灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

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灰暦3年 隣の船頭|隣の船

五港同盟圏・イルハ。

 

 船底へ押し込んだ麻が、朝には少し浮いていた。

 

 俺は指で押し戻し、水をかい出した。次に船を上げるとき、この板は替える。前にもそう思ったが、仕事が来れば後へ回した。金が足りないときも、同じことをした。

 

 今は、板を買う金ができかけていた。

 

 灰暦3年、イルハに民間倉庫保険組合ができ、俺の申込は通った。証券を見せると、今まで声を掛けてこなかった荷主が船を見に来る。俺は船の内側を拭いてから見せた。

 

「これが全部入るか」

 

 倉庫の前には、布を詰めた袋が並んでいた。荷主は沖待ち船へ、今日の出帆に間に合わせたいと言った。袋の一つを持ち上げる。見た目より軽い。船に積み、綱で押さえれば運べる。

 

「入る」

 

 そう答えると、荷主は朝のうちに積ませると言った。往復を増やすより、一度で運ぶ方がこちらにもよかった。戻って修繕の木を受け取る時間ができる。

 

 荷役の男を一人、船へ付けてもらった。俺一人で袋を受け渡していたら、沖待ち船の側で遅れる。男は船を見て、濡れますかと聞いた。

 

「雨が来なきゃな」

 

「空はもう黒いです」

 

「じゃあ、上の覆いを先に広げてくれ」

 

 ラダが北へ船を移してから、第三桟橋の端が空いていた。前ならあいつにも荷を回して、俺は半分だけ積んだかもしれない。今は荷主が、証券のある船へまとめたいと言う。

 

 俺はラダの保証を断った。船を操る腕は知っていたが、保証の欄へ書けば、言葉だけでは済まない。あいつが北庫の小火へ走ったときは、水桶を運んだ。それで何かを埋め合わせたつもりはない。桶を置いて戻ったら、俺の船もあいつの船も、綱を見てくれる者が要った。

 

 岸を離れる前に、船底へもう一度手を入れた。詰めた麻はまだ収まっている。上から袋が隠し、もう触れなくなった。

 

 荷役の男が最後の袋を受け取り、覆いの下へ押し込んだ。

 

「まだ入りますね」

 

「入るところへ、全部入れるなよ」

 

 俺が言うと、男は笑った。さっき荷主へ答えたことを思い出し、俺も笑うほかなかった。

 

 沖へ出るにつれて、倉庫の屋根が低くなった。大船の帆が、その向こうから見えてくる。横を通る小船には、木箱が低く並んでいた。こちらの袋は頭より高い。風を受ける面が広く、向きを変えると、いつもより後まで押された。

 

「向こう側へ寄ってくれ」

 

 男が動くと、船が逆へ傾いた。

 

「そんなに端まで行かなくていい。袋へ腰をつけて」

 

 男は座り直した。俺は帆を小さくし、荷の横から大船を見た。舷側へ付けば、向こうの綱で袋を上げてもらえる。そこまで行けば、あとは軽くなる。

 

 雨が来た。

 

 覆いの上で水が弾み、端からまとまって落ちた。男が引き上げようとしたが、手の届かない所に窪みができている。船が揺れるたび、そこに溜まった水が左右へ動いた。

 

「手を入れて、下から上げてくれ」

 

 男は袋と袋の間に腕を差し入れた。水が一度に流れ、俺の首から襟へ入った。

 

「すみません」

 

「布へ行くよりましだ」

 

 その声が、半分風に消えた。俺は櫂を取った。船首を大船の方へ保っても、船腹が横へ流される。近づくほど、舷側から下りた綱が大きく振れていた。

 

 向こうの甲板から、人が手を振った。こちらの覆いを指し、何か言っている。俺は男へ、まだ立つなと言った。綱を取ろうとして同じ側へ動けば、袋ごと寄る。

 

 櫂を返したとき、足に水が触れた。

 

 雨か、船底か。袋の下へ手を伸ばしても、見えなかった。朝かい出したあとより多いことだけは分かった。

 

 男が水を捨てようとした。桶を入れるところがなく、膝をついて袋の隙へ差し込む。船が動き、桶の縁が荷に当たった。少ししか汲めない。

 

「袋を一つ上げますか」

 

「動かすときは言ってくれ」

 

 男は袋を抱えて待った。俺は船を回し、岸側の荷下ろし場へ向けた。

 

「大船はあっちです」

 

「分かってる」

 

「出ますよ」

 

「知ってる」

 

 口から出た言い方が、ラダの返事に似ていた。俺はその次だけ変えた。

 

「いったん荷を下ろす。半分ずつ運ぶ」

 

 男は大船を振り返った。俺も見たかったが、岸の杭から目を離さなかった。雨の中、荷車が来なくなった船着き場の土が、黒く光っていた。

 

 着けると、荷役の男を先に上げた。袋を受け取ってもらい、陸へ並べる。荷下ろし場の番が、ここを倉庫代わりにするのかと聞いた。

 

「二つに分ける間だけだ」

 

「雨の中に置けば濡れる」

 

 軒のある作業場を使わせてもらうには、手間賃が要った。俺は懐から金を出した。木を買うために、今朝数えてきた金だった。

 

 男は俺の顔を見たが、何も言わず袋を運んだ。覆いを引き直し、先に下ろした方から、濡れた底を上にして積み直した。

 

