白き怪鳥 作:かぼちゃ頭
目を覚ました時、ルクスが最初に見たのは見慣れない石造りの天井だった。
身体を起こそうとすると、背中に鈍い痛みが走る。
「痛っ……」
昨夜、蒼銀色の髪をした少女に綺麗に投げ飛ばされたところまで思い出し、ルクスは顔をしかめた。
周囲を見回してみれば、あるのは簡素な寝台と小さな机くらいで、その先は鉄格子によって廊下と隔てられている。どう好意的に解釈しても客室ではなかった。
「……独房?」
口に出した瞬間、昨夜の出来事が順番に蘇ってくる。
猫を追いかけ、屋根が抜け、女子浴場へ落下し、そこにいた少女を押し倒す形になった。慌てて逃げ出したところで女性用の下着を持っているところを見られ、最後には装甲機竜まで動員された追跡劇の末に投げ飛ばされた。
浴場へ落ちたのも、下着を持っていたのも事故だ。
だが、自分が第三者だったとして昨夜の光景を目撃したなら、果たしてどこまで信じられるだろうか。
「……改めて考えると、酷いなぁ」
頭を抱えていると、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
やがて鍵の外れる音とともに鉄格子の扉が開き、そこに昨日の少女が姿を現す。
濡れていた昨夜とは違い、長い金髪は綺麗に整えられている。赤みを帯びた瞳はルクスを見るなり僅かに細められ、その表情からは朝になったからといって怒りが消えた様子など微塵も感じられなかった。
「昨晩はずいぶんと大胆だったな?」
「……その節は本当にすみませんでした」
ルクスは反射的に頭を下げた。
少女は腕を組み、冷たい視線を向けてくる。
「謝れば済むと思っているのか?」
「思ってません。でも、本当に事故だったんです。猫を追いかけていて、屋根が抜けて……」
「猫を追っていたら偶然女子浴場の屋根へ辿り着き、偶然その屋根が抜け、偶然わたしの真上へ落ちた、と?」
「……そうです」
「随分と都合のいい偶然だな」
「僕もそう思います……」
自分で説明していても、まるで苦し紛れの言い訳のように聞こえてしまう。
少女は呆れたように息を吐いた。
「それに、あの袋は何だ?」
「昨日泊めてもらった酒場の女の子の物です。猫が持っていってしまって、それを取り返しただけで」
「中身は?」
「知りませんでした」
「女性用の下着だったな」
「本当に知りませんでした!」
思わず声が大きくなった。
少女は暫くルクスを睨んでいたものの、やがて僅かに眉を緩める。
「……持ち主には確認を取った。猫にポシェットを奪われ、お前が追いかけていったという話までは一致している」
「じゃあ――」
「下着泥棒についてはな」
一瞬明るくなったルクスの表情が、その続きで再び沈んだ。
「浴場へ侵入したことまで消えたわけではない」
「ですよね……」
少女はそんなルクスをしばらく眺めたあと、別の疑問を思い出したように目を細めた。
「それで、お前は本当に自分がどこへ入り込んだのか知らなかったのか?」
「王立士官学園へ向かっていたことは知ってました。でも猫を追いかけているうちに、どこにいるのか分からなくなってしまって」
「つまりお前は、自分が今日から仕事をする予定だった学園へ勝手に侵入し、そのまま女子浴場へ落ちたのか?」
「……結果だけ見れば」
「救いようがないな」
「そこまで言います?」
反論できないのが余計に辛かった。
ルクスが肩を落としていると、少女は鉄格子の扉を大きく開いた。
「出ろ。学長がお前を待っている」
「学長……」
立ち上がったところで、少女はふと思い出したかのように口を開く。
「リーズシャルテ・アティスマータだ」
「え……?」
その名を聞いた瞬間、ルクスの表情が変わった。
リーズシャルテは、そんなルクスの反応を見て僅かに口元を上げる。
