五港同盟圏、西岸都市。高台の居館、北棟。
階段の一番上まで来てから、セレナは忘れ物を思い出した。
縫いかけの袖が、階下にある。
戻ろうとすると、乳母上がりの老女が前へ出た。
「お持ちいたします」
「自分で行けるわ」
そう言ってから、驚いた。
少し前なら、この踊り場で息を整えなければならなかった。手摺りへ額を寄せ、誰かに見られないうちに次の段へ進もうとしていた。今日は、忘れた袖を取りに下りることしか考えていなかった。
セレナは一段下り、老女へ振り返った。
「本当に、行けるの」
老女も笑った。
薄明剤を初めて飲んだ夜、胸の奥が少しずつほどけた。息を吸うたびに押し広げていた何かが退き、枕へ頭を下ろせた。目が覚めると、窓の縁が明るかった。
朝になった、とそれだけを思った。
夜を越すあいだ、あと何度息をすればよいか数えなかった朝だった。
夫はその朝、彼女の寝台へ来た。手を握っていたために、セレナが起き上がるのを邪魔した。
「もう離して」
「離してよいのか」
「粥を食べたいの」
笑いながら言うと、夫はようやく手を離した。
今も、薬は寝台の脇に置かれている。改良第五型、と処方係は言った。湯に落とすと、甘い匂いの奥に焦げたような匂いが残る。口は乾く。午後には怠くなる日もある。それでも眠れる。
セレナは、壜の残りを毎晩確かめた。
*
ミアが茶碗を落としたのは、セレナが袖の縫い目をほどいていた午後だった。
蓋が外れ、湯が畳んだ布へ流れた。碗は割れなかった。ミアは膝をつき、布を拾おうとして、手を引いた。
「熱いわ。置いておいて」
セレナは立った。ミアの指が、碗の縁へ当たって小さく鳴った。
「火傷したの」
「しておりません」
「では、休みなさい。あとは別の人に」
ミアは顔を上げた。
「休めません」
声が強かった。すぐに頭を下げ直す。
「申し訳ございません。まだ、お薬の湯と、夜具が」
セレナは、その説明を聞いていた。湯も夜具も彼女のものだった。どちらも後でよいと言えば済む気がした。
「夜具はそのままでいいわ」
老女が、戸口から口を挟んだ。
「干した分を取り入れてあります。夜までに戻しませんと」
寝台には、まだ敷布しかなかった。いつの間にか洗われ、干され、取り込まれたものが、まだ畳まれずに隣の間へ積まれている。
セレナはミアを座らせた。代わりに来た侍女が布を拭き、老女が夜具を持ってきた。
その晩、湯が遅れた。
乳母はミアの仕事もしていた。台所には来客の片付けが残っていた。誰も怠けてはいない、と聞いて、セレナは何も言わなかった。
湯を受け取ったとき、老女の指もわずかに揺れた。
*
夜半、喉の乾きで起きた。
呼びかけても返事がなく、セレナは上着を肩に掛けた。廊下の灯は低くなっていた。隣の控えの間は空いている。
納戸のほうで、何かを落とす音がした。
老女が、壁へ背を寄せていた。膝の上の手が震え、足元に杯が倒れている。セレナが屈むと、薬の匂いがした。
「わたしの壜から?」
老女は首を振った。
「旧い段でございます」
「誰の薬なの」
「余った分が回ってまいりました」
セレナは棚へ手を伸ばした。奥に小壜がある。自分の壜のようには包まれていなかった。
「誰かが飲めと言ったの」
老女はセレナの手を見てから、顔を上げた。
「言われずとも飲みます。冬には胸が詰まりますので」
セレナは、取り上げようとしていた手を止めた。
「では、なぜ診てもらわないの」
「奥様の処方係は、奥様を診に来られます」
答えは、それだけだった。
老女を部屋まで送ると、寝床に薄い掛物が一枚あった。すぐ戻りますと言うのを止め、セレナは廊下の椅子へ座った。
自分の薬を捨てれば、この人に良い薬が来るのだろうか。
