五港同盟圏。燈院付属施療所と、西岸の南壁。
壜を倒したのは、最後の一行を書き終える直前だった。
ネサの右手が跳ね、筆の軸に触れた肘が、机の端の小壜を払った。石卓へ広がった液を、袖で押さえようとしてやめた。布に吸わせたら、もう戻せない。
「触るな」
正書係が布を持ってきた。布は迷わず液を吸い、甘く焦げた匂いを立てた。
「名前を書いておきなさい」
損失の帳面が差し出された。ネサは筆を握り直したが、先が欄を越えた。もう一度持ち直し、自分の名をいつもより大きく書いた。
その下へ、壜一本、と正書係が足した。
「全部はこぼれていません」
「口を開けたものは戻せない」
「わたしの今夜の分は」
正書係は布を丸める手を止めた。
「処方係に聞いて。私には決められない」
半開きの戸の向こうから、人の声が聞こえた。講堂では薄明剤の問答が続いていた。延びた命をどう使うべきか、と言う声だけが、ひどくよく通った。
ネサは損失帳を閉じた。
今夜は自分の薬を受け取って帰り、朝まで眠るつもりだった。西岸の南壁にある部屋は雨が続くと寝具が湿る。それでも横になれる。帳場の椅子へ座り続けるより、背中を伸ばせるだけましだった。
初めて薄明剤を飲んだころ、夜中に咳で起きなかった朝があった。隣の部屋の子が泣いているのを、寝床の中で聞いていた。起きてから気づいた。自分の咳で、その子を起こしていない。
翌日も帳場へ行けた。紙を買うための小銭を残せた。
今日、こぼした薬の代を引かれれば、その小銭からなくなる。
「まだ帰らないの」
病室へ湯を運ぶ下働きの女が、戸口から聞いた。年を取った、首の太い女だった。桶を床へ下ろし、ネサの手を見た。
「指、見てもらいな」
「薬がもらえれば帰ります」
「それは聞いた。指のほうだよ」
ネサは右手を膝の下へ入れた。そこで押さえているあいだは、女から見えない。
処方係が戻ってきたのは、講堂の戸が閉まったあとだった。外衣の肩に白い糸屑が付いている。前を急いで通った誰かの布から移ったのだろう。
「常用の分は変えない」
彼はネサの小壜を棚から取り、机の中央へ置いた。
「震えは、いつから」
「前にも話しました」
「今日は」
「夕方から強く」
彼は症例簿を開いた。ネサの頁を探し、先週の細い字へ指を置いた。
「これか。手指の震え」
「湯を運ぶとこぼします。字も、さっきは」
「明日、施療司にもう一度見てもらおう」
「帳場は」
「朝なら正書係がいる」
「朝だけですか」
処方係は目を上げた。ネサはそれ以上言えなかった。自分の処方と、自分の雇いを、一人にまとめて頼むように聞こえた。
戸を叩く音がした。
閉所の板を出したはずだった。下働きの女が開けると、外に女が一人立っていた。髪を束ねた紐まで濡れている。雨はやんでいた。
「壜だけでも、いただけますか」
女は小さな籠から空壜と折った札を出した。手の甲に、水にふやけた白い筋があった。
ネサは札を受け取った。西外れの洗い女。前の受診日を見れば、少し前にネサが写した名だった。
症例簿には、保護食不履行、再診来訪せず、とある。
「昼に来るよう言われていたね」
処方係が言った。
「昼は、洗ってます」
「次の壜を出す前に、診てもらわないと」
「今日は戻りが早かったんです。明日はまだわかりません」
女は処方係の顔を見てから、籠を見下ろした。
「次の分がないと、明日の仕事が」
「今ここで、私が診たことにはできない」
彼の返事は短かった。女が空壜を取り戻そうとしたとき、指が口の縁に当たり、小さく鳴った。
ネサは自分の右手を膝から抜いた。
「その手は、いつからですか」
女は手を籠の底へ隠しかけて、やめた。
「さあ。洗い終わったあとには、ずっと前から。薬を飲んでからかと言われると、わからないです」
「食事は」
「食べてます」
ネサは問いを続けかけたが、女の頬が固くなった。
「食べてると、言いましたよ」
下働きの女が、桶の向きを変えた。
「座りな。靴から水が出てる」
三人は女を見た。女はしばらく椅子へ座らなかった。座れば、今夜の用が長くなると警戒しているようだった。やがて籠を足元へ置き、腰を下ろした。
「粥が残ってる。食べられるかい」
「お金は」
「残りだよ」
女がうなずいた。湯の桶の向こうで、下働きの女が笑った。
「よかった。断られたら、私が二椀食うところだった」
ネサも口元を緩めた。処方係は笑わなかったが、閉めかけた帳面を机に戻した。
女は椀を持とうとして、親指の位置を二度変えた。下働きの女が椀の底に布を敷いた。そうすると、机へ置いたまま匙を使えた。
「ここで食べてから飲むようにって、札にありますね」
ネサが言うと、女は粥を飲み込んでから答えた。
「ここで、とは書いてない。家で食べればいいんでしょう」
「はい。家で」
「家へ戻ると、寝てしまうんです。空腹だったかどうか、寝たあとにはわからない」
彼女はその説明を、少し怒ったように言った。
