灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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第四部 灰暦61〜75年
灰暦61年 ナーヤ|沈んだ勘定


クシャ採掘帯。北の共同炊事場と、第三斜坑の帳場。

 

ガルンが椀を持って来た時、ナーヤは鍋の底をさらっていた。

 

「遅いよ」

 

「上の小屋へ運んでた」

 

男は戸口で手を振った。指に食い込んだ縄の跡があった。ナーヤは椀へ豆を入れ、煮汁を足した。ガルンは椀を受け取る前に、指へ息を吹きかけた。

 

炊事場の借りを減らすため、晩の片づけにも来ることになっていた。今日は疲れたから明日にする、と彼は言った。ナーヤが顔を上げると、笑って、鍋だけは持つと付け足した。

 

「持つ時は二人で。底を擦らせないで」

 

ガルンは戸口へ戻り、外にいた運び手を呼んだ。鍋を洗い場へ動かすと、床には丸い濡れ跡が残った。ナーヤはその上を拭いた。運び手が帰ったあと、ガルンは水を汲んだが、汚れた椀の方には手を出さなかった。

 

「明日は、そっちも」

 

彼は頷き、棚へ椀を戻した。

 

翌朝、山の方で低い音がした。

 

ナーヤが表へ出ると、斜坑の口の上に土煙が立っていた。煙は風へ広がらず、坂を這うように落ちてきた。走って来る者の顔を見て、鍋にもう一度水を足した。

 

人が来る。食べる者も、椀を握るだけの者もいた。ナーヤは順に渡した。炊事場から坑口へ持って行くという男には、蓋のある桶へ入れた。

 

昼の食い扶持の帳面には、三十七人分の印がついた。

 

日が暮れて、第三斜坑の登録者は十三人と聞いた。確認した死者が六人、坑内が塞がって確認できない者が七人。倒れた小屋は四つだった。

 

炊事場にいた女が、ナーヤの帳面へ指を置いた。

 

「こっちは三十七」

 

ナーヤは印の脇に書いた小屋の名を示した。横の小屋の者も、夜勤を終えた者も食べに来ていた。坑へ食事を運んだ桶には、椀を持たずに待つ家族の分も入れた。第三斜坑にいた者が皆、ここで食べたわけではない。

 

「これで、埋まった人数は出せない」

 

女は指を引いた。ナーヤも紙を閉じた。次の朝、どれだけ豆を煮るかは、別に決めなければならなかった。

 

ガルンは来なかった。

 

いつも寝ていた小屋は倒れていた。ナーヤは、拾った物を置く所と、怪我人を寝かせた所へ行った。彼の椀は炊事場にあり、彼の名を書いた札は見つからなかった。

 

帳場でガルンと言うと、係は首を振った。

 

「何の名で入っていた」

 

「私が呼んでたのは、ガルン」

 

「登録は見習いか」

 

ナーヤは答えられなかった。見習いだと言われていたが、奥の仕事を半日任されることもあった。小屋へ運ぶ荷を見たことはある。第三斜坑の中までついて行ったことはない。

 

係は紙をめくり、付随作業者一、という所で止まった。

 

「これかもしれん。誰が仕事を渡していたか、確かめてくれ」

 

ナーヤは紙に書かれた一を見た。顔を思い出すための字ではなかった。

 

帰って棚の下の箱を開けた。

 

炊事場を預かった時、前の係から、呼び名を確かめるための古い写しも渡された。擦れて読みにくい所があり、ナーヤは鍋番を替わってもらった晩に、読める行を別の紙へ写した。その時、元の控えを頼んだのはサマだと教えられ、端にその名も添えた。

 

宿帳名ネルク、いつもヨナと呼ばれる者。

 

二つは同じ行にあった。膝を伸ばして座る、と続き、荷を家の者へ渡したことが書かれていた。戻った日を書く所には、写した時のまま空きがあった。そのあと何が分かったのかは、この写しでは読めなかった。

 

ナーヤは新しい紙を横へ置いた。

 

ガルン。いつも小ガルとも呼ばれる。小屋へ荷を運ぶ。前の晩、二人で鍋を動かした。

 

付随作業者一、と続けようとして、筆を止めた。帳場係は、そうかもしれないと言っただけだった。ナーヤは下を空け、帳場で示された記載、まだ本人との照合が済んでいない、と別に書いた。

 

その紙を持って、鍋を一緒に動かした運び手を捜した。

 

男は南の小屋へ移っていた。荷を片づけている最中で、ナーヤが来た理由を聞くと、手を止めた。

 

「あいつなら、小屋の荷を運んだ。俺は見た」

 

「どの日」

 

男は思い出そうとして、指を折った。崩れる前の晩だけではなかった。荷を数えた者の居場所も教えてくれた。

 

「奥にいたかは、知らんぞ」

 

「それは、知らないと書く」

 

ナーヤは紙を見せた。男はガルンの行を指し、荷を運んだ所を読ませた。鍋のことまで帳場で話すのかと聞いた。

 

「誰の話をしてるか、確かめるために」

 

男は頷いた。翌日の炊事のあとに来ると約束した。ナーヤは、食べて行ってくれと言った。

 

荷を数えた者にも来てもらった。炊事場で二人へ椀を渡し、ガルンがどの荷を扱ったか、言い違いがあればその場で確かめた。片方は朝と覚え、もう片方は夕方だと言った。二人は小屋の戸がまだ開いていたかどうかを話し、別の日の荷を思い出していたと気づいた。

 

ナーヤは一日にまとめなかった。

 

乾豆を二人へ渡すと、荷を数えた者が包みを戻した。

 