そう思ったあとで、夜明け前の息の詰まりを思い出した。壜を失うことを考えるだけで、首の後ろが強張った。
老女の寝息は、戸を開けても聞き取れなかった。
セレナは戻り、次の湯を頼むための紐を見た。引けば、今夜は誰が来るのか分からなかった。
*
翌朝、処方係が来た。
セレナは、自分の診察が終わる前に老女のことを話した。
「旧い段を飲んで、手が震えています」
「いつからですか」
「わかりません。ミアも震えています」
「ミアという方も、飲んでいるのですか」
セレナは答えられなかった。
処方係は一度戸口を見た。
「二人に話を聞きましょう。薬のためだと今ここで決めないでください。どの壜を、どれだけ使ったかも、本人に聞きたい」
「あなたに診ていただけるの」
「施療所で診察を頼めます。今日はその申し送りを」
「ここへは来てくださらない?」
言ってから、セレナは自分の部屋を見た。
彼女のためには、来てもらえていた。
処方係は予定を開いた。今すぐは難しいという説明を、セレナは最後まで聞いた。施療所へ行く時刻を二人と相談してもらうことにした。
「壜は捨てずに持っていってください。新しい分を勝手に分けるのも、やめてください」
処方係が帰ると、老女は頭を下げた。
「お手間を取らせまして」
「診察へ行って」
「では、明日の客の支度が済みましたら」
セレナは、明日の客のことを忘れていた。
夫の縁者が来る。北棟で小さな問答の会を開き、食事を出す。彼女の回復を見てもらえる席でもあった。先日、夫とそう決めた。
台所も、ミアも、そのために働いていた。
*
夫は、乳母とミアの診察を断らなかった。
「もちろん受けさせればよい。家政の者に言っておく」
「言っただけでは、行けないわ」
セレナは、夫の書き物の机へ椅子を持ってきた。
「夜番が足りないの。ミアを休ませたら、乳母の仕事が増えた」
「春から一人、北へ回しただろう」
「昼の片付けに戻っている。同じ人を数えているわ」
夫は書いていた手紙を裏返した。
「人を増やす話なのか」
「夜の交代を一人頼みたい。二人の食事も、余ったらではなく、先に取っておいてほしい」
「台所の者は、それで足りると言ったのか」
「まだ聞いていない」
夫が黙った。セレナの頬が熱くなった。
「では、聞いてから話そう」
その場で押し切りたかった。だが、押し切ったあとの鍋を自分で作れるわけでもなかった。
昼過ぎ、セレナは台所へ下りた。
入り口で立ち止まると、切りかけの魚と、洗う前の皿があった。調理の女は、明日の席について聞かれると思ったらしく、甘味は少し遅く出すと話し始めた。
セレナが夜番の食事を訊くと、女は鍋を指した。
「取り置きはできます。誰の分を先にするか、決めていただければ」
「増やすのは」
「食材も要りますが、夜に温める者が要ります」
温い湯は、勝手にそこへ湧くものではなかった。
セレナは自分の夜の粥を、二人の分と同じ鍋で取り置けるか聞いた。処方に合わせた中身を確かめる必要があると言われた。すぐには決まらなかったが、少なくとも、話をする相手は分かった。
夕方、夫の机へ戻った。
「明日の会は、食事を別の席でお願いしたい。北棟では出さない。縫い物と客用の調度も、今は増やさないわ」
「その費用を夜番へ回すのか」
「当面。ずっと足りるかは、あとで数えて」
「取り消した席には説明が要る」
「わたしから話す」
夫は、セレナの顔を見た。
「具合が悪いということにすれば、来客は控える」
「よくなったから話せるの。悪くなったことには、したくない」
彼が握ってくれたあの朝の手を、セレナは覚えていた。助かったことまで嘘にしたくなかった。
「わたしの療養を続けるには、看病する人も寝なければならないでしょう」
