白き怪鳥 作:かぼちゃ頭
ユリウス・アルヴェインが目を覚ました時、最初に感じたのは薬品の臭いだった。
鼻の奥に残る消毒液と金属の匂い。目を開けば、白い天井と何の装飾もない壁が見えるだけで、窓は一つもない。身体を起こそうとした瞬間、両手首に鈍い痛みが走り、視線を落として初めて、手足が寝台へ固定されていることに気付いた。
頭が重い。口の中には薬のような苦味が残っている。
どれほど眠らされていたのかも分からなかった。
「……エリー」
最初に口から出たのは、妹の名前だった。
当然、返事はない。
最後に見たエリーは帝国兵に腕を掴まれ、自分とは逆の方向へ連れて行かれていた。父譲りの淡い金髪を振り乱し、青灰色の瞳から涙を流しながら、こちらへ手を伸ばしていた。
――お兄ちゃん。
その声だけが耳の奥に焼き付いている。
「……くそ」
拘束具を引いてみたが、金属音が鳴るだけだった。
「無駄だよ」
不意に、部屋の奥から声がした。
ユリウスが顔を上げると、白衣を着た男が立っていた。四十代から五十代ほどだろうか。痩せすぎているわけではないが、研究者特有の不健康さがどこかにあり、こちらを見る目には敵意も侮蔑もない。
それが、かえって不気味だった。
人間ではなく、珍しい標本でも眺めているような目だった。
「誰だ」
「ヴィクトール・グレイヴァー。アーカディア帝国機竜技術開発局、第七支部の研究主任だ」
第七支部。
捕らえられた時、帝国兵が口にしていた名称だった。
「妹はどこだ」
「知らない」
「調べろ」
「それは私の職務ではない」
「俺の知ったことか」
ヴィクトールは怒るでもなく、手元の資料へ目を落とした。
「ユリウス・アルヴェイン、十二歳。装甲機竜への適性は極めて高い。知覚反応、平衡感覚、空間認識能力も同年代の平均を大きく上回る。身体的な順応性も良好」
「だから何だ」
「君には価値がある」
その言葉に、ユリウスは眉をひそめた。
アルヴェイン辺境伯家の嫡男でもなければ、家族を失った十二歳の少年でもない。ただ使える素材として、自分を見ている。
「俺をどうするつもりだ」
「人間を、装甲機竜へ適応させる」
ヴィクトールは壁際まで歩き、そこへ貼られた資料を示した。
人体の神経系、筋肉、眼球、平衡器官。そこへ装甲機竜の制御機構を重ね合わせた図面が何枚も並んでいる。
「装甲機竜の解析は進んでいる。だが、発掘される機体が高度になるほど、今度は人間の側が性能を引き出せなくなる。認識速度、肉体耐久性、対加速能力、情報処理能力。どれほど優れた機体があっても、操る人間が追いつかなければ意味がない」
「……だから?」
「発想を逆転させる」
ヴィクトールが振り返る。その顔に、初めてわずかな熱が浮かんだ。
「機械を人間へ合わせるのではない。人間を、機械へ合わせる」
ユリウスの視線が、その背後に置かれた計画書へ向かった。
《エインヘリアル計画》。
「永遠に戦う戦士、か」
ヴィクトールは満足そうに頷いた。
「良い名前だろう?」
ユリウスは答えなかった。
ただ心の中で、一つだけ決めた。
ここから出る。
何をされても生き延びる。
そして、エリーを探す。
それだけだった。
◇
第七支部では、人間が少しずつ番号に変わっていった。
ユリウスも最初のうちは名前ではなく、被験体番号で呼ばれた。
採血、投薬、筋力測定、神経刺激、視覚試験、聴覚試験。複数の標的を同時に追わせながら別の文字列を読み、さらに異なる音声情報を処理させる。多軸式の回転装置へ固定され、上下左右の感覚を失わせた状態で標的を追わせる訓練もあった。
高加速試験では視界が暗くなっても止めてもらえず、吐けば口元を拭かれて再開された。倒れれば脈拍と神経反応を測られ、意識が戻ればまた続きが待っている。
機竜を使った訓練では、さらに露骨だった。
《ワイバーン》で高速飛行をさせながら複数の標的を追い、《機竜息銃》で指定された部位だけを狙わせる。地上訓練では《機竜爪刃》を投擲した直後に接近戦へ移行し、《竜尾鋼線》を使った中距離制圧まで連続して行わせた。
単純な腕前を見る試験ではない。
飛ぶ。
見る。
判断する。
撃つ。
かわす。
次の敵を探す。
そのすべてを、どれだけ同時に処理できるかを測っている。
「見えているだけでは意味がない」
回転する視界の向こうから、何度もヴィクトールの声が響いた。
「認識して、選択して、動け」
「……簡単に言うな」
「返事ができるなら、まだ余裕がある」
「本当に……殴るぞ……」
「試験終了後なら構わない」
冗談ではなかった。
ヴィクトールにとって、自分が殴られる可能性さえ観測材料の一つなのだろう。
肉体への処置も続いた。
心肺機能、血流、神経伝達、平衡感覚、感覚処理。さらに装甲機竜を長時間纏うことを前提に、身体へかかる負荷を段階的に引き上げていく。
大掛かりな機械を埋め込まれたわけではない。それでも、身体の中身が少しずつ以前とは違うものになっていく感覚はあった。
試験後には指先が震え、耳鳴りが止まらない日がある。明るすぎる光に目を開けていられず、大きな音が頭痛に直結することもあった。寝台へ横になっても、身体だけがまだ回転しているように感じる夜もある。
逆に限界を越えれば、糸を切られたように意識を失った。
そして、以前より甘いものを欲するようになった。
「また砂糖取ってる」
食堂でそう言ったのは、ユリウスより少し年下の少女だった。
「悪いか」
「悪くないけど。昨日もいっぱい入れてた」
「頭使うと腹が減るんだよ」
「そうなの?」
「多分な」
「ふーん」
少女の名はミア。
研究員たちは被験体番号で呼んでいたが、ユリウスはそう呼ばなかった。彼女は空間認識と感応性に優れていた一方で、薬物との相性が悪く、日によって体調も感情も大きく揺れていた。
