灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦52年 ネラ|朝の薄さ

五港同盟圏。工場街と新地の宿。

 

娘は、ネラの包帯に鳥を描こうとした。

 

炭の欠片を持った指が近づいてきて、ネラは右手でその手を止めた。左手は膝の上に乗せてある。布の下が、心臓と別に脈を打っていた。

 

「ここには描かない」

「鳥なら、痛くないよ」

「鳥でも」

 

娘は炭を引っ込めた。しばらく考えて、寝台を支えている箱に鳥を描き始めた。

 

左の羽ばかり大きくなった。ネラは口を出さず、その羽が箱の縁へ届くまで見ていた。娘の熱はようやく下がっていた。

 

事故から五日。手はよくならず、工場の灯りだけが毎晩同じ時刻に点いた。

 

宿の老女が戸を開けた。椀と、紙を一枚持っていた。

 

「向こうから来た」

 

同じ棟の女が持ち帰った事故分類票の控えだった。ネラは右手で広げた。原因区分、本人不注意。その下に、注意散漫のため定位置確認を怠る、とある。

 

「位置が違ったんだよ」

 

ネラが言うと、老女は椀を机へ置いた。

 

「どこが」

「持場が。その晩だけ」

「そう書いてあるのかい」

 

ネラは紙を見た。自分の名と、傷を負った手と、事故の時刻はあった。持場のことはない。

 

*

 

その晩、ネラは補助輪の横へ、いつもより半歩深く入っていた。

 

薄板を受け、縁へ残った油を拭き、隣へ渡す。受ける場所も、渡す場所も決まっていた。前の者から板が届く音に、腕がついていく。指先だけを見ていると、列が詰まる。列を見れば、手元が遠くなる。

 

一人が遅れていた。

 

「今夜はこっちも受けて」

 

班の男が隣の台を叩いた。ネラは台の角を見て、それから床の印を見た。いつもの場所から届かない。

 

「もう少し前へ出る?」

「詰まらせなければ、どこでもいい」

 

前へ出た。布を巻いた手を、台へ置き直した。

 

その前の朝、眠ったのは短いあいだだった。宿へ戻ると、娘が熱を出していた。老女が薬草を煎じてくれたが、炭を借りに下の炊事場へ行かなければならなかった。その間はネラが娘の背をさすった。

 

やっと寝かせると、隣で洗濯が始まった。水を捨てる音が、目を閉じた途端にする。もう一度寝入りかけたころ、娘が吐いた。

 

夕方には老女へ頼んだ。

 

「今夜だけ、見てて」

「今夜だけじゃないだろう」

 

返事ができなかった。前の夜も預けていた。老女のところには、もう一人、別の女の子がいた。

 

「この割増を外せないんです」

 

老女は鍋へ水を足した。ネラはそれを手伝わず、戸口で待った。手伝い始めれば、もっと遅くなる。

 

工場では、休憩の粥を半分残した。持ち帰るつもりで、蓋のできる小さな器へ移した。お椀の半分で、明けまで動けると思っていた。

 

第四鐘のあと、薄板が二枚続けて滑ってきた。

 

先の一枚を渡し、次を押さえようとしたとき、娘の咳が耳の近くで鳴った。いま吐いていないだろうか。老女の炭は足りたか。そんなことを思った。

 

布が輪に取られた。

 

引かれてから離そうとしても、手が抜けなかった。前へ身体が寄り、台に腹が当たった。誰かが声を上げた。止まる音より先に、手の中が熱くなった。

 

板を渡すはずだった隣の女が、ネラの肩を後ろへ引いた。

 

「止まった、もう止まった」

 

同じ言葉を何度も聞いた。ネラがまだ動いていると思ったのは、輪ではなく、引かれた腕だった。

 

*

 

申請を聞き取る男が宿へ来たとき、娘は箱の鳥に足を足していた。

 

「睡眠不足の自覚は」

「ありました」

「持場の確認はしましたか」

「確認して、前へ出ました」

 

