猛暑が続く、八月半ばのことだった。
少女はドアが開かなくなった軽自動車の中を覗き込んだ。後部座席に愛猫の入ったキャリーバッグが置いてある。
「…二時間?」
彼女は言葉を失った。
母親が飼い猫を動物病院へ連れて行こうと、愛車にキャリーバッグを乗せたまではよかった。
しかし診察カードを忘れて家へ戻った際に、キーを車内に置いたままドアを閉めてしまったのだ。
母親がカードを持って家から戻ってきた時、運転席のダッシュボードの上にはキーが転がっていた。
パニックになった母親がJAFに電話をかけたものの、返ってきたのは非情な返答だった。
「現在、猛暑の影響でバッテリー上がりやパンク等のトラブルが多発しておりまして、到着まで二時間ほどかかります。」
二時間。そんなに待っていたら、愛猫の命はないだろう。
「ゆかちゃん、どうしよう!!」
取り乱す母親の前で、自室から呼び出された彼女も動揺していた。
(やるしかない。…でも、どうやって!?)
彼女は、あの「力」を思い浮かべる。
裸で息を止め、力を込めることで発現する「力」。
ちょっと田舎ではあるが、ここは住宅街の駐車場だ。おまけにすぐ隣には母親がいる。
(まずは、お母さんを遠ざけなきゃ!)
「お母さん!車に水かけよう!バケツにお水組んできて!たくさん!私はもう少しドア開かないか試してみる!」
「えっ?あ、分かった!」
母親が家の中へと戻っていく。
駐車場に一人残った彼女は、すぐに行動へと移った。周囲に他人がいないことを確認する。
自宅の壁と車の隙間で急いで服を脱ぎ捨てた。
そして彼女は大きく息を吸い込み、呼吸を止めて全身に力をこめ、一瞬だけドアを引っ張った。
(んっ!!)
メキ…バコオオオォン!!
破壊音が響き渡る。
彼女は勢い余って背中の壁にぶち当たった。
「ぐぇっ!?」
ドアは開いた!開いたのだが…。
彼女の手の中には「握りつぶされたドアノブ」が残っていた。
ドアを見るとノブのあった場所には穴が開いている。
「えっ、あ、取れた!?」
一瞬唖然としたものの、もうこういうことには慣れている。
今はそんなことを気にしている場合ではない。
慌てて車の中から猫のキャリーを引っ張り出す。
「メイ?大丈夫?よかったぁ…」
猫の様子を確認した後、慌てて車の影に隠れて服を着直した。
Tシャツが裏返しになっていることにも気づかない。
そして、引きちぎったドアノブを改めて見る。
一応ドアにくっつかないか試してみるが、当然つくはずもない。
「こんなの持ってたら私がやったみたいじゃん!」
とりあえず車のすぐ下の地面に、さも『最初から自然に壊れて落ちていた』かのように、そっと置いた。
「ゆかちゃん!なんかすごい音したけど大丈夫?お水と保冷剤持ってきたわよ!」
そこへ、水でいっぱいになったバケツを両手で持った母親が、フラフラと家から出てきた。
「お母さん、ドア開いたよ!メイちゃん無事!」
「えっ! 本当?よかったあぁ…」
母親はキャリーバッグの中の猫が無事なのを確認して胸をなでおろした。
しかし、母親の視線が地面へと向けられる。アスファルトの上に変形したドアノブがあった。
視線がドアノブと、車のドアに開いた穴を往復する。
「…ゆかちゃん?」
「…」
「何が起きたの?」
彼女は視線を泳がせながら、
「あ、暑さ…かな?」
「暑さ?」
「ほら、最近の日本の夏って過酷だから…その、樹脂とか部品が熱でこう、ポロッと…」
「…」
母親の視線が痛い。
「…ないよね。ごめん」
「にゃー…」
数日後。家族が集まるリビングは、別の意味で修羅場と化していた。
テーブルの上に置かれた車の修理の見積書。
「ドア丸ごと交換だってよ。中までいかれてるらしい」
父親が信じられないといった様子で見積書を見ている。
「ごめんなさい。わたしがメイちゃんを車に置いてたばかりに…」
母親が頭を下げている。その横で猫をなでながら、彼女も一緒に頭を下げていた。
「しかし、どうやったらこんな壊れ方するんだ?」
「さあ…。古い車だし、経年劣化じゃない? ほら、最近の夏って暑いから、部品がポロッと…」
母親がどこかで聞いたことのある説明をすると、父親はさらに怪訝な顔になる。
「ドアノブがなぁ…どうやったらこんな形になるんだ?」
彼女の手が止まった。
「…」
「にゃー!」
猫が手元から逃げていく。
「まあ、メイが無事だったんだし、仕方ないか。車は直せば済む話だしな」
「…うん」