白き怪鳥 作:かぼちゃ頭
アルヴェイン
ユリウス・アルヴェインが、自分には一度目の人生があったのだと理解したのは、五歳を過ぎた頃だった。
それ以前から、奇妙な夢を見ることはあった。
夜でありながら昼間のように明るい街。石畳でも土道でもない、黒く平らな道路。その上を馬も機竜も使わずに走る無数の車。掌ほどの薄い板から流れる映像と音楽。雲よりも高い空を飛ぶ航空機。
そして、人の何倍もの大きさをした鋼鉄の巨人たち。
宇宙を駆け、光の剣を振るい、銃火を交わす機械。
何より奇妙なのは、それらを見ていた自分自身だった。
今のような子供ではない。
学校へ通い、働き、組織の中で人と折り合いをつけ、責任を負い、時には理不尽に腹を立てながら、それでも何十年かを生きた男。
幼い身体にはあまりにも不釣り合いな記憶だった。
初めのうちは夢だと思った。
だが、年齢を重ねるほど、自分が今世で学んだ知識と、最初から頭の奥に存在している知識を明確に区別できるようになっていった。
自分は一度死んだ。
そして、別の世界に生まれ直した。
そう理解するまでには、さほど時間はかからなかった。
むしろユリウスを困惑させたのは、その後だった。
アーカディア帝国。
――
そして
この世界について知れば知るほど、前世で知っていた一つの物語との一致が増えていった。
『最弱無敗の神装機竜』。
どうやら自分が生まれ落ちたのは、その物語によく似た世界らしい。
ただし、ユリウスはそれを知ったからといって、自分を特別な人間だとは考えなかった。
第一、自分自身が前世で知っていた物語の中に存在していない。
ユリウス・アルヴェイン。
アーカディア帝国西方の一角を治めるアルヴェイン辺境伯家、その嫡男。
少なくとも、自分の記憶にそんな人物はいなかったし、アルヴェイン家という名前さえ聞いた覚えはない。
ならばここが前世で知っていた物語と完全に同じ世界である保証など、どこにもない。
それに、前世でそれなりの年月を生きていたからこそ、ユリウスには分かることもあった。
一人の人間が、世界を完全に理解することなどできない。
未来を多少知っているからといって、他人の人生まで思い通りにできるわけではない。
だから世界を救おうとも。
物語の主人公に成り代わろうとも。
先回りして何もかも変えてしまおうとも思わなかった。
何より今のユリウスには、この世界で大切にしたいものがあった。
「お兄ちゃん!」
勢いよく扉が開いた。
窓辺で本を読んでいたユリウスが顔を上げる。
肩を越える淡い金色の髪を揺らしながら、小さな少女が駆け込んできた。
「エリー。ノックくらいしろ」
「したよ?」
「聞こえなかった」
「お兄ちゃんが、また難しい顔してたからでしょ」
妹――エリシア・アルヴェインは、当然のように兄の隣へ腰を下ろした。
愛称はエリー。
ユリウスより二つ年下だった。
二人は兄妹だが、髪の色はまるで違う。
エリーの柔らかな淡金色の髪は父譲り。
一方、ユリウスの髪は深い黒だった。
光を受ければわずかに青みを帯びて艶めく、濡羽色。
母の血を強く受け継いだ色だった。
母は海の向こう、古都国にゆかりを持つ家系の出身であり、その美しい黒髪もまた、彼女の故郷の血を示す特徴だった。
ただし兄妹の瞳はよく似ている。
父から受け継いだ、静かな青灰色。
同じ色でも、ユリウスの目は年齢より落ち着いて見え、エリーのそれは笑うたび柔らかく明るく見えた。
「また難しいこと考えてたの?」
「考えてない」
「考えてた」
「考えてない」
「考えてたよ」
「……それで、何の用だ」
これ以上付き合うと終わらない。
ユリウスが話を切り替えると、エリーは頬を膨らませた。
「村に行くの」
「一人で?」
「メアリーも一緒」
「なら、俺に報告する必要はないだろ」
「一緒に行くか聞きに来たの」
「今日は勉強がある」
「また?」
「また」
「つまんない」
分かりやすく肩を落とす。
ユリウスは小さく息を吐いた。
