五港同盟圏、西岸都市。高台の配薬記録室。
箱の底板が割れていると、運び手が言った。
「受取の印なら、ここへ」
カイが紙を寄せると、男は腰の荷縄を解いた。
「印は押せます。持ち上げると、薬が落ちます」
窓の下では、坂を登りきれない荷車を二人で押していた。後ろの男が靴を滑らせ、車輪へ石をかませる。高台の記録室には風が通る。下の通りから上がる声も、ここでは遠かった。
カイは椅子を引いた。
壜が紙の上にあるうちは、割れることはない。そこから先を忘れる若い記録吏に、彼はいつもそう教えていた。今朝は自分が忘れた。
階下で板を当ててもらい、箱を戻す。蓋の札には、改良第五型、定期置換分、とある。昨日も、その前も待たせている箱だった。
処方係がまだ返事をしない。
カイは燈院付属の施療所まで歩いた。坂を下りる途中、車を押していた男たちは壁際へ座っていた。片方が靴を脱ぎ、小石を振り出していた。
処方係の机には、西外れへ出す第四型の注文が積まれている。
「あの当主は、旧い分で冬を越しています」
処方係は、カイの持ってきた申請を見て言った。
「昨日、呼吸を見たでしょう」
「見ました。もっと悪い人もいる」
「では、その人たちを先にして、この箱をいつ出せる」
「寄進の順で決めたくありません」
カイは机に腕を置いた。
「教義だけで箱が走るなら、こちらも楽だ」
言うと、処方係の目が細くなった。笑わせるつもりも、少しはあった。失敗した。
「壜代だけではない。護送も、煮台も、紙も、この家の出す分で賄っている。取り決めを破って来月の寄進が遅れれば、西外れの箱も止まる」
「だから、この人にはいつも良い薬が来る」
「効く見込みがあって、寝床も食事もある。回す理由はある」
「そうですね」
返事があまり静かだったので、カイはその先を続けなかった。
処方係は申請を戻した。
「出していい。ただし、次の箱も同じ順にするとは書かないでください」
カイはその場で、次回継続、と書きかけていた行を引いた。
その午後、箱は高台の居館へ届いた。カイも受渡しの確認に同行した。燈院の処方係が量を説明する間、彼は脇の小机で看病人から前回までの記録を受け取った。
当主は窓辺の椅子に座っていた。指の節が太く、毛布の端を握っている。印を頼むと、顔をしかめた。
「薬をもらうのに、また印が要るのか」
「箱を落とした者から受け取るよりは、印だけの者で済むほうが」
今度は笑ってもらえた。笑いが咳に変わる。看病人が背を支え、処方係が手を上げたので、カイは印の紙をしまった。
*
その当主が、短い時間なら自分で手紙を書けるようになったのは、箱を届けたあとだった。
灰暦45年の夏、継続分の確認に行くと、彼は庭へ続く戸のそばに座っていた。机には書き損じた紙が何枚もある。看病人が、一番上だけをカイに見せた。
遠くに住む娘へ、花の咲く鉢を送る相談だった。
「字のことは書かなくていい」
当主が言った。
「読めるかどうかを、おまえに判定されるのは御免だ」
「鉢が割れずに届くかは、私の判定が要ります」
「それは頼む」
咳をせずに言い終えた。そのあとで自分でも気づいたらしく、男は胸へ手を当てた。
台帳にある睡眠改善という字を、カイは疑わなかった。今朝、手紙を一枚書けた。それは、この薬を回した結果の一つだった。
記録室へ戻ると、机に施療所向けの請求控えが届いていた。
第四型、継続投与。追加保護食、予算未定。再診搬送費、未承認。
カイは、承認を催促する紙を別の束へ置いた。昨日も、同じことをした。その先へ進める金を、今ここで作ることはできない。
薬房から来た比較抜粋には、静養不能群にて手指振戦高率、とある。添えた札によれば、提出された比較清書の束から、最終写しへ回す前に照合係が抜いたものだった。処方係へ配薬の説明用に渡され、末尾には、投与後条件の差、精製差との分離、再検要、と残っている。
別の欄には、経過中断。患者の名は、この抜粋にはない。何が薬房の最終本帳へ残ったかも、これだけでは分からなかった。カイが見られるのは、配薬の説明に必要とされた部分だけだった。
傍らで若い記録吏が、副毒集計を台帳へ挟み始めた。
「別添へ。主欄は配薬に使う」
カイはいつものように言った。
若い男は紙を抜いた。それで次の受渡しを間違えずに済む。次に開く者は、あの手の震えを見ずにも済む。
「捨てるなよ」
