湿地穀倉地帯。春、村の水路と寄合小屋。
サナの父が水門の板を持ち上げた時、ヨサは縁談の話をやめた。
板の下から黒い水が出て、父の足が滑った。サナが肩を入れた。二人で引き上げると、溝に溜まった枯れ草までついてきた。父は草を落とそうとして、また腰をかがめた。
「そこは私がやる」
サナは板を押さえたまま言った。父は手を放すのを嫌がったが、ヨサが杖で草を掻くと、ようやく畦へ上がった。
向こうの村の家は、水のある田を持っている。親もまだ若い。ヨサはそれをサナへ伝えに来た。こちらでは母が床につき、父の腰が悪く、兄嫁は母の世話から離れられない。田には兄とサナが出ていた。
「田をやれる娘が欲しいんでしょう」
「それもある。でも、会えば気に入るかもしれん」
「会いに行く日は、誰がここをやるの」
ヨサは草を畦へ置いた。田の持ち主の歳も、家の向きも、相手の男が冬に酒を飲みすぎることも調べた。その日に誰が板を上げるかは、聞いていなかった。
サナは水の流れを見てから板を戻した。閉めきらず、指の幅だけ残す。
「あの隅、去年から水が届きにくいの。ここで止めると、午後に乾く」
畦の端には、サナが植え直した苗の列があった。そこだけ背が揃っていた。
「来年は、端まで揃えたい」
そう言ったあと、サナは父の方を見た。父は腰を伸ばせず、鍬を支えに立っていた。
ヨサは帰りに、寄合小屋の鍵を借りた。
棚から祭りの担ぎ棒を下ろすと、片方の握りに古い布が何枚も巻いてあった。今年は担ぎ手を六人から四人に減らす。飾りも外し、坂の上の家までは行かない。昨年の寄合で決めたことだ。ヨサは、その家の老女へ、今年も戸口で待たないよう伝えなければならなかった。
棒を戻す前に、四人で持てるか試そうという男が来た。ヨサも肩を入れた。前へ二歩進んだだけで、後ろの男が止まった。
「曲がれん」
荷の下をくぐって持ち替える手が足りなかった。軽くしただけでは、道へ出せない。
男は祭具を床へ降ろし、次は戸口の広い家の前だけ回ろうと言った。ヨサは縁談の帳面を脇へ寄せ、道を確かめる日を書いた。
その夕方、メイと母が来た。
西町の油商の家で下働きをする話は、まとまりかけていた。母は寝る部屋と食事を聞き、メイは仕事の終わる時刻を聞いた。ヨサが、日によって違う、と答えると、メイは包みから布を出した。縁に小さな縫取りがあった。
「これ、町から来た従姉に教わった。字も習いたい」
「油商なら、荷に書く字は見るだろう」
「見るだけじゃ、読めないままになる」
メイは布を裏返した。糸の結び目は細かかった。ヨサは、字を教える者がいるとは先方から聞いていない。それまで帳面の仕事へ進めるかもしれないと言っていた口を、閉じた。
母はメイの指から布を取った。
「うちでこの子が縫わなければ、私が縫う。それはいい。朝の田は、誰に頼む」
父は去年から脚が悪い。兄は兵糧を運ぶ仕事へ出たまま、帰っていない。叔父は手伝うと言ったが、叔父の田にも同じ朝に水が要る。
「叔父さんには、聞いたでしょう」
ヨサが言うと、母は布の縁を引いた。
「手伝うとは言ったよ。いつ来るかは言ってない」
メイが母へ手を伸ばし、布を受け取った。
「出る前の三日は、私が朝をやる。向こうへ行ってから、戻る約束はできない」
母は返事をしなかった。メイの膝に載った布を見ていた。
ヨサは先方へもう一度行くことにした。字を習えると約束するためではなく、夜に針を持つ時間があるのか、道具を自分で置ける場所があるのか、確かめるためだった。奉公を始めてしまえば、それを聞くだけでも難しくなる。
「返事が違っていたら、出るのは延ばす」
メイはすぐに頷かなかった。
「延ばして、別の人に決まってしまう?」
「そうなるかもしれん」
「それでも聞いて」
母が顔を上げた。メイは布を畳み、結び目を内へ入れた。
翌日の寄合で、ヨサは嫁入りの数から話を始めなかった。
小屋へ来た者の前に、水門の板を開ける時刻を書いた紙を置いた。サナの家とメイの家の田を、同じ頼みにはしなかった。サナの田は水の入りが遅い。メイの家は、先に入れた水が抜ける溝を塞がなければならない。
「まず、サナが三日、朝の水見をしないで済むようにしたい」
「三日だけなら、誰かが」
祭具を一緒に持った男が言った。ヨサは筆を持ったまま待った。
男は膝をこすった。
「俺は一日目。夜番の翌朝は無理だ」