「夕方には終わる。それからなら付き合う」
「ほんと?」
「ああ」
「約束ね!」
先ほどまでの不満顔が、一瞬で明るくなる。
その表情を見ると。
前世の記憶も。
原作の知識も。
どうでもよくなった。
父がいる。
母がいる。
エリーがいる。
今のユリウスにとっては、それで十分だった。
◇
ユリウスが装甲機竜というものを初めて「兵器ではない」と感じたのは、七歳の頃だった。
数日間続いた大雨によって山肌が崩れ、アルヴェイン領を横切る街道の一部が土砂に埋まった時のことだ。
倒木と岩石が道を塞ぎ、荷馬車はもちろん、人が通ることさえ難しい。
領民たちは朝早くから復旧作業を続けていたが、人力では到底動かせない巨石がいくつも転がっていた。
「そこ、全員下がれ!」
太い声が響いた。
「巻き込まれるぞ!」
作業中の者たちが慌てて道を開ける。
その中央へ、一人の男が歩み出た。
いや正確には、人間の身体を丸ごと覆う鋼の装甲。
全高は三メートルほど。
人が中の座席へ乗り込んで操縦する巨大兵器ではない。
装着者自身がその身に纏い、手足の動きを強大な力へ変換する機動装甲。
装甲機竜。
この世界の人類が、《遺跡》から発掘した古代兵器だった。
発掘から長い年月を経て、その解析は進んでいる。
操縦法。
整備法。
既知の各機能。
技術者たちは、理解できた部分を利用し、改良さえ行っている。
しかし完全に解明されたわけではない。
内部には今なお、なぜその構造で動くのか説明しきれない部分が存在している。
動力。
素材。
制御機構。
人類はすべてを理解しないまま、それでも使うことのできる力として、装甲機竜を文明へ組み込んでいた。
元来は兵器だった。
だが、その力が活躍するのは戦争だけではない。
巨石を動かす。
倒木を退ける。
崩れた建物から人を救う。
物資を運搬し。
橋を直し。
災害から土地を復旧する。
人間なら何十人必要になる力仕事を、機竜を纏った一人がこなしてしまう。
「よっと……!」
装甲機竜《ワイバーン》の両腕が、街道を塞いでいた岩塊へ掛かった。
鈍い地響き。
岩が持ち上がる。
「右へ寄せるぞ!そっち空けろ!」
「はい!」
領兵たちが答える。
その頭上を、別の機竜が飛び越えていった。
圧倒的な膂力を持つ《ワイアーム》。
さらに崩れた斜面の近くでは、索敵や支援能力に秀でる《ドレイク》が危険箇所を確認している。
《
《
《
各国で広く使われている汎用機竜。
さらにその上には、通常の機竜を遥かに凌駕する希少な存在――《神装機竜》もある。
だが。
その時ユリウスが見ていたのは、装甲機竜そのものだけではなかった。
「ガウマン!」
領兵の一人が叫ぶ。
「北側にもでかい岩が残ってる!」
「見りゃ分かる!今行く!」
ユリウスの視線が止まった。
――ガウマン。
初めて名前を聞いた時には、聞き間違いかと思った。
だが。
違った。
装甲が開く。
中から姿を現した男。
無精髭。
髪型。
顔立ち。
体格。
どう見ても。
似ている、という程度ではなかった。
前世で知っていた、まったく別の作品。
『機動戦士ガンダム閃光のハサウェイ』。
そこに登場していた人物。
ガウマン・ノビル。
目の前の男は、顔も名前も、その人物と瓜二つだった。
この世界が『最弱無敗の神装機竜』によく似ている。
それだけでも十分に不可解なのに。
なぜ。
別の作品にいた人物まで。
当然。
答えなど出ない。
「若!」
突然呼ばれ、ユリウスは我に返った。
「そこに突っ立ってると危ねえぞ!」
「安全な場所にいます」
「七歳のガキが現場判断すんな」
「もうすぐ八歳です」
「誤差だ、誤差」
「一年を誤差扱いしないでください」
「そういうところが可愛くねえんだよ、若は」
ガウマンが笑った。
ユリウスは。
その顔を見た。
知っている。
前世なら、画面の向こうにいた人物だった。
どういう役割を持ち。
どんな台詞を話し。
どんな場面に登場するかも。
記憶にはある。
だが。
今、目の前にいる男は。