 荷の空いた船底を拭くと、継ぎ板の隙間に水がにじんだ。麻は浮いていなかったが、その脇から入っている。

 

 俺は袋を下ろしすぎたくらいだと思っていた。軽くなった船を見て、その考えをやめた。今までの詰め物で、今日はまだ運べると決めたのは俺だった。

 

「これ、直せますか」

 

「今は水を減らす。板を替えるには、船を上げる」

 

「じゃあ、出るんですか」

 

 俺は岸に置いた袋を見た。濡れたものがある。置いていたら、濡れたままになる。大船はまだそこにいる。

 

 詰め物を押さえ、水をかい出した。下ろした袋の半分より少ない量を戻し、男には、今度は足元を空けておくよう頼んだ。雨が弱まっていた。水がどれだけ増えるかを、男に声で知らせてもらう。

 

 軽くなった船は、さっきより早く岸を離れた。男が立たずに綱を渡せるよう、大船の舷側へ寄せた。甲板の者は、遅い、とだけ言った。

 

「残りも来る。今はこれを上げてくれ」

 

 袋が一つずつ吊られ、船から離れていく。男の腕が空くと、船底の水を汲んだ。戻りには荷がなく、足元を見ながら漕げた。

 

 次を届けたとき、大船の者はもう綱を片づけかけていた。残りを上げてもらう。最後の袋が舷側を越え、男が空の手で俺を見た。

 

「全部です」

 

 俺はうなずいた。嬉しかったが、声はすぐには出なかった。雨のせいで身体が冷え、櫂を返す手首が痛かった。

 

 岸へ戻ったら、荷主が待っていた。

 

「一度で行けると言っただろう」

 

「言った。途中で荷を分けた」

 

「船待ちを増やされて、向こうでも手間を払った。濡れた袋も調べなきゃならん」

 

 俺は聞いていた。加入前なら、証券がないから仕事が来ないと愚痴を言えた。今日は、引き受けた仕事に文句を言われている。

 

 袋の外側は濡れていたが、中の布を開くと、染みが広がっていないものもあった。荷主は全部を損にするとは言わず、濡れた袋を別に分けた。

 

 約束の賃から、待たせたぶんを引くと言った。額を聞き、俺は高すぎると答えた。荷主は向こうへ払った分を示した。俺たちは軒下で言い合い、最後には、俺の取り分を減らすところで話が終わった。

 

「次の定時の荷は、ほかへ頼む」

 

 荷主は言った。

 

「この船を直してから、また見せに来てくれ」

 

 俺は、直したら同じ仕事を戻してくれるかと聞いた。

 

「そのとき、空いていればな」

 

 荷役の男にも賃を渡した。彼の分まで待たせた側の金から引くことはできなかった。二度運び、袋を下ろした手を見せられたら、俺はそれ以上言えない。

 

 木を買うには足りなくなった。

 

 俺は修繕をする者の所へ行き、金を置いた。作業場の前では、上げた船が何艘も腹を見せていた。新しい板の脇には、使えるところを残した古板が積んである。

 

「木の代を、少し待ってくれ」

 

「仕事が入ったんじゃなかったか」

 

「入った。船を直す前に、入れすぎた」

 

 男は笑わなかった。俺の船を見に来て、継ぎ板の隙間へ指を当てた。

 

「全部を新しくする金はないな。この一枚を替える。他は開けてみる」

 

「使える板があれば、それにしてくれ」

 

 男は道具を取りに戻り、俺に船を上げる手伝いをさせた。仕事を休むぶんは戻らない。払う金が足りないぶん、俺も荷を動かし、板を押さえる。

 

 次の日は、船から濡れた詰め物を抜いた。板の外れたところから地面が見えた。こんな薄い板の上へ、よく荷を積んできたと思った。

 

 修繕の男は、古板の端を切って渡した。使う側と捨てる側を、俺が取り違えたのである。

 

「そっちじゃなくて、こっちを削る」

 

「濡れてると、どっちも同じ顔だ」

 

「乾いてても間違えるだろう」

 

 俺は笑った。男は板を足で押さえ直した。刃を貸してもらい、削ったところへ指を当てる。船を押すときには気にならない角が、そこで引っかかった。

 

 作業場の外を、荷車が通っていく。第三桟橋へ向かう荷だった。俺の船へ積むはずのものかもしれない。見ていると、男に、押さえてくれと呼ばれた。

 

 板を押さえた。釘が入るたび、手の中の木が少し動いた。

 

 船を戻せた朝、俺はまず一人で乗った。荷がなく、水をかい出す桶もまだ岸に置いてある。修繕の男が、岸から綱を緩めた。

 

「少し動かせ。戻ったら下を見る」

 

 俺は岸を離れ、空の船を回した。荷の重みも、運ぶ時刻も気にせず回すことなど、しばらくなかった。いつもより早く船首が向きを変える。櫂を止めると、船はその先をゆっくり進んだ。

 

 船底へ手を当てた。水はにじんでいなかった。

 

 戻ると、木の端を運んでほしいと頼まれた。賃は大きくない。定時の荷が戻ったわけでもない。俺は積む木を一つずつ見て、底へ低く並べた。

 

「まだ置けるぞ」

 

 男が言った。

 

「置ける。今日はこれだけにする」

 

 男は残りを作業場の中へ戻した。俺は覆いを掛けず、木の顔が見えるまま綱を回した。帆の広がる大船の横を離れ、修繕の木を載せた小船で、岸沿いの次の仕事へ向かった。

 

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