夜。
人通りの少ない路地を、一人の男が歩いていた。
どこにでもいる、ごく普通の会社員だった。
「……今日は疲れたな」
小さく息を吐く。
その瞬間。
男の胸元から、淡い光が漏れた。
「……え?」
本人には、それが何なのか分からない。
だが――。
路地の奥に立つ存在は、それを見逃さなかった。
黒い影。
人間とは明らかに異なる異形。
アンノウン。
ゆっくりと男へ顔を向ける。
「……な、何だ……?」
男が後ずさる。
アンノウンが一歩踏み出した。
「来るな……!」
男は逃げようとする。
だが――。
アンノウンが腕を振るった。
――ドンッ。
「……っ」
男の身体が僅かに揺れる。
それだけだった。
倒れる。
まるで、眠りにつくように。
アンノウンは何もせず、その場を離れていく。
*
数分後。
現場に到着した部隊が、倒れている男を確認した。
「……?」
隊員が眉を寄せる。
服もほとんど破れていない。
目立った出血もない。
「心肺停止を確認」
「原因は?」
「……分かりません」
検視担当が確認を進める。
そして――。
「……待ってください」
「どうした?」
「心臓に異常があります」
「異常?」
モニターに映像が表示される。
全員が黙り込んだ。
心臓の中央。
そこだけが――。
綺麗な円形に穿たれていた。
まるで、身体の内部だけを狙って、何かが一直線に通り抜けたかのようだった。
「……何だ、これ」
「分かりません」
「銃撃?」
「弾丸の大きさではありません」
「刃物?」
「傷の形状が違います」
「爆発物は?」
「周囲に爆発痕はありません」
誰も答えられない。
外側には、ほとんど傷がない。
それなのに――。
心臓だけが、正確な円形に貫かれている。
まるで、人体の内部だけを狙って殺されたかのように。
現場には凶器も残されていなかった。
それは、人間には到底説明できない殺人だった。
*
そして――。
その異常な事件を追って、サードリコリスが現場へ到着した。
「周囲、確認」
「異常なし」
銃を構え、慎重に路地を進む。
しかし。
その先に――。
アンノウンが立っていた。
「……!」
一斉に銃口を向ける。
「撃て!」
――パンッ! パンッ! パンッ!
銃弾がアンノウンに命中する。
アンノウンの身体が僅かに揺れた。
「効いてる!」
だが。
次の瞬間。
アンノウンが消えた。
「――え?」
視界から消える。
そして――。
目の前。
「……っ!」
アンノウンの手が、一人のサードリコリスの胸元へ伸びる。
触れたようにすら見えなかった。
――ドンッ。
「……あ」
少女の身体が止まる。
銃が手から落ちた。
そのまま、力なく倒れる。
「――!」
別のサードリコリスが銃を向ける。
しかし。
アンノウンはすでに目の前にいた。
――ドンッ。
「……っ」
また一撃。
身体に目立った傷はない。
それなのに、倒れる。
残った隊員が後退する。
「何……なの……」
声が震える。
それでも銃を構える。
――パンッ! パンッ!
弾丸が命中する。
アンノウンが僅かに後退する。
「効いてる……!」
希望が生まれた。
しかし――。
アンノウンは、ゆっくり顔を上げた。
そして、一歩。
また一歩。
近づいてくる。
「……来ないで」
足が震える。
「来ないで……!」
アンノウンが腕を伸ばす。
「いや……!」
――ドンッ。
最後の一人も、その場に崩れ落ちた。
静寂。
誰も動かない。
そして、最後の1人は物陰に隠れて通信機から微かな声が漏れる。
「こちら……サードリコリス……」
声が震えていた。
「敵性存在……確認……」
荒い呼吸。
「……駄目……」
アンノウンの足音が近づく。
「こいつ……強すぎる……」
声が震える。
「来る……」
一歩。
「来る……!」
恐怖に耐えきれなくなる。
「来ないで……!」
――ドンッ。
通信機だけが地面に落ちる。
そして――。
後に確認されたサードリコリスたちの身体には、目立った外傷がほとんど存在しなかった。
だが。
全員の心臓には――。
同じ、異様なほど正確な円形の穴が開いていた。
凶器は見つからない。
弾丸もない。
爆発物もない。
刃物による傷でもない。
ただ、心臓だけが貫かれている。
まるで――。
何かが人体そのものを無視して、心臓だけを狙い撃ちしたかのように。
アンノウンは、夜の闇へ消えていった。
*
翌日。
喫茶リコリコ
昨夜の事件など何も知らないまま。
店内には穏やかな午後の時間が流れていた。
「じゃあ、次は餡を包んでみようか」
「はい」
