いつもにこやかなボディビルのおじさんにも、人に言えない秘密があった。
裸になって笑顔で呼吸を止めている間は、空を飛ぶことができるのだ。
ただし、人前で裸になんてなれないし、飛んでいたらすぐに見つかってしまうだろう。
海では空を飛ぶことで子供を救えたものの、目撃されてニュースになってしまったおじさん。
「あそこはもうだめだな」
海が駄目なら、別の場所を探すしかない。
「海が駄目なら山だ!」
以前に近くの山を調べた時は監視カメラがあったが、ちょっと遠出したらカメラの無い山もあるはずだ。
そうと決まれば、今度の休日だ。今度こそ誰にも見つからずに飛べる場所を探してやる!
金曜日の夕方、仕事を終えたおじさんは車を走らせ、山へ向かった。
カーナビに従い高速道路を走り、目的の山に着いた頃にはすっかり真っ暗になっていた。
人家もなく、街灯もない。
車のヘッドライトを頼りに慎重に山道を登っていくと、駐車できそうな開けた場所があった。
周囲に明かりすらないことを確認すると、車を停めて外に出た。
「おーい、誰かいませんかー?!」
念のため声を出して確認してみるが、返事はない。虫や木の葉の音だけが聞こえてくる。
おじさんは安全だと判断すると、さっそく全てを脱ぎだした。車に衣服や荷物を置き、ポーズを決めた。
「今日も笑顔でテイクオフ!はい、バック・ラットスプレッド!」
息を止め、両腕を大きく羽ばたかせる。
ふわっ。
夜空に向かって彼は飛び立つ。そして大きく上昇する!
頭上には明るく輝く月と満天の星々。
足元には静まり返った山々。
遠くには山間の民家の明かり。
誰にも見られない。
誰にも邪魔されない。
(やっぱり空はいいなぁ!)
本当は月明かりがあっても、昼間と違って結構怖い。
それでもようやく見つけた「飛べる場所」だった。
「ん?」
しばらく夜空を満喫していると、下の山道から妙な光が見えた。よく見ると、車のヘッドライトが不自然に上を向いている。
近づいてみると道を外れて斜面に脱輪している軽自動車だった。
「…事故か?」
おじさんは、見つからないように事故車から少し離れた場所に降り立った。
そのまま体勢を低くして、できるだけ姿を見られないように、車の後ろ側から慎重に近づいていった。
車内には老人が一人、携帯電話で誰かと話していた。
どうやら助けを呼んでいるらしい。それなら自分が出ることもないか。
あのくらいなら、多分持ち上げられるんだけどなぁ。
でも裸だからなぁ…。
おじさんはそんなことを考えながらも、結局、放っておけずに助けることにしてしまった。
車の背後に回り込み、バックミラーに顔だけが映るように意識して声をかける。
「脱輪ですね。手伝いますよー」
突然かけられた声に驚いた老人が振り返ると、バックミラー越しにおじさんと目が合った。
「うわっ!?ちょっと電話切るぞ…。いいのかい?助かるよ」
おじさんはにこやかに答える。
「いえいえ!困ったときはお互い様ですから!では押しますよー…」
「うぉぉぉぉ……!」
全身に力を込め、道路側へ向かって車を押し出す。
毎日のトレーニングで鍛え上げた身体は伊達ではなかった。
老人がアクセルを踏み、軽自動車が少しずつ動き始める。
そして――
「よしっ!」
見事、軽自動車は道路へ戻る。
老人がバックミラー越しにおじさんへ顔を向けた。
「いやぁ、本当に助かったよ。」
おじさんは身体ができるだけ見えないように、少しだけしゃがみこんだ。
「ところで、あんた、ここまでどうやって来たんだ?」
おじさんは固まった。
(まずい!)
そして思わず自分の車を停めた方向を見てしまった。
老人もその視線を追うように、山の方へ目を向けた。
「おや?あっちにはなにもないはずだが…」
(まずい!まずい!)
「えーっと…」
「まぁいい。そこまで乗っていくか?お礼もしたいしな」
そう言いつつ運転席のドアを開けて降りてくる。
(まずい!!!)
老人に姿を見られる前に、おじさんは走って逃げようと思った。しかし、車のライトの届かない山中は真っ暗で、走って逃げるのは無理であった。
逃げ道は一つしかない。
「すいません!できれば、今日のことは黙っていてください!」
おじさんは覚悟を決めた。
「それでは!」
彼は飛び立って、そのまま夜空へ逃げていった。
「バサッ、バサッ!」
老人は呆然と飛び立つおじさんを見送った。
「……天狗様?」
おじさんはそのまま山の上へ飛んでいき、安全そうな場所を見つけて着地する。
「ふう…危なかった。だが良いことをしたな!」
心地よい疲労感を感じながら、車の方に帰ろうと思ったが…。
「車、どこだ?」
周囲を見渡すと、どちらを見ても同じような暗闇が続いている。
しかも急いで逃げてきたせいで、元々自分がどちらから来たのかすら分からなくなっていた。
もう一度、空へ飛び上がり、上空から見回してみるが、車は見つからない。
「どこだー!」
着地しては休んで、また飛ぶことを繰り返している間に、東の空が少しずつ白み始めてくる。やがて、すっかり周囲が明るくなってから、ようやく木々の隙間に見覚えのある車が見えてきた。
すっかり疲れ果て、全身を虫に刺されたおじさんは、車に戻るなり呟いた。
「…山も駄目だな」
一方その頃。
家に帰りついた老人は、家族に先ほどの出来事を話していた。
「助けてもらったんじゃ…。真っ赤な顔をしていて、車を持ち上げられる程の怪力でな…」
真剣な顔で山を指差す。
「ほんとにいたんじゃ。あの山に住む天狗様じゃ」