灰暦44年 ルカ(薬房記録補助)|澄みの底
五港同盟圏。燈院の薬房と、西岸の倉庫裏。
母の薬を受け取るには、今日の清書を終えてから施療所へ回らなければならなかった。
ルカは袖をまくり、机の上の紙を揃えた。薬房の高窓は半分曇っていた。奥では煮台の蓋を持ち上げるたびに湯気が広がり、若い補助者が戸を開けて逃がしている。外から荷車の音が入った。上層家へ出す箱を積む車だった。
先輩補助者が、ルカの机へ清書用の紙を置いた。
爪で縁を撫でても毛羽立たない。上へ回す記録の紙だった。症例票はもっと薄く、濡れた外衣の中を運ばれてくると、乾いても波を打っている。
「厚いのを使っていいんですか」
「最終の束だもの。間違えたら裏を使う、というわけにはいかないよ」
表紙には、第四型から第五型への移行期副毒比較、とあった。ルカが秋から写してきたクシャ群と、西岸の施療所から戻った票が、赤い印を付けられて一つの束になっている。
薬房に入って3年目だった。灰暦43年の夏から追記を任され、煮台の記録と施療所票を本帳へまとめるようになった。今日の仕事を済ませれば、自分の写したものが燈主院へ渡る。
それより先に、閉まる前の施療所へ着きたかった。
薬代を包んだ小さな布は、外衣の内側にあった。賃を受け取った日に分けておいた。昨日、母は壜を灯りに透かし、まだあると言った。振ると底で一度だけ音がした。
「上の箱は、もう出るのか」
主任補薬師が机の間を通りながら聞いた。戸口にいた補助者がうなずき、別の者が封を確かめに走った。
主任は湯気の薄くなった煮台を見た。
「いい澄みだ」
第五型は、古い薬ほど重い匂いがしない。甘さの奥にある焦げも薄くなった。主任は改良の話をするとき、よく慈悲という言葉を使った。ユハン・クレの技術を支持し、粗い薬で肉を乱さずに命を延ばすことこそ、薬房の務めだと言った。
ルカには、その言葉を喜んで聞けた時期があった。
父は西岸の倉役だった。冬になると胸を悪くし、横になると咳が出るので、壁に背を預けて眠った。古い薄明剤を一度だけ分けてもらった夜、息は少し楽になった。だが父はそのあと二晩眠れず、手が痺れると言って杯を落とした。咳は戻り、春を待たずに死んだ。
もっとよい薬があれば、と思った。
今、母は父のように座ったまま夜を越すことが少なくなっていた。薬が合うかを施療所で確かめ、言われた量を飲んでいる。朝になると窓を開ける。寒いから閉めてくれと言うルカに、空気を替えるくらいで若い者が何を言う、と返す余裕もできた。
昨日は、倉庫裏の道まで自分で干し布を取りに行っていた。
ルカはそれを、票に載る呼吸改善という字より先に知っていた。
*
一枚目は型の比較だった。沈降の刻限、澄みの状態、投与後の所見。赤印に従って用語を揃え、二枚目へ進んだ。
三枚目で筆が止まった。
労働を続けていた群に手指の震えが多く、静養群では目立たなかった、とある。その行が赤く囲まれ、脇に指示が書かれていた。
家格表記削除。生活条件差としても記さず。遵守差へ統合。
ルカは元の票を探した。
第五型。呼吸改善、睡眠改善、副毒軽微。
裏には、看病人二名、保護食あり、十日静養、と細い字が並んでいた。
もう一枚も第五型だった。呼吸改善あるも、手指振戦強。継続困難。裏には、荷役労働継続、夜間のみ服用、空腹時多し、とある。
少なくとも型は同じだった。どちらも主任がよい澄みだと言った薬を飲んでいる。片方は食事を用意され、片方は荷を下ろしてから飲んだ。その違いを薬の所見から外して、飲む者が指示を守ったかどうかだけで分けようとしていた。
先輩が、隣で紙を一枚めくった。
「詰まった?」
「ここも、削るんですか」
先輩は赤い文字を見た。すぐに目を自分の紙へ戻した。
「指示どおりに」
「休めないのと、休まなかったのが、同じになります」
「清書の時に決めることじゃない」
その返事は、ルカも何度か使ったことがあった。
前の追記で、休養不能、保護食なし、再診運賃なし、と書こうとした。主任に止められ、代わりに遵守不十分につき参考外と写した。元の票には残る、と自分へ言った。
その本帳が、今は元の資料として自分の前にあった。
ルカはもう一枚を引き出した。再診来ず、とある。消息不明になった者の票もあった。薬に耐えなかったかどうかは、経過が追えなければ判定できない。その理屈はわかる。わからない者を失敗と数えることもできない。
けれど、失敗とは数えないまま、良い成績の束だけは先へ進んだ。