ある日の夕食時、ミアはパンをちぎりながら突然尋ねた。
「ねえ、ユリウス」
「何だ」
「私、明日もいるよね?」
ユリウスの手が止まった。
「なんでそんなこと聞く」
「昨日、隣の部屋の子がいなくなった。その前の日も」
ミアは笑おうとしたが、うまくできていなかった。
「明日の試験が終わったら、私、またここに来れる?」
大丈夫だとは言えなかった。
ここで何人が消えたか、ユリウスも既に知っている。
だから嘘はつかなかった。
「……少なくとも、明日の朝は食堂で待ってる」
ミアは少しだけ安心したように笑った。
「うん」
翌朝。
ミアは来なかった。
昼にも、夜にも姿を見せなかった。
数日後、研究員が持っていた記録の一部を偶然目にした。
《感応性試験後、重度神経障害。移送》
たったそれだけだった。
「ミアだ」
記録を持っていた研究員が顔を上げる。
「何?」
「そいつの名前だ。被験体じゃない。ミアだ」
「……」
「覚えとけ」
研究員は何も答えず、理解できないものを見るような目でユリウスを見た。
◇
レイヴンは、ミアとは違った。
ユリウスと同い年か、少し上。身体が強く、薬物耐性にも優れ、反射速度も高かった。
ただし、妙に醒めていた。
「夜中に廊下へ出るな」
ある夜、寝台へ横になったままレイヴンが言った。
「なんでだ」
「見たくねえものを見るぞ」
「何を」
「運ばれていく奴」
ユリウスは隣の寝台へ視線を向けた。
「死んでるのか」
「知らねえ。でも、ここには戻ってこない」
それきりレイヴンは黙った。
数週間後、彼は装甲機竜を使った実戦試験へ回された。
出発前、廊下ですれ違った。
「ユリウス」
「何だ」
「もしここから出られても、俺たちのこと忘れるなよ」
ユリウスは眉を寄せた。
「何だよ、それ」
「そのまんまだ」
レイヴンは笑った。
それが最後だった。
彼は帰ってこなかった。
研究員たちも、詳しいことは教えなかった。
ただ、それ以降レイヴンの寝台が使われることはなかった。
人が一人消えても、ここでは何事もなかったように翌日の試験が始まる。
ミア。
レイヴン。
ほかにもいた。
一緒に食事をした者、隣の試験台へ縛られていた者、名前を聞く前にいなくなった者。
だからユリウスは、できる限り覚えようとした。
自分まで彼らを番号としてしか見なくなれば、本当に誰も覚えていなくなるような気がした。
◇
二年が経った。
十四歳になったユリウスは、第七支部へ連れてこられた頃とは明らかに違っていた。
視界の端で何かが動けば、考えるより先に位置と速度を把握する。複数の音声を同時に聞き分けられ、高加速の中でも思考を失わず、敵味方の位置を一度に処理できる。
《機竜息銃》を構えながら、別方向から飛んでくる《機竜爪刃》の軌道を読み、さらに《竜尾鋼線》による拘束を避けながら次の位置まで選ぶ。
かつては順番に考えていたものが、今ではほとんど同時に処理できるようになっていた。
時には、視界へ入るより早く誰かが近づいてくる方向を感じ取ることさえあった。
代償は残った。
頭痛、耳鳴り、浅い眠り、過敏になった感覚。戦闘試験後には神経が昂ったまま眠れず、その反動で翌日は泥のように眠る。
それでも、壊れなかった。
適応してしまった。
「素晴らしい」
試験結果を見ながらヴィクトールが言った。
ユリウスは装置から降り、震える指を握り込んだ。
「何がだ」
「君だよ。肉体耐久、知覚速度、認識精度、対加速能力、空間把握、どれも想定を越えている。《エインヘリアル計画》は正しかった」
「……ミアも」
ヴィクトールが顔を上げる。
「レイヴンも」
「彼らは無駄ではなかった」
ヴィクトールが発したその言葉に、ユリウスの目が冷たくなる。
「何?」
「失敗した被験者からもデータは得られた。投薬量、神経負荷、感応性と精神状態の関係、肉体の限界。そのすべてが次の処置へ生かされている」
ヴィクトールは悪びれない。
むしろ、本当に彼らへ感謝しているようだった。
「彼らの積み重ねが君を作った」
ユリウスの手がわずかに動いた。
今なら、この距離なら、おそらく殺せる。
だが、止めた。
ヴィクトールは気付いたのかどうか分からない。
「ユリウス。次の段階へ進もう」
「……次?」
「君なら、あれを扱えるかもしれない」
◇
それが第七支部へ運び込まれたのは、その数日後だった。
地下格納区画には普段の実験機とは比較にならないほど厳重な警備が敷かれ、帝国軍人だけでなく、支部中の研究者と技術者が集まっていた。
ユリウスは観察室から、その中央を見下ろした。
最初に目へ入ったのは、全体を覆う布からちらりと除く、白。
次に感じたのは、異質さだった。
人間がその身に纏う三メートル級の機動装甲であることに変わりはない。だが、全身を覆う白く角ばりながら複雑な装甲形状、巨大な飛行装備は、既知の装甲機竜とは明らかに設計思想が違う。
「……何だ、あれ」
「新たに《遺跡》から発掘された機竜だ」
隣でヴィクトールが答えた。
「分類は?」
「便宜上は神装機竜」
「便宜上?」
「それ以外に分類しようがない。出力も、制御機構も、兵装も、既知の神装機竜とは大きく異なる。神装に相当する特殊能力も確認できていないが、汎用機竜と呼ぶには性能が高すぎる」
「飛行装備は?」
「分からない。ただ、既存の飛翔型とは推進原理そのものが異なる可能性がある」
ヴィクトール自身も、普段より饒舌になっていた。
この世界では、《遺跡》から理解不能なものが発掘されること自体は珍しくない。そもそも装甲機竜そのものが、完全には解明されていない古代兵器だ。
それでも、ユリウスは妙な胸騒ぎを覚えた。
「記録名が残っている」
ヴィクトールから渡された資料へ目を落とす。
そこに記されていた文字を見た瞬間、ユリウスの呼吸が止まった。
ODYSSEUS GUNDAM.
