灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

31 / 31
灰暦58年 ヨサ(仲人)|抜けた手の数

湿地穀倉地帯。春、村の水路と寄合小屋。

 

サナの父が水門の板を持ち上げた時、ヨサは縁談の話をやめた。

 

板の下から黒い水が出て、父の足が滑った。サナが肩を入れた。二人で引き上げると、溝に溜まった枯れ草までついてきた。父は草を落とそうとして、また腰をかがめた。

 

「そこは私がやる」

 

サナは板を押さえたまま言った。父は手を放すのを嫌がったが、ヨサが杖で草を掻くと、ようやく畦へ上がった。

 

向こうの村の家は、水のある田を持っている。親もまだ若い。ヨサはそれをサナへ伝えに来た。こちらでは母が床につき、父の腰が悪く、兄嫁は母の世話から離れられない。田には兄とサナが出ていた。

 

「田をやれる娘が欲しいんでしょう」

 

「それもある。でも、会えば気に入るかもしれん」

 

「会いに行く日は、誰がここをやるの」

 

ヨサは草を畦へ置いた。田の持ち主の歳も、家の向きも、相手の男が冬に酒を飲みすぎることも調べた。その日に誰が板を上げるかは、聞いていなかった。

 

サナは水の流れを見てから板を戻した。閉めきらず、指の幅だけ残す。

 

「あの隅、去年から水が届きにくいの。ここで止めると、午後に乾く」

 

畦の端には、サナが植え直した苗の列があった。そこだけ背が揃っていた。

 

「来年は、端まで揃えたい」

 

そう言ったあと、サナは父の方を見た。父は腰を伸ばせず、鍬を支えに立っていた。

 

ヨサは帰りに、寄合小屋の鍵を借りた。

 

棚から祭りの担ぎ棒を下ろすと、片方の握りに古い布が何枚も巻いてあった。今年は担ぎ手を六人から四人に減らす。飾りも外し、坂の上の家までは行かない。昨年の寄合で決めたことだ。ヨサは、その家の老女へ、今年も戸口で待たないよう伝えなければならなかった。

 

棒を戻す前に、四人で持てるか試そうという男が来た。ヨサも肩を入れた。前へ二歩進んだだけで、後ろの男が止まった。

 

「曲がれん」

 

荷の下をくぐって持ち替える手が足りなかった。軽くしただけでは、道へ出せない。

 

男は祭具を床へ降ろし、次は戸口の広い家の前だけ回ろうと言った。ヨサは縁談の帳面を脇へ寄せ、道を確かめる日を書いた。

 

その夕方、メイと母が来た。

 

西町の油商の家で下働きをする話は、まとまりかけていた。母は寝る部屋と食事を聞き、メイは仕事の終わる時刻を聞いた。ヨサが、日によって違う、と答えると、メイは包みから布を出した。縁に小さな縫取りがあった。

 

「これ、町から来た従姉に教わった。字も習いたい」

 

「油商なら、荷に書く字は見るだろう」

 

「見るだけじゃ、読めないままになる」

 

メイは布を裏返した。糸の結び目は細かかった。ヨサは、字を教える者がいるとは先方から聞いていない。それまで帳面の仕事へ進めるかもしれないと言っていた口を、閉じた。

 

母はメイの指から布を取った。

 

「うちでこの子が縫わなければ、私が縫う。それはいい。朝の田は、誰に頼む」

 

父は去年から脚が悪い。兄は兵糧を運ぶ仕事へ出たまま、帰っていない。叔父は手伝うと言ったが、叔父の田にも同じ朝に水が要る。

 

「叔父さんには、聞いたでしょう」

 

ヨサが言うと、母は布の縁を引いた。

 

「手伝うとは言ったよ。いつ来るかは言ってない」

 

メイが母へ手を伸ばし、布を受け取った。

 

「出る前の三日は、私が朝をやる。向こうへ行ってから、戻る約束はできない」

 

母は返事をしなかった。メイの膝に載った布を見ていた。

 

ヨサは先方へもう一度行くことにした。字を習えると約束するためではなく、夜に針を持つ時間があるのか、道具を自分で置ける場所があるのか、確かめるためだった。奉公を始めてしまえば、それを聞くだけでも難しくなる。

 

「返事が違っていたら、出るのは延ばす」

 

メイはすぐに頷かなかった。

 

「延ばして、別の人に決まってしまう?」

 

「そうなるかもしれん」

 

「それでも聞いて」

 

母が顔を上げた。メイは布を畳み、結び目を内へ入れた。

 

翌日の寄合で、ヨサは嫁入りの数から話を始めなかった。

 

小屋へ来た者の前に、水門の板を開ける時刻を書いた紙を置いた。サナの家とメイの家の田を、同じ頼みにはしなかった。サナの田は水の入りが遅い。メイの家は、先に入れた水が抜ける溝を塞がなければならない。

 

「まず、サナが三日、朝の水見をしないで済むようにしたい」

 

「三日だけなら、誰かが」

 

祭具を一緒に持った男が言った。ヨサは筆を持ったまま待った。

 

男は膝をこすった。

 