暑ければ汗をかく。
重労働をすれば息を切らす。
部下が危険なことをすれば怒鳴る。
昼食の量が少なければ文句を言う。
昨日の酒が残れば、「頭が割れそうだ」と朝からぼやく。
父とは仕事のやり方で言い争い。
村の子供に呼ばれれば、面倒そうな顔をしながら手を振る。
ユリウスの知らない昨日がある。
今この瞬間に考えていることがある。
そして、ユリウスにも分からない明日がある。
「お兄ちゃん!」
後ろからエリーの声。
ユリウスが振り返ると、淡金色の髪を揺らして妹が駆けてくる。
「エリー、走るな」
「大丈夫!」
「転んでから言うなよ」
エリーは兄の隣まで来ると、《ワイバーン》を見上げた。
「ガウマンおじさん、すごい!」
「……エリーお嬢」
「なに?」
「俺はまだ、おじさんって歳じゃねえんだが」
「でも、お兄ちゃんよりずっと年上でしょ?」
「比較対象がガキじゃねえか」
ガウマンが頭を抱える。
エリーが笑った。
ユリウスも。思わず笑った。
そこで初めて、本当の意味で分かった気がした。
ここは物語ではない。
たとえ自分が、誰かの名前を知っていたとしても。
顔を知っていたとしても。
前世で、その人物を「登場人物」として見たことがあったとしても。
ここにいる彼らは。
今を生きる人間だ。
ガウマンも。
父も。
母も。
エリーも。
そして。
この先、いつか出会うかもしれないルクス・アーカディアも。
リーズシャルテ・アティスマータも。
誰かに書かれた台詞を喋るだけの存在ではない。
痛みを感じ。
悩み。
怒り。
誰かを愛し。
何かを選び。
誰かを失えば悲しむ。
自分と同じ。
人間なのだ。
ならば。
原作でそうだったから。
自分は未来を知っているから。
そんな理由で。
他人の人生を勝手に決めていいはずがない。
前世の知識は。
あくまで知識でしかない。
この世界を生きるのは。
彼ら自身なのだから。
「若?」
ガウマンの声。
「……何です?」
「また難しい顔してるぞ」
「してません」
「してる」
すぐ横からエリーまで言う。
「してるよ」
「……お前まで」
二人が笑った。
ユリウスも。
つられて笑った。
この日の光景を。
後になって。
何度も思い返すことになる。
◇
アルヴェイン辺境伯家は、アーカディア帝国西方の一角を治める古い家だった。
帝都から遠く、国境にも近い。
その立地ゆえ、辺境伯には内政だけでなく軍事面でも大きな裁量が認められている。
有事には兵を率い。
平時には土地を治める。
ユリウスの父にとって。
領主とは。
領民の上に立つ人間ではなく。
領民に対して責任を負う人間だった。
「今年の収穫は?」
「南は問題ありません。ただ、北の村が……」
「先日の大雨か」
「はい。水路が崩れまして」
「税を減らせ」
即答だった。
報告していた役人が戸惑う。
「しかし、帝都への納付分が」
「知っている」
「でしたら――」
「収穫がないところから、何を取る」
父の声は厳しい。
「不足分は備蓄から補填する。水路の補修には領兵も回せ。機竜が必要ならガウマンに話を通しておけ」
「承知しました」
役人が退出する。
執務室の隅で本を読んでいたユリウスは、父を見た。
父の髪は淡い金色。
その下にある青灰色の瞳は、ユリウスとエリーにも受け継がれている。
整った顔立ちだが、笑っていない時には厳格さの方が先に立つ男だった。
「父上」
「なんだ」
「帝都では、領民に甘すぎると言われているそうですね」
父の手が止まる。
「誰から聞いた?」
「先日来ていた監察官です」
「盗み聞きか」
「聞こえてきただけです」
「それを盗み聞きと言うのだ」
父が小さく笑った。
「それで?」
「本当ですか」
「何がだ」
「取れる税を取っていない、と」
父は少し考えた。
「取れることと、取っていいことは違う」
「ですが、帝国への納付量は変わりません」
「ああ」
「それでも?」
「それでもだ」
父は椅子を立ち、窓辺へ歩いた。
その先には城下町。