PENELOPE.
「……は?」
「知っているのか?」
ヴィクトールが即座に反応した。
ユリウスは資料から目を離せなかった。
ペーネロペー。
オデュッセウスガンダム。
前世で知っている。
『機動戦士ガンダム 閃光のハサウェイ』に登場した機体。
ガウマンの時とは違う。
今度は人間ではなく、ガンダムそのものだった。
しかも、前世で知っていた巨大なモビルスーツではない。この世界の装甲機竜と同じ、人間が纏う三メートル級の機動装甲として存在している。
「……どうなってるんだよ」
思わず漏れた。
「やはり何か知っているな?」
「知らない」
「その反応でか?」
「俺だって驚く」
ユリウスは適当に誤魔化した。
ヴィクトールは疑っていたが、それ以上追及しなかった。彼の興味は別のところにある。
「これまで何人かに装着させたが、誰も性能を引き出せなかった。装着自体は可能だが、情報量に耐えられない。特に複数兵装の同時制御と飛行系統だ」
そして、ヴィクトールはユリウスを見る。
「君なら扱える」
ユリウスは再び白い機体へ視線を戻した。
理由は分からない。
なぜこの世界にあるのかも。
なぜ《遺跡》から発掘されたのかも。
それでも、一つだけ確かなことがあった。
――これなら。
ここから出られる。
◇
起動試験の日。
白い装甲が、ユリウスの身体へ次々と装着されていく。
脚、腰、胴、腕。そして背後から、全身を包むように巨大なFFユニットが展開する。
形は異質でも、装甲機竜と同じだった。
乗り込むのではない。
纏う。
人間の身体と機械が、一つの運動系として重なる。
「精神制御系、接続開始」
「肉体制御、同期」
「各部正常」
研究員たちの声が飛び交う。
次の瞬間。
ユリウスの意識へ、膨大な情報が流れ込んだ。
「ぐっ……!」
視界、姿勢、出力、各部の状態、周囲の空間、兵装、残量、距離。
数え切れない情報が、それぞれ意味を保ったまま一度に頭へ入ってくる。
頭が割れそうだった。
耳鳴りがする。
吐き気も込み上げる。
『ユリウス!』
通信越しにヴィクトールの声が響いた。
『処理しろ!』
「簡単に……言うな……!」
『見えているだけでは意味がない。認識して、選択して、動け!』
何百回も聞かされた言葉。
ユリウスは歯を食いしばり、押し寄せる情報を一つずつ意味のあるものへ切り分けていく。
そこで、気付いた。
知っている。
ビーム・ライフル。
ビーム・サーベル。
FFユニット内部のファンネル・ミサイル。
そして、思考へ直接応答する制御系。
「……サイコミュ」
『何?』
「いや」
前世の知識と、第七支部で身体へ叩き込まれた装甲機竜の肉体制御・精神制御。
本来なら無関係な二つが、自分の中で繋がっていく。
意識を向ける。
機体が応じる。
身体を動かそうと考える頃には、装甲はもう動き始めている。
「……気持ち悪いな」
それほどまでに近い。
自分と機体の境界が。
研究員たちがざわめき始めた。
「同期率上昇!」
「制御できています!」
「各兵装、正常応答!」
通信の向こうで、ヴィクトールだけが歓喜していた。
『やはりだ……! 君は被験体ではない』
ユリウスの目が細くなる。
『完成形だ』
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが冷えた。
『君こそが《エインヘリアル》だ』
「……違う」
『何?』
「俺は、お前の作品じゃない」
FFユニットのフィンに光がともる。
同時に、格納区画へ警報が鳴り響いた。
「飛行系が起動しています!」
「試験手順にはない!」
『ユリウス、何をしている!』
「俺は」
白い機体が床から浮いた。
既知の装甲機竜のように翼を使うわけでも、噴射の反動で強引に持ち上がるわけでもない。
ただ、そこに浮かぶ。
「ユリウス・アルヴェインだ」
そして、一気に加速した。
正面では警備用の装甲機竜が道を塞ぐ。
「止まれ!」
《機竜息銃》の射撃が放たれた。
だが《ペーネロペー》は旋回せず、真横へ滑るように軌道を変えた。
空間そのものへ機体を置き直したかのような挙動に、帝国兵が息を呑む。
「なっ――」
ユリウス自身も驚いていた。
「……本当に飛ぶのかよ」
ミノフスキー・フライト。
前世では知識として知っていた。
だが、自分の身体で体験する感覚はまるで違う独特な浮遊感。
意識を向けると、FFユニットから複数のファンネル・ミサイルが分離した。
一基ごとに別の標的を捉える。
《機竜息銃》。
飛行機構。
武器を保持する腕部。
ユリウスが破壊したい場所へ、ミサイルは正確に向かっていった。
爆発。
警備機が次々と戦闘能力を失う。
人間は狙わない。
殺す必要はない。
別の一騎が《機竜爪刃》を投じる。
その軌道を視界の端で捉え、わずかに高度を変えるだけでかわした。
