灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦45年 カイ(配薬記録吏)|余白の灯

五港同盟圏、西岸都市。高台の配薬記録室。

 

箱の底板が割れていると、運び手が言った。

 

「受取の印なら、ここへ」

 

カイが紙を寄せると、男は腰の荷縄を解いた。

 

「印は押せます。持ち上げると、薬が落ちます」

 

窓の下では、坂を登りきれない荷車を二人で押していた。後ろの男が靴を滑らせ、車輪へ石をかませる。高台の記録室には風が通る。下の通りから上がる声も、ここでは遠かった。

 

カイは椅子を引いた。

 

壜が紙の上にあるうちは、割れることはない。そこから先を忘れる若い記録吏に、彼はいつもそう教えていた。今朝は自分が忘れた。

 

階下で板を当ててもらい、箱を戻す。蓋の札には、改良第五型、定期置換分、とある。昨日も、その前も待たせている箱だった。

 

処方係がまだ返事をしない。

 

カイは燈院付属の施療所まで歩いた。坂を下りる途中、車を押していた男たちは壁際へ座っていた。片方が靴を脱ぎ、小石を振り出していた。

 

処方係の机には、西外れへ出す第四型の注文が積まれている。

 

「あの当主は、旧い分で冬を越しています」

 

処方係は、カイの持ってきた申請を見て言った。

 

「昨日、呼吸を見たでしょう」

「見ました。もっと悪い人もいる」

「では、その人たちを先にして、この箱をいつ出せる」

「寄進の順で決めたくありません」

 

カイは机に腕を置いた。

 

「教義だけで箱が走るなら、こちらも楽だ」

 

言うと、処方係の目が細くなった。笑わせるつもりも、少しはあった。失敗した。

 

「壜代だけではない。護送も、煮台も、紙も、この家の出す分で賄っている。取り決めを破って来月の寄進が遅れれば、西外れの箱も止まる」

「だから、この人にはいつも良い薬が来る」

「効く見込みがあって、寝床も食事もある。回す理由はある」

「そうですね」

 

返事があまり静かだったので、カイはその先を続けなかった。

 

処方係は申請を戻した。

 

「出していい。ただし、次の箱も同じ順にするとは書かないでください」

 

カイはその場で、次回継続、と書きかけていた行を引いた。

 

その午後、箱は高台の居館へ届いた。カイも受渡しの確認に同行した。燈院の処方係が量を説明する間、彼は脇の小机で看病人から前回までの記録を受け取った。

 

当主は窓辺の椅子に座っていた。指の節が太く、毛布の端を握っている。印を頼むと、顔をしかめた。

 

「薬をもらうのに、また印が要るのか」

「箱を落とした者から受け取るよりは、印だけの者で済むほうが」

 

今度は笑ってもらえた。笑いが咳に変わる。看病人が背を支え、処方係が手を上げたので、カイは印の紙をしまった。

 

*

 

その当主が、短い時間なら自分で手紙を書けるようになったのは、箱を届けたあとだった。

 

灰暦45年の夏、継続分の確認に行くと、彼は庭へ続く戸のそばに座っていた。机には書き損じた紙が何枚もある。看病人が、一番上だけをカイに見せた。

 

遠くに住む娘へ、花の咲く鉢を送る相談だった。

 

「字のことは書かなくていい」

 

当主が言った。

 

「読めるかどうかを、おまえに判定されるのは御免だ」

「鉢が割れずに届くかは、私の判定が要ります」

「それは頼む」

 

咳をせずに言い終えた。そのあとで自分でも気づいたらしく、男は胸へ手を当てた。

 

台帳にある睡眠改善という字を、カイは疑わなかった。今朝、手紙を一枚書けた。それは、この薬を回した結果の一つだった。

 

記録室へ戻ると、机に施療所向けの請求控えが届いていた。

 

第四型、継続投与。追加保護食、予算未定。再診搬送費、未承認。

 

カイは、承認を催促する紙を別の束へ置いた。昨日も、同じことをした。その先へ進める金を、今ここで作ることはできない。

 

薬房から来た比較抜粋には、静養不能群にて手指振戦高率、とある。添えた札によれば、提出された比較清書の束から、最終写しへ回す前に照合係が抜いたものだった。処方係へ配薬の説明用に渡され、末尾には、投与後条件の差、精製差との分離、再検要、と残っている。

 

別の欄には、経過中断。患者の名は、この抜粋にはない。何が薬房の最終本帳へ残ったかも、これだけでは分からなかった。カイが見られるのは、配薬の説明に必要とされた部分だけだった。

 

傍らで若い記録吏が、副毒集計を台帳へ挟み始めた。

 

「別添へ。主欄は配薬に使う」

 

カイはいつものように言った。

 

若い男は紙を抜いた。それで次の受渡しを間違えずに済む。次に開く者は、あの手の震えを見ずにも済む。

 