さらに向こうには。
日の光を受ける畑と青々と育つ作物。
あちらこちらから煮炊きの煙が昇る村。
そして、ここで暮らす人々の営み。
「ユリウス」
「はい」
「力を持つ者ほど、自分の正しさを疑わなければならない」
ユリウスは顔を上げた。
「私が命令すれば、税を増やせる。兵を集めることもできる。人を牢へ入れることさえできる」
父は自分の掌を見る。
「だが」
静かに。
「できることと、正しいことは同じではない」
「……はい」
「人間というものは、自分に都合のいい理由を作るのが上手い。特に、力を持つとな」
父が振り返る。
「国のためだ。領地のためだ。仕方がなかった。必要な犠牲だった」
そこで僅かに眉を寄せる。
「そう言えば、大抵のことを自分の中では正当化できてしまう」
その話は前世の記憶を持つユリウスには、奇妙なほど理解できた。
組織のため。
会社のため。
皆のため。
そうした言葉を盾に、いつの間にか、自分にとって都合のいい選択を正当化してしまう人間を。
前世でも何度も見た。
「だから」
ユリウスは言った。
「自分を疑うんですか」
「ああ」
「正しいと思っている時も?」
「そういう時ほどだ」
父はそこで初めて少し笑った。
「自分は絶対に正しいと思っている人間ほど、力を持たせるには危うい」
ユリウスはその言葉を覚えた。
まだこの時はただ。
父らしい言葉だと思っていた。
◇
母は、父とは対照的な人だった。
濡羽色の長い黒髪。
古都国にゆかりを持つ家系の出で、ユリウスの髪は、明らかに彼女から受け継いだものだった。
厳格で不器用なところのある父に対し、母は柔らかく、誰とでも自然に話をすることができた。
使用人。
兵士。
村人。
身分を問わず。
相手の名前を覚え。
話を聞き。
必要があれば手を差し伸べる。
エリーの人懐こさは、誰が見ても母譲りだった。
一方でユリウスの生真面目さ、物事を必要以上に背負い込もうとする癖。
そして責任という言葉を重く受け取るところは、父によく似ていた。
「あなたは」
ある日、母がユリウスを見ながら笑った。
「もう少し子供でいてもいいのよ」
「十分子供です」
「そうかしら?」
「そうです」
「じゃあ、エリーともっと遊んであげなさい」
「結局そこですか」
「最近、お兄ちゃんは勉強ばっかりって拗ねてるもの」
「……本人には言わないでください」
「もちろん」
母が口元に指を当てる。
そんな人だった。
◇
エリーも村へ行けばあちらこちらから声を掛けられた。
「エリーちゃん!」
「こんにちは!」
本人も驚くほど人の名前を覚えている。
「お婆ちゃん、腰はもう大丈夫?」
「ああ、おかげさまでねえ」
「本当?無理しちゃ駄目だよ」
「エリー」
ユリウスが後ろから声をかける。
「お前は医者じゃない」
「心配してるだけ」
「分かってる」
「じゃあいいでしょ」
「どういう理屈だ」
老婆が笑った。
「ユリウス様も大変ですねえ」
「本当に」
「お兄ちゃん!」
頬を膨らませる妹を見てユリウスも笑う。
村からの帰り道、二人で小高い丘を歩いた。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「いつか、お父様の後を継ぐんだよね?」
「順当にいけば」
「領主?」
「ああ」
「大変?」
「多分な」
エリーは少し考え。
「じゃあ、私も手伝う」
「何を?」
「まだ分かんない」
「お前な……」
「でも、手伝うよ」
エリーは笑っていた。
「だって、家族でしょ?」
ユリウスは少しだけ言葉に詰まった。
それから妹の頭へ、そっと手を置く。
「……そうだな」
「でしょ?」
「その時は頼む」
「うん!」
父と同じ色の瞳を細めてエリーが笑う。
守ろう。
ユリウスはその時本気でそう思った。
父を。
母を。
妹を。
今度こそ自分に与えられた家族を。
◇
変化はある日突然起こったわけではなかった。
帝都から届く要求が少しずつ、重くなっていった。
税。
食料。
