北岸の小都市。法務庫と、市場裏のルデ家。
セイロは、二枚目の紙へ移る前に、ベシュ老人の報告を終えたかった。
机には検視記録と所持品の写しがあった。100歳近い元徴税官。刺された傷は一つ。抵抗した痕は少ない。鍵束と小銭、折った古紙片。紙片に残ったのは数字の列と港の印だった。
上役は、何が分かった、と昼に聞きに来る。セイロはまだ、その問いへ出せるものがなかった。
数字の切り方を見た老吏が、旧徴税の控えに似ている、と言った。セイロは下の棚へ降りた。港の税と差押えの記録は、区域ごとに綴じてある。ベシュの名を見つけてから、その前後を何冊も開いた。
昼近く、ルデ家の名が繰り返し現れた。
油樽。寝台。裁縫箱。銅鍋。未納の補填に充てる、とあった。その横に、病人がいるので徴収を待ってほしいという願いと、却下の二字が残っていた。頁の端には、家の一人が戻らなくなったという後書きもあった。
灰暦が始まる前の差押え簿だった。年季の端は虫に食われ、数字を全部は読めない。老吏は紙を灯へかざしたが、無い所から字は出なかった。
「この家に、今も人がいる」
老吏は言った。セイロはルデ家の頁を写した。報告の冒頭へ、旧徴税に関わる遺恨、と書きかけ、ルデ家へ行ってから続きを書くことにした。
市場裏の路地では、魚を干す竿の間を荷車が通っていた。ルデ家の戸口に、孫娘が濡れた布を掛けていた。奥には老人が座り、膝の布を直していた。
「今さら、持って行ける物はないぞ」
ルデ老人は、セイロの名を聞く前に言った。
セイロは徴税のためではない、と答えた。ベシュが刺殺されたことを伝えると、老人の指が止まった。孫娘は布を竿へ掛け終え、戸の内側へ戻った。
「死んだか」
ルデはそれだけ言った。セイロは待ったが、次の言葉は来なかった。
差押え簿の写しを見せると、ルデは銅鍋の所を指した。
「取っ手が一つ、緩んでいた。それでも取った」
「その頃、家へ戻らなくなった人がいたと、記録にあります」
老人は頷いた。差押えと、その人がいなくなった時期は近かった。だが誰が連れ出したか、どこへ行ったかを知る者は、この記録にはいない。
セイロは、ベシュとその失踪が関わっていたと思うか、と聞いた。老人は紙から目を上げた。
「思うのと、知っているのを、一つに書くつもりか」
セイロは筆を持つ手を止めた。
「別にします」
「なら、思う方だけだ」
棚には、布表紙の家計簿が並んでいた。セイロは、金の受取りも残っているかと聞いた。老人が、うちの帳面まで持っていくのか、と返した。
「必要な行を、ここで写したい。何を写したか、読み上げます」
ルデは孫娘を見た。孫娘は一冊を出し、まず自分で頁を開いた。角が擦れ、後から紙を足した所には違う太さの紐が掛かっていた。
最初は出費ばかりだった。塩、粟、薬種、布。続いて、寝藁、針束、鍋の取っ手。家財を一度に取り戻したのではなく、別々の日に、小さい物から買い直していた。
セイロが鍋の行を写すと、老人は、取られた鍋と同じ物ではない、と言った。
「新しい方は小さくて、煮る時に分けた」
孫娘が火のそばの鍋をずらした。今使っているのも小さかったが、それが買い直した鍋かどうか、セイロには分からなかった。
匿名の受取が現れるまで、差押えから10年ほど空いていた。家計簿にはその間の出費が続き、買えなかった寝台の代わりに、寝藁を替える記入が重なっていた。
最初の受取の脇には、送り主の名がない。
次の冊子にも、その次にも同じ種類の金が入っていた。日時は揃わず、額も後には減っている。家族の字が変わり、受けに行く者が変わりながら、記録はおよそ50年分あった。始まりは灰暦より前だった。
「最初は、返そうとした」
ルデが言った。
「差出人がない。預り所へ行けば、名を言うだけで出る。返す先を聞いても、教えん」
「使いが家へ来ることは?」
「たまに来た。冬を越せるか、病人がまだここにいるかと聞く。金だけなら、預り所へ行けば済むのに」
「使ったのですか」
老人は、目の前の家計簿を押した。
「そこにある」
受取のあとに、針と布を買った日があった。孫娘は、祖母が縫い物をまた始めた時の話をした。道具が揃うまでは、頼まれても糸を切る物がなく、近所から借りた。小さな箱を買うと、帰ってくるたびに中身を数えたという。
「売られた裁縫箱の代わりですか」
セイロが聞くと、ルデは違うと言った。
「代わりなら、先に箱が戻っている。箱がなかったあいだの仕事は、どこから戻る」
セイロは、送金による補填、と書いた箇所へ線を引いた。何に使ったかは書ける。何の代わりになったかは、この家の者が別の答えを持っていた。
最後の冊子では、3か月ほど前に受取が止まっていた。
その脇へ、来た。顔を見せた。謝らず、と書いてある。家計をつける字とは違い、線が震えていた。
「これは、誰が来た記録ですか」
老人は自分の膝を見てから答えた。
「ベシュだ。私が書いた」
「何を話したのですか」
「生きていたか、と言った」
孫娘が口を開いた。祖父は手を上げ、先を続けた。
「こっちは見れば分かると言った。それから、立っているのがつらそうだったから、椅子を出した」
ベシュは長く居なかった。そのあとに金も来ていない、と老人は話した。セイロは面会の時期を写し、刺殺された夜とは離れていることを確かめた。
