五港同盟圏。
「眠る前に、線を一本だけ」
ユナが言ったので、サナは練習板へ長い線を引いた。最後のところで腕が滑り、石筆が床へ落ちた。
「もう眠りました」
「線は起きてる。拾っておいで」
隣の男が笑い、サナも板を持ったまま笑った。昼から張っていた肩が、一度だけ下がった。
その年、燈院が開いた夜間識字施療所へ、サナは通い始めていた。縫い場を出て、倉庫街の裏の道を歩く。夕方まで荷袋を繕った手には、麻の繊維が刺さっていた。施療所の入口では薬湯を待つ人が腰を下ろし、その奥の小部屋で、字を習う者が机を囲んでいた。
教師のユナは、サナの指から長い繊維を抜くと、石筆の持ち方を直した。
「針じゃないんだから、そんなに強く押さない」
「薄いと、消えませんか」
「読んだあとに消すよ。今は板を何度も使う」
サナはもう一度線を引いた。今度は端で止まった。隣の男が、恋文を書けるようになりたいと言っていた。サナは、まず帳場の男より早く自分の賃を数えたい。
最初に習ったのは、賃銀、控除、借具、違約だった。
昼の縫い場には、破れた荷袋が積まれる。仕上げたものを数えて渡しても、その数がそのまま賃になるわけではない。針を借り、宿舎に寝て、灯りを使ったぶんが引かれる。サナは、賃銀票を渡す男が読み上げる額を聞き、残った金を受け取っていた。
隣で縫う女は、もらうたびにその場で数え直した。読めない票へ、爪の先を置く。
「また灯りの分が増えた。暗いのに」
「言っても変わらないよ」
「言わなきゃ、明るいと思われる」
女はサナの縫った袋を取り、端を引いた。縫い目が一つ開いた。
「ほら、ここ。帳場へ回る前にやり直しな」
仕上がりを監督役に戻されると、その袋を抱えている時間まで無駄になった。女は、自分の袋を縫うあいだにサナの分も見た。サナは代わりに、重なった布へ針を通すところを手伝った。
「夜に字を習ってるんだって?」
「今は線ばかり」
「賃が増える線なら、ここにも引いておくれ」
女は票を裏返した。サナは、覚えたばかりの字を、まだそこへ書く気にはなれなかった。
それから何度か通った夜、サナは練習の紙にある「控除」を、ユナより先に読んだ。
「どこ?」
隣の男が聞いた。サナは指で示した。男が顔を近づけたので、少し紙を傾けてやる。
「それは読めるのに、どうして自分の名はまだ書けないの」
「毎日引かれるから、よく覚えるんだよ」
男は笑った。ユナは二人の前に古い契約紙を置き、同じ語を探させた。
読める字を一つ見つけると、サナはその上に指を止めた。次の行にもある。続きが知りたくて、ユナを呼んだ。
「ここから先も、読んでください」
宿舎費。寝藁代。灯油代。病欠時の施療費立替。布傷み弁償。
サナは笑うのをやめた。知っている仕事と寝床が、紙の上に並んでいた。寝藁の薄さも、借りた針の先が曲がっていたことも、項目にはない。
「これ、わたしたちの紙ですか」
「練習用に出た、認めを受けていないものだよ」
「でも、引かれるものは同じです」
「自分の票を持っておいで。比べよう」
サナは机の下で、自分の指を握った。初めて賃をもらった日に、引かれるものについて聞かされ、うなずいた覚えがある。覚えていない額も、今の紙にはきちんと置かれていた。聞き直せばよかったのかと思ったが、あの日は残った金の方ばかり見ていた。
帰り道で、吐き気がした。店の閉まった戸に手をつき、しばらく待った。灯りを見つけたから嬉しい、とだけ言える夜ではなくなっていた。
翌日、サナは賃銀票を捨てず、胸に入れた。昼休みに開くと、控除の下に知らない語があった。隣の女も、その票を覗き込んだ。
「それ、何て書いてある?」
「ここは読める。ここは、まだ」