別の男が、二日目なら自分の田を見るついでに回れると言った。三日目を引き受けたのは、隣の家の戸主だった。ただし朝に薪を運ぶ約束がある。ヨサが代わりに運ぶと言うと、その家の者は、ヨサ一人で持てる束に分けておくと答えた。
最初の男が紙を指した。
「板をどれだけ上げる。俺が見て、足りると思っても違うんだろ」
サナを呼ぶことになった。彼女は小屋の外で、母の布を洗っていた。水を切るまで待ってくれと言い、布を竿へ掛けてから入ってきた。
サナは三人を見て、口を結んだ。
「私が教えるの?」
「明日の朝、一度だけ」
ヨサは答えた。サナは濡れた袖を折り上げた。
「一度でできなかったら」
「その人が、もう一度聞きに行く。お前が毎朝、先に出て待つんじゃない」
隣の戸主が頷いた。サナはその顔を見てから、紙を引き寄せた。上流から順に、行く所を指で示した。
メイの家の方は、叔父に二日に一度の溝さらいを頼むことになった。毎朝の板は母が扱い、腰より下へ屈む仕事を叔父が持つ。叔父は、自分の田の草取りが遅れると言った。寄合にいた男が半日手を出すと答えたが、収穫の時期まで助ける約束はしなかった。
メイの母は、その場で礼を言わず、叔父へ鍬を置く場所を説明した。
翌朝、ヨサは水路へ行った。
三人が同時に来ていた。サナは水門の前で板を持たせ、下流の畦まで連れていった。戻ると、最初の男が板を上げすぎていた。彼は水が多い方がいいと思ったと言った。
「こっちへ入れた分、向こうが遅れる」
サナは男の手へ自分の手を重ねなかった。水の高さを指し、少しずつ下ろさせた。父が家の方から来たが、サナは鍬だけ受け取って帰るように言った。
「見てると、また触るから」
父は何か言いかけ、男たちを見て止めた。
一日目の水は、遅い隅まで届いた。
サナは朝のうちに母の布を洗い、昼前に父を連れて、腰を診る者の所へ出た。父は田が気になり、道の途中で二度振り返った。サナは歩く速さを落としたが、家へは戻らなかった。
二日目、男は隣の畦から声をかけた。水路に枝が詰まったという。サナは鍬を持って出ようとしたが、男は、外してからまた流れを見せてくれと言った。
サナは戸口へ鍬を立て、待った。
三日目の朝、ヨサは薪を運んだ。二束目の途中で息が切れた。休んでいると、隣の戸主が水路から戻ってきた。足が泥に沈み、片方の履物を手に持っていた。
「毎日やるとは、言えんぞ」
「三日目は、できたか」
「できた。板の脇が腐ってる。次は釘だけじゃ持たん」
ヨサは薪を置いてから、サナの家へ行った。サナは母の枕の下へ手を入れ、濡れた布を抜いていた。父は戸口で板に使えそうな木を削っていた。
「三日で足りた?」
ヨサが聞くと、サナは首を振った。
「寝る前に、まだ水の音を聞きに出た。でも、昼に出かけられた」
布を畳む手が止まった。
「次は、私が頼んでもいい?」
ヨサは、紙は小屋にあると言った。サナはそこまで取りに行くと言った。父は顔を上げず、木の節を小刀で削った。
西町からの返事は、メイの出る前に届いた。
針と布を置く箱は持ち込める。晩の片づけが終われば縫い物をしてよい。字を教える約束はできない。メイはそれを聞いて、縫取りの布を箱へ入れた。母は横で、家に残す針を選んだ。
「字はどうする」
「従姉の所へ行ける日を、向こうで聞く」
出立の朝、ヨサは家まで迎えに行った。メイは母の髪を結んでいた。いつも自分がやっていたのだと、ヨサはその時初めて知った。
母は頭を動かさず、メイの手を待った。結い終えると指で根元を押さえた。
「帰る時は、先に知らせて」
「うん」
「田の手が増えるって、あてにしないように」
メイは母の後ろに立ったまま、頷いた。箱は思っていたより軽かった。ヨサが持とうとすると、メイは自分で背負った。
水路を渡る所で、サナに会った。水見を引き受けた隣の戸主と、腐った板を外していた。サナが立ち上がると、メイは箱を指した。
「針、入れてきた」
サナは泥のついた手を見せ、触るのをやめた。
「今度、これで縫ったもの見せて」
「田も見せて」
サナは奥の隅を指した。水が苗の根元へゆっくり広がっていた。
ヨサは二人の脇を先に渡った。振り向くと、メイはまだ箱を背負って立ち、サナは板を押さえるために膝をついていた。隣の戸主が木槌を差し出した。サナは受け取り、打つ場所を彼に見せた。