五港同盟圏・イルハ。
第三桟橋へ入る前に、ラダは荷を一つ動かした。
麻袋が濡れ、船が右へ傾いていた。沖待ちの大船から受け取ったときには軽かった袋だ。舟底を踏んで中央へ寄せると、船の傾きが戻った。推し板を水に入れ、杭の陰を抜ける。桟橋に立つ荷役の男が綱を受けようとしたが、ラダは手を振った。
「まだ。そこで引くと横を擦る」
船腹の継ぎ板が杭を過ぎてから、綱を投げた。朝のイルハでは、荷車が石畳を走り、人が船と倉庫を往復する。大船から届く荷の下を、小船は空になるまで何度も行き来した。
ラダの船には、今朝も荷があった。それでも昨日、馴染みの荷主から、次の仕事には保険の証券番号を持ってきてくれと言われた。
民間倉庫保険組合ができたのは、この年だった。倉庫が焼けたあと、荷の代金が払われず、売り手も運び手も待たされたことがある。ラダも加入の申込を出した。掛金のために残した金には、まだ手をつけていない。
「ラダ船主」
荷縄を解いていると、若い記録吏が桟橋へ来た。組合のセイラだった。持っている紙を見て、ラダは腰布で掌を拭いた。
「今度は入れるのか」
セイラはすぐには返事をしなかった。
「足りないものの通知です。読みますか」
「頼む」
保証人が記されていない。過去3年の火気事故の照会が終わっていない。本人の署名を、前の荷役台帳と確かめる必要がある。十日以内に揃わなければ、今回の優先加入枠から外れる。
ラダは、荷を岸へ上げる男たちの手を見ていた。袋を落とせば中身が濡れる。話を聞くあいだにも、船は潮で桟橋から離れようとする。
「事故って、西庫の火か」
「そこへ直前に油布を運んだ船として、照会に入っています」
「運んだ。だが火を出したんじゃない」
「その返答が、まだ来ていません」
「おれの返答じゃ駄目なんだな」
セイラはうなずいた。紙の端を綱に当てないよう持ち上げている。
ラダは最後の袋を上げ、荷の空いたところへしゃがんだ。紙を受け取ると、そこだけ濡らさないよう膝に置いた。
「保証人は、誰ならいい」
「倉庫持ちか、登録の荷主か、もう加入した船主です」
隣へ着けた船の船頭が、こちらを見た。ラダが頼もうとしていた一人だった。目が合うと、男は船縁に腰を下ろした。
「俺はようやく自分のが下りたところだ」
「まだ頼んでない」
「頼む顔だよ」
男は懐から折った紙を出した。新しい証券だった。
「おまえの操り方なら知ってる。だから書けると思った。だが保証の欄に、何を引き受けるかまである。俺の船を直す金も残さなきゃならん」
男は証券をしまい、綱を取り直した。ラダは、自分も掛金を取り分けていることを思い出した。その金を別の船のために出せと言われたら、先に額を聞く。
岸で倉庫番が、名前を呼んだ。
「ラダ。北庫の裏、煙が出てる」
ラダは紙をセイラに返し、綱を隣の船頭へ渡した。
「見ててくれ」
桟橋を上がり、倉庫と荷車の間を走った。北庫の板壁に沿って曲がると、積んだ藁の下から煙が這っていた。桶を持つ男が立ちすくんでいる。煙の出る奥へ水をかけようとしていた。
「上からじゃ届かん。こっちを崩すぞ」
ラダは藁束の端を引いた。奥で赤いものが見え、風を受けて明るくなった。壁の根元には、麻袋が重ねてある。
「麻をどけて。火の方へ引くな」
倉庫番と荷役の男が袋を運んだ。ラダは濡らした布を、赤くなった藁へ押し当てた。顔を近づけると煙が目に入る。いったん離れ、別の束を引いて、下に残るものを確かめた。
背中で水がこぼれた。隣の船頭が桶を持ってきていた。
「船は」
「向こうの者に頼んだ。綱は短くした」
「おまえも来たら、頼んだ意味がないだろ」
「桶を置いたら戻る」
男は笑ったが、ラダは笑えなかった。濡れた布から湯気が上がる。もう一度水を含ませ、壁際に残った藁を押さえた。倉庫番が板戸を開け、内側にも煙がないか見て回った。
赤いところがなくなってから、ラダは腰を伸ばした。北庫の前には荷役の者と荷主が集まり、通りかけた荷車も止まっていた。誰かが濡れた藁を広げている。組合から来た男たちは、積荷の場所を尋ね始めた。
ミン家の印のある帳面を持った男が、倉庫番を呼んだ。
「加入している区画はどこだ」
倉庫番は棚の場所を答えた。証券番号も聞かれ、小屋へ取りに走った。
ラダはまだ息を整えながら、男のそばへ行った。
「壁の際も見てくれ。麻を動かしたところだ」
「担当が確かめる。消火に加わったのはあなたか」
「そうだ」
「船主名は」
「ラダ」
男は名を書いた。それから、加入者かと聞いた。
「申込は出してる。西庫へ油布を運んだことを、まだ聞かれてる」