夫は椅子を引き、家政の者を呼んだ。今月の支出を持ってこさせる。
増員はまず試しで、一人。乳母は夜通しの付き添いから外し、ミアは交代の時刻を決める。食事は取り置きで始めるが、台所へその分の人手と燃料が要るかも確かめる。
家政の者は、ミアの朝の仕事をどうするか訊いた。
「それは減らしてください」
セレナが言うと、夫が彼女を見た。
「あなたの着替えも遅くなる」
「急ぐ日は、自分で結ぶわ」
言ってから、背中の留め紐までは手が届かないことを思い出した。ミアに訊けば、着るものの順を変えられるかもしれない。今夜はその相談をしようと思った。
*
最初の夜、交代に来た女は、壜の置き場所を知らなかった。
老女を呼ぼうとしたので、セレナは止めた。
「そこの箱。布の下」
湯はぬるく、いつもの匙も見当たらない。セレナが使い方を説明すると、女は一つずつ確かめた。怖いほど遅かった。胸に苦しさが戻るような気がして、セレナは思わず廊下を見た。
あの人を起こせば、すぐに出来る。
手を膝へ戻した。
「急がなくていい。匙は、ここに入れてあったのね」
二人で薬を用意した。飲み終えても、セレナはすぐ横になれなかった。隣の間で、慣れない女が何かを探している。
翌朝、ミアはいつもより遅く来た。
「お待たせしました」
「交代の時刻でしょう」
「はい」
ミアは、それでも謝りかけて、口を閉じた。
その日、二人は施療所へ出た。帰ってきた乳母は、新しい札を持っていた。セレナが見ようとすると、老女は胸元へ収めた。
「奥様には、今夜はもう呼ばなくてよいとお伝えしておきます」
セレナは手を引いた。
「わかったわ。次の診察は、家政の者に日を伝えて」
ミアは薬を使っていないと言った。何が震えの原因か、セレナはまだ知らない。休んだら翌日すぐに治った、ということもなかった。
*
後日、高台の記録室から来た若い記録吏が、配薬の注意書きを読み上げた。
「投薬壜の転用・分与を禁ず。看病従者の服用事例は別記録として上申」
セレナは、あの夜の納戸を思い出した。
「ここだけに来た注意ですか」
「私どもから配薬する家へ、同じものを渡しています」
記録吏は家政の者へ写しを置き、無地の紙も渡した。乳母のことは、本人と処方係へ確かめてから別に返すと決まった。
セレナの台帳も、その日は机にあった。睡眠改善、食欲回復、静養遵守。そこに誤りはなかった。
「この夜の休養は、奥様の分でございますね」
記録吏が確認した。
セレナは、うなずいた。
自分が眠れたという記録を、もう恥じて消そうとは思わなかった。その夜に誰が起きていたかは、別に聞かなければならない。
*
北棟の客の席を減らしたことについて、縁者の一人から夫へ手紙が来た。
夫は、返事の言葉をセレナにも見せた。療養の支度を調えている、とある。嘘ではなかったが、彼女が話したかったことが全て書かれてもいなかった。
「次は、わたしも書くわ」
セレナが言うと、夫は手紙を渡した。
その晩、彼女は縫い物をしてから薬を飲んだ。留め紐を前へ回せる上着に変えていた。うまく結べず、結局ミアに一度直してもらった。
交代の時刻になると、ミアは部屋を出た。
「おやすみなさい」
セレナは呼び止めかけた。足元に縫いかけの袖を落としていた。屈んで拾うと、背中が少し張ったが、息は続いた。
廊下の向こうから、二人で食器を片付ける音がした。乳母の声が何か言い、ミアが笑った。セレナは何を言ったのかまでは聞けなかった。
薬の壜には、明日の分もある。
セレナは栓を閉じ、寝台へ横になった。胸へ息が入る。隣の間には、交代の女がいる。今夜、その人が何時まで起き、いつ眠るかを、彼女は知っていた。
眠りに落ちる前、袖のほどいたところを、明日は縫い直そうと思った。