる所を、戸に置く」
「それを見て、ここを出たと思うんじゃないか」
「出るんだよ。戻る場所まで、無くすつもりじゃない」
リセは隣の女へ鍵を見せた。家を買ってほしいのでも、夫を死んだことにしてほしいのでもない。雨のあと、屋根と窓を見てほしい。誰かが戸を叩いたら、宿へ来させてほしい。
女は鍵を受け取った。リセは書記から貰った紙の裏へ、新しく伝言を受ける宿を書いてもらった。同じ行を、小さい板にも写して戸の内側へ掛けた。
イレクの外套は家にはない。壁には、車へ使う縄の短い端が残っていた。リセはそれを荷の包みに使った。今度は自分の鍋が中へ入る。
宿へ着くと、釜場の女が寝床を示した。リセは包みをそこへ置き、どの鍋から洗うか聞いた。桶に重ねた椀があり、今日の夕飯に使うと言われた。
洗い終えた椀を伏せると、手を拭く布が差し出された。リセは受け取り、火へ近づいた。薪は自分で拾って来た分だけではなかった。
夕飯は、仕事を終えた者と一緒に食べた。リセは自分の椀へ入った分を見て、足りると思った。隣の席の女が、もっと要るかと聞いた。首を振ってから、汁だけ少し貰った。
翌朝、宿へ来る荷の音で目が覚めた。リセは一度、夫の車輪かと耳を澄ました。違う車だった。戸口へ出ると、釜場の女に水を運ぶ方を頼まれた。
リセは、昨日置いた自分の鍋を壁へ掛け、水桶を持った。夫の名がある紙は寝床の包みに残した。書記へ届ける新しい行き先の紙は、出て行く使いに渡す方へ寄せてあった。