「じゃ、分かったら教えて」
女は自分の票も渡した。二枚を並べると、額は違っても同じ語が同じ場所にあった。サナはその紙を、初めて他人のものと一緒に持ち帰った。
施療所の灯りは、寄付された油でともされていた。机へ載せる薄紙も石筆も、寄付帳に数が記されている。ある晩、サナは油皿のそばでその帳面を見つけ、ユナに開いてよいかと聞いた。
「どうぞ。まだ全部は読めないだろうけど」
港の商人や倉庫持ちの名が並んでいた。縫い場へ荷を回す屋号もあり、認証印を取りまとめる欄にミンの名がある。サナは知っている名だけ、ユナに読み上げてもらった。
「帳場と同じ人が、ここにも出してるんですか」
「油を出した人と、印を取りまとめた人は分けて読んで。そこは違う欄だよ」
「引いたお金を、灯りにして返してるのかと思った」
「それが分かる帳面は、ここにはない」
ユナは分からないことを、分かるようには言わなかった。
「じゃ、わたしが帳場へ何か言ったら、油はなくなりますか」
「そこも、私には決められない。灯りがついているうちに、何を読めるようになりたい?」
サナは胸から二枚の票を出した。
「これです。隣の人のも」
ユナは帳面を脇へ寄せ、票を並べた。
数か月して、荷鉤が滑った。
繕う荷袋をまとめて詰めた大袋が、縫い台へ運ばれてきた。サナはその底を支えていた。荷役の男が、袋の口に掛けた鉤を引く。隣の女は台の縁に手を置き、裂けた口を押さえていた。鉤が布を裂いて外れ、その指を打った。女は声を出すより先に手を引いた。サナも袋を離そうとして、女に止められた。
「置いて。落とさないで」
二人で袋を床へ降ろした。そのあと、サナは女の指から血が落ちているのを見た。布を探し、まだ繕う前の端布を裂いた。監督役に何か言われたが、聞き返さず女の手へ巻いた。
女は翌日から来なくなった。座る場所には、別の者が入った。そこからはサナの縫い目を引いてみる手が出てこない。袋を帳場へ運ぶ前に、サナは自分で端を確かめるようになった。
月の終わり、帳場で賃銀票を待っていると、開いた控除簿に女の名を見つけた。以前、ユナに読んでもらった名だった。その横に、宿舎費と灯油代が並んでいる。
「その人は、もうここで寝ていません」
サナが言うと、若い書記は帳面を自分の方へ引いた。
「名が抜けるまでは引かれる。規則だ」
「寝床は別の人が使っています」
「出ていっただけでは名は抜けない。認めがまだだ」
サナは机の角へ手を置いた。続きを聞きたいのに、後ろから票を待つ者が押してきた。監督役も戻るよう呼んでいる。
「その規則を、見せてもらえますか」
「今は賃を渡すところだ。願い出があるなら紙で出してくれ」
サナは受け取った票を折り、列から出た。女の金を確かめることもできなかった。
仕事のあと、女が移っていた知り合いの部屋を訪ねた。窓の下に布が干され、女は片手で椀を押さえて食べていた。巻いた指を膝へ隠したので、サナはその手を見なかった。
「手が使えるようになるまでは、ここで世話になるよ。巻いた布を替えるのを手伝ってくれるから。一人じゃ、うまくできないんだ」
「帳面に、まだ名前があった」
そう伝えると、女は匙を置いた。
「残ってる賃は、もらえると思ってた」
「寝床と灯りの分が引かれていました。名を抜く認めがないからって」
「それじゃ、手が戻る頃にはなくなってる」
サナは、帳場で言えなかったことを口にした。
「紙を出す。ここで暮らしてるのに、宿舎で寝たことにはできない」
「読めるようになったから?」
「読めなかったら、あの名前を見つけられなかった。前に、票を預けてくれたでしょう」
女は少し考えたあと、残っていた票をサナへ渡した。
