灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦46年 ネサ(施療所補助)|薄明の底

五港同盟圏。燈院付属施療所と、西岸の南壁。

 

壜を倒したのは、最後の一行を書き終える直前だった。

 

ネサの右手が跳ね、筆の軸に触れた肘が、机の端の小壜を払った。石卓へ広がった液を、袖で押さえようとしてやめた。布に吸わせたら、もう戻せない。

 

「触るな」

 

正書係が布を持ってきた。布は迷わず液を吸い、甘く焦げた匂いを立てた。

 

「名前を書いておきなさい」

 

損失の帳面が差し出された。ネサは筆を握り直したが、先が欄を越えた。もう一度持ち直し、自分の名をいつもより大きく書いた。

 

その下へ、壜一本、と正書係が足した。

 

「全部はこぼれていません」

「口を開けたものは戻せない」

「わたしの今夜の分は」

 

正書係は布を丸める手を止めた。

 

「処方係に聞いて。私には決められない」

 

半開きの戸の向こうから、人の声が聞こえた。講堂では薄明剤の問答が続いていた。延びた命をどう使うべきか、と言う声だけが、ひどくよく通った。

 

ネサは損失帳を閉じた。

 

今夜は自分の薬を受け取って帰り、朝まで眠るつもりだった。西岸の南壁にある部屋は雨が続くと寝具が湿る。それでも横になれる。帳場の椅子へ座り続けるより、背中を伸ばせるだけましだった。

 

初めて薄明剤を飲んだころ、夜中に咳で起きなかった朝があった。隣の部屋の子が泣いているのを、寝床の中で聞いていた。起きてから気づいた。自分の咳で、その子を起こしていない。

 

翌日も帳場へ行けた。紙を買うための小銭を残せた。

 

今日、こぼした薬の代を引かれれば、その小銭からなくなる。

 

「まだ帰らないの」

 

病室へ湯を運ぶ下働きの女が、戸口から聞いた。年を取った、首の太い女だった。桶を床へ下ろし、ネサの手を見た。

 

「指、見てもらいな」

「薬がもらえれば帰ります」

「それは聞いた。指のほうだよ」

 

ネサは右手を膝の下へ入れた。そこで押さえているあいだは、女から見えない。

 

処方係が戻ってきたのは、講堂の戸が閉まったあとだった。外衣の肩に白い糸屑が付いている。前を急いで通った誰かの布から移ったのだろう。

 

「常用の分は変えない」

 

彼はネサの小壜を棚から取り、机の中央へ置いた。

 

「震えは、いつから」

「前にも話しました」

「今日は」

「夕方から強く」

 

彼は症例簿を開いた。ネサの頁を探し、先週の細い字へ指を置いた。

 

「これか。手指の震え」

「湯を運ぶとこぼします。字も、さっきは」

「明日、施療司にもう一度見てもらおう」

「帳場は」

「朝なら正書係がいる」

「朝だけですか」

 

処方係は目を上げた。ネサはそれ以上言えなかった。自分の処方と、自分の雇いを、一人にまとめて頼むように聞こえた。

 

戸を叩く音がした。

 

閉所の板を出したはずだった。下働きの女が開けると、外に女が一人立っていた。髪を束ねた紐まで濡れている。雨はやんでいた。

 

「壜だけでも、いただけますか」

 

女は小さな籠から空壜と折った札を出した。手の甲に、水にふやけた白い筋があった。

 

ネサは札を受け取った。西外れの洗い女。前の受診日を見れば、少し前にネサが写した名だった。

 

症例簿には、保護食不履行、再診来訪せず、とある。

 

「昼に来るよう言われていたね」

 

処方係が言った。

 

「昼は、洗ってます」

「次の壜を出す前に、診てもらわないと」

「今日は戻りが早かったんです。明日はまだわかりません」

 

女は処方係の顔を見てから、籠を見下ろした。

 

「次の分がないと、明日の仕事が」

「今ここで、私が診たことにはできない」

 

彼の返事は短かった。女が空壜を取り戻そうとしたとき、指が口の縁に当たり、小さく鳴った。

 

ネサは自分の右手を膝から抜いた。

 

「その手は、いつからですか」

 

女は手を籠の底へ隠しかけて、やめた。

 

「さあ。洗い終わったあとには、ずっと前から。薬を飲んでからかと言われると、わからないです」

「食事は」

「食べてます」

 

ネサは問いを続けかけたが、女の頬が固くなった。

 

「食べてると、言いましたよ」

 

下働きの女が、桶の向きを変えた。

 

「座りな。靴から水が出てる」

 

三人は女を見た。女はしばらく椅子へ座らなかった。座れば、今夜の用が長くなると警戒しているようだった。やがて籠を足元へ置き、腰を下ろした。

 

「粥が残ってる。食べられるかい」

「お金は」

「残りだよ」

 

女がうなずいた。湯の桶の向こうで、下働きの女が笑った。

 

「よかった。断られたら、私が二椀食うところだった」

 

ネサも口元を緩めた。処方係は笑わなかったが、閉めかけた帳面を机に戻した。

 

女は椀を持とうとして、親指の位置を二度変えた。下働きの女が椀の底に布を敷いた。そうすると、机へ置いたまま匙を使えた。

 

「ここで食べてから飲むようにって、札にありますね」

 

ネサが言うと、女は粥を飲み込んでから答えた。

 

「ここで、とは書いてない。家で食べればいいんでしょう」

「はい。家で」

「家へ戻ると、寝てしまうんです。空腹だったかどうか、寝たあとにはわからない」

 

彼女はその説明を、少し怒ったように言った。

 