資材。
そして、人。
帝国軍は、何かにつけて地方領主へ兵を要求した。
反乱鎮圧。
貴族同士の争い。
《遺跡》、国境を巡る軍事行動。
理由はいくらでも付けられた。
だがその負担を実際に背負うのは、地方に暮らす人間たちだ。
「冗談じゃねえ」
十二歳になったユリウスが父の執務室を訪れた時、ガウマンの低い声が聞こえた。
机の上には帝都から届いた新たな徴兵命令。
「前回の倍だぞ、殿」
ガウマンが紙面を指で叩く。
「こんだけ若いのを連れていかれたら、来年の畑は誰が耕す」
「分かっている」
「前に出した奴らだって、半分しか帰ってきちゃいねえ」
いつもの軽い調子はない。
「断るんで?」
「ああ」
父の返答にガウマンは鼻から息を吐いた。
「そう言うと思った」
「反対か」
「まさか」
即答だった。
「俺は書類の数字じゃなくて、連れてかれる奴らの顔を知ってるんでね」
ガウマンが窓の外を見る。
「あいつら持ってかれたら、残るのは爺さん婆さんと女房子供だ」
「なら決まりだ」
「ただ」
ガウマンの声が低くなる。
「向こうが『はい分かりました』で引くとも思えねえ」
ユリウスも同じことを考えていた。
帝国にとって中央の命令へ公然と異を唱える地方領主は扱いづらい。
アルヴェイン家は領民からの支持も強い。
兵もいる。
土地もある。
帝都から見れば危険視する理由など、いくらでも作れる。
「父上」
二人がユリウスを見る。
「帝国は」
ユリウスが尋ねる。
「拒否を許すでしょうか」
父は少しだけ黙った。
「許さないだろうな」
「なら――」
「だから従うのか」
「……」
「ユリウス」
父は息子を見る。
「中央の命令だからといって、何もかも拒めばいいわけではない。国を維持するために負担を受け入れるべき時もある。兵を出さなければならない時もな」
「はい」
「だが」
父の声に迷いはない。
「領民を潰してまで従うのなら」
窓の外へ視線を向ける。
「辺境伯が、ここにいる意味がない」
ガウマンが小さく鼻を鳴らした。
「諦めろ、若。殿は昔っからこういう人だ」
「ガウマン」
「褒めてますって」
「そうは聞こえん」
いつもなら少し笑えただろう。
しかしその日は誰も笑わなかった。
◇
帝都から来る監察官が増えた。
領内では見覚えのない人間を目にするようになった。
屋敷へ届く書簡も増えた。
父の執務室から夜遅くまで明かりが消えない。
ガウマンたち領兵も巡回を増やしている。
それでも夕食の時間だけは、以前と同じだった。
「それでね、川に子犬が落ちちゃって」
エリーが楽しそうに話している。
「まさか、あなたまで川へ入ったのではないでしょうね」
母が尋ねる。
「ちょっとだけ」
「エリシア」
「……膝くらい?」
「そういう問題ではありません」
父が笑いを堪えている。
「あなたも笑わないでください」
「すまない」
ユリウスもつられて笑った。
何も変わっていない。
そう思いたかった。
「お兄ちゃん」
「ん?」
「また難しい顔してる」
「してない」
「してる」
「してない」
「してるよ」
昔から繰り返してきたやり取り。
ユリウスは少し考えてから言った。
「……明日」
「なに?」
「時間があったら、村へ行くか」
エリーの顔が明るくなる。
「ほんと?」
「ああ」
「約束ね」
「約束だ」
父が笑う。
母も笑う。
エリーが笑う。
その光景をユリウスは生涯忘れることがなかった。
それが、家族四人で囲んだ最後の食卓になったからだ。
◇
翌朝。
警鐘が鳴った。
ユリウスは寝台から跳ね起きる。
ほぼ同時に爆発音。
窓へ駆け寄る。
黒煙が上がっていた。
正門方面。
そして帝国軍旗。
「……来た」
背中が冷たくなる。
廊下へ飛び出した。
「若!」
領兵が駆けてくる。
「状況は!」
「帝国軍です!正門が突破されました!」
「父上は!」
「大広間に!」
ユリウスは走った。
使用人。
武器を抱えた兵士。
泣く子供。
外からは装甲機竜の駆動音が響く。
窓の向こうを。
