「お疲れさまでした」
会社を出た男は、どこにでもいる普通の会社員だった。短髪のにこやかな中年男性。ただし、少し全体のサイズが大きすぎるだけだ。
彼は帰宅してスーツを片付けると、シャワーを浴びる前にいつもの筋トレを始めた。
「3…2…1…終了!」
限界まで追い込んだ後、鏡の前で自慢の大胸筋を確認するようにポージングした。
「仕上がってるな!完璧だ!!」
充実感に包まれながら、一度、深く息を吐く。
「よし、もう一回!はい、フロントダブルバイセップス!」
彼は再びポーズを決め、今度は満面の笑顔を作りながら呼吸を止めた。そのとき、ふと窓の外の夜空が目に入る。
少し曇りがかった夜空の中に、飛行機が飛んでいく光の点滅が見えた。
(飛行機か。そういえば、昔は空を飛びたかったんだよなぁ…
鳥みたいに飛びたかったなぁ…)
少年の頃の純粋な憧れが胸をよぎり、何気なく両腕を広げ、鳥のように上下に振ってみる。
ふわっ…
身体がほんの少し浮いた。驚きながらも、もう一度両腕を大きく羽ばたかせた。
ふわっ。
「…え?」
言葉を発した瞬間、浮遊感が消え去り、足の裏が床についた。
もう一度、手を伸ばしてみるが、今度は全く浮かない。
いや待て、さっきは確かこうやってポージングして、笑顔を…。
「はい、ポーズ!」
彼は再び息を止め、笑顔を作ってポージングしてから両腕を振る。
「ブンッ、ブンッ」
ふわっ。
鏡の中には、笑顔で両腕を振り回しながら浮いているおじさんの姿があった。
「よっっしゃー!」
叫んだ瞬間、足が地面につく。
「息をしたら、駄目なのか?」
今度は無言のまま笑顔を崩さず、しっかりと呼吸を止める。
「ブンッ、ブンッ」
ふわっ。本当に浮いている。床から数十センチ、重力から解放されていた。
「俺、飛んでる?」
鏡に映った笑顔が輝きを増した。
「いや、俺は…飛べる!飛べるんだ!」
興奮した彼は、服を着るとそのまま外へ飛び出した。住宅街の路地裏で、周囲を気にしながら両腕を大きく振る。
「ブンッ、ブンッ!」
しかし、飛べない。
「あれ?おかしいな?」
先ほどのことを思い出し、もう一度試す。
「はい、フロントダブルバイセップス!」
そして両腕を大きく振るが、何も起きなかった。
「もしかして…」
彼は再び自宅に戻り、服を脱ぎ捨てた。
再び先ほどのポージングを決め、息を止め、笑顔を作って…。
「ブンッ、ブンッ」
ふわっ。
「飛べる!」
着地した彼の笑顔は確信に満ちていた。
しかし、喜んだのも束の間。
「ゴンッ!」
「うぐっ…!?」
もう一度飛んでみると、浮き上がりすぎて天井に頭をぶつけた。
床に落ち、痛む頭を押さえながらおじさんは天井を見上げた。
部屋の中では、すぐに天井にぶつかってしまう。
外に飛ぼうにも、ここは防犯カメラと近所の目が光る現代日本の住宅街。
裸で屋外を飛び回るなど、社会的な死を意味する。どこか良い場所はないだろうか?
いくつか考えながらも、その夜は自室で検証を重ねることにした。
「サイドチェストでもいけるな!笑顔のポージングは全てを解決してくれる!」
彼は大喜びで再び身体を浮かせていた。
次の休日。
おじさんはジョギングがてら、「空を飛んでも通報されない場所」を探してみることにした。
まずは広々とした公園に行ってみたが、
「いや、駄目だ。子供たちがいるし、散歩やランニングの人も多い。何より街灯も防犯カメラもある」
次に近所の山に向かってみたが、
「ここならいけるか?いや、待て。あそこに看板がある。『山林への不法投棄監視カメラ作動中』。録画されたら終わりだ」
それならばと最後に河川敷に向かってみた。
周囲に誰もいないことを何度も確認する。
「ここならいけるか?!」
草むらに隠れて服を脱ぎ、飛び立とうとした瞬間、堤防沿いを車が走り抜けていく。
「やべっ!」
草むらの奥へと身を隠した。
「ドラレコとか一発アウトだろ…」
諦めて自宅に帰った彼は最後の候補を思いつく。
「自宅のベランダの、物干し竿の死角」
深夜。街が静まり返った頃、彼はベランダへ出た。
帰宅後に物干し竿に吊るしておいたシーツの死角に身を潜める。
もちろん、身に纏うものは何もない。
彼は大きく息を吸い込み、鏡の前で練習した最高の笑顔とポージングをした後、両腕をブンブンと大きく羽ばたかせる。
フワリ、と身体が浮き上がった。
ベランダの床が足元から離れていく。月がいつもより少しだけ近くに見える気がした。
夜風が鍛え上げられた身体を優しく冷やしてくれる。
おじさんは最高の達成感を味わっていた。
(俺、本当に飛んでるんだな…)
少年の頃からずっと夢見ていた空。ベランダというほんの数メートルの狭い空間。
まだ上がれる。だが、これ以上高く浮けば近所の人に見られるかもしれない。
それでも、確かに自分は今、己の力で空を飛べていた。
しかし、その感動は長くは続かなかった。
「ぶふぉっ!」
限界がきて息を吐き出した瞬間、魔法が解けたように身体が落下する。
「うおおおっ!?」
バランスを崩し、ベランダの手すりを越えて外へ落ちかける。
「危なっ…!」
手すりを掴んで必死に身をよじり、なんとかベランダの内側へ転がり込んだ。
しばらくの間、彼はベランダの床に大の字になり、荒い呼吸を整える。
「…危ねぇ、死ぬかと思った」
夜空をそっと見上げながら、おじさんは考える。
「飛べることは分かった…。
でも、これ、一体どこで飛べばいいんだ?」
彼はまだ知らなかった。
現代社会で「飛べる場所」を探すことがどれだけ難しいかということを。
そしてもう一つ、能力の発動に笑顔もポージングも、まったく関係ないということを。
「よし!次はもっといい笑顔の練習だ!もっと高く飛べるかもしれない!」
彼はまだ、何も知らない。