翌朝のことだった。
「あれ?」
出勤前の玄関でカバンの中をひっくり返したが、いくら探しても財布が出てこない。すぐに昨日の嫌な記憶が脳裏に蘇った。
「…嘘。財布、ジムのロッカーに置いてきちゃったんだ。」
最悪だった。あんな大失敗をした場所に、翌日すぐに戻らなければならないなんて、何の罰ゲームだろう。
それでも、財布を放置するわけにはいかない。
あの中には身分証もクレジットカードも全部入っている。あれがないと会社にも行けない。
「取りに行かないとなぁ。でも…絶対に行きたくない!」
そう思いながら、電話で会社に出勤が少し遅れることを伝え、私はいつもの道を歩き始めた。
一晩経って、少しは冷静になれたつもりだった。
けれど、角を曲がり、あのジムの看板が目に入った瞬間に私の足は動かなくなった。
財布を取りに行くだけ。ロッカーを開けて、荷物を回収して、すぐに帰るだけ。頭では分かっている。
それなのに、どうしても足が前に進まない。昨日の光景がまた頭の中に浮かんでくる。いつもの受付。トレーニングをしている人たち。そしてインストラクターの困ったような顔。聞こえてきたあの気遣うような優しい声。
「無理……」
たった一度の失敗だった。けれど、それなのに、これまで必死に守ってきた「ちゃんとした私」が、全部壊れてしまったような気がした。
人生で一番の大恥だったのだ。
「絶対、無理…」
あそこに行くくらいなら、いっそ消えてしまいたかった。
しばらく道路脇でしゃがみ込む。またあそこに行って、みんなに顔を見られるくらいなら…。
そこまで考えて、昨夜のお風呂場での出来事が脳裏をよぎった。
「透明に、なればいいんじゃない?」
私は周囲を見回し、来た道を少し引き返した。誰もいない路地裏、自動販売機横の細い隙間に滑り込む。
ゴクリ、と乾いた唾を飲み込んだ。
私は周囲を警戒しながら、ブラウスのボタンを外し、スカートを脱いだ。一枚ずつ、衣服を丁寧に畳んでいく。
(いや、待って。私、昼間から何やってるの?これ、普通に変態じゃない!?)
自分でも正気とは思えなかった。「絶対やめたほうがいい」と頭の片隅から聞こえてくる。
だが、あのジムに行く恐怖から、私の行動は止まらない。
下着まで全て脱ぎ去り、自販機の影に綺麗に畳んだ服を置く。私は思い切り息を吸いこみ、目をつむって強く念じた。
(私なんて消えろ!)
目を開けると、私は透明人間だった。
周囲を伺ってから、私は走り出した。
よし、まずはあのビルの隙間までダッシュ!!
そして次はあの看板の影!
「っはぁ!…ぜぇ…ぜぇ……」
三つ目の看板の裏に滑り込んだところで、私は激しく息を乱していた。
透明になっても、運動能力が上がるわけではない。息を止めたまま走り続けるなんて、できるはずがなかった。
走ればすぐに苦しくなって、能力が解除されそうになる。
その時、対面の曲がり角からおじいさんが歩いてくるのが見えた。
(うそーーーーっ!?)
看板越しだけど、もし見つかったら…。
私は慌てて息を吸い込み、もう一度透明になり、おじいさんが通り過ぎるのを待った。
おじいさんが通り過ぎても、安心できない。
人が見えるたびに心臓が跳ね上がる。私は物陰で必死に息を整え、そして息を止めて透明化した。
(これ、もし途中で息が続かなくなって透明化が切れたら…一発でタイホだよね!?)
後悔と恐怖でパニックを起こしながらも、もう止まれなかった。
私は物陰から物陰へと必死に渡り歩いた。酸欠で頭がクラクラする。
だが、ようやくジムの前までたどり着いた。
自動ドアの前まで来た。開かない。
(あ…、そっか。透明じゃ、反応しないんだ)
私は焦りながら、見えない指先で、ドアにある開閉用のボタンに触れた。
ウィーン…。
プラスチックの確かな感触と共に、ガラス扉が開く。
(良かった!動いてくれた!)
「あれ?自動ドア、誤作動かな?」
フロント側からいつもの受付スタッフがこちらへ歩いてくる。
(ヒッ!!)
声にならない悲鳴を上げながら、スタッフのすぐ横をすり抜けた。緊張で涙が溢れてくる。
スタッフが「んー?」とドアを確認している間に、私はロッカールームへ駆け込んだ。
「…やっぱり、あった」
運よくロッカールームには人がいなかった。
自分のロッカーを開けると、昨日忘れた財布がそのまま残っていた。私は安堵の息を漏らしながら、ようやく手にした財布を抱きしめる。
そして私の動きが固まった。
「もしかして…」
財布を抱いたまま透明になってみる。
すると財布だけが何もない空間にぽつんと浮いている。
「えー…うそでしょ…」
先ほど流した涙も乾いていないのに、私は思わず小さく吹き出してしまった。
見えない両手で財布を掲げてみる。
「シュールすぎる!」
思わず、また笑ってしまった。
透明になれるのは、私の肉体だけ。
私が触れたものまで透明になるわけではないのだ。全裸の透明人間が、宙に浮く財布を掲げている。
そのあんまりな絵面を想像して、どっと虚しさが押し寄せてきた。
「私、こんなに必死になって、一体何をやってるんだろ…」
手に入れた財布を眺める。超能力で身体を消せるようになっても、私が昨日犯した失敗が消えてくれるわけではなかった。
なんとかジムから路地裏に戻り、荷物を隠した自販機の影へとたどりついた私は、急いで服を着直した。
その場にしゃがみ込んで、荒い息が収まるまで何度も深呼吸をする。
周囲を見る。
誰もいない。見られてない!見られてないはずだ、絶対に!
透明になれた。誰の目にも触れずに目的を果たせた。これがあれば、あのジムにも行けると思った。
でも…。
「これ…こわすぎる!!」
一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていた。その恐怖に、今更ながら私はひとりでガタガタと震えていた。
こうして私は、便利で最強のはずの能力を手に入れた。
それを使うために、色々なものを諦めなければならないことを実感しながら…。