「わたしの名だよ。新王国第一王女、通称“朱の戦姫”。五年前、お前の帝国を滅ぼした新王国の姫だよ。よろしくな、王子サマ?」
昨夜。
その王女を。
裸のまま押し倒す形になった。
ルクスはゆっくり天井を仰いだ。
「……僕、このまま牢屋にいた方が安全だったりしません?」
「わたしとしては、その方がありがたいな」
「ですよね……」
リーズシャルテは踵を返す。
数歩進んだところで一度だけ振り返り、まだ動かないルクスを睨んだ。
「お前に聞きたいことは死ぬほどある。だが、それは後だ。さっさと来い。学長を待たせるな」
「はい……」
ルクスは素直にその後を追った。
◇
学長室へ通されたルクスは、執務机の向こうにいる女性を見て少しだけ肩の力を抜いた。
王立士官学園の学長、レリィ・アイングラム。
しかしルクスにとっては、肩書きより以前から知っている人物だった。
「久しぶりね、ルクス君。随分派手な形で戻ってきたものね」
楽しそうな笑みを向けられ、ルクスは気まずそうに視線を逸らす。
「……もう聞いてるんですね」
「学園長ですから。昨夜あれだけ騒げば嫌でも耳に入るわ」
「できれば忘れてください」
「どうしようかしら。あの子が聞いたら、何て言うでしょうね?」
ルクスの表情が固まった。
「……それは勘弁してください」
レリィが楽しそうに笑う。
その横では、リーズシャルテが不満そうに眉を寄せていた。
「学長。遊んでいる場合か」
「そうですね」
レリィは姿勢を正し、先ほどまでの柔らかな表情を少しだけ改めた。
「さて、ルクス君。昨夜の件についてだけど」
「はい」
「私はあなたの人柄を昔から知っているわ。少なくとも、女湯を覗くために屋根の上を走り回るような子だとは思っていない」
「ありがとうございます」
「でも、それと今回の処遇は別」
ルクスは黙って続きを待った。
「ポシェットについては持ち主の証言が取れているから、下着泥棒については誤解として処理できるわ。ただし、浴場へ落ちた件については、あなたが故意ではなかったことを証明できる人間がいない」
それについてはルクスにも反論できない。
事故だったことを知っているのは、自分自身と、原因となった猫くらいだ。
浴場へ侵入したことも、その結果としてリーズシャルテを押し倒す形になったことも事実である。
「私はルクス君を信じている。でも、私があなたを知っているという理由だけで全部を不問にしてしまうのは違うでしょう?」
「……はい」
レリィはそこでリーズシャルテへ視線を向けた。
「だから今回の処遇は、リーズシャルテさんに一任します」
「わたしに?」
リーズシャルテが僅かに目を見開く。
「今回の被害者はあなた。それに王立士官学園二年生主席でもある。学園側の人間として処遇を判断する立場にも不足はないでしょう」
リーズシャルテは少し考え込んだ。
「……何を決めてもいいのか?」
「学園長として認められる範囲であれば」
「そうか」
その答えを聞いたリーズシャルテは、ゆっくりとルクスへ向き直った。
先ほどまでの苛立ちとは少し違う、勝気な笑みが浮かぶ。
「なら決めた。決闘だ」
「……決闘?」
「装甲機竜を使った模擬戦で決める。ここは機竜使いを育成する場所なんだ。お前にこの学園へ残る資格があるかどうか、確かめるにはもってこいだろ?」
ルクスは少しだけ考えた。
本来ここへ来た目的は、レリィから依頼された機竜整備の補助だ。こんな形で装甲機竜による決闘をすることになるとは思っていなかったが、拒否すれば昨夜の件を弁明する方法そのものがなくなってしまう。
「……分かりました」
「いい返事だ」
リーズシャルテは満足そうに鼻を鳴らした。
そこで不意に学長室の扉へ顔を向ける。
「それでいいな、野次馬たち!決闘は今日、これからだ!」