アルヴェイン側の《ワイバーン》が通過した。
直後。
帝国軍の射撃。
閃光。
爆発。
「お兄ちゃん!」
「エリー!」
母と妹がいる。
ユリウスは駆け寄った。
「何が起きてるの?」
「……大丈夫だ」
「でも――」
「俺から離れるな」
何が大丈夫なのか。
自分にも分からない。
ただそう言うしかなかった。
大広間へ入る。
父がいた。
既に地図を広げている。
周囲には家臣と領兵。
そしてガウマン。
いつでも機竜を装着できる状態だった。
「来たか」
「父上!」
「帝都から正式な書簡がきた」
その顔を見ただけでユリウスには分かった。
「アルヴェイン辺境伯家は、帝国への反逆を企てた」
「そんな……!」
母が息を呑む。
「ということになったらしい」
「兵力は」
ユリウスが尋ねる。
「持たねえ」
答えたのはガウマンだった。
「正門だけじゃねえ。東も南も押さえられてる。最初から、こっちを潰すために用意してきやがった」
「地下道は?」
「先に塞がれた」
ガウマンが歯を食いしばる。
「内情まで割れてる」
父が静かに言う。
「これは戦争ではない」
そして。
「粛清だ」
ユリウスにも理解できた。
勝つための軍ではない。
降伏させるつもりでもない。
最初からアルヴェイン家を消すために。
帝国軍は来た。
轟音。
また。
屋敷が揺れる。
「殿」
ガウマンが言った。
「西側だけ、まだ包囲が薄い」
「どれだけ動かせる」
「兵が二十。動かせる機竜は三騎」
「領民を逃がせ」
ガウマンの眉が寄った。
「殿」
「聞こえなかったか」
「俺はあんたの護衛だ」
「今は違う」
父の視線が。
ユリウスとエリーへ向く。
「この二人も連れていけ」
「父上!」
ユリウスが一歩出る。
「嫌です!」
「ユリウス」
「俺も残ります!」
「駄目だ」
「機竜適性だってあります!戦えないわけじゃ――」
「そういう話ではない!」
厳しい声だった。
ユリウスが黙る。
「ガウマン」
「……はい」
「西から領民を逃がせ。二人を連れて行け」
「殿は」
「残る」
短い答え。
「なら俺も――」
「ガウマン」
父は彼を真っ直ぐ見た。
「ここを守ることが、お前の仕事ではない」
「……」
「人を守れ」
ガウマンの拳が握られる。
「……ずりい命令だな」
「知っている」
「俺は、あんたの家臣ですよ」
「だから」
父は答えた。
「命令している」
沈黙。
やがてガウマンが頭を下げた。
「……承知しました」
父は次にユリウスを見る。
「ユリウス」
「父上……」
「エリシアを頼む」
「そんなこと……」
「頼む」
「嫌です」
ユリウスの声が震える。
「そんな、最後みたいに言わないでください」
父は息子の前まで歩いた。
肩へ手を置く。
夜遅くまでペンを握り、領民のことを案じ続けた父の手。
「恨むなとは言わない」
「……」
「そんなことを言えるほど、私は立派な父親ではない」
「父上……」
「だが」
青灰色の瞳がユリウスを見る。
「憎しみだけで、生きるな」
あの日執務室で聞いた言葉が続く。
「力を持つ者ほど、自分の正しさを疑え」
ユリウスの目に涙が浮かんだ。
「……はい」
「忘れるな」
「……はい」
母も二人の前へ来た。
濡羽色の髪。
自分と同じ色。
エリーを抱きしめ、そして。
ユリウスも抱き寄せた。
「二人とも」
優しい声。
「生きなさい」
エリーが母の服を掴んだ。
「お母様も行こう」
「エリー」
「一緒に行こうよ」
母は泣かなかった。
ただ、娘の頬へ触れる。
「大丈夫」
その言葉は嘘だったのかもしれない。
「お兄様の言うことを聞いて」
「嫌……」
「エリー」
「嫌だよ……!」
母が娘の額へ口づける。
そして、離した。
「ガウマン」
父の声。
「行け」
「……はい」
ガウマンがユリウスの肩を掴む。
「若」
「離してください!」
「行くぞ!」
「父上!」
「走れ!」
ガウマンが二人を強引に連れ出した。
「父上!」
「お父様!」
「母上!」
「お母様!」
扉が閉じる。