「俺は一日目。夜番の翌朝は無理だ」

 

別の男が、二日目なら自分の田を見るついでに回れると言った。三日目を引き受けたのは、隣の家の戸主だった。ただし朝に薪を運ぶ約束がある。ヨサが代わりに運ぶと言うと、その家の者は、ヨサ一人で持てる束に分けておくと答えた。

 

最初の男が紙を指した。

 

「板をどれだけ上げる。俺が見て、足りると思っても違うんだろ」

 

サナを呼ぶことになった。彼女は小屋の外で、母の布を洗っていた。水を切るまで待ってくれと言い、布を竿へ掛けてから入ってきた。

 

サナは三人を見て、口を結んだ。

 

「私が教えるの?」

 

「明日の朝、一度だけ」

 

ヨサは答えた。サナは濡れた袖を折り上げた。

 

「一度でできなかったら」

 

「その人が、もう一度聞きに行く。お前が毎朝、先に出て待つんじゃない」

 

隣の戸主が頷いた。サナはその顔を見てから、紙を引き寄せた。上流から順に、行く所を指で示した。

 

メイの家の方は、叔父に二日に一度の溝さらいを頼むことになった。毎朝の板は母が扱い、腰より下へ屈む仕事を叔父が持つ。叔父は、自分の田の草取りが遅れると言った。寄合にいた男が半日手を出すと答えたが、収穫の時期まで助ける約束はしなかった。

 

メイの母は、その場で礼を言わず、叔父へ鍬を置く場所を説明した。

 

翌朝、ヨサは水路へ行った。

 

三人が同時に来ていた。サナは水門の前で板を持たせ、下流の畦まで連れていった。戻ると、最初の男が板を上げすぎていた。彼は水が多い方がいいと思ったと言った。

 

「こっちへ入れた分、向こうが遅れる」

 

サナは男の手へ自分の手を重ねなかった。水の高さを指し、少しずつ下ろさせた。父が家の方から来たが、サナは鍬だけ受け取って帰るように言った。

 

「見てると、また触るから」

 

父は何か言いかけ、男たちを見て止めた。

 

一日目の水は、遅い隅まで届いた。

 

サナは朝のうちに母の布を洗い、昼前に父を連れて、腰を診る者の所へ出た。父は田が気になり、道の途中で二度振り返った。サナは歩く速さを落としたが、家へは戻らなかった。

 

二日目、男は隣の畦から声をかけた。水路に枝が詰まったという。サナは鍬を持って出ようとしたが、男は、外してからまた流れを見せてくれと言った。

 

サナは戸口へ鍬を立て、待った。

 

三日目の朝、ヨサは薪を運んだ。二束目の途中で息が切れた。休んでいると、隣の戸主が水路から戻ってきた。足が泥に沈み、片方の履物を手に持っていた。

 

「毎日やるとは、言えんぞ」

 

「三日目は、できたか」

 

「できた。板の脇が腐ってる。次は釘だけじゃ持たん」

 

ヨサは薪を置いてから、サナの家へ行った。サナは母の枕の下へ手を入れ、濡れた布を抜いていた。父は戸口で板に使えそうな木を削っていた。

 

「三日で足りた?」

 

ヨサが聞くと、サナは首を振った。

 

「寝る前に、まだ水の音を聞きに出た。でも、昼に出かけられた」

 

布を畳む手が止まった。

 

「次は、私が頼んでもいい?」

 

ヨサは、紙は小屋にあると言った。サナはそこまで取りに行くと言った。父は顔を上げず、木の節を小刀で削った。

 

西町からの返事は、メイの出る前に届いた。

 

針と布を置く箱は持ち込める。晩の片づけが終われば縫い物をしてよい。字を教える約束はできない。メイはそれを聞いて、縫取りの布を箱へ入れた。母は横で、家に残す針を選んだ。

 

「字はどうする」

 

「従姉の所へ行ける日を、向こうで聞く」

 

出立の朝、ヨサは家まで迎えに行った。メイは母の髪を結んでいた。いつも自分がやっていたのだと、ヨサはその時初めて知った。

 

母は頭を動かさず、メイの手を待った。結い終えると指で根元を押さえた。

 

「帰る時は、先に知らせて」

 

「うん」

 

「田の手が増えるって、あてにしないように」

 

メイは母の後ろに立ったまま、頷いた。箱は思っていたより軽かった。ヨサが持とうとすると、メイは自分で背負った。

 

水路を渡る所で、サナに会った。水見を引き受けた隣の戸主と、腐った板を外していた。サナが立ち上がると、メイは箱を指した。

 

「針、入れてきた」

 

サナは泥のついた手を見せ、触るのをやめた。

 

「今度、これで縫ったもの見せて」

 

「田も見せて」

 

サナは奥の隅を指した。水が苗の根元へゆっくり広がっていた。

 

ヨサは二人の脇を先に渡った。振り向くと、メイはまだ箱を背負って立ち、サナは板を押さえるために膝をついていた。隣の戸主が木槌を差し出した。サナは受け取り、打つ場所を彼に見せた。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
点
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。