「え?」
ルクスが振り返る。
扉の向こうから、微かに息を呑む気配がした。
リーズシャルテが歩み寄り、勢いよく扉を開く。
「きゃっ!」
「ちょ、押さないで!」
「うわっ!?」
扉のすぐ外へ集まっていた女子生徒たちが、一斉に体勢を崩して山になる。
耳を扉へ寄せたまま固まっている者もいれば、屈み込んだ姿勢から顔だけを上げている者もいる。その後ろにも何人もの生徒が並んでおり、最初から話を聞く気満々だったことは明らかだった。
「やっぱり決闘するんだ!」
「姫様とあの下着泥棒が!?」
「下着泥棒じゃありません!」
ルクスが即座に訂正するが、誰も聞いていない。
「相手って“無敗の最弱”なんでしょう?」
「しかも旧帝国の第七皇子!」
「新王国の姫様と旧帝国の王子が決闘って、すごくない!?」
「しかも王子の方は覗き魔!」
「だから事故なんですって!」
話題性だけなら、過剰と言っていいほど揃っていた。
新王国の王女と、旧帝国の第七皇子。
王立士官学園二年生主席と、“無敗の最弱”と呼ばれる機竜使い。
その上、一方には昨夜発生したばかりの覗き魔と下着泥棒疑惑まで付いている。
「今日だよね!?」
「絶対見に行かなきゃ!」
「友達にも教えてくる!」
「早くしないと演習場埋まるんじゃない!?」
「学園の皆に伝えろ。観客は多ければ多いほどいいぞ。新王国の姫が、旧帝国の王子をやっつける見世物はな」
楽しそうな声を上げながら、生徒たちは蜘蛛の子を散らすように廊下の向こうへ消えていった。
最後までルクスの訂正が届いた様子はない。
「……僕、これからこの学園でどういう扱いになるんでしょう」
レリィが口元へ手を当てる。
どう見ても笑っていた。
「人気者ね、ルクス君」
「レリィさんまで……」
リーズシャルテは腕を組み、満足そうに笑った。
「これで逃げられないな」
「最初から逃げるつもりはありませんよ……」
そう答えながらも、ルクスは早くも頭が痛くなってきた。
◇
学長室を出たルクスは、レリィから教えられた部屋へ向かった。
自分を待っている者がいるらしい。
誰なのかまでは聞かされていなかったが、扉を開けた瞬間、その答えはすぐに分かった。
「……アイリ?」
部屋の中にいた少女がこちらを見る。
ルクスと同じ、アーカディア皇族特有の銀髪。その髪に縁取られた顔立ちは、高級なアンティークドールを思わせるほど優美に整っており、華奢な身体つきも相まって、どこか繊細で壊れ物めいた印象を与える。
少女――アイリ・アーカディアは、数か月ぶりに姿を見せた兄をじっと見つめていた。
ただし、その視線に再会を喜ぶ様子はほとんどない。
明らかなジト目だった。
「お久しぶりです、兄さん」
「久しぶり。元気そうでよかった」
「私は元気でした」
アイリはそこで一度言葉を切った。
「兄さんが来るまでは」
「……怒ってる?」
「怒っていないように見えますか?」
「見えないかな……」
アイリは深く息を吐いた。
その隣には、もう一人の少女が立っている。
白磁のように白い肌に黒い髪。小柄な身体と感情の起伏をあまり見せない表情には、昨夜見た時と変わらない独特の静けさがあった。
「君は昨夜の……」
「Yes. 改めまして、ノクト・リーフレットです。アイリの友人です」
「ルクス・アーカディアです。昨日はどうも……」
「Yes. 昨夜は捕縛に失敗しました」
「僕としては成功されなくてよかったよ」
「残念です」
「残念なんだ……」
そんな会話をしている間も、アイリの視線は一向に緩まなかった。
ルクスが気まずそうに妹へ顔を戻す。
「……アイリ?」
「兄さん」
「はい」
「私、この学園では体裁上、兄さんのことを格好いい兄だと話していたんですよ」
「体裁上なんだ……」