「これを持って行けば、口添えの代金だと言われる」

 

「泊まる所にも、鍋は要るでしょう」

 

男は受け取らなかった。運び手も包みを置いた。ナーヤは豆を桶へ戻した。欲しかった言葉だけを残したのではないかと、紙をもう一度読み直した。

 

帳場へ行った時、係はまず、サマの名を添えた古い写しを脇へ寄せた。

 

「この人の支払いには使えん」

 

ナーヤはその紙を引き取った。人を捜す時の書き方は借りられても、ガルンがいつ、どこで働いたかは、こちらで確かめるしかなかった。

 

運び手が荷の行を説明した。荷を数えた者は、自分が付随作業者一として書かせたのは、皆が小ガルと呼んでいた男だと答えた。

 

係がナーヤの紙へ指を置いた。

 

「二人いるのか」

 

「一人です」

 

荷を数えた者が答えた。ガルンという呼び名も知っていた。係は紙の端に続けて書いた。ナーヤは、その字が隣の行へ落ちないのを見届けた。

 

「これで、死んだと認める話まではできん。坑内にいた時刻が確かめられてない」

 

「働いた分は」

 

係は、補償の申立てへ添えた仕事の記載を、もう一度開いた。そこには荷だけでなく、聞き伝えた坑内の作業もあった。

 

「確かめられた分を、出す。それより先は今は決められん」

 

ナーヤは、消された仕事の行を見た。ガルンが奥で働いたのは嘘だったとは思わない。だが、ここに立つ三人の誰も見ていなかった。

 

「元の申立ても、残して」

 

係は束の下へ入れた。ナーヤは日を添えて写しを取り、炊事場の箱へ戻した。

 

冬の前、第三斜坑へ向かう道に囲いができた。

 

坑木に縄を渡しただけだった。ガルンを捜して来る者は、どこで尋ねればいいか分からず、倒れた小屋の前で引き返すことがあった。ナーヤは一枚の札へ、ガルン、小ガル、帳場では第三斜坑の付随作業者一と照合、と続けて書いた。その下に、帰りは未確認、尋ねる先は北の炊事場、と添えた。

 

縄へ結ぶと風に裏返った。木の端へ寄せ、もう一本紐を通した。

 

ほかの名を書いてほしいという人が来た。ナーヤは、どう呼んでいたかだけでなく、最後に何を見たか聞いた。分からない所は空いた。

 

ガルンの札は、雨のあとに読みにくくなった。ナーヤは箱の写しと並べ、まだ増やせることがないのを確かめてから、同じ字を書き直した。

 

その後の春 ナーヤ

 

北の共同炊事場。

 

支払いが出たのは、春になってからだった。

 

補償の申立てで求めた額より少なかった。帳場で照合できた荷の仕事だけが算入され、坑内の仕事と未帰還について求めた分は、決まらないまま残った。紙に死亡を認定したとは書かれていなかった。

 

受け取りには、ナーヤが行った。ガルン本人の所在が分からず、預かる者として名を記すことになった。係は、自分の支払いと混ぜるなと言った。

 

「炊事場へ返してもらう飯代と、この人に残す銭は、別に書きます」

 

ナーヤはガルンの名のある写しを広げた。

 

銭を包む前に数えた。減らした理由を聞き、写しへ添えた。受け取ったものの少なさを、ガルンが働かなかった証拠にはしたくなかった。

 

炊事場では、薪が足りなくなっていた。灰油も高く、前の量を買えない。ガルンが溜めた飯の借りが払われれば、乾豆を買い戻せる。その分は帳面に残っていたが、鍋を動かした晩の手伝いを、まだ引いていなかった。

 

ナーヤは銭を置き、借りの帳面を開いた。

 

荷運びから戻って水を汲んだ日。洗い場へ鍋を動かした晩。毎回、全部片づけたことにはしなかった。椀の山を残した日もある。ナーヤはそこを見て、鼻から息を出した。

 

「明日は、そっちもって言ったのに」

 

手伝いの女が顔を上げた。ナーヤは首を振り、筆を進めた。

 

働いた分を借りから引いた。残った飯代を炊事場へ戻し、銭の残りは別の布へ包んだ。受取額と差し引いたもの、まだ預かる額を、一枚に書いた。戻った時にガルンへ見せられるよう、箱の紙と一緒にした。

 

女が帳面を寄せた。

 

「この包みを、私も知っておいた方がいいね」

 

ナーヤは置く場所を見せた。女は棚を空け、湿らないよう下へ木の板を敷いた。

 

戻した飯代で買える豆は少なかった。ナーヤは昼と夜に鍋を分けて焚くのをやめ、昼のうちに夜の分まで煮ることにした。冷めたものを食べる者には、自分で温め直す火を分けてもらう。全員が喜ぶやり方ではなかったが、薪を買い足すまで、鍋を空にせずに済んだ。

 

最初の晩、遅く来た男は冷えた椀を見て、文句を言った。ナーヤは隣の小屋の火がまだ起きていると教えた。男は椀を持って出て行き、食べ終えると、向こうで二人分も温めてきたと言って戻った。

 

手伝いの女が鍋の取っ手を持った。ナーヤも反対側へ手を掛けた。洗い場へ動かすと、床に丸い濡れ跡が残った。

 

拭き終えてから、ナーヤは箱を開けた。ガルンの行に、春、働いた荷の分を受領、と書き足した。戻った日を入れる所は使わなかった。

 

戸口から、椀を借りたいという声がした。

 

棚にガルンの使っていた椀があった。ナーヤはそれを取り、ひびがないか確かめた。男へ渡す前に、どこの小屋へ持って行くのか聞いた。

 

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