厨房では、ミズキとユイトが並んでいた。
テーブルの上には、和菓子作りの材料が並んでいる。
餡。
生地。
そして、出来上がる前の小さなどら焼き。
「まずは生地を手のひらに乗せて」
「こうですか?」
「そうそう」
ミズキが手本を見せる。
ユイトは真剣な表情で、それを真似する。
「餡は入れすぎないこと。欲張ると閉じられなくなるからね」
「分かりました」
「力も入れすぎない。優しくね」
「はい」
ユイトは慎重に餡を包んでいく。
その様子を、少し離れたカウンターから千束とたきなが眺めていた。
「……真面目だねぇ、ユイトさん」
「そうですね」
たきなが頷く。
「料理人を目指しているなら、真剣になるのも当然でしょう」
「それにしてもさ」
千束がニヤニヤする。
「ミズキのこと、めちゃくちゃ好きじゃん」
「……そうですね」
「やっぱり分かる?」
「はい。かなり分かりやすいです」
二人は厨房を見る。
「ミズキさんは……全然気づいていませんけど」
「だよねー」
ミズキはそんな二人の視線にも気づかず、ユイトの作業を確認している。
「うん。いい感じ」
「本当ですか?」
「うん。初めてにしては上出来」
「ありがとうございます」
ユイトが嬉しそうに笑った。
千束はその様子を見ながら、ふと腕を組む。
「……でもさ」
「はい?」
「ミズキって、ほんと自分に対する恋愛は疎いよね」
「そうですね」
「ユイトさんがあんなに分かりやすいのに」
「気づいていないようですね」
「うーん……」
千束が首を傾げる。
「なんか不思議だなぁ」
「何がですか?」
「ミズキって、自分からは結構がっつくのにね」
「……そうですね。」
「気になる人がいたら、自分からグイグイ行くタイプじゃん」
千束は少し考える。
「なのに、他人からの好意には全然気づかないんだよね」
「……」
たきなが千束を見る。
「それ」
「ん?」
「千束も同じですよ」
「え?」
「自分からは積極的なのに、他人からの好意には鈍いです」
「…………」
千束が固まる。
「……私?」
「はい」
「私、そんなに?」
「かなり」
「うそぉ」
「本当です」
たきなは即答した。
「自覚してるんだよ?」
「自覚していても、気づいていないじゃないですか」
「えー?」
千束は頬を膨らませる。
「私、ちゃんと分かってるって」
「そうでしょうか」
「そうだよ」
千束は自信満々に胸を張る。
「私って、他人からの好意には鈍いんだよね」
「……はい」
「だから気をつけてるの」
「……そうですか」
たきなは少しだけ目を伏せる。
「じゃあ、私のーー」
「ん?」
「……いえ」
たきなは首を横に振った。
「何でもありません」
「そっか」
千束はあっさり頷く。
そしてまた厨房へ視線を戻した。
「でも、ユイトさん頑張ってるなぁ」
「そうですね」
「ミズキも、普通に教えてるし」
「はい」
「いつか気づくのかな?」
「どうでしょう」
たきなは静かに答える。
「ミズキさんは、今のところユイトさんを『料理を教えているお客さん』としか思っていないようです」
「だよねぇ」
千束は笑う。
「恋って難しいね」
「……そうですね」
たきなは千束を見る。
その視線には、千束自身にも分からないほどの優しさがあった。
けれど――。
千束は、それに気づかない。
そして、たきな自身も。
なぜ自分が千束を見ると、こんなにも胸が落ち着くのか。
なぜ千束が傷つくと、自分まで苦しくなるのか。
それをまだ、知らない。
「千束」
「なに?」
「……何でもありません」
「変なたきな」
「千束に言われたくありません」
「ひどっ!」
二人はいつものように言い合う。
それは、どこから見ても仲のいい相棒だった。
ただ――。
二人の間には、まだ名前のついていない感情があった。
そして二人とも、それを「相棒だから」という言葉で片づけていた。
「できました!」
厨房からユイトの声が聞こえる。
「お、完成した?」
千束が振り返る。
「はい。どうでしょうか、ミズキさん」
「うん。初めてにしては上出来」
「ありがとうございます!」
嬉しそうなユイト。
それを見た千束が、ニヤッと笑う。
「……恋だなぁ」
「千束」
「なに?」
「本人の前で言わないでくださいね」
「分かってるって」
そう言いながら、千束は楽しそうに笑った。
穏やかな午後。
和菓子の甘い香りと、コーヒーの香りが店内に広がっている。
誰もまだ知らない。
昨夜、サードリコリスを襲ったアンノウンが――。
すでに、次の獲物を探し始めていることを。