最後に見えたのは。
並んで立つ。
父と母の姿だった。
◇
屋敷の西側。
避難路には既に大勢の領民が集められていた。
「老人と子供を先に!」
ガウマンが怒鳴る。
「荷物は捨てろ!命だけ持ってけ!」
アルヴェインの領兵たちが人々を誘導する。
ユリウスはエリーの手を握っていた。
強く、痛いほど。
「お兄ちゃん……」
「離れるな」
「お父様たちは?」
答えられない。
「お兄ちゃん」
「……離れるな」
それしか。
言えなかった。
「若!」
ガウマンが叫ぶ。
「こっちだ!」
一行は林の中へ入る。
山道を抜け、屋敷から離れていく。
背後では何度も爆発音が響いていた。
「ガウマン!」
「振り返るな!」
「父上たちは!」
「今は走れ!」
「答えてください!」
「若!」
ガウマンが初めて本気で怒鳴った。
「今のお前の仕事は、エリーお嬢から手を離さねえことだ!」
ユリウスは息を呑んだ。
父の言葉。
エリシアを頼む。
ユリウスは隣を見る。
妹は泣いている。
「……分かりました」
手を握り直す。
「エリー」
「……うん」
「行くぞ」
二人は走った。
◇
しばらく進んだところで避難路は少し高い尾根を通った。
そこから屋敷が見えた。
いや、屋敷だったものが燃えている。
「……」
ユリウスの足が止まった。
「若!」
ガウマンが振り返る。
だがもう遅かった。
炎。
黒煙。
崩れ落ちる屋根。
アルヴェイン家の旗は、どこにも見えない。
「……お屋敷」
エリーが小さく呟いた。
その時屋敷の前を帝国兵たちが進んでいた。
何かを運んでいる。
担架。
二つ。
白い布。
風が吹く。
片方の布が。
僅かに捲れた。
淡い金色。
「……」
ユリウスの呼吸が止まった。
父の髪。
分かる。
見間違えるはずがない。
もう一つ。
担架から垂れている。
長い。
濡羽色の髪。
「……母上」
声が出た。
「え?」
エリーも見る。
「お兄ちゃん、あれ……」
「見るな!」
ユリウスは咄嗟に妹を抱き寄せた。
「お兄ちゃん……?」
「見るな、エリー」
自分は。
見てしまった。
だから。
せめて。
妹には。
「見るな……」
腕の中で。
エリーが震えている。
「お父様……?」
「……」
「お母様……?」
答えられない。
ガウマンも何も言わなかった。
ただ。
顔を歪め。
燃える屋敷を見た。
そして。
「……行くぞ」
掠れた声。
「ここにいたら、殿たちが残った意味がなくなる」
ユリウスは歯を食いしばった。
涙を拭った。
「……はい」
エリーの肩を抱いて。
また。
歩き始めた。
◇
日が傾き始める頃、追撃が始まった。
『後方、帝国軍機竜!』
《ドレイク》を纏った領兵の声。
「数は!」
『《ワイバーン》四!さらに地上から兵が――』
「くそっ!」
ガウマンが機竜を纏う。
避難民の中に動揺が走った。
「走れ!」
ガウマンが怒鳴る。
「止まるな!先頭はそのまま西へ!」
「ガウマン!」
「若はエリーお嬢と行け!」
「でも――」
「ここは俺たちの仕事だ!」
《ワイバーン》を纏ったガウマンが空へ飛び出す。
直後。
帝国機と衝突した。
金属音。
閃光。
ブレードがぶつかる。
「ガウマンさん!」
「逃げろ!」
ガウマンが敵機を蹴り飛ばす。
「領民に近づけるな!」
『了解!』
アルヴェイン側。
三。
帝国側。
四。
だがそれだけではなかった。
『右側面から増援!』
「何機だ!」
『六――いや、まだ来ます!』
「ちっ……!」
数が増える。
ガウマンは引かない。
一騎。
斬る。
二騎目。
射線を避け。
別の敵へぶつける。
「正面だけ見んな!避難民に回り込ませるな!」
だが数が違いすぎる。
一騎。
アルヴェイン側の機竜が落ちた。
『ぐあっ!』
「無理すんな!立てるなら避難民と下がれ!」
『ですが――』
「死んだら次がねえ!」
また敵が回り込む。
ガウマンが追う。
その隙に別の部隊が林の中から現れた。
「いたぞ!」
帝国兵。
徒歩部隊。
「止まれ!」
避難民から悲鳴。