男は筆を止めた。

 

「指示があったんですか」

「隣の分も受けろと言われました」

「誰に」

 

ネラは名を答えた。男は別の紙へ書いた。

 

「分類は変わりますか」

「私がここで変えるわけではありません。工場側へも確認します」

「もう本人不注意になっている」

「主因の欄は、そうです」

 

男は分類票を机へ置いた。続けて、自分が聞き取った申請の紙も置いた。

 

「傷を届けるために、こちらへ名を」

 

ネラは筆を取らなかった。

 

「書いたら、全部認めたことにされませんか」

 

男はすぐ答えず、分類票と申請の紙を離した。

 

「傷と、あなたが話した事情を確認する紙です。分類について異議があることも、ここへ書きます」

「眠れなかったから、だけにしないで」

 

老女が脇から言った。

 

「この部屋を見たろう。昼も、人が出入りするんだよ」

 

男は筆を持ち直した。

 

ネラは話し始めた。持場がずれたこと、休憩の粥を半分持ち帰ろうとしたこと、娘が吐いたこと。言うほど、自分が余計なことをしたように聞こえた。なぜ粥を全部食べなかったのかと聞かれたら、うまく答えられない。

 

男は途中で顔を上げた。

 

「持場変更を見た人は、いますか」

「私を引いた女です」

 

同じ棟にいる女の名を伝えた。そこまで書かせてから、ネラは筆を取った。

 

左手で紙を押さえられないので、老女が端を持った。

 

「金は、いつ出ます」

「申請を出してからです。出るかどうかも、まだ答えられません」

 

ネラは署名したばかりの名を見た。それで買える炭は、まだ一欠片もなかった。

 

男が帰ると、老女が寝台へ腰を下ろした。

 

「今夜は、私も寝るからね」

 

ネラは紙を折っていた手を止めた。

 

「まだ工場には」

「知ってる。あんたの子じゃないほうも、今夜は頼まれてるんだ」

 

老女の膝が腫れていた。仕事へ出る前、ネラは足元を見ないようにしていたのだと思った。

 

「私、今夜はここにいます。二人とも見ます」

「手は」

「鍋は運べません。水を入れた桶も」

「そっちは夕方にしておく。夜は起こさないでくれ」

 

娘が鳥の足を数えていた。三本になっている、とネラが言うと、娘は鳥が転ばないためだと答えた。

 

老女が初めて笑った。

 

*

 

包帯を替えてもらう日、ネラは娘を連れて燈院付属の施療所へ行った。

 

朝、夜番を終えた人たちが新地へ戻るのとすれ違った。その中に、ネラの肩を引いた女もいた。何も言わず右の腕を軽く叩いてくれた。反対の手を叩かれるのが、少しうれしかった。

 

施療所には、診てもらう薬とは別に、再び来られる時刻を記す札があった。

 

札を写す係が、表の処置の日付を確かめ、裏をネラへ向けた。

 

仕事に出る前。戻ったあと。

 

二つの言葉の下に、空きがある。

 

「次に来るのは、どちらがいいですか」

「夜から戻ってきたあとなら。でも、朝は開いてますか」

「日を合わせます。どの朝でもとは言えません」

 

係は棚から古い見本札を出した。角の擦れた紙に、仕事へ出る前、と大きな字がある。

 

「補助のネサが施療司へ頼んだ、洗い場の人の札を、帳場で見本に写したんです。係が替わってもここに置いてます」

 

係はその札を棚へ戻し、新しい札に、次の来訪日と時刻を書いた。

 

「今は、まだ働いてません」

 

ネラが言うと、係の筆が止まった。

 

「では、家を空けられるのはいつですか」

「この子の朝を済ませてから」

 

そうして約束した日を、ネラは右の指で押さえた。診療の順番を待つ娘は、ネラの膝へ座りたがった。左手にぶつからない側へ寄せると、娘もそれを覚えた。

 

