灰灯圏――百年の記録   作:飯尾みくじ

7 / 20
灰暦4年 ラダ|岸までの荷

イルハの北の水路。クシャへ向かう荷を、大船へ引き渡す朝。

 

 ラダの船が来ると、岸の男は板を引っ込めた。

 

「今日は奥へ着けてくれ」

 

「そこは昨日まで泥だったぞ」

 

「上に木を敷いた」

 

 ラダは船首を外へ振り、水の色を見た。岸に近いところは茶色く濁り、浮いた木屑が動かない。棒を入れると、先が柔らかいものへ潜った。石積みの岸へ寄せるには荷車をどけてもらう必要がある。そちらは、別の船の荷を積んでいた。

 

 去年、第三桟橋から北へ移った頃は、こう言われるたびに空いたところへ船を入れた。綱を取る者がいれば、着けられると思った。今は、綱を持つ男の足元から先に見た。

 

 男の踵が、木の隙間へ半分沈んでいる。

 

「そこへ箱を置いたら、人が運べない」

 

「荷は向こうの倉へ回す。今は下ろしてくれればいい」

 

 ラダは推し板を船底へ置かなかった。

 

 北の水路には、冬のあいだに小屋が増えた。岸の葦を切り、荷の置き場を作った者たちが、クシャ行きの大船へ道具や布を集めている。イルハの倉庫でまとめれば手間がかかる小口の荷だった。大船の来る日だけ人が集まり、帰ったあとには、縄と木屑と、運び忘れた荷が残った。

 

 その日、ラダが運んできたのは、修繕を終えた道具の箱だった。明け方に板場の裏で積み、北の集積場へ渡す。ここを任せられるなら、次の荷も頼むと、荷を集める男に言われた。

 

 その男が、岸の小屋から出てきた。

 

「何を待ってる。大船が見えるだろう」

 

 葦の向こうに、畳んだ帆が出ていた。大船は対岸の石積みへ着け、荷を受けている。ラダの側からは水路を横切れば届くが、岸へ下ろした荷は、奥の橋を回して運ぶつもりらしい。

 

「向こうへそのまま着ける」

 

「ここの荷を揃えてから持っていくんだ。勝手に抜くな」

 

 小屋の前に、同じ焼印のある長い包みが積まれていた。箱の道具と一緒に出す柄や鋸の枠だという。荷車はあるが、その前には大きな車輪の跡が残っている。縁まで運ぼうとして、引き返した跡だった。

 

 船の中で、箱の縄を押さえていた男が立ち上がった。

 

「あの包みを見てもいいか」

 

 朝、道具を積むときから付いてきた荷役の男だった。家族をクシャに置き、西岸との往復で働いている。今回は、ラダが箱を届けるところまで手を貸し、そのあと大船へ戻る約束だった。

 

 船が寄ったところで、男は岸の板へ足を置いた。板が傾く。すぐ足を戻し、ラダに綱を渡してもらって、小屋の杭へ掛けた。船を岸へ引きつけきらず、水の上に少し間を残した。

 

 ラダはその結び方を覚えていた。去年もこの男は、下ろす箱が船縁に当たりそうになると、引く手を止めて波を待った。

 

 男は長い包みの端を開けた。腰の小刀の鞘には、ひびに沿って細い当て木が巻いてある。

 

「そこまで直したのか」

 

「娘がな。ネマっていう。箱を直してる。抜くとき引っかかると言ったら、ここを削った」

 

 男は刃を使わず、包みの結びを指でほどいた。出てきた木の柄を二本、箱の焼印と比べる。

 

「これがないと、中の鉄だけ来ても使えない」

 

「知ってる。だからまとめて出すんだ」

 

 荷を集める男が答えた。責められたと思ったらしい。荷車を引く者を呼び、包みを載せろと言った。

 

 車は木を敷いたところまで来た。前輪が下がり、後ろで押していた若者の手が滑った。柄を包んだ布が泥へ触れた。若者は車を戻そうとしたが、前輪だけが動かない。

 

 ラダは船から見ていた。ここで箱を下ろせば、賃を受け取れる。荷が岸で止まることは、船を空けてから起きる。

 

 昼には、染料の籠を南へ運ぶ約束もある。去年から荷を寄せてくれている老婆の分だった。北の荷を続けるために、その仕事まで失いたくなかった。

 