「謝りに来たのだと思いましたか」
「謝らんうちに帰った。それ以上は、本人に聞け」
老人は言って、もう聞けないのを思い出したように黙った。
孫娘が、金を受け取ったことを、祖父が許したことに書くな、と言った。
「逆のことにも、書かないで。憎んでいたら、刺したことになるんですか」
セイロは首を振った。彼女は祖父の肩へ布を掛け、家計簿を閉じようとした。
「あと、受取がないという所だけ」
セイロは頼み、写した行を読み上げた。彼女は金額を一か所直させ、冊子を棚へ戻した。
港の預り所では、古い控えが短い紐で束ねられていた。セイロはルデ家で写した日時と金額を、現存する分から合わせた。少なくとも最近の三回は揃った。差出人欄は空白だったが、預りを扱っていた女は、ベシュ本人が金を置いたことを覚えていた。
「年を取ってからは、使いの者も来た。いつも同じじゃない」
「全て、ベシュの金だと分かるのですか」
「私が受けた分は言える。ここに来る前の分は、紙を見るしかない」
女は最近の控えを選び、本人から受けた物と、使いが持ち込んだ物を分けた。
ルデ家で聞いた、様子を見に来る使いの話もした。冬を越せるか、病人がまだ家にいるかと尋ねる者がいたという。女は、金を受けに来れば向こうが暮らしていると分かる、と答えた。
「では、見張っていた?」
「ここで金を預かる時に、そんな名前はつけなかったよ」
女は紐を結び直した。受けに来なくなれば、その金をどうするか困る。病気なら人に頼んで受け取れるよう、家の様子を聞くこともある。それだけを聞いて、セイロが理由を一つへ決めることはできなかった。
法務庫へ戻ると、ベシュの家から運ばれた私物の中に、鍵の合う薄箱があった。開けた時には同僚にもいてもらい、中の紙を机へ並べた。
旧徴税の差押え簿を抜き書きした冊子だった。ルデ家の項目には病人、持ち出した家財、同じ頃に戻らなくなった者の続柄も写してあった。その後ろへ、月次補填、継続、終期未定、と書き足してある。
最近の金額の列を預り所の控えへ重ねると、三回の並びが一致した。ベシュの所持品の古紙片にも、同じ順でその数字が残っていた。紙片だけではルデ家の名は分からなかったが、箱の抜書きにはある。
セイロは最初の紙へ戻った。数字の癖だけで送り主を決めたのではない、と自分に確かめた。家計の受取、預り所の控え、本人から金を受けた証言、家宅の私記。それぞれが示す範囲を分けた。
ベシュが金を送った関係は見えてきた。なぜ始め、なぜやめたかには、同じように印をつけられなかった。
上役が来た時、セイロの紙は四枚になっていた。
「旧徴税の恨みか」
最初の草稿を見て、上役が聞いた。セイロはその紙を引いた。
「恨みがあることは聞きました。刺殺と結ぶ所は、まだありません」
「金は?」
セイロは、送り手を示す分を並べた。上役は最近の三回を見て、それなら家族は金を返したいわけでもなかったのか、と言った。
「受け取って、暮らしに使った。許したとは言っていません」
セイロはそう答えた。上役は筆を持ち、報告には受取側の言葉も残せ、と言った。
その夜、セイロは殺害の欄を別に作った。検視で分かるのは傷と身体の状態で、誰を家へ入れたかではない。ベシュの最後の行き先も、送金の控えからは出てこない。直近の出入りを確かめるため、家宅の聞き取りと預り所の使いの確認を求める紙を添えた。
翌朝、ルデ家へもう一度行き、引用する言葉を読み上げた。老人は、そこで待て、と言い、縫い物の収入も帳面にあると指した。
「あいつの金で生きていた、とだけ書けば、うちが何もしなかったことになる」
セイロは家計簿を開いてもらった。受取と同じ頁に、針仕事の代金や荷包みの賃がある。前の日には金の来た行ばかり追っていた。
孫娘が窓を開けた。干した布が壁へ当たり、老人が竿を離せと手で示した。孫娘は竿を動かした。布を避けると、セイロの紙を置く場所も少し広くなった。
「この帳面は、預けません」
彼女は言った。
「はい。写しだけにします」
最近の縫い賃を写していると、頁の端に小さい、遅、の字が見えた。どの行にも線で結ばれてはいなかった。セイロは何に対して書いたのか聞いた。老人は首を振り、自分はそれを書いていないと答えた。孫娘も知らなかった。
セイロはその字を写し、書き手と意味は未確認、と脇へ添えた。セイロには、その字を来訪の時期や殺害を認めた記録として使うことはできなかった。
家計簿が棚へ戻ると、孫娘は薬缶を火へ寄せた。金が来ない分は今月の縫い賃から回す、と老人に話した。老人は戸棚の包みを指し、その布はまだ使うな、と言った。
セイロは戸口まで出て、後ろを見た。二人の話は自分を待たずに続いていた。
法務庫で報告を出した。送金関係の資料と、殺害について続けて確かめる事項を、別の束にした。上役は一つ目の束へ受取の印を置き、二つ目を同僚へ渡した。家宅の聞き取りはその日のうちに手配し、預り所へはセイロも行くよう言った。
セイロは机の最初の紙を、提出する束へ混ぜなかった。旧徴税に関わる遺恨、で止めていた一行がある。そこへ、殺害の動機としては未確認、と書き足し、自分の控えへ綴じた。
同僚が戸口で待っていた。セイロは家計簿の写しを手元へ戻し、殺害の聞き取りに要る紙を持って立った。どちらの束も、まだ薄くはならなかった。