呼ばれたあと、ネラは手を見てもらった。今すぐ元の仕事へ戻れると言ってもらいたかった。しかし布を外すとき、傷の縁が引かれただけで肘まで固くなった。

 

「元の持場は、まだ早い」

 

ネラは答える前に娘を見た。娘も包帯の外れた手を見ていた。

 

「まだですよね」

 

帰りの道で、ネラはその言葉を何度も口の中で言い直した。

 

*

 

工場の帳場へ行ったのは、翌日だった。

 

娘は老女に頼んだ。夕方の水汲みは、帰ったネラが、桶を小さな壺に替えて何度か往復することにした。片手で持てる量だけ運べば、できなくはない。

 

賃金帳の上で、ネラの列が止まっていた。怪我をするまでの勤めの分は受け取れた。休んだ日には、印がない。夜勤の割増も途切れている。

 

「手が戻れば、元へ入れる」

 

帳場の男が言った。

 

「持場は」

「前と同じ」

「隣も、受けますか」

 

男はネラを見た。後ろで紙を運んでいた班の男が答えた。

 

「人が足りない日なら、皆やってる」

「私は、まだ戻れません」

 

ネラはもらった賃をしまった。言った途端、もっと短い返事にすればよかったと思った。まだ、と言わず、次の鐘から入ると答えてしまえば、今夜の金が付く。

 

班の男は声を低くした。

 

「長く空けておけないよ」

「わかってます」

 

ネラの肩を引いた女が、戸口へ来た。明けに申請の聞き取りを受け、まだ帰っていなかった。

 

「隣の台を受けさせたって、私も話した」

 

班の男は口を開きかけたが、女は続けた。

 

「今夜戻る時には、一人分の持場にして。休憩の交代も、誰か決めて」

「いま決められない」

「じゃあ、今夜の前に」

 

ネラは女の外衣を見た。脇が裂け、糸で結んであった。休めば、この女も金が減る。

 

二人は並んで外へ出た。班の男は約束しなかった。

 

「ごめん、私だけ先に」

 

ネラが言うと、女は肩を振った。

 

「あんたを引くのに、私も台を離れたんだよ。次は、誰が止めるのか決めておきたいだけ」

 

門の外で別れた。女は夜に戻る。ネラは明日の持場をまだ持っていない。

 

*

 

その晩、ネラは台所で水の壺を一本ずつ運んだ。

 

老女は重い鍋だけを火から外して、早く寝た。娘と、隣の部屋の子が、湯の入っていない椀を並べた。娘は左手へ近づかないよう、机の反対側を通った。

 

隣の部屋の子の母親が帰ってきたとき、子はまだ起きていた。

 

「寝かせてくれれば、よかったのに」

 

そう言われて、ネラは口を結んだ。自分もいつも同じことを老女に言っていた。

 

「片手だと、うまく抱けなくて」

 

女は子を抱き上げ、ネラの左手を見た。

 

「そうか」

 

翌朝、ネラは残りの賃を三つに分けた。宿へ払う分。食べる分。次に手を診てもらうまでの分。薬草や炭を買うには足りない。夜の子守りをもう少し引き受け、女たちに水と炭を持ってきてもらえないか、頼むつもりだった。誰が何を出せるかは、まだ聞いていない。

 

机にパンを置くと、娘がいつものように自分の分へ手を伸ばした。

 

ネラは半分を残さず、自分の分を食べた。

 

「今日も、寝るの?」

「食べたら少し。おまえが起きてるあいだも」

「静かにしなきゃ」

「静かにできなかったら、老女のところへ行かずに、ここへ来て」

 

娘は口を尖らせた。ネラは、昼を静かにできると約束してほしかった。それでも、そうは言わなかった。

 

箱の鳥には、もう一枚の羽が描き足されていた。三本の足で、寝台の下からはみ出している。

 

ネラは紙をその箱にしまい、娘に右の手を貸して、隣へ横になった。

 

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