さらに横から《竜尾鋼線》が伸びてくるが、拘束されるより先に《ペーネロペー》が斜め上へ滑り、鋼線は空を切った。
搬入口が閉じ始める。
ユリウスは右手へビーム・ライフルを呼び出し、照準を合わせる。
桃色の閃光が走った。
扉そのものではなく、閉鎖機構だけが焼き切れる。
開いた隙間へ白い機体が飛び込み、その勢いのまま第七支部の外へ抜けた。
背後ではビームライフルでの破壊の余波で崩れた構造物が一部の通路を塞ぎ、警報と怒号が遠ざかっていく。
そして。
二年ぶりの空。
風。
月。
夜。
――ォォォォォォォォ……。
低く、奇妙な音が夜空へ響いた。
装甲機竜の羽音でもなければ、獣の咆哮でもない。
白い怪鳥の鳴き声。
「……外だ」
ユリウスは、しばらく何も言えなかった。
窓すらない場所で二年間を過ごした。
空を見るだけで、涙が出そうになった。
しかし、まだ終わっていない。
「エリー」
《ペーネロペー》の進路を変える。
「待ってろ」
白い怪鳥は、夜の向こうへ消えた。
◇
《ペーネロペー》を奪ったからといって、自由になったわけではなかった。
帝国から見れば、ユリウスは極秘研究施設から逃亡した実験体であり、同時に正体不明の神装機竜を奪った重大な逃亡者でもある。
追跡されるのは当然だった。
そこで《ペーネロペー》は第七支部から離れた山岳地帯の洞窟へ隠した。あの白い異形を日常的に使えば、自分の居場所を宣伝して回るようなものだ。
必要な時以外は使えない。
だからユリウスは、生身で動いた。
目的は一つ。
エリーを探す。
帝国の記録を盗み見て、奴隷商人を追い、裏社会の人間から情報を買い、時には脅しも使った。
半年。
さらに数ヶ月。
途中で何度も言われた。
もう死んでいるかもしれない。
名前などとっくに変えられている。
探すだけ無駄だ、と。
それでも諦めなかった。
生きている。
そう信じるしかなかった。
◇
十五歳になった頃。
ようやく、一つの場所へ辿り着いた。
表向きは上流階級向けの社交施設。
実態は、帝国貴族の一人が裏で運営している非合法な高級娼館であり、人身売買の拠点でもあった。
その主人を、ユリウスは施設の奥へ追い詰めた。
「エリシア・アルヴェインはどこだ」
「知らん!」
「もう一度聞く。エリシア・アルヴェインはどこだ」
男は壁際まで下がっていた。
「だから知らないと言って――」
ユリウスは腰のナイフを抜き、男の顔のすぐ脇へ突き立てた。
「ひっ……!」
「次は外さない」
それで十分だった。
男は喋った。
地下。
最奥。
鍵の掛かった部屋。
そこまで案内させる。
「ここだ! 本当にここだ!」
震える手で鍵が開けられる。
ユリウスは男を押し退け、扉を開いた。
薄暗い部屋。
薄い板に布をかぶせた寝台とすらいえない粗末な寝床。
そこに、一人の少女が横たわっていた。
足が止まった。
淡い金色だった髪は艶を失い、頬は痩せ、腕は信じられないほど細い。身体には古い傷と新しい傷が残り、呼吸も浅かった。
意識はない。
それでも、見間違えるはずがなかった。
「……エリー」
ユリウスはゆっくりと近づき、寝台の横へ膝をついた。
「エリー」
返事はない。
震える手で頬へ触れる。
温かい。
生きている。
「……お兄ちゃんだ」
声が掠れた。
「迎えに来たぞ」
何年、この瞬間だけを考えてきたか。
でも、こんな姿で会いたかったわけじゃない。
「遅くなって……」
喉が詰まった。
「ごめん」
返事はない。
背後から、男の声が聞こえた。
「ほ、ほら! 生きてるだろ!」
ユリウスが振り返る。
「私は殺してない! 買っただけだ! 攫ったのは私じゃない、売られてきたものを買っただけだ!」
その言葉を聞いた瞬間。
ユリウスの中で、何かが切れた。
「父上を返せ」
男の表情が固まる。
「……何?」
「母上を返せ」
「ま、待て……」
「……俺の妹を返せよ」
ナイフを握る。
男が後ずさった。
「待て! 医者を用意する! 金も払う! 何でもする! だから――」
ユリウスは踏み込んだ。
最初の一撃。
男が悲鳴を上げる。
その声に重なるように、燃えるアルヴェイン邸が脳裏へ蘇った。
二つの担架。風に捲れた白布の下から覗いた父の淡い金髪と、地面へ垂れていた母の濡羽色の髪。
もう一度。
今度は、故郷を逃げていく領民たちの姿が見えた。
泣く子供を抱えて走る母親。足の悪い老人を両側から支える若者。長年暮らした家を捨て、持ち出せない家財を置き去りにし、それでも帝国兵から逃げるために走っていた人々。
そして、ガウマンの怒鳴り声。
『止まるな! 走れ!』
もう一度。
薬品臭の染みついた第七支部。
白い天井。
手首を締める拘束具。
吐いても終わらない遠心試験。
耳鳴り。
震える指。
眠れない夜。
《機竜息銃》の照準を合わせ続け、《機竜爪刃》を投げ、《竜尾鋼線》をかわし、どれだけ苦しくても「次」を選ばされ続けた日々。
『見えているだけでは意味がない。認識して、選択して、動け』