「書くなら、指が治らないってことにはしないで。まだ分からないんだから」
「うん」
「出てきた日は分かる。私が話すから、そこを間違えないで」
サナは日を聞き直した。覚えて帰るために何度か口の中で繰り返すと、女も一緒に繰り返した。
その夜、施療所でサナは、新しい紙へ書こうとした。途中の字が分からず、ユナに聞きながら線を足した。
わたしは、読めるようになったので、まちがいをまちがいと言います。
ユナは読み、紙を机へ置いた。
「誰の、何の間違い?」
「宿舎から出た人に、まだ宿舎費を引いてる。さっき話しました」
「私には話した。これを受け取る人は聞いてない」
サナは書いた一行を見た。ユナが続きを書く場所を空け、女が負傷した日、宿舎を出た日、引かれている項目を聞いた。サナが答えると、ユナは「傷病による不就労」と書いた。
「そんなふうには言ってません」
「働けなくなって来ていない。そのことだよ」
「指が戻らないとは書かないで」
ユナはサナの顔を見てから、紙へ目を戻した。
「治らないとは書いてない。来られない期間と、寝床を使っていない期間は分けておこう。何を見直してほしい?」
「宿舎費と灯油代。出た日から」
ユナはそこも書いた。初めの一行を横へ寄せると、サナは紙を押さえた。
「それは消すんですか」
「願い出には、今の話を書こう」
「怒ってるとは分かりませんね」
「怒ってることを分かってほしいの?」
「返してほしい。あの人のお金です」
言ってから、サナは押さえていた指を外した。ユナが日と項目を確かめる。サナは自分で書き写した。曲がり角で石筆の癖が出て、墨をつけた筆まで強く押してしまう。字が太くなり、隣へはみ出した。
油が足りなくなって、その晩は最後まで書けなかった。
翌晩も通って仕上げた願い出は、記載不備、証印欠如として差し戻された。
サナは帳場で、返された紙を開いた。記載不備は読めた。証印の字には指を置き、これは誰の印かと書記に聞いた。女が宿舎を出たことを確かめる者の印が要るという。
「その人はどこにいますか」
「宿舎の方へ聞いてくれ」
帰り道に宿舎へ寄ったが、帳を預かる者はもう帰っていた。戻る時間を聞き、サナは紙の余白に目印の線を引いた。明日は仕事を終えてすぐ来なければ、同じことになる。
施療所へ着くと、ユナは入口で油皿を運んでいた。
「戻された?」
「戻されました。知らない字が減ると、用事が増えるんですね」
「何て戻されたか、分かった?」
「足りない印がある。明日、もらいに行く。もらえるかは、まだ」
ユナは机へ油皿を置いた。サナは初めに書いた怒りの一行も持っていた。そちらは願い出へつけず、練習の帳面の間に挟んだ。
眠るまでに線を一本。最初の晩に言われたことを思い出した。今は一本では済まないが、眠い日は、一本で終える日もある。
出席簿を開き、いつも丸をつけてもらう場所を探した。
「今日は自分で書きます」
ユナが筆を渡した。サナは先を整え、自分の名を書いた。最後の線が少し上へ逃げたが、二度なぞって潰すのをやめた。
「読めますか」
「サナ」
ユナが答えた。サナは口の中でもう一度その名を言った。自分で書いたものを、別の人が読めた。
「もう丸はいりません」
「じゃあ、明日は私の手間が一つ減るね」
「他の字を聞きますよ」
「そうだろうと思った」
隣の男が出席簿を覗き、場所を詰めてくれた。サナはそこへ座った。明日は宿舎へ行ったあと、女の部屋にも寄るつもりだった。返された紙を見せ、何が足りないかを読んで聞かせる。
今夜は女にも見せられるよう、練習の紙にもう一度自分の名を書いた。書き終えると、紙を乾かすため、灯りのそばの空いた場所へそっと置いた。