「捨てません」
男は不思議そうに答えた。そんな指示を受けたことはないという顔だった。
*
夏の終わり、ある若い夫人の台帳へ、看病人の覚え書きが添えられていた。
夫人は第五型への切替え後によく眠れるようになった。食欲も戻った。添えた紙にも、よい経過を喜ぶ字が並んでいる。
末尾にだけ、別の筆で一行が足されていた。
北棟の乳母へ旧型分け与えあり。以後、乳母手指振戦。
「こちらも別添ですか」
若い記録吏が聞いた。
カイは紙を手元へ引いた。
夫人の名の下へ書けば、乳母の震えまで夫人の副毒になる。別の束へ回せば、その家に関する注意書きとして閉じられる。乳母の処方は、どこにもない。
「家へ返事をする。名と、飲んだ壜を確かめてもらおう」
「家内の分与では」
「そう書いてある」
「だったら、こちらの処方の記録ではありません」
若い男の言い方は、カイに似ていた。
「まだな」
返事を作っている間にも、次の箱の札が届いた。カイは乳母の覚え書きを机の左へよけた。左の紙が見えないところまで、札は増えた。
夕方、乳母の名がないことに気づいて、もう一度家へ照会を出した。
返ってきたのは、薬の残量についての説明だった。家の者が余らせた分を使ったので、新しい請求には及ばない、とある。
質問への答えにはなっていない。余りを出したことは、よく分かった。
カイは翌朝、処方係へその二枚を持っていった。
「転用を禁ずる注意を入れたい。看病人の服用も、上げさせる」
「禁止は入れられます。診るのは誰ですか」
「施療所で」
「その人が来られれば」
処方係は乳母の一行を読み直した。
「禁止だけ先に出せば、次は書いてこなくなるかもしれません」
カイは、家からの返事を手で押さえた。
「誰が分けたかではなく、誰が飲んだかを聞く」
「同じ紙に書けば、誰が分けたかも分かる」
「私のところで、本人の記録を別に起こす。夫人の主欄には入れない」
「あなたが受けるのですか」
問いが重くなった。
記録室には、名のある患者の箱だけでも毎日列ができる。記録を起こせば、その分の問い合わせもカイの机へ来る。
「受ける。ただ、診たことにはしない」
処方係は少し考え、燈主院へ送る申し送りにその要望を添えた。返事を待つ間、乳母の家には、余り分を今後も使ってよいという許しは出せないことと、本人の診察を求めることを別々に伝えた。
最初の返答は、本人の都合を確認中、だった。
カイは翌朝も、通常の配薬札を数えた。
*
秋に届いた指示には、カイの要望と同じ言葉はなかった。
しかし、この記録室から家々へ渡す配薬注意の末尾へ、次の文を付けるように、とある。
投薬壜の転用・分与を禁ず。看病従者の服用事例は別記録として上申。
カイは文を指でたどった。ほかからどんな報告が上がっていたかは、そこにはない。自分の一枚だけで出来た指示だとも思わなかった。
若い記録吏が写しを取り、箱の札と一緒に束ねた。
「北の居館にも持っていきます。夫人が療養中の家です」
「口で読むだけにするな。家政を扱う者へ、一枚渡して」
「別記録の紙も?」
「一枚では足りないかもしれん」
カイは無地の紙を足した。
その日、最初の乳母の家から、名の書かれた返事が来た。処方係が一度診る手配になったとあり、乳母の震えが薬によるものかは、まだ記されていなかった。
若い男は夫人の台帳を開き、別紙へ移るための参照を書いた。
「この分の綴じを手伝います」
「いつもの請求を先に」
「それは終わりました。あなたのほうが、まだです」
カイは窓を見た。もう通りには灯がついている。今夜は早く帰ると家で言ってきたが、この乳母へ照会を返すなら、束を一つ残せない。
「では、封を頼む」
若い男が紙を押さえ、カイは通常の請求へ戻った。
帰り際、窓の下で荷車の音がした。二人で坂を下りている。今朝出した第五型も、明朝出す第四型も、この坂を通る。
階下で、鉢を運ぶ箱の見積りがカイを待っていた。当主からの手紙に、娘へ送る花は散ってしまったが、鉢だけでも構わない、とある。
カイは受取を告げ、見積りを鞄に入れた。
灯を消す若い男が、まだ机にある一枚を示した。
「これは、明日?」
乳母への返事だった。どこへ来ればよいかを確かめる、短い照会である。
カイは外衣を脱いだ。
「今夜、ここまでやる」
若い男は一度戸口へ行き、帰りの封筒を取りに戻った。