ヴィクトールの声が聞こえる。
もう一度。
『私、明日もいるよね?』
ミア。
翌朝には空いていた席。
さらに。
『もしここから出られても、俺たちのこと忘れるなよ』
レイヴン。
二度と戻らなかった少年。
ほかにもいた。
名前を知っていた者も、知る前に消えた者も。
番号で呼ばれ、壊され、一枚の報告書の一行へ変えられていった子供たち。
「や、やめ――」
男が何かを言っている。
聞こえなかった。
いや。
聞こうとしていなかった。
父。
母。
故郷。
領民。
第七支部。
ミア。
レイヴン。
二年間の実験。
エリーを探し続けた一年。
そして、目の前で眠る痩せ細った妹。
この三年間で積み上がった怒りも憎しみも全部が一つになり、目の前の男一人へ流れ込んでいた。
もう一度、刺した。
さらにもう一度。
何度目なのか、途中から分からなくなった。
男が声を上げなくなっても、すぐには止まれなかった。
やがて腕が止まり、荒い呼吸だけが部屋に残った。
足元には、もう動かない男がいる。
握ったナイフを見つめながら、ユリウスはしばらく何も言わなかった。
「……当然だ」
自分へ言い聞かせるように呟く。
「お前は……死んで当然だ」
そう思った。
少なくとも、その時は本気で。
◇
エリーを連れ出してから、ユリウスはひたすら医者を探した。
安全な場所、薬、食料、金。
どれも必要だった。
エリーは目を覚まさない。日によって熱が上がり、呼吸が浅くなるたび、ユリウスは何もできない自分を思い知らされた。
「エリー」
返事はない。
「お兄ちゃんがいる」
同じ言葉を何度繰り返したか分からない。
ユリウス自身の身体も限界に近づいていた。
第七支部の後遺症、長い逃亡生活、睡眠不足、食事不足。それでも妹を背負い、歩き続けた。
いつの間にか、足は旧アルヴェイン領へ向かっていた。
帰る家など、もうない。
それでも故郷へ向かっていた。
◇
森の中で、不意に声が飛んだ。
「止まれ」
ユリウスはすぐにエリーを背へ庇った。
複数の気配。
弓。
装甲機竜。
「誰だ」
ユリウスは答えない。
「その子を下ろせ」
「近づくな」
男の一人が、ユリウスの顔を見て動きを止めた。
濡羽色の髪。
青灰色の瞳。
痩せ、傷だらけになっていても。
「……まさか」
その時、奥から別の男が現れた。
「何だ、騒がしい」
ユリウスが顔を上げる。
無精髭。
見慣れた顔。
以前より少し老けた。
ガウマン。
彼も立ち止まった。
数秒間、互いに何も言えなかった。
「……若?」
ユリウスは口を開こうとした。
声がうまく出ない。
それでも。
「……ガウマン」
その一言で十分だった。
「若……!」
ガウマンが駆け寄る。
しかし途中で、ユリウスの背にいる少女を見て足が止まった。
「……エリー?」
声が震えた。
「エリーお嬢……?」
ユリウスは頷いた。
「医者を」
それだけ言うのが精一杯だった。
「頼む」
そして、意識が切れた。
◇
次に目を覚ました時、天井は木だった。
窓がある。
鳥の声も聞こえる。
薬の臭いはするが、第七支部とはまるで違う。
狂気の滲む臭いではなく、人を癒し治すための臭いだった。
「動くな」
横から声がした。
ガウマンだった。
「三日寝てた」
「エリーは」
「医者が診てる」
「状態は」
「生きてる」
ユリウスは長く息を吐いた。
「……そうか」
「ただ、すぐ目を覚ますかは分からねえ。長くかかるかもしれん」
「生きてるならいい」
目を閉じる。
しばらくして、ガウマンが低く言った。
「……悪かった」
ユリウスが目を開ける。
「あの日、俺がもっと上手くやれてりゃ」
「やめろ」
「若」
「あんたは最後まで俺たちを守ろうとした」
「……」
「あれは、あんたの責任じゃない」
「でもよ」
「俺だって守れなかった」
ユリウスは自分の手を見る。
父。
母。
領民。
ミア。
レイヴン。
エリー。
そして、あの男。
「……守れなかった」
ガウマンはそれ以上何も言わなかった。
少し経ってから、唐突に話題を変えた。
「飯、食えるか」
「……なんで今それだ」
「三日寝てた奴が難しい話してんじゃねえ」
ユリウスは少しだけ笑った。
「甘いものあるか」
ガウマンが怪訝な顔をする。
「お前、昔そんな甘党だったか?」
「……多分違う」
「何だそりゃ」
ガウマンも、ようやく笑った。
◇
ガウマンたちは、アルヴェイン家を再興するために戦っていたわけではなかった。
「別にアルヴェイン家のためじゃねえよ。ここに住んでる連中を守るためだ」
歩ける程度まで回復したユリウスを前に、ガウマンは地図を広げながらそう言った。
辺境伯家が滅んだ後、旧アルヴェイン領では徴発と重税がさらに激しくなり、帝国兵による略奪や人身売買も横行するようになった。そのため旧領兵、村人、商人、医者たちは互いに連絡を取り合い、地下で抵抗を続けていた。
徴発される食料を隠す。