「手を止めるな」
主任が後ろに立っていた。
ルカは二枚の票を並べた。
「条件を残せば、精製の差と分けて調べられます」
「生活の事情を全部、薬の所見にするつもりか」
「全部ではありません。休めたか、食べられたかです」
「ここで見たいのは薬の質だ」
「その質を、誰の身体で見ているんですか」
主任は机へ置いた匙の柄で、票をルカの方へ押した。
「問答にするな」
向こうの煮台で蓋が落ち、金属の音がした。主任はそちらを見たが、すぐには行かなかった。
「改良を進めれば、施療所へ出せる薬もよくなる。ここの束は、そのためのものだ」
ルカの外衣は戸口に掛かっていた。薬代の布が入ったあたりだけ、裾が少し重く下がっている。
「赤印どおりに出せ」
主任が去ったあと、先輩は肩を落とした。
「今止めても、古い段の壜しかない人には何も増えないよ」
「悪くなった人を消して、よくなるんですか」
「消すのとは違う。控えには残る」
先輩が戸口を見た。封を終えた箱が二つ、人の手から車へ渡った。箱を受けた男は、薬房へ向かって帽子を持ち上げた。
「うちにも、あれで眠れるようになった者がいる」
それ以上は言わなかった。
ルカは票を戻した。
自分だけが薬を信じてきたわけではない。母の呼吸のことを話せば、先輩はきっとうなずく。壜を受け取れなかった日があれば、その不安もわかるだろう。
清書を続けた。赤印に従って一行直し、次の一行を写した。
労働継続群、という字まで書いたところで、筆の先が乾いた。
墨を足す代わりに、ルカは元の票をもう一度開いた。
*
午後に、クシャから運ばれた症例の包みが届いた。
濡れた外包みを洗浄係が広げ、紙を一枚ずつ棚へ立てかけた。指のひびに布が引っかかり、女はそこだけ爪で外した。
ルカの机にも、まだ湿った別票が回ってきた。精製場帰りの女の腕のただれを記したものだった。灰油を扱う作業で悪化、とある。飲んだ薬の型を書く欄には線が引かれていた。
製造副毒の票だった。投薬後の震えを比べる今の束とは、入れる帳面が違う。
ルカは受取のしるしを付け、精製場の記録を扱う補助者へ渡した。
「これはそちらです」
「また腕か」
補助者は票の乾いた端を探して持ち、棚の下から別の束を引き出した。そこにもクシャの札が付いていた。
ルカは清書用の紙へ戻った。
同じところから来た傷でも、一緒にはできない。その上で、自分の束にある震えを、指示に従わなかったという字だけにはできなかった。
家格の名は残さなかった。
静養不能群にて手指振戦高率。保護食を取れぬ例で増悪傾向。
元の記録を確かめながら、その二行を写した。食事を取れなかった理由まで、今ここではわからない。末尾には、小さく付け加えた。
投与後条件の差は副毒判定に影響する可能性あり。精製差との分離、再検要。
読み返すと、もっと強く書きたくなった。誰が休めず、誰が箱を先に受け取るか、名を並べたかった。
だが、この字さえ自分の決められるものではなかった。
ルカは書き終えた紙を束へ入れた。先輩はそれを見ていた。何も言わず、自分の最後の頁を重ねた。
束を提出すると、手が冷たくなった。外衣を着ようとして、内側の布を落とした。拾って結び目を確かめた。金はこぼれていなかった。
施療所は閉まる支度をしていた。窓口の係に急かされ、母の札と空壜と薬代を出した。新しい壜が戻ってきたとき、ルカは口の栓を確かめるのを忘れた。
薬房の裏まで戻り、排水溝で吐いた。
吐き終えても喉に何か残っていた。追い出されれば、この壜の次が買えない。自分の書いた二行は別の者が削れば消える。母に渡せる薬だけを減らすことになるかもしれなかった。
壜は割れていない。布で拭き、手の中に握り直した。
家では母が灯りを低くして待っていた。
「遅かったね」
「清書があった」
「終わったの」
「終わった」
母は壜を受け取り、決められた分を使った。ルカのために残していた干し布を、寝床の端から取って渡した。
「あんたの分まで温めていたら、暑くて困った」
ルカは笑おうとした。母が壜を棚へ戻す手を見てしまい、声が出なかった。
父の手は、杯を落としたあともしばらく宙にあった。落ちたものを拾おうとしても、指が閉じなかった。笑っていた父の顔より、その手の方をよく覚えていた。
母は寝床へ戻った。ルカはしばらく、その背中を見ていた。
*
数日後、主任に呼ばれた。
机の上には清書束があった。ルカの書いた頁の角が、内側へ折られている。主任はそこを開き、筆を置いた。
