激しい雨の降る夜だった。
おじいさんは書斎で、いつものように紅茶を楽しんでいた。
時折混ざる雷の音を煩わしく思いながら、本のページをめくっていると、雨音に混じって、けたたましい急ブレーキ音が響いた。続いて、大きな衝突音が聞こえてきた。
「おや?」
おじいさんは立ち上がり、窓の外へ目を向けた。
どうやら自宅のすぐ近くで、何か事故が起きたらしい。
道路に出て外を見渡すと、自宅のすぐ近くで、乗用車が電柱にぶつかり、大破していた。
「ちょっと出かけてきますね」
おじいさんは携帯電話と傘を手に取り、現場へと駆け寄った。
事故車のドアを開けると、運転手の男性がぐったりとしており、頭部からは血が流れていた。意識がないようだ。
すぐに救急車を手配したものの、大雨の影響で、到着までどれだけ時間がかかるかわからないという。
男性の出血は止まりそうにない。このままでは、手遅れになってしまうかもしれない。
「…困りましたね」
おじいさんは周囲を素早く見渡した。人通りは見えない。
「やるしかない、ですか」
おじいさんは深くため息をつき、服を脱ぎ始めた。
傘を脇に立てかけ、その下に衣服を畳んでいく。
いつも綺麗に整えている白髪がすぐにべったりと張り付いてくる。
「大丈夫ですよ。今、助けますからね」
おじいさんは意識のない運転手に声をかけると、大きく息を吸い込み、息を止めた。
傷口に直接触れ、心の中で強く念じる。(治れ…!)
怪我をした男性の流血が止まり、割れた皮膚がみるみるうちに塞がっていった。
しかし一つ問題が起きた。
大きな衝突音に気づいた住民たちが、ゾロゾロと家から出てきてしまったのだ。
住民たちの目に映ったのは、雨の中、事故車を裸でのぞき込んでいるおじいさんの姿であった。
「ひっ!?何、あれ?」
「警察に電話して!」
おじいさんは傷口がふさがったことを確認すると、呼吸を再開した。
「ぷはぁっ!!」
「よかった…。さて…」
衣類を持ち上げ、傘で顔を隠しながら、自宅へと一目散に逃げ帰った。
「顔を見られる前に…!」
冷たい雨に濡れた体で、息を荒く乱しながら玄関のドアを開ける。
「…ただいま戻りました」
「お帰りなさい」
居間から顔を出した妻は、おじいさんの姿を一瞬だけ見つめた。
「今日は突然でしたね」
「…少々、人助けを」
「そうですか」
「…はい」
妻は微笑んだ。
「すぐにタオルをお持ちしますね」
「申し訳ありません」
少しの沈黙の後、妻は廊下へと歩き出す。
「今お風呂も沸かしていますから。風邪をひいてしまいますよ」
「ありがとうございます」
おじいさんは小さく頭を下げ、家の中へと入った。
しばらくすると救急車のサイレンの音が近づいてくる。
妻は何も聞かなかった。
翌日。
「こちら、回覧板になります」
「いつもありがとうございます」
書斎のおじいさんは、妻から回覧板を受け取った。
『【注意】近隣で不審者男性の目撃情報あり。見かけても近づかず、すぐに警察へ通報してください』
おじいさんはため息をつきながら、静かに紅茶を楽しむのであった。