連れ去られそうになった者を逃がす。
奴隷商人の経路を潰す。
帝国軍の巡回情報を村々へ伝える。
必要なら、機竜を用いて《機竜息銃》や《機竜爪刃》を手に帝国兵とも戦う。
華々しい戦いではない。
だが、そこに住む人間が生き延びるための戦いだった。
「殿がいなくなった途端、この有様だ」
ガウマンが吐き捨てる。
「だからやってる。それだけだ」
ユリウスは、その言葉に少しだけ救われた。
父が守ろうとしたものは、父が死んでも完全には消えていなかった。
◇
ただし、ユリウスが生きて戻ったことを知ると、古参の一部から別の声も上がった。
「若を旗にすべきです」
「アルヴェイン家を再興しましょう」
「領民も必ずお戻りを望みます」
「勝手に俺を旗にするな」
部屋が静かになった。
ユリウスは集まった者たちを一人ずつ見た。
「俺は辺境伯じゃない。父上が最後のアルヴェイン辺境伯だ」
「ですが、若なら――」
「血筋が正しいから従えって言うなら、帝国と何が違う」
誰もすぐには答えられなかった。
ガウマンだけが壁にもたれ、黙って聞いている。
「俺はアルヴェイン家を取り戻すために戦うつもりはない」
「では、何のために?」
「人を守るためだ」
ユリウスは少し考えてから続けた。
「誰か一人の都合で、他人の人生が決められるのが嫌なんだ」
帝国は父母の人生を決め、奪い去った。
領民の暮らしを壊した。
第七支部では、ヴィクトールたちがミアやレイヴンの身体を、自分たちの研究のために使い潰した。
エリーもまた、誰かに売られ、買われ、人生を所有物のように扱われた。
そして。
自分自身も。
怒りに任せて、一人の男の生死を勝手に決めた。
そこで、ガウマンが口を開いた。
「なら、問題はお前を旗にするかじゃねえ」
視線が集まる。
「何の旗にするかだ」
ユリウスはその言葉を、長く考えた。
◇
その夜。
ユリウスは眠るエリーの隣に座っていた。
妹はまだ目を覚まさない。
「……エリー」
返事はない。
ユリウスは自分の右手を見た。
あの男を刺した手。
「あれは……救出じゃなかった」
エリーを見つけ、連れ出す。
そこまでは必要だった。
だが、あの男は既に無力だった。武器も持っておらず、エリーの居場所も吐き、命乞いをしていた。
それでも自分は止まらなかった。
「あいつが無実だったなんて思ってない。許す気もない」
それは今でも変わらない。
けれど。
「あの時の俺は、あいつがやったことだけを理由に刺してたんじゃない」
父と母。
燃える故郷。
逃げる領民。
第七支部。
ミア。
レイヴン。
エリー。
この三年間に溜め込んだ怒りのすべてを、目の前の一人へぶつけた。
「最初の一刺しで止まることだってできた」
それでも、止まらなかった。
父の言葉が蘇る。
――力を持つ者ほど、自分の正しさを疑え。
ようやく。
本当の意味が分かった気がした。
人間は、自分を悪だと思っている時よりも、自分こそ正しいと信じた時の方が、時にずっと危うい。
帝国だけではない。
ヴィクトールだけでもない。
自分も例外ではない。
ならば必要なのは、ただ善良な王へ入れ替えることではない。
絶対に正しい英雄でもない。
誰か一人へ未来を預けることでもない。
力を持つ者へ問い続ける。
その力は誰のためにあるのか。
本当に自分は正しいのか。
他人の人生を、自分の都合で決めていないか。
そして、その問いは。
自分自身にも向け続けなければならない。
◇
数日後、旧アルヴェイン領の山中に設けられた仮拠点では、今後の方針を決めるため、抵抗組織の主要な者たちが一室へ集まっていた。
そこにいるのは、かつてアルヴェイン家に仕えていた兵士だけではない。村々を回って帝国軍の動向を伝える者、負傷者を治療する医者、徴発を免れた食料を融通する農民や商人、帝国に追われた人々を匿ってきた者たちもいる。
誰もがユリウスの家臣というわけではなかった。
そしてユリウス自身、それでいいと思っていた。
「若を旗にするのではない、というお考えは分かりました」
古くからアルヴェイン家に仕えていた男が口を開いた。
「アルヴェイン家を再興するためでもない。それも承知しました。ですが――では、何のために立たれるのですか?」
部屋が静かになった。
ユリウスはすぐには答えず、机の上に広げられた地図へ視線を落とした。旧アルヴェイン領を中心に、帝国軍の駐屯地、避難民を匿える村、物資の集積地、協力者のいる町が記されている。
その地図を見ながら、ユリウスの脳裏には、この三年間で見てきたものが次々と浮かんだ。
父と母を奪った粛清。燃える屋敷から逃げ、生まれ育った土地を捨てざるを得なかった領民たち。第七支部で人間ではなく研究材料として扱われたミアやレイヴン。そして、売られ、買われ、一人の人間ではなく所有物のように扱われたエリー。
さらに、自分自身のことも。