「箱は船にある。柄をこっちへ積んで、向こうへ渡す」

 

 ラダが言うと、小屋の男は若者の横から顔を上げた。

 

「その分は払えん。岸へ運ぶ賃しか聞いてない」

 

「ここから向こうへ着ける分をくれ」

 

「向こうで、まとめた数を確かめてる。今、おまえだけ入れても上げる者がいない」

 

 対岸では、袋が吊られていた。岸の男たちは、受け取った次の袋を待たずに車へ運ぶ。大船の舷には空箱が並び、こちらを見る者はいなかった。

 

 荷役の男が、ラダの船へ戻ってきた。

 

「俺は戻って、向こうの手を呼べる。だが、船は今の場所からは動かさんと言われてる」

 

「おまえだけ乗っていくのか」

 

「乗らなきゃ、次の働きもない」

 

 男は言い切った。それから泥のついた包みを見た。

 

「あの柄は、俺たちが去年持って帰ってきた。向こうじゃ、替わりを待ってる」

 

 ラダは小屋の男へ、向こうへ掛け合ってくれと頼んだ。男は、橋を回ったら船が出ると言った。

 

「なら、ここへ下ろす仕事は終わるが、道具は出せんぞ」

 

 言ってから、ラダは綱を手に巻きつけた。言葉の最後を強くしたぶん、自分が何をするかを答えなくてはならなかった。

 

「おれが渡す。上げる手を借りられなきゃ、そこで待つ。その間、この船に載ったままになる」

 

「次の仕事は」

 

「間に合うか分からん」

 

 小屋の男は、ラダではなく荷役の男を見た。

 

「乗るために、そうさせるのか」

 

「俺だけなら、橋を走れる」

 

 男は腰の刀を外し、袋へ入れた。

 

「荷を持って走ることはできん」

 

 ラダは岸へ上がった。車輪の前を掘るより、荷を先に持ち上げることにした。泥へ沈んだ板は使わず、倉へ入れる道に敷いてある二枚を運んだ。小屋の男が、それを外したら倉へ運べないと言った。

 

「今は船へ来る道を作る」

 

 若者と板を渡し、船の側には短い足場を置いた。板の端が波に合わせて動く。荷役の男は真ん中で包みを受け取ろうとしたが、ラダはそこで待たせなかった。

 

「一つずつ。岸の上で渡してくれ。乗るときはおれが舟を寄せる」

 

 鋸の枠は、幅があって持ちにくかった。持った者の足が板の端へ寄る。ラダは下から船を押し戻し、板を持つ若者に、動かすなと声をかけた。枠が船に入ったあと、足場を岸へ戻した。

 

 荷役の男は、箱の上に柄を重ねなかった。縁に沿って長さを確かめ、縄の通る場所を空けた。ラダが留めると、男は船の端へ腰を下ろした。

 

「戻りの荷がなくても、待ってくれとは言わんよ」

 

「今は、向こうへ着ける話だ」

 

 小屋の男が最後の包みを渡した。自分も乗ると言ったが、足を掛けたあと、岸の若者を見た。

 

「ここに残る荷は濡らすな。船が来たら、俺はあっちだと言ってくれ」

 

 船に乗ると、男は泥のついた靴を布で拭いた。ラダは止めなかった。船底の箱へ泥を落とさずに済んだ。

 

 対岸へ向けるには、一度流れへ出てから回す。岸を離れると、小屋の屋根が低くなり、葦の裏に別の荷置き場が見えた。人の来ない岸にも、積んだ木だけはあった。ラダは去年、最初に通ったとき、ここを全部同じ場所だと思った。今は、干した布の色で曲がりを見分ける。

 

 船首を向け直した。大船の船腹に沿って水が押し返され、軽い木屑が横へ流れる。桟橋との間へ真っ直ぐ入れず、荷の上がる側を避けて、後ろの空箱に近づいた。

 

「道具が来た」

 

 荷役の男が声を張った。

 

 舷の者は、今は空箱を返すと言った。積む荷は岸へ回せという。

 

「柄と箱を一緒に受けてくれ。ここに全部ある」

 

 小屋の男も立ちかけ、ラダに腰を押さえられた。二人同時に船縁へ行かせたくなかった。

 

