――翌日。
ユイトは、喫茶リコリコの前に立っていた。
「……」
店の看板を見上げる。
昨日、初めて入った店。
コーヒーも、どら焼きバーガーも美味しかった。
店の雰囲気も悪くなかった。
けれど――。
「……また来ちゃったな」
ユイトが小さく呟く。
理由は、分かっている。
昨日、厨房にいた女性。
ミズキ。
思い出すだけで、胸が少しだけ高鳴る。
「……会いたい」
口に出してから、ユイトは少し恥ずかしくなった。
「俺、何やってんだ……」
それでも。
足は店の前から動かなかった。
やがて意を決して、扉を開ける。
カラン――。
「いらっしゃいませー!」
千束の明るい声。
そして――。