五港同盟圏。工場街と新地の宿。
娘は、ネラの包帯に鳥を描こうとした。
炭の欠片を持った指が近づいてきて、ネラは右手でその手を止めた。左手は膝の上に乗せてある。布の下が、心臓と別に脈を打っていた。
「ここには描かない」
「鳥なら、痛くないよ」
「鳥でも」
娘は炭を引っ込めた。しばらく考えて、寝台を支えている箱に鳥を描き始めた。
左の羽ばかり大きくなった。ネラは口を出さず、その羽が箱の縁へ届くまで見ていた。娘の熱はようやく下がっていた。
事故から五日。手はよくならず、工場の灯りだけが毎晩同じ時刻に点いた。
宿の老女が戸を開けた。椀と、紙を一枚持っていた。
「向こうから来た」
同じ棟の女が持ち帰った事故分類票の控えだった。ネラは右手で広げた。原因区分、本人不注意。その下に、注意散漫のため定位置確認を怠る、とある。
「位置が違ったんだよ」
ネラが言うと、老女は椀を机へ置いた。
「どこが」
「持場が。その晩だけ」
「そう書いてあるのかい」
ネラは紙を見た。自分の名と、傷を負った手と、事故の時刻はあった。持場のことはない。
*
その晩、ネラは補助輪の横へ、いつもより半歩深く入っていた。
薄板を受け、縁へ残った油を拭き、隣へ渡す。受ける場所も、渡す場所も決まっていた。前の者から板が届く音に、腕がついていく。指先だけを見ていると、列が詰まる。列を見れば、手元が遠くなる。
一人が遅れていた。
「今夜はこっちも受けて」
班の男が隣の台を叩いた。ネラは台の角を見て、それから床の印を見た。いつもの場所から届かない。
「もう少し前へ出る?」
「詰まらせなければ、どこでもいい」
前へ出た。布を巻いた手を、台へ置き直した。
その前の朝、眠ったのは短いあいだだった。宿へ戻ると、娘が熱を出していた。老女が薬草を煎じてくれたが、炭を借りに下の炊事場へ行かなければならなかった。その間はネラが娘の背をさすった。
やっと寝かせると、隣で洗濯が始まった。水を捨てる音が、目を閉じた途端にする。もう一度寝入りかけたころ、娘が吐いた。
夕方には老女へ頼んだ。
「今夜だけ、見てて」
「今夜だけじゃないだろう」
返事ができなかった。前の夜も預けていた。老女のところには、もう一人、別の女の子がいた。
「この割増を外せないんです」
老女は鍋へ水を足した。ネラはそれを手伝わず、戸口で待った。手伝い始めれば、もっと遅くなる。
工場では、休憩の粥を半分残した。持ち帰るつもりで、蓋のできる小さな器へ移した。お椀の半分で、明けまで動けると思っていた。
第四鐘のあと、薄板が二枚続けて滑ってきた。
先の一枚を渡し、次を押さえようとしたとき、娘の咳が耳の近くで鳴った。いま吐いていないだろうか。老女の炭は足りたか。そんなことを思った。
布が輪に取られた。
引かれてから離そうとしても、手が抜けなかった。前へ身体が寄り、台に腹が当たった。誰かが声を上げた。止まる音より先に、手の中が熱くなった。
板を渡すはずだった隣の女が、ネラの肩を後ろへ引いた。
「止まった、もう止まった」
同じ言葉を何度も聞いた。ネラがまだ動いていると思ったのは、輪ではなく、引かれた腕だった。
*
申請を聞き取る男が宿へ来たとき、娘は箱の鳥に足を足していた。
「睡眠不足の自覚は」
「ありました」
「持場の確認はしましたか」
「確認して、前へ出ました」
男は筆を止めた。
「指示があったんですか」
「隣の分も受けろと言われました」
「誰に」
ネラは名を答えた。男は別の紙へ書いた。
「分類は変わりますか」
「私がここで変えるわけではありません。工場側へも確認します」
「もう本人不注意になっている」
「主因の欄は、そうです」
男は分類票を机へ置いた。続けて、自分が聞き取った申請の紙も置いた。
「傷を届けるために、こちらへ名を」
ネラは筆を取らなかった。
「書いたら、全部認めたことにされませんか」
男はすぐ答えず、分類票と申請の紙を離した。
「傷と、あなたが話した事情を確認する紙です。分類について異議があることも、ここへ書きます」
「眠れなかったから、だけにしないで」
老女が脇から言った。
「この部屋を見たろう。昼も、人が出入りするんだよ」
男は筆を持ち直した。
ネラは話し始めた。持場がずれたこと、休憩の粥を半分持ち帰ろうとしたこと、娘が吐いたこと。言うほど、自分が余計なことをしたように聞こえた。なぜ粥を全部食べなかったのかと聞かれたら、うまく答えられない。
男は途中で顔を上げた。
「持場変更を見た人は、いますか」
「私を引いた女です」
同じ棟にいる女の名を伝えた。そこまで書かせてから、ネラは筆を取った。
左手で紙を押さえられないので、老女が端を持った。
「金は、いつ出ます」
「申請を出してからです。出るかどうかも、まだ答えられません」
ネラは署名したばかりの名を見た。それで買える炭は、まだ一欠片もなかった。
男が帰ると、老女が寝台へ腰を下ろした。
「今夜は、私も寝るからね」
ネラは紙を折っていた手を止めた。
「まだ工場には」
「知ってる。あんたの子じゃないほうも、今夜は頼まれてるんだ」
