朝の洗面台。
私は鏡の前で、濃茶のショートボブを丁寧に櫛でとかした。
軽いメイクを施し、左右のバランスを確認する。よし、完璧。
スマホの充電を確認し、SNSの通知をチェックして、今日のスケジュールを頭に叩き込む。
「今日も頑張ろ」
鏡のなかの自分に微笑みかける。
会社では誰に対しても明るく挨拶をし、同僚の雑談にも自然な笑顔で合わせる。仕事だって、頼まれたものはそつなくこなす。
私はいつだって、周囲から一目置かれる「ちゃんとしている人間」でいたかったし、実際にそう振る舞えていたはずだった。
「おつかれさまー」
定時で仕事を終えた私は、いつものスポーツジムへと足を運んだ。いつもの常連客と軽く会釈を交わし、顔なじみの受付スタッフに会員証を提示する。
「こんばんは!」
「あ、鈴木様、いらっしゃいませ。今日は結構混んでいますよ?」
「えー、本当ですか?残念。でも、せっかくだから頑張ります。よろしくお願いしまーす」
にこやかに会話を終え、荷物を置きにロッカールームへ向かう。
ここのひんやりとした空気と、清潔な匂いが好きだった。
軽く準備運動を済ませ、いつものトレーニングマシンへと向かう。
ところがその日は、夕方から、少しだけお腹の調子が悪かった。
ほんの少しの違和感。それくらいなら大丈夫。
いつものように運動して、いつものように帰る。それだけのはずだった。
私はいつものようにマシンを動かす。力をこめる。
その瞬間、場違いに大きな異音がした。
「え?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
けれど、近くにいた人たちが、こちらを見た。
「…鈴木様?」
インストラクターの視線が、ほんの一瞬下へ落ちる。
それだけで十分だった。
…あ。
理解した瞬間、頭の中が真っ白になった。
違う。
違う、これは違う。
こんなこと、あるはずがない。
私は、ちゃんとした大人なのに。
彼女は笑おうとした。
いつものように。
何でもありません、と。
けれど、口元がうまく動かなかった。
「だ、大丈夫です…」
声が震えた。涙があふれてきて止まらない。顔を伏せる。
嘘だ。こんなことありえない。頭の中で起きた現実を必死に否定する。
自分のしゃくりあげる声ばかりが大きく聞こえる中で、周囲の会話が微かに聞こえてくる。
「大丈夫ですか?」
「何か手伝いましょうか?」
「ありがとうございます。こちらで対応しますので大丈夫ですよ」
みんな、優しい。
その優しさが、かえってつらかった。
「…今日は、帰ります」
どうやってジムを出たかも覚えていない。
背後からスタッフの声が聞こえた。
「お気になさらずに!」
その言葉に、余計に涙が出た。
「もうあのジムにはいけない」
失意のままに自宅へ帰り着くと、私は逃げ込むように浴室へ駆け込んだ。
自動給湯のボタンを乱暴に押し、着ていたものをすべて脱ぎ捨てて洗濯機へ放り込む。
あの場所にいた私を全部消してしまいたかった。
シャワーを浴びながら、涙でぐしゃぐしゃに崩れた化粧を洗い流す。
それでも頭のなかのパニックは収まらない。
浴槽にお湯が溜まるのを待ちきれず、まだ半分しか溜まっていないぬるま湯の中に、私は頭まで潜り込んだ。
バシャ、と水音が響き、静寂が訪れる。
苦しい。だけど、このまま息を止めていれば、嫌な現実から消えてしまえる気がした。
(いっそのこと、わたしなんて消えてしまえばいいのにっ)
強く目を閉じ、心の中で自分の存在を否定する。
数秒後、苦しさに耐えかねて水中で目を開けた。その時だった。
視界に映るはずの自分の手足がなかった。そこにあるはずの身体も消え去っている。浴槽の底が見えていた。
「えっゴボボボボボッ!?」
驚愕して声をあげかけた瞬間、お湯が鼻と喉から入り込んだ。
激しくむせ返りながら水面へと顔を出すと、水しぶきと共に、見慣れた自分の身体がパッと現れた。
狭い浴槽でひとしきりジタバタと溺れかけ、命からがら洗い場へと脱出する。
「お、おばけになった!?」
濡れた身体のまま、信じられない思いで、もう一度息を止めてみる。
目をつむり、(私なんて消えてしまえ)と強く念じる。
目をあけてみると、今度も自分の身体は見えなかった。
(透明になってる!?)
震える手でスマホを掴み、カメラを起動する。画面に映し出されたのは、無人の浴室だけ。
私の姿はどこにもない。本当に、消えている。
それを確認した瞬間、私の胸に変な高揚感が湧き上がってきた。
「わぁ…」
思わず声を漏らした刹那、スマホの画面に、私の姿が急に浮き上がってきた。
「これがあれば、ある意味最強では?」
浴室から出た私は、先ほどの惨めさから逃避するように色々と実験を始めた。
服を着たままなら、服も透明になるのだろうか?いつものパジャマを身に着けてもう一度息を止めて念じてみる。「消えろ!」
しかし、何も起きない。下着だけでも、バスタオルを巻いても結果は同じだった。何かを身につけている限り、透明になれない。
つまり、全裸になる必要がある。
「ダメダメじゃん!」
さらにもう一つの問題に気づく。この能力は息を止めている間のみ発動する。
だが、当然人間が呼吸を止めていられる時間には限界があるのだ。
「…っはぁ!」
呼吸を再開すると、すぐに消えていた身体が現れる。
「え?裸で息を止めている間しか消えられないの?」
私は呆然と呟いた。
「何これ?一体何に使い道があるのよ?これ」