「食べてないって書かれると、私が勝手に抜いたことになる。朝は食べました。明日の朝も、食べるつもりです」
ネサは症例簿の、保護食不履行という行を見た。その前の頁では、上層の患者に付いた者の報告を写していた。休養中、食事は家で用意、再診時には馬車を差し向ける。家へ帰れば、他の者が続きをしてくれる。
洗い女の札は端が擦れていた。折ったところに、糸くずが挟まっている。
「明日は、何時に仕事へ」
「明るくなる前に出ます」
「終わるのは」
「荷主が受け取ったら。受け取らなければ、干し場で待ちます」
処方係が、施療司の明日の予定を開いた。
「朝の来訪を、ひとつ後へずらせれば」
「それでは間に合わないと思います」
ネサの声が思いがけず強くなった。
「仕事へ出る前なら、まだここへ寄れます。明るくなる前です」
「まだ開いていない」
「私はそのころ来ています。湯も沸かしています」
下働きの女が、桶の柄を持ち直した。
「湯は私だよ」
「すみません」
「朝早いのは、そうさ」
処方係は二人を順に見た。
「施療司に頼んでくる。今夜ここへ泊まるつもりはありますか」
女はすぐ首を振った。
「家に子がいます」
「では明日の朝だけ。まだ約束にはしないで」
戸が閉じると、廊下の奥で声がした。誰かが講堂の片付けを頼んでいる。ネサは匙の音を聞きながら待った。
女が残りの粥を少しだけゆっくり食べた。
「子の分、持って帰っていいですか」
下働きの女は椀を覗き込んだ。
「そっちは食べな。鍋の底を見てくる」
それで粥がもう一椀なくなる。ネサは明朝自分が食べるつもりだった分を思い出した。黙ったままで、下働きの女が鍋をさらうのを見た。
処方係が戻ってきた。
「朝、施療司が来る。門を一度開けるだけだ。来なければ待てない」
女は立ち上がった。今度は札を持つ手を隠さなかった。
「来ます」
「薬は明朝、診たあとに」
女の顔から喜びが引いた。それでも、空壜を籠へ戻し、うなずいた。
ネサは札へ朝の約束を書いた。手が揺れ、仕事という字の最後が隣へ伸びた。新しい札へ写し直そうとすると、女が止めた。
「わかるから、それでいい」
札には、仕事へ出る前、とある。受診を指定する行には、施療司の印が押された。
女を送り出してから、ネサは症例簿の行へ、今夜来訪、と足した。その上の再診来訪せずの文字を消そうとして、処方係に止められた。
「来なかった日は、そのままでいい」
「これだと、約束を破ったことだけ残ります」
「今日来たことも書けばいい」
「昼は洗い場から離れられなかったことも」
処方係は少し考えて、筆をネサへ戻した。
「本人から聞いた、と付けて」
家で食べていたか、薬が震えを強くしたか、ネサにはわからなかった。わからないまま、女が話したことを一行ずつ写した。今夜の粥のことも、書いた。
書き終えると、右の指が机の縁へ当たり、小さく鳴った。
「あなたも朝に診てもらう」
処方係が言った。
「帳場の朝の分は、私が受ける」
「症例簿の写しも」
「全部は無理だ。一束だけ」
ネサは明日の束を分けた。自分の分が小さくなったことを、机を離れるまで何度も確かめた。
下働きの女が戻り、鍋の底をさらった椀を机へ置いた。ネサは冷めかけの粥を食べ、自分の薬を、いつも指示されるとおりに湯へ落とした。飲むときだけ、左手で右手首を支えた。
飲まずに帰ることも考えていた。それを今は、やめた。今夜の息がどうなるかを考えながら薬を見張るより、横になりたかった。
椀を置くと、咳の出そうな感じが少し遠のいた。薬か、粥か、湯かはわからない。右手はまだ揺れていた。
「ここ、拭いてから」
立ち上がりかけると、女が机の布を取った。
「今夜は私がやる。明日、湯の桶を洗っておくれ」
ネサは外衣を着た。片袖を通すのにも時間がかかったが、椀が戻る音を聞いて振り返らなかった。
*
翌朝、洗い女は暗いうちに来た。
まだ煙の上がらない屋根の下で、濡れていない籠を抱えて立っていた。施療司を待つ間、ネサは女の隣へ座った。自分の診察を待つ椅子は、患者が使うものと同じ高さだった。
「今日は洗い物を減らせと言われても、困ります」
女が言った。
「そのまま、そう話してください」
ネサも、こぼした壜の代を払いながら休めるかどうか、聞くつもりだった。膝の上の手は、今朝は静かだった。それだけで昨日のことを言いにくくなる。
奥から呼ばれると、洗い女は立った。空壜が籠の中で揺れた。
女が出てきたとき、新しい札を持っていた。薬のことはネサには見せなかった。
「次も、出る前でいいそうです」
外へ向きかけた足を止めて、女は言った。
「でも、今朝は洗い場へ遅れます」
ネサはうなずいた。間に合うようにするつもりだった。門の前で待った時間までは、札に書かなかった。
女を見送り、自分の名が呼ばれるのを待った。
朝の帳場では、処方係が慣れない束を数え直していた。ネサは席を立ちかけ、座り直した。一束だけ任せる。その約束を、まず今朝は守らなければならなかった。