 大船から、怒った声が返った。岸の順を変えたら、残りが分からなくなる。小屋の男は箱の焼印を読み上げた。数を答え、岸にあるのは別の荷だと繰り返した。

 

 ラダはその間、船を同じところへ留めていた。戻ろうと思えば戻れる。だが、箱が残れば、同じ濡れた板をまた渡ることになる。

 

 綱が一本下りた。

 

 箱を吊る縄は、上の者に確かめてもらった。荷役の男は膝をつき、ラダと反対側を持った。箱が船を離れると、空いたところへ水が跳ねた。小屋の男が自分の靴で押さえた柄を、ラダに言われて放した。

 

 最後の枠が上がったあと、荷役の男が立った。

 

「これで全部だ。俺も上がる」

 

 大船の者は、首を振った。

 

「先に岸の分を上げる。人は最後だ」

 

 男は、上から来た手を待っていた。ラダは船を杭へ寄せ、綱を掛けた。岸で下ろす手が足りないと言われ、荷役の男はそちらへ上がった。小屋の男も、向こうから来る車を迎えに走った。

 

 ラダの船は、道具のないところへ、大船から下ろす袋を受けた。対岸の岸へ渡し、大船から返す空箱を取った。その箱を運ぶはずの小船が来ず、ラダはもう一度、自分の岸へ回した。

 

 昼を過ぎても、まだ運んでいた。

 

 最後の空箱を置いたとき、葦の向こうで帆が動いた。大船が離れていく。岸の綱を巻いていた荷役の男は、手を止め、背を向けて走り始めた。

 

 走っても船は止まらなかった。男は岸の端で、長く何かを叫んだ。返事が届いたかどうか、ラダには分からなかった。

 

 小屋の男は、余計に働かせたと認めた。初めの賃と、空箱を運んだ分を払った。道具を対岸へ渡した分は出せないと言った。ラダは、戻りの箱の数をもう一度数えさせた。

 

「手があってよかった、と言っただろう」

 

 男は口を開きかけ、閉じた。少し足した。ラダが思っていたほどではなかった。

 

 染料の老婆が待つ場所へ行くと、籠はもうなかった。手伝いの女が、別の船へ預けたと教えてくれた。

 

「次から、来られないなら先に言って」

 

「来られるつもりだった」

 

「じゃあ、途中でも誰かを寄越して。ずっと置いてはおけない」

 

 ラダは頷いた。北の小屋の男に、どちらかの者を走らせればよかった。箱の前では、そのことまで頭が回らなかった。

 

 夕方、戻ると荷役の男が船のそばにいた。

 

 袋は足元へ置き、上着を膝に掛けている。次にクシャへ行く船を探したが、まだ荷が決まっていないと言われたという。

 

「家へ知らせる者も探す。帰りが延びると、向こうで仕事を減らすことになる」

 

 ラダは、家で待つ者の仕事まで減るとは考えていなかった。

 

「箱を残して、おまえだけ上がってもよかったな」

 

「そうしたら、娘に何を運んできたと言う」

 

 男は答え、それから首を振った。

 

「でも、戻れないとは言わなきゃならん。誰かが俺の代わりをやるんだ」

 

 ラダは船の空いたところへ、乾いた荷敷き板を置いた。男に袋を渡させ、濡れていない板の上へ載せた。

 

「今夜は、ここを使え。おれは小屋で寝られるか聞いてくる」

 

「おまえの船だろう」

 

「明日は早く出る。寝るなら今だ」

 

 男は袋をほどいた。道具の入っていた場所へ上着を広げる。小刀を出し、布が引っかからないか、鞘の口へ指を当てた。

 

 ラダは岸へ上がり、借りた板を小屋の前へ返した。倉へ入る道には、板のないところだけ深い足跡があった。若者が、そこを跳び越えて空箱を運んでいる。

 

「明日、この二枚を使っていいか」

 

 小屋の男が顔を出した。

 

「また道具が来るとは言ってないぞ」

 

「ここへ着けるなら、荷を受けるところから変える」

 

 ラダは板を、泥の端から石のあるところへ向け直した。若者を呼び、船が来る側を示す。立って待つ場所を、靴の先で確かめてもらった。

 

 板の向きが変わるだけで、そこへ箱を持って来る人の顔が、船から見えるようになった。

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。