「捨てるなよ」

「捨てません」

 

男は不思議そうに答えた。そんな指示を受けたことはないという顔だった。

 

*

 

夏の終わり、ある若い夫人の台帳へ、看病人の覚え書きが添えられていた。

 

夫人は第五型への切替え後によく眠れるようになった。食欲も戻った。添えた紙にも、よい経過を喜ぶ字が並んでいる。

 

末尾にだけ、別の筆で一行が足されていた。

 

北棟の乳母へ旧型分け与えあり。以後、乳母手指振戦。

 

「こちらも別添ですか」

 

若い記録吏が聞いた。

 

カイは紙を手元へ引いた。

 

夫人の名の下へ書けば、乳母の震えまで夫人の副毒になる。別の束へ回せば、その家に関する注意書きとして閉じられる。乳母の処方は、どこにもない。

 

「家へ返事をする。名と、飲んだ壜を確かめてもらおう」

「家内の分与では」

「そう書いてある」

「だったら、こちらの処方の記録ではありません」

 

若い男の言い方は、カイに似ていた。

 

「まだな」

 

返事を作っている間にも、次の箱の札が届いた。カイは乳母の覚え書きを机の左へよけた。左の紙が見えないところまで、札は増えた。

 

夕方、乳母の名がないことに気づいて、もう一度家へ照会を出した。

 

返ってきたのは、薬の残量についての説明だった。家の者が余らせた分を使ったので、新しい請求には及ばない、とある。

 

質問への答えにはなっていない。余りを出したことは、よく分かった。

 

カイは翌朝、処方係へその二枚を持っていった。

 

「転用を禁ずる注意を入れたい。看病人の服用も、上げさせる」

「禁止は入れられます。診るのは誰ですか」

「施療所で」

「その人が来られれば」

 

処方係は乳母の一行を読み直した。

 

「禁止だけ先に出せば、次は書いてこなくなるかもしれません」

 

カイは、家からの返事を手で押さえた。

 

「誰が分けたかではなく、誰が飲んだかを聞く」

「同じ紙に書けば、誰が分けたかも分かる」

「私のところで、本人の記録を別に起こす。夫人の主欄には入れない」

「あなたが受けるのですか」

 

問いが重くなった。

 

記録室には、名のある患者の箱だけでも毎日列ができる。記録を起こせば、その分の問い合わせもカイの机へ来る。

 

「受ける。ただ、診たことにはしない」

 

処方係は少し考え、燈主院へ送る申し送りにその要望を添えた。返事を待つ間、乳母の家には、余り分を今後も使ってよいという許しは出せないことと、本人の診察を求めることを別々に伝えた。

 

最初の返答は、本人の都合を確認中、だった。

 

カイは翌朝も、通常の配薬札を数えた。

 

*

 

秋に届いた指示には、カイの要望と同じ言葉はなかった。

 

しかし、この記録室から家々へ渡す配薬注意の末尾へ、次の文を付けるように、とある。

 

投薬壜の転用・分与を禁ず。看病従者の服用事例は別記録として上申。

 

カイは文を指でたどった。ほかからどんな報告が上がっていたかは、そこにはない。自分の一枚だけで出来た指示だとも思わなかった。

 

若い記録吏が写しを取り、箱の札と一緒に束ねた。

 

「北の居館にも持っていきます。夫人が療養中の家です」

「口で読むだけにするな。家政を扱う者へ、一枚渡して」

「別記録の紙も?」

「一枚では足りないかもしれん」

 

カイは無地の紙を足した。

 

その日、最初の乳母の家から、名の書かれた返事が来た。処方係が一度診る手配になったとあり、乳母の震えが薬によるものかは、まだ記されていなかった。

 

若い男は夫人の台帳を開き、別紙へ移るための参照を書いた。

 

「この分の綴じを手伝います」

「いつもの請求を先に」

「それは終わりました。あなたのほうが、まだです」

 

カイは窓を見た。もう通りには灯がついている。今夜は早く帰ると家で言ってきたが、この乳母へ照会を返すなら、束を一つ残せない。

 

「では、封を頼む」

 

若い男が紙を押さえ、カイは通常の請求へ戻った。

 

帰り際、窓の下で荷車の音がした。二人で坂を下りている。今朝出した第五型も、明朝出す第四型も、この坂を通る。

 

階下で、鉢を運ぶ箱の見積りがカイを待っていた。当主からの手紙に、娘へ送る花は散ってしまったが、鉢だけでも構わない、とある。

 

カイは受取を告げ、見積りを鞄に入れた。

 

灯を消す若い男が、まだ机にある一枚を示した。

 

「これは、明日?」

 

乳母への返事だった。どこへ来ればよいかを確かめる、短い照会である。

 

カイは外衣を脱いだ。

 

「今夜、ここまでやる」

 

若い男は一度戸口へ行き、帰りの封筒を取りに戻った。

 

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