「照会への返答を待つことになる」
「今日ここで何をしたかは見ただろう」
「今日の記録と、そちらの確認は別だ」
男は帳面を閉じず、次の荷主を呼んだ。ラダは退いた。焼け残った藁を足で崩す。濡れた中に、まだ温かい塊があった。倉庫番へ桶を頼み、もう一度水をかけた。
セイラは通りの端に立ち、ラダの督促文を持っていた。
「煤がつきます」
ラダが手を伸ばすと、彼女は言った。
「もうついてる」
紙の折り目には、朝、ラダの指についた油の跡が残っていた。彼は紙を懐へ入れ、船へ戻った。
荷主との約束には遅れた。火の話をすると、荷主はうなずき、今日の荷は別の船に積んだと言った。倉庫を守ったぶんの賃は、船には載っていなかった。
ラダはそのあと、もう一人の船主を訪ねた。男は保証の文を読めず、自分がどこまで引き受けるか分からない紙へ印は押せないと言った。読んでくれる者を連れてくると申し出ても、男は、今日はやめてくれと首を振った。
西庫の倉庫番にも会った。油布を運んだあと船を出したことは覚えているが、火がいつ入ったかまでは言えないという。
「おれが出したとは、言わなかったな」
「言ってない。船と荷を聞かれたから答えただけだ」
ラダは自分の船へ帰り、残してあった金を数えた。今日は使わずにおいた。それを握ったまま、桟橋にしゃがんでいた。
通知の期限までに、保証人は決まらなかった。
セイラがもう一度来たとき、ラダは船底の水をかい出していた。彼女は、申請が次期審査へ繰り越されたと読んだ。次の審査で適用される掛金は、今回と同じにはならないという。
「今朝も荷を断られた」
ラダは柄杓を置いた。
「証券番号を聞かれた。まだだと言ったら、下りてから来てくれってさ」
隣の船には、昨日までラダが運んでいた荷が載っていた。船頭はラダを見ると、綱の方を向いた。ラダは手を上げなかった。
「今持ってる金でも、足りなくなるのか」
「新しい掛率は、まだ決まっていません」
「なら、いくら残せばいいかも分からん」
セイラは紙を畳まなかった。聞かれたことへ答えを探すとき、いつも紙を見直す。
「保証人のことは、主任にも話しました」
「どうだった」
「今ある掛金で支払える範囲を決めている、と。広げれば、入った人の掛金も変えることになるそうです」
ラダは隣の船を見た。船頭は小さな荷を引き受け、自分の証券を、荷主へ見せていた。
「あいつが入れたのはよかったんだろうな」
「はい」
「おれの船は、前と変わらんのに」
セイラは黙った。ラダは船底へ柄杓を戻した。新しく水が溜まっていた。紙を読んでもらうあいだに潮は上がり、今なら北へ入る細い水路を通れる。
月末、ラダは北の細い流れへ船を移すことにした。そこでなら、証券のない船へ渡す仕事がまだあると聞いた。荷の扱いは雑で、倉庫の火除け桶も揃っていない。安い仕事を急いで運ぶ場所だった。
染料を売る老婆が、桟橋へ来た。以前は小口の荷を、ラダの船にまとめていた。東外れの倉庫で火事があり、置いていた荷が焼けたばかりだった。倉庫は加入していたが、老婆の荷は保険に入っておらず、支払いの対象にならなかった。
今は、籠が一つだけだった。
「これも運べるかい」
「北へ行く」
「あっちへ売りに行く者に渡す。預ける場所は、向こうで探すよ」
ラダは籠を受け取り、船の中央へ置いた。老婆が覆いをめくって中を見せる。今度は量も少なく、下へ敷いた布の方が目についた。
「濡らさないでおくれ」
「そうする」
船頭が離れた桟橋から声をかけた。
「北の曲がりは、内側を詰めるな。先の雨で何か流れ込んでる」
「見たのか」
「荷役の者が言ってた」
「分かった」
セイラも岸に来ていた。紙は持っていなかった。
「記録は、どう書いた」
ラダが聞くと、彼女は答えた。
「保証人未記載、事故歴照会未了。次期審査繰越です」
「おれがやめた、じゃないな」
「はい」
それを聞いても、積める荷は増えなかった。ラダは老婆の籠を縄で押さえ、残した掛金を、直し物の道具と一緒にしまった。
「北へも来るのか」
「届ける書類があれば」
「倉庫を聞くより、まず船を探せ。おれは動いてる」
セイラはうなずいた。
ラダは綱を解いた。推し板で岸を離し、船首を流れへ向ける。誰かが呼んだが、いったん船を回し終えるまで顔を上げなかった。
水路の口で、浮いた枝が船縁を叩いた。内側には寄らず、少し大きく回る。荷を載せた船首が遅れてついてくる。籠がずれないことを確かめ、ラダは板を持つ手を入れ替えた。
次の一押しで、桟橋は背中に隠れた。