「そこはどうでもいいです」
ぴしゃりと切られた。
「“無敗の最弱”だとか、それなりに格好がつく話をしていたんです。少なくとも、友人に話して恥ずかしくない程度には」
「うん……」
「それなのに本人が来たと思ったら、初日に女子浴場へ侵入して覗き魔になり、女性用の下着を持って逃げ回って下着泥棒扱いです」
「全部事情があるんだよ!?」
「事情を知らない学園中の生徒には関係ありません」
「それはそうだけど……」
「もう『旧帝国の王子』より先に『下着泥棒』で話が通り始めています」
「そんな……」
アイリの目がさらに細くなる。
「私はこれから友人たちにどんな顔をすればいいんですか?」
「……ごめん」
「謝れば私の格好いい兄が帰ってくるんですか?」
「たぶん帰ってこないかな……」
「でしょうね」
肩を落とすルクスを見て、アイリはもう一度深く息を吐いた。
しばらくは本気で頭を抱えていたものの、いつまでも兄の評判だけを嘆いている場合ではないことも分かっているらしい。
「まあ、それは後でどうにかするとして」
「どうにかなるの?」
「兄さん次第です」
「僕次第なんだ……」
アイリはそこで表情を切り替えた。
「今日、リーズシャルテ王女と決闘するんですよね」
「うん」
「なら、勝ってください」
あまりにも迷いのない言い方だったため、ルクスは少し目を瞬いた。
「ずいぶん簡単に言うね」
「兄さんが負けるとは思っていませんから」
アイリは当然のように答えた。
そこに強がりはない。
幼い頃から兄を見てきたアイリにとって、ルクスの実力そのものを疑う理由はほとんどなかった。
ただし、それと万が一の可能性まで無視することは別だった。
「ですが、絶対ということはありません」
アイリの表情が僅かに厳しくなる。
「今回の件が正式に犯罪として扱われて、兄さんが牢獄にでも入ったら困ります」
「それは僕も困るけど……」
「私の方が困ります」
「うっ……」
旧帝国の崩壊後、兄妹へ課された莫大な借金。
その返済を支えているのは、ルクス一人ではない。
ルクスは各地を回り、荷運びや工事、修繕、雑用、護衛といった身体を使う仕事を請け負っている。一方でアイリも、遺跡から発掘された古文書や記録の解析を引き受け、それによって報酬を得ていた。
二人で働いて、ようやく返済を続けているのだ。
「私は古文書の解析ならできます。でも、この身体で兄さんの代わりに荷運びや工事、護衛までやることはできません」
「……アイリ」
「兄さんが働けなくなれば、今まで通りの返済は続けられなくなります」
アイリはまっすぐ兄を見つめる。
「だから今回は、何としてでも勝ってください」
「……分かったよ」
「兄さんなら勝てると思っています」
その言葉には、先ほどと変わらない確信があった。
「でも、万が一も困るんです」
「信用されてるのか心配されてるのか、どっちなんだろう」
「両方です」
迷わず返され、ルクスは苦笑するしかなかった。
アイリは椅子から立ち上がると、隣にいるノクトへ視線を向ける。
「決闘まで時間がありません。必要な情報は、私とノクトから伝えます」
「情報?」
「相手のことを何も知らないまま戦うつもりですか?」
「それは困るかな」
「でしょうね」
アイリは扉を開き、廊下へ出る。
「話しながら移動します」
「どこへ?」
アイリが兄を振り返った。
「機竜格納庫です。模擬戦前の機竜の点検は必須事項ですから」
ルクスは僅かに目を細めると、腰に下げた《機攻殻剣》へ視線を落とした。
クロスフィードへ到着してから、まだ一週間も経っていない。
それなのに数時間後には、新王国王女との決闘が待っている。
「行きましょう、兄さん」
「うん」
ルクスはアイリとノクトの後を追い、王立士官学園の機竜格納庫へ向かった。