灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦65年 サド婆|壺の持ち主

西部陶工村。市へ出す品を揃える工房。

 

底を見るために壺を持ち上げると、手首が先に負けた。

 

サドは壺を台へ戻した。若い陶工のソヨが、向こうから手を伸ばした。

 

「返しておく?」

 

「布を敷いて。口を欠く」

 

ソヨは古い前掛けを畳み、その上へ壺を伏せた。サドは座り直した。これなら持たずに底へ手が届く。口縁が濡れているので、長く置いてはいけない。

 

今日は市の前日だった。庭では焼けた椀を藁へ包み、戸口では荷の縄を切っていた。まだ湿ったこの壺は次の窯へ入れる品だが、買い手は今日、字を決めたいと言っていた。

 

「サド婆の、怒った字を」

 

買い手は土間へ入るなり、そう言った。

 

町で古い刻文のある器を売る男だった。壺の口の細さを一度見たが、撫ではしなかった。サドが底へ近づけた骨べらの方を見ている。

 

「何に怒ってるの」

 

「昔の。紙を燃やした時のことだよ」

 

男は懐から銭を出し、まだ台へ置かずに掌で鳴らした。

 

「教本を守った手で、役人には渡さぬ、と。あんたが入れれば値が違う」

 

ソヨがサドを見た。その話は知っている。工房へ来る者からも聞くのだろう。サドはべらを下ろした。

 

「燃やす紙を指したのも、私だ」

 

「だから、怒った字でいい」

 

男は底へ指を置いた。

 

「この辺から。長すぎると、棚で読みにくい」

 

棚へ底を向けて並べるつもりなのだ。サドは男の指をどかさず、台の端へ手を戻した。爪の間に土が入っていた。取ろうとしても、指先がうまく寄らない。

 

「その文は、誰が言ったの」

 

「私が考えた。気に入らなければ変えてくれ」

 

サドは頷いた。男は銭を台へ置いた。

 

「私が考えた、と入れるなら」

 

「あんたの字で売るんだよ」

 

「なら、私が燃やした、とも入れる」

 

男は銭を拾った。

 

「それじゃ教本を燃やしたように読める」

 

サドは返事をしなかった。あの夜、火へ入れたものを全部見分けられたわけではない。守った本だけを思い出す時にも、それは残る。

 

ソヨが壺の下の布を引き直した。口縁に重みがかかりすぎていた。男はその動きを見て、次の市まで待つと言った。

 

「まだ字がないんだから、壺はほかへ売らないで」

 

「買っていないよ」

 

サドが言うと、男は口を結んだ。庭の荷を避け、工房から出ていった。

 

ソヨは戸口の方へ動きかけて止まった。

 

「返さなくてもよかった銭なのに」

 

「受け取ってない」

 

「次の窯代には、入れてた」

 

サドは彼女を見た。

 

ソヨが作った椀と小壺も同じ窯へ入る。大きい品の注文が一つ通れば、それに載せて焼けると思っていたのだ。窯を焚く者へ、今日は品数を伝える約束だった。

 

「ほかへ入れられるか、聞いてくる」

 

ソヨは前掛けを外した。サドが立とうとすると、壺を指した。

 

「それ、戻してから。口が潰れる」

 

二人で壺を起こした。ソヨは荷を包む男に呼ばれ、先に庭へ出た。サドは台へ掌をついて立った。

 

*

 

窯へ入れられるのは、小壺だけになった。

 

椀は数が揃うまで待つ。大壺は、今日の買い手が引き取らなければ、次に焚く時も場所を取る。窯の係は品の底を叩き、どの棚へ置くかだけを答えた。

 

工房へ戻ると、ソヨは椀を並べ直した。形の違うものを分け、口が少し開きすぎた一つを最後に置いた。

 

「それ、捨てる?」

 

サドが聞いた。

 

「自分で使うなら、困らない」

 

「売るには」

 

「値を下げる」

 

ソヨは椀の底を見た。

 

「字があれば、同じ値で売れるかな」

 

サドは首を傾けた。さっきの男が買うのは、ソヨの椀ではなく、自分の昔だった。

 

ソヨがべらを取った。

 

「婆さまの名、借りてもいい?」

 

「これは、あんたが作った」

 

「だから聞いた」

 

サドは手を出しかけ、止めた。

 

「何と入れたいの」

 

「ソヨ。売れ残ったら、次も私へ来るように」

 

名の形は知っているが、べらで入れると細い線が崩れると言った。サドは台へ土を寄せ、先に書いてみせた。ソヨはその横で真似し、最後の線を深く押しすぎた。

 

「浅く」

 

サドが言うと、ソヨは自分の指で潰した。

 

昔、この工房とは別の台で、帰るという字を賃の返せへ変えかけた娘がいた。サドはその時にも、何を言いたいか聞いた。

 

二度目は線が残った。ソヨは椀を持ち、底へ自分の名を入れた。

 

サドが見ると、最後の字だけ少し斜めだった。

 

「これで読める?」

 

「読める」

 

「じゃ、このまま」

 

サドはべらを受け取らなかった。ソヨは椀を棚へ戻した。口の開いた形も、斜めの字も、そのままだった。

 

*

 

翌朝の市で、サドはまだ焼いていない見本の椀を膝へ載せた。

 

ソヨが奥の棚から小壺を取るあいだ、代わりに品を見ている。向かいの露店から、干した根の束が風で揺れた。買い物籠を持つ女が足を止め、膝の椀へ手を伸ばした。

 

「婆さまが作った?」

 

「ソヨ。今、壺を取りに行ってる」

 

女は口を指で確かめた。

 

「広いね。子が匙を入れるにはいい」

 

サドが焼き上がりの値を言うと、女は、いつ持って帰れるかと聞いた。ソヨの戻る方を見る。ちょうど、両腕に小壺を抱えて人の間を抜けてきた。

 

「まだ窯へ入れる順がついていない。頼むなら、その子へ」

 

サドは椀を差し出した。底の名をこちらへ向けるためには返す必要があったが、女は中へ指を入れて、深さを測っていた。

 

ソヨは小壺を布へ置き、客へ顔を向けた。

 

「これは見本です。次は、これより口を狭くするつもりで」

 

「これと同じのがほしいんだよ」

 

ソヨは膝の椀を見た。

 

「作れます。ただ、窯を焚く日は、まだ決められません」

 

「一つだけなら急がない。次の市で、どうなったか聞くよ」

 

女は手付けの銭を差し出した。ソヨは受け取ってから、もう一度、同じ口でよいか確かめた。サドは先に頷いてしまわないよう、手を前掛けの上へ置いた。女へ渡しかけた見本は、膝に戻した。

 

女が去ると、ソヨは受け取った銭を数えた。

 

次の窯を頼むには足りない。けれど、口を直さず作る注文が一つあった。ソヨは土をどれだけ分けておくか、声に出して考えた。

 

サドは持って来た包みを開いた。中に、焦げた教本があった。

 

子どもが一人、露店の前へ来て、黒い角を見た。

 

「それも売るの」

 

「売らない」

 

サドは残った頁を開いた。種の絵と、下が欠けた行がある。子は絵を指し、次の字を読んでと言った。

 

「ここは、残ってない」

 

「婆さまでも?」

 

「残ってる方なら」

 

サドは指を移した。子はその指を見て、種、と言った。

 

ソヨが隣で椀の注文をもう一度数えていた。サドは教本を膝へ寄せ、子の指が絵を隠さない位置へ置き直した。

 

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