「指示は読んだな」
「読みました」
「なぜ残した」
「精製差と分かれていません。これでは改良の評価も誤ります」
主任は指で小さな注記を押さえた。
「これが外へ出れば、改良そのものを疑う材料になる」
「分けて調べてから出せばいいと思います」
「そのあいだ、待たせるのか」
ルカは答えなかった。施療所の窓口で、次の壜を待つことを考えた。
「今は消しておけ。再検を頼むなら別に出せ」
主任が筆を押した。
別に出す。元の票には残す。以前もそうして、遵守不十分という一行だけが本帳になった。
ルカは筆を取らなかった。
「消しません」
「決定権はおまえにない」
「はい」
「なら従え」
声が震えるのがわかった。次に何を言っても主任には聞こえる。母の薬代を包んだ布を、今は持っていなかった。手は机の下で空だった。
「それでも、消しません」
主任は束を閉じた。
「出ていけ」
ルカは立った。戸を閉めると、廊下で別の補助者が束を抱えて待っていた。こちらを見て、何かを聞こうとしたが、主任に呼ばれて入っていった。
午後、ルカの机から本帳が引き上げられた。
雇いを解くとは言われなかった。翌朝の仕事は洗浄だった。その次も、煮台の準備と洗浄が割り当てられた。最終写しは先輩と他の補助者が仕上げ、ルカには回ってこなかった。
自分の二行がどんな字に直されたのかは、見せてもらえなかった。
賃を受け取るとき、ルカは布の結び目をいつもよりきつく締めた。
*
洗浄台は、記録机からは見えない廊下の奥にあった。
上層家へ薬を送る箱は表から出る。使い終わった壜は、裏の階段を下りてくる。ルカは口を洗い、底の残りを確かめ、乾かす棚へ伏せた。母へ持ち帰れるものはなかった。
洗浄係の女が、彼の袖を見た。
「そこまでまくると、あとで痒くなるよ」
ルカは袖を下ろした。女は手のひびへ布を巻き、彼が洗い終えた壜を順に持ち上げた。
「底、残ってる」
「見ました」
「灯りに向けてみな」
窓から入る光に透かすと、薄い筋が見えた。ルカはもう一度洗った。薬を写す仕事では、底の筋を自分で取る必要はなかった。
冬の終わり、先輩が洗浄台へ紙を一枚持ってきた。
延命についての問答草稿だった。薬房の者にも意見を求めるといい、机の間を回ってきたらしい。
「濡らさないでよ。戻すんだから」
ルカは手を拭いて受け取った。
投薬後の養生が果たされぬとき、副毒は術のみの責に帰し難い。
その次に、以前は読んだ覚えのない行があった。
施薬の公正は、壜の配布だけでなく、養生への接近をも問うべし。
自分の字ではなかった。誰が加えたかも、どの票を読んだかも書かれていない。
「何か言いたい?」
先輩が聞いた。
「これが残ればいいと思います」
ルカは紙を返した。先輩は折らずに持ち、廊下を戻った。洗浄係が、空いた場所へ次の籠を置いた。
壜は減らなかった。紙の一行が回ってきても、洗う数は変わらない。
帰り道、施療所で母の薬を買った。昨日より息がよさそうだからというだけで、勝手にやめてはいけないと念を押された。ルカはうなずき、新しい壜を外衣へ入れた。
家へ戻ると、母は窓の掛け金と争っていた。
「また閉まらなくなった」
「開けなければいいのに」
「あんたが帰る前に、空気くらい替えたかったの」
ルカが掛け金を押すと、母は彼の手を取った。指の脇が赤くなっている。
「紙でそんな手になる?」
ルカは母を見た。
「今は壜を洗ってる」
「いつまで」
「わからない」
母は手を放した。しばらく窓を見てから、閉めるのは明るいうちにすればよかったと言った。
ルカは枠の隅に溜まった木屑を爪で掻き出した。赤くなった指が痛んだ。掛け金はそのあと、軽く動いた。
母が試しに一度開け、もう一度閉めた。
「これなら、明日も自分でできる」
夕飯のあいだ、ルカは清書のことを話そうとして、何度かやめた。母は薬の壜を棚へ置き、先に横になった。
外衣を脱ぐと、袖はまだ湿っていた。明朝までに乾かすため、窓から離れたところへ広げた。
寝床の方から、母が言った。
「手を温めてから寝なさい」
ルカは湯の入った椀を両手で持った。しばらくすると、母の返事がなくなった。息は聞こえた。父のいた冬とは違い、横になったまま眠っている。
薬房には明日も行く。洗う壜が待っている。清書机へ戻れるかも、自分の注記が本帳に残ったかもわからない。
椀を置く前に、ルカは両手の指をゆっくり曲げた。
閉じた掛け金を確かめ、灯りを落とした。