妹を救い出したあの日、既に抵抗する力を失っていた男へ、怒りのまま何度もナイフを突き立てた。あの時の自分は、正しいことをしていると信じていた。
どれも違う出来事に見える。
だが、根にあるものは同じだった。
力を持った者が、自分には他人の人生を決める権利があると思い込むこと。
「……反省を促すためだ」
誰かが眉をひそめた。
「反省、ですか?」
「ああ」
ユリウスは顔を上げた。
「帝国は、自分たちが間違っているとは思っていない。税を取ることも、兵を集めることも、逆らう領主を潰すことも、研究のために人間を使うことも、全部『帝国のために必要なことだ』と思っている」
声を荒らげることはなかった。
むしろ静かに話すほど、その場にいる者たちはユリウスの言葉へ耳を傾けていった。
「でも、それは帝国だけの話じゃない。人間は自分が正しいと思えば、いくらでも理由を作れる。国のため、民のため、秩序のため、未来のため。そうやって自分のしていることを正当化しているうちに、いつの間にか他人の人生まで、自分が決めていいと思い始める」
ユリウスは一度言葉を切った。
「あの日の俺も同じだった」
ガウマンの表情が僅かに変わる。
「あの男が無実だったとは思っていない。許す気もない。でも、俺はあいつがしたことだけを理由に刺したんじゃない。父上も、母上も、故郷も、第七支部も、ミアも、レイヴンも……この三年間で積もった怒りを全部、あいつ一人にぶつけた」
自分の右手を見る。
「俺は、自分が正しいと思っていた。だから止まれなかった」
父の言葉が、今も胸の奥に残っている。
力を持つ者ほど、自分の正しさを疑わなければならない。
「だから俺は、自分たちだけが正しいなんて言うつもりはない。帝国が間違っていて、俺たちが正しいから何をしても許されるとも思わない」
「では、戦わないと?」
「違う」
ユリウスははっきりと否定した。
「必要なら戦う。人を守るために武器も持つ。誰かが力で他人を踏みにじるなら、止めるために俺たちも力を使う。ただ、そのたびに問い続ける」
ユリウスは周囲を見渡した。
「あれは本当に必要だったのか。ほかに方法はなかったのか。怒りや憎しみを、正義という言葉で飾っていないか。その力は、本当に誰かを守るために使われているのか」
誰も口を挟まなかった。
それが帝国だけへ向けられた言葉ではないことを、皆が理解し始めていた。
「力を持つ者には、反省を促す。皇帝にも、貴族にも、軍人にも。そして、いつか帝国が滅び、新しい国が生まれたなら、その国を治める者にもだ」
「新しい国にも……?」
「ああ。帝国が滅びれば全部解決するなんて、俺は思っていない」
善良な王が立ったとしても、その次の王まで善良である保証はない。正しい英雄が現れても、その人間が生涯一度も間違えない保証などない。
「誰か一人の善意に、国や人の人生を預けるべきじゃない。王が善良でも、騎士が正しくても、英雄が善人でも、それだけで力が正しくあり続ける保証にはならない。だから必要なんだ。力を持つ者へ『お前は本当に正しいのか』と問い続ける存在が」
ユリウスは静かに告げた。
「それが、俺たちのやることだ。反省を促す者になる」
古参の男が、少し考えてから尋ねた。
「では、我々自身が間違えた時は?」
ユリウスは迷わなかった。
「その時は、俺たちが反省を促される側になる」
小さなどよめきが起こる。
「俺たちだけが例外なんてことはない。もし俺が、自分だけは正しいと思い始めたら止めてくれ。命令だから従えと言い出したら疑え。俺の言っていることがおかしいと思ったら、アルヴェインの血筋なんて気にせず言え」
ユリウスはガウマンを見る。
「必要なら、力ずくでも止めろ」
ガウマンは鼻を鳴らした。
「言われなくてもそうするさ」
「ああ。それでいい」
ユリウスはほんの僅かに笑った。
「俺たちは帝国を倒すためだけの集団じゃない。誰かを新しい王にするための軍でもない。力を持つ者へ問いを投げ、その問いから自分たちだけは逃げない。それを忘れないための集まりだ」
そこでガウマンが腕を組んだまま口を開いた。
「理念は分かった。だが、組織として動くなら名前もいるだろ」
「そうだな」
「アルヴェイン解放軍とか」
「却下」
「即答かよ」
「今の話のどこを聞いてた」
部屋の何人かから、小さな笑い声が漏れた。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。
「じゃあ、何にする?」
ユリウスは考えた。
前世の記憶。
目の前にいるガウマン。
洞窟に眠る《ペーネロペー》。
ここまで重なったのなら、もう一つ、あの世界から名を借りてもいいのかもしれない。
「……マフティー」
「何?」
「マフティー・ナビーユ・エリン」
ガウマンが眉を上げた。
「どういう意味だ?」
「古い異国の言葉で、正当なる預言者の王」