老女の膝が腫れていた。仕事へ出る前、ネラは足元を見ないようにしていたのだと思った。
「私、今夜はここにいます。二人とも見ます」
「手は」
「鍋は運べません。水を入れた桶も」
「そっちは夕方にしておく。夜は起こさないでくれ」
娘が鳥の足を数えていた。三本になっている、とネラが言うと、娘は鳥が転ばないためだと答えた。
老女が初めて笑った。
*
包帯を替えてもらう日、ネラは娘を連れて燈院付属の施療所へ行った。
朝、夜番を終えた人たちが新地へ戻るのとすれ違った。その中に、ネラの肩を引いた女もいた。何も言わず右の腕を軽く叩いてくれた。反対の手を叩かれるのが、少しうれしかった。
施療所には、診てもらう薬とは別に、再び来られる時刻を記す札があった。
札を写す係が、表の処置の日付を確かめ、裏をネラへ向けた。
仕事に出る前。戻ったあと。
二つの言葉の下に、空きがある。
「次に来るのは、どちらがいいですか」
「夜から戻ってきたあとなら。でも、朝は開いてますか」
「日を合わせます。どの朝でもとは言えません」
係は棚から古い見本札を出した。角の擦れた紙に、仕事へ出る前、と大きな字がある。
「補助のネサが施療司へ頼んだ、洗い場の人の札を、帳場で見本に写したんです。係が替わってもここに置いてます」
係はその札を棚へ戻し、新しい札に、次の来訪日と時刻を書いた。
「今は、まだ働いてません」
ネラが言うと、係の筆が止まった。
「では、家を空けられるのはいつですか」
「この子の朝を済ませてから」
そうして約束した日を、ネラは右の指で押さえた。診療の順番を待つ娘は、ネラの膝へ座りたがった。左手にぶつからない側へ寄せると、娘もそれを覚えた。
呼ばれたあと、ネラは手を見てもらった。今すぐ元の仕事へ戻れると言ってもらいたかった。しかし布を外すとき、傷の縁が引かれただけで肘まで固くなった。
「元の持場は、まだ早い」
ネラは答える前に娘を見た。娘も包帯の外れた手を見ていた。
「まだですよね」
帰りの道で、ネラはその言葉を何度も口の中で言い直した。
*
工場の帳場へ行ったのは、翌日だった。
娘は老女に頼んだ。夕方の水汲みは、帰ったネラが、桶を小さな壺に替えて何度か往復することにした。片手で持てる量だけ運べば、できなくはない。
賃金帳の上で、ネラの列が止まっていた。怪我をするまでの勤めの分は受け取れた。休んだ日には、印がない。夜勤の割増も途切れている。
「手が戻れば、元へ入れる」
帳場の男が言った。
「持場は」
「前と同じ」
「隣も、受けますか」
男はネラを見た。後ろで紙を運んでいた班の男が答えた。
「人が足りない日なら、皆やってる」
「私は、まだ戻れません」
ネラはもらった賃をしまった。言った途端、もっと短い返事にすればよかったと思った。まだ、と言わず、次の鐘から入ると答えてしまえば、今夜の金が付く。
班の男は声を低くした。
「長く空けておけないよ」
「わかってます」
ネラの肩を引いた女が、戸口へ来た。明けに申請の聞き取りを受け、まだ帰っていなかった。
「隣の台を受けさせたって、私も話した」
班の男は口を開きかけたが、女は続けた。
「今夜戻る時には、一人分の持場にして。休憩の交代も、誰か決めて」
「いま決められない」
「じゃあ、今夜の前に」
ネラは女の外衣を見た。脇が裂け、糸で結んであった。休めば、この女も金が減る。
二人は並んで外へ出た。班の男は約束しなかった。
「ごめん、私だけ先に」
ネラが言うと、女は肩を振った。
「あんたを引くのに、私も台を離れたんだよ。次は、誰が止めるのか決めておきたいだけ」
門の外で別れた。女は夜に戻る。ネラは明日の持場をまだ持っていない。
*
その晩、ネラは台所で水の壺を一本ずつ運んだ。
老女は重い鍋だけを火から外して、早く寝た。娘と、隣の部屋の子が、湯の入っていない椀を並べた。娘は左手へ近づかないよう、机の反対側を通った。
隣の部屋の子の母親が帰ってきたとき、子はまだ起きていた。
「寝かせてくれれば、よかったのに」
そう言われて、ネラは口を結んだ。自分もいつも同じことを老女に言っていた。
「片手だと、うまく抱けなくて」
女は子を抱き上げ、ネラの左手を見た。
「そうか」
翌朝、ネラは残りの賃を三つに分けた。宿へ払う分。食べる分。次に手を診てもらうまでの分。薬草や炭を買うには足りない。夜の子守りをもう少し引き受け、女たちに水と炭を持ってきてもらえないか、頼むつもりだった。誰が何を出せるかは、まだ聞いていない。
机にパンを置くと、娘がいつものように自分の分へ手を伸ばした。
ネラは半分を残さず、自分の分を食べた。
「今日も、寝るの?」
「食べたら少し。おまえが起きてるあいだも」
「静かにしなきゃ」
「静かにできなかったら、老女のところへ行かずに、ここへ来て」
娘は口を尖らせた。ネラは、昼を静かにできると約束してほしかった。それでも、そうは言わなかった。
箱の鳥には、もう一枚の羽が描き足されていた。三本の足で、寝台の下からはみ出している。
ネラは紙をその箱にしまい、娘に右の手を貸して、隣へ横になった。