おまわりさん、能力者です   作:pemotaro

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第7話 消えるの怖い(透明人間2)

翌朝のことだった。

 

「あれ?」

 

出勤前の玄関でカバンの中をひっくり返したが、いくら探しても財布が出てこない。すぐに昨日の嫌な記憶が脳裏に蘇った。

 

「…嘘。財布、ジムのロッカーに置いてきちゃったんだ。」

 

最悪だった。あんな大失敗をした場所に、翌日すぐに戻らなければならないなんて、何の罰ゲームだろう。

それでも、財布を放置するわけにはいかない。

あの中には身分証もクレジットカードも全部入っている。あれがないと会社にも行けない。

 

「取りに行かないとなぁ。でも…絶対に行きたくない!」

 

そう思いながら、電話で会社に出勤が少し遅れることを伝え、私はいつもの道を歩き始めた。

 

一晩経って、少しは冷静になれたつもりだった。

けれど、角を曲がり、あのジムの看板が目に入った瞬間に私の足は動かなくなった。

 

財布を取りに行くだけ。ロッカーを開けて、荷物を回収して、すぐに帰るだけ。頭では分かっている。

それなのに、どうしても足が前に進まない。昨日の光景がまた頭の中に浮かんでくる。いつもの受付。トレーニングをしている人たち。そしてインストラクターの困ったような顔。聞こえてきたあの気遣うような優しい声。

「無理……」

たった一度の失敗だった。けれど、それなのに、これまで必死に守ってきた「ちゃんとした私」が、全部壊れてしまったような気がした。

人生で一番の大恥だったのだ。

 

「絶対、無理…」

 

あそこに行くくらいなら、いっそ消えてしまいたかった。

しばらく道路脇でしゃがみ込む。またあそこに行って、みんなに顔を見られるくらいなら…。

 

そこまで考えて、昨夜のお風呂場での出来事が脳裏をよぎった。

 

「透明に、なればいいんじゃない?」

 

私は周囲を見回し、来た道を少し引き返した。誰もいない路地裏、自動販売機横の細い隙間に滑り込む。

 

ゴクリ、と乾いた唾を飲み込んだ。

 

私は周囲を警戒しながら、ブラウスのボタンを外し、スカートを脱いだ。一枚ずつ、衣服を丁寧に畳んでいく。

(いや、待って。私、昼間から何やってるの?これ、普通に変態じゃない!?)

自分でも正気とは思えなかった。「絶対やめたほうがいい」と頭の片隅から聞こえてくる。

だが、あのジムに行く恐怖から、私の行動は止まらない。

下着まで全て脱ぎ去り、自販機の影に綺麗に畳んだ服を置く。私は思い切り息を吸いこみ、目をつむって強く念じた。

 

(私なんて消えろ!)

 

目を開けると、私は透明人間だった。

 

周囲を伺ってから、私は走り出した。

よし、まずはあのビルの隙間までダッシュ!!

そして次はあの看板の影!

 

「っはぁ!…ぜぇ…ぜぇ……」

 

三つ目の看板の裏に滑り込んだところで、私は激しく息を乱していた。

透明になっても、運動能力が上がるわけではない。息を止めたまま走り続けるなんて、できるはずがなかった。

走ればすぐに苦しくなって、能力が解除されそうになる。

 

その時、対面の曲がり角からおじいさんが歩いてくるのが見えた。

(うそーーーーっ!?)

 

看板越しだけど、もし見つかったら…。

私は慌てて息を吸い込み、もう一度透明になり、おじいさんが通り過ぎるのを待った。

おじいさんが通り過ぎても、安心できない。

人が見えるたびに心臓が跳ね上がる。私は物陰で必死に息を整え、そして息を止めて透明化した。

(これ、もし途中で息が続かなくなって透明化が切れたら…一発でタイホだよね!?)

 

後悔と恐怖でパニックを起こしながらも、もう止まれなかった。

私は物陰から物陰へと必死に渡り歩いた。酸欠で頭がクラクラする。

 

だが、ようやくジムの前までたどり着いた。

 

自動ドアの前まで来た。開かない。

(あ…、そっか。透明じゃ、反応しないんだ)

私は焦りながら、見えない指先で、ドアにある開閉用のボタンに触れた。

ウィーン…。

プラスチックの確かな感触と共に、ガラス扉が開く。

(良かった!動いてくれた!)

 

「あれ?自動ドア、誤作動かな?」

フロント側からいつもの受付スタッフがこちらへ歩いてくる。

(ヒッ!!)

声にならない悲鳴を上げながら、スタッフのすぐ横をすり抜けた。緊張で涙が溢れてくる。

スタッフが「んー?」とドアを確認している間に、私はロッカールームへ駆け込んだ。

 

「…やっぱり、あった」

 

運よくロッカールームには人がいなかった。

自分のロッカーを開けると、昨日忘れた財布がそのまま残っていた。私は安堵の息を漏らしながら、ようやく手にした財布を抱きしめる。

そして私の動きが固まった。

「もしかして…」

財布を抱いたまま透明になってみる。

すると財布だけが何もない空間にぽつんと浮いている。

「えー…うそでしょ…」

先ほど流した涙も乾いていないのに、私は思わず小さく吹き出してしまった。

見えない両手で財布を掲げてみる。

「シュールすぎる!」

思わず、また笑ってしまった。

 

透明になれるのは、私の肉体だけ。

私が触れたものまで透明になるわけではないのだ。全裸の透明人間が、宙に浮く財布を掲げている。

 

そのあんまりな絵面を想像して、どっと虚しさが押し寄せてきた。

 

「私、こんなに必死になって、一体何をやってるんだろ…」

 

手に入れた財布を眺める。超能力で身体を消せるようになっても、私が昨日犯した失敗が消えてくれるわけではなかった。

 

なんとかジムから路地裏に戻り、荷物を隠した自販機の影へとたどりついた私は、急いで服を着直した。

その場にしゃがみ込んで、荒い息が収まるまで何度も深呼吸をする。

周囲を見る。

誰もいない。見られてない!見られてないはずだ、絶対に!

透明になれた。誰の目にも触れずに目的を果たせた。これがあれば、あのジムにも行けると思った。

 

でも…。

 

「これ…こわすぎる!!」

 

一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていた。その恐怖に、今更ながら私はひとりでガタガタと震えていた。

こうして私は、便利で最強のはずの能力を手に入れた。

それを使うために、色々なものを諦めなければならないことを実感しながら…。

 

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