数秒の沈黙の後、ガウマンが呆れたように笑った。
「随分と大仰な名前だな」
「ああ」
ユリウスも小さく笑った。
「だが、王になるつもりはない」
すると、一人の男が戸惑いながら尋ねた。
「では……ユリウス様が、そのマフティーなのですか?」
「違う」
ユリウスは首を振った。
「では、誰が?」
「誰でもない」
予想していなかった答えだったのか、男は困惑した。
ユリウスは部屋にいる者たちを見渡す。
武器を持つ者がいる。装甲機竜を纏う者がいる。傷ついた者を治す医者も、食料を運ぶ者も、情報を集める者も、逃げてきた人間を匿う者もいる。
彼らはユリウスに忠誠を誓うために集まったのではない。
そして、それでいい。
「マフティーは、人の名前じゃない。俺の名前でもなければ、誰か一人の指導者を指す称号でもない」
ユリウスは静かに続けた。
「力を持つ者が自分の正しさを疑わなくなった時に問いを投げかける。誰かの権利や人生を、自分の都合だけで奪おうとするなら止める。同時に、自分たち自身にも同じ問いを向ける。俺たちは本当に正しいのか、必要以上の力を振るっていないか、怒りを正義と呼び替えていないか」
そこで一度、言葉を切った。
「それを忘れず、選び続けること。それがマフティーだ」
ガウマンがユリウスを見る。
「つまり、組織の名前じゃねえってことか?」
「組織の名前にはする。でも、本質はそこじゃない」
ユリウスは真っ直ぐ前を見た。
「マフティーとは、人ではない」
そして、はっきりと告げる。
「――あり方だ」
部屋が静まり返った。
「だから俺が死んでも、マフティーは終わらない。ガウマンがいなくなっても、この組織そのものがなくなったとしても、誰かが力を持つ者へ問いを向け、自分自身の正しさも疑い続けるなら、そこにマフティーはある」
「……随分と面倒くさい生き方だな」
ガウマンが言った。
「そうだな」
「力を持つ側にも、自分たちにも厳しい」
「ああ」
「味方だから見逃す、ってのも無しか」
「それをやった瞬間、俺たちは帝国と同じになる」
ガウマンはしばらく黙った後、鼻を鳴らした。
「なるほどな。そりゃ確かに、王様の名前には向かねえ」
「だから言っただろ。王になるつもりはない」
先ほどの男が、もう一度尋ねた。
「では……我々も、マフティーなのでしょうか?」
今度は、ユリウスは迷わなかった。
「それを決めるのは俺じゃない」
「……?」
「俺に忠誠を誓ったからマフティーになるんじゃない。アルヴェインの旗を掲げたからでもない。このあり方を、自分で選ぶならマフティーだ」
そしてユリウスは、自分自身についても同じ言葉を向けた。
「だから俺も、マフティーを名乗る資格を失うことがある」
ガウマンの表情が僅かに変わった。
「俺が自分だけは正しいと思い始めた時、命令だから従えと言い出した時、目的のためなら誰を踏みにじってもいいと思った時――その時の俺は、もうマフティーじゃない」
「なら、どうする?」
ガウマンが尋ねる。
「止めろ」
即答だった。
「俺でも、この組織でも関係ない。マフティーが反省を忘れた時は、そのマフティー自身へ反省を促せ」
ユリウスは一人一人の顔を見る。
「それでも止まらないなら――その時は、俺たちこそ止められ、滅ぶべきだ」
誰も拍手をしなかった。
歓声も上がらなかった。
ただ、その場にいた一人一人が、その言葉の意味を考えていた。
それでよかった。
この日生まれたのは、ユリウス・アルヴェインを頂点とする新しい軍ではない。
王を戴くための組織でも、英雄へ忠誠を誓うための集団でもない。
力を持つ者へ反省を促し、その問いを決して自分だけは免れることなく、自らの正しささえ疑い続ける者たち。
マフティー・ナビーユ・エリン。
それは人の名ではない。
一人の英雄を示す称号でもない。
自ら選び、問い続けるための――一つのあり方だった。
◇
その夜。
山中の洞窟。
白い装甲が、暗闇の中に静かに佇んでいた。
神装機竜《オデュッセウスガンダム》。
そして、FFユニットを纏ったその姿。
《ペーネロペー》。
なぜこの世界の《遺跡》から、これが発掘されたのか。
ユリウスにも分からない。
前世の記憶にある機体と同じ名を持ち、同じ特徴を備えながら、この世界では人間が纏う装甲機竜として存在している。
答えはまだない。
ただ一つ。
皮肉な事実だけはあった。
帝国は、人間を機械へ適応させようとした。
そのためにユリウスの身体を作り変え、多くの人間を使い潰した。
その結果。
帝国自身が扱いきれなかった一羽の怪鳥を、目覚めさせた。
ユリウスは白い装甲へ手を置いた。
「……お前も、随分妙なところに来たな」
当然、返事はない。
それでも、白い怪鳥は既に目を覚ましている。
次にその翼を広げる時。
向かう先は帝国だ。
そして帝国は、まだ知らない。
自らが生み出したその力が。
やがて、自分たちへ反省を促す側へ回ることを。