ユリウスがエリーを後ろへ下げる。
「エリー」
「お兄ちゃん……!」
「俺の後ろにいろ」
十二歳。
武器などない。
それでも。
妹の前に立つ。
「子供か」
「貴族の格好だ」
帝国兵が。
ユリウスを見る。
「黒髪……それにその目」
もう一人。
エリーを見る。
「こっちは金髪」
「アルヴェインの子供じゃないのか?」
ユリウスの背中が冷たくなる。
「エリー」
「……うん」
「俺が言ったら走れ」
「でも」
「いいから」
兵士が近づく。
「動くな」
ユリウスは。
その瞬間。
飛び込んだ。
「っ!」
兵士の懐へ体当たり。
相手は一瞬よろめいた。
「エリー!走れ!」
「お兄ちゃん!」
「走れ!」
エリーが駆け出す。
「このガキ!」
ユリウスの腕が掴まれる。
捻られる。
「ぐっ……!」
蹴る。
噛みつく。
何でもした。
「離せ!」
「大人しくしろ!」
「エリー!」
別の兵士が妹を捕まえた。
「きゃっ!」
「エリー!」
「お兄ちゃん!」
遠くでガウマンが気付いた。
『若!?』
機竜が方向を変える。
『若!エリーお嬢!』
だがその前へ帝国軍の《ワイバーン》が三騎、立ちはだかる。
『どけぇぇぇぇッ!!』
ガウマンの怒声。
ブレード。
一騎目を弾く。
二騎目をかわす。
三騎目。
射撃。
避けざるを得ない。
進めない。
『くそっ!』
「ガウマン!」
『若!!』
ユリウスが。
兵士に引きずられる。
エリーも。
別方向へ。
「待て!」
ユリウスは。
妹へ手を伸ばした。
「エリー!」
「お兄ちゃん!」
エリーも手を伸ばす。
あと少し届かない。
「離せ!」
兵士の腕へ噛みつく。
「痛っ!」
一瞬。
緩む。
ユリウスが妹へ向かう。
「エリー!」
「お兄ちゃ――」
背後から。
殴られた。
視界が揺れる。
「っ……」
膝をつく。
「お兄ちゃん!」
「エリー……」
また。
引き離される。
「お兄ちゃん!」
「エリー!」
声だけが。
遠ざかっていく。
あの日。
父は。
言った。
エリシアを頼む。
それなのに。
守れない。
「エリー!」
「お兄ちゃん――!」
声が。
途切れた。
◇
どれだけ時間が経ったのか。
ユリウスには分からなかった。
手を後ろで拘束され、軍用馬車の荷台へ放り込まれている。
エリーはいない。
「……妹は」
帝国兵が振り返る。
「何だ」
「妹はどこだ」
「黙ってろ」
「どこへ連れていった」
「知らん」
「答えろ!」
「黙れ!」
腹へ蹴りが入る。
「っ……!」
身体を丸める。
それでも。
「……エリーを」
声を出す。
「返せ……」
兵士がユリウスを見下ろした。
隣にいた別の男が書類を確認する。
「こいつがユリウス・アルヴェインか」
「ああ」
「殺すなよ」
ユリウスの耳がその言葉を拾う。
「第七支部から、身柄を確保しろと命令が来てる」
「第七……支部?」
「機竜適性が高いらしい」
男は荷物を見るようにユリウスを見る。
「使い道があるんだとさ」
ユリウスは返事をしなかった。
幌の隙間から遠くを見る。
空が赤い。
アルヴェイン家の方角。
燃えている。
昨日まで。
そこには家があった。
父がいた。
母がいた。
妹がいた。
夕方になれば。
エリーと村へ行く。
そんな約束までしていた。
たった。
それだけの未来だった。
それが。
一日もかからず。
すべて。
消えた。
十二歳の冬。
アルヴェイン辺境伯家は滅びた。
父が最後のアルヴェイン辺境伯となった。
母を失った。
エリーの行方も。
分からない。
そしてユリウス・アルヴェインは、帝国軍によって一人連れ去られていく。
その行き先はアーカディア帝国機竜技術開発局 第七支部。
そこで何が行われているのか。
なぜ自分が選ばれたのか。
ユリウスはまだ知らない。
ただ。
この日を境に。
父の言葉は。
彼の中から。
二度と消えることがなくなった。
――力を持つ者ほど、自分の正しさを疑え。
そしてその言葉が。
いつか一つの組織の根にまで育つことも。
まだ。
誰も知らなかった。