「食べてないって書かれると、私が勝手に抜いたことになる。朝は食べました。明日の朝も、食べるつもりです」

 

ネサは症例簿の、保護食不履行という行を見た。その前の頁では、上層の患者に付いた者の報告を写していた。休養中、食事は家で用意、再診時には馬車を差し向ける。家へ帰れば、他の者が続きをしてくれる。

 

洗い女の札は端が擦れていた。折ったところに、糸くずが挟まっている。

 

「明日は、何時に仕事へ」

「明るくなる前に出ます」

「終わるのは」

「荷主が受け取ったら。受け取らなければ、干し場で待ちます」

 

処方係が、施療司の明日の予定を開いた。

 

「朝の来訪を、ひとつ後へずらせれば」

「それでは間に合わないと思います」

 

ネサの声が思いがけず強くなった。

 

「仕事へ出る前なら、まだここへ寄れます。明るくなる前です」

「まだ開いていない」

「私はそのころ来ています。湯も沸かしています」

 

下働きの女が、桶の柄を持ち直した。

 

「湯は私だよ」

「すみません」

「朝早いのは、そうさ」

 

処方係は二人を順に見た。

 

「施療司に頼んでくる。今夜ここへ泊まるつもりはありますか」

 

女はすぐ首を振った。

 

「家に子がいます」

「では明日の朝だけ。まだ約束にはしないで」

 

戸が閉じると、廊下の奥で声がした。誰かが講堂の片付けを頼んでいる。ネサは匙の音を聞きながら待った。

 

女が残りの粥を少しだけゆっくり食べた。

 

「子の分、持って帰っていいですか」

 

下働きの女は椀を覗き込んだ。

 

「そっちは食べな。鍋の底を見てくる」

 

それで粥がもう一椀なくなる。ネサは明朝自分が食べるつもりだった分を思い出した。黙ったままで、下働きの女が鍋をさらうのを見た。

 

処方係が戻ってきた。

 

「朝、施療司が来る。門を一度開けるだけだ。来なければ待てない」

 

女は立ち上がった。今度は札を持つ手を隠さなかった。

 

「来ます」

「薬は明朝、診たあとに」

 

女の顔から喜びが引いた。それでも、空壜を籠へ戻し、うなずいた。

 

ネサは札へ朝の約束を書いた。手が揺れ、仕事という字の最後が隣へ伸びた。新しい札へ写し直そうとすると、女が止めた。

 

「わかるから、それでいい」

 

札には、仕事へ出る前、とある。受診を指定する行には、施療司の印が押された。

 

女を送り出してから、ネサは症例簿の行へ、今夜来訪、と足した。その上の再診来訪せずの文字を消そうとして、処方係に止められた。

 

「来なかった日は、そのままでいい」

「これだと、約束を破ったことだけ残ります」

「今日来たことも書けばいい」

「昼は洗い場から離れられなかったことも」

 

処方係は少し考えて、筆をネサへ戻した。

 

「本人から聞いた、と付けて」

 

家で食べていたか、薬が震えを強くしたか、ネサにはわからなかった。わからないまま、女が話したことを一行ずつ写した。今夜の粥のことも、書いた。

 

書き終えると、右の指が机の縁へ当たり、小さく鳴った。

 

「あなたも朝に診てもらう」

 

処方係が言った。

 

「帳場の朝の分は、私が受ける」

「症例簿の写しも」

「全部は無理だ。一束だけ」

 

ネサは明日の束を分けた。自分の分が小さくなったことを、机を離れるまで何度も確かめた。

 

下働きの女が戻り、鍋の底をさらった椀を机へ置いた。ネサは冷めかけの粥を食べ、自分の薬を、いつも指示されるとおりに湯へ落とした。飲むときだけ、左手で右手首を支えた。

 

飲まずに帰ることも考えていた。それを今は、やめた。今夜の息がどうなるかを考えながら薬を見張るより、横になりたかった。

 

椀を置くと、咳の出そうな感じが少し遠のいた。薬か、粥か、湯かはわからない。右手はまだ揺れていた。

 

「ここ、拭いてから」

 

立ち上がりかけると、女が机の布を取った。

 

「今夜は私がやる。明日、湯の桶を洗っておくれ」

 

ネサは外衣を着た。片袖を通すのにも時間がかかったが、椀が戻る音を聞いて振り返らなかった。

 

*

 

翌朝、洗い女は暗いうちに来た。

 

まだ煙の上がらない屋根の下で、濡れていない籠を抱えて立っていた。施療司を待つ間、ネサは女の隣へ座った。自分の診察を待つ椅子は、患者が使うものと同じ高さだった。

 

「今日は洗い物を減らせと言われても、困ります」

 

女が言った。

 

「そのまま、そう話してください」

 

ネサも、こぼした壜の代を払いながら休めるかどうか、聞くつもりだった。膝の上の手は、今朝は静かだった。それだけで昨日のことを言いにくくなる。

 

奥から呼ばれると、洗い女は立った。空壜が籠の中で揺れた。

 

女が出てきたとき、新しい札を持っていた。薬のことはネサには見せなかった。

 

「次も、出る前でいいそうです」

 

外へ向きかけた足を止めて、女は言った。

 

「でも、今朝は洗い場へ遅れます」

 

ネサはうなずいた。間に合うようにするつもりだった。門の前で待った時間までは、札に書かなかった。

 

女を見送り、自分の名が呼ばれるのを待った。

 

朝の帳場では、処方係が慣れない束を数え直していた。ネサは席を立ちかけ、座り直した。一束だけ任せる。その約束を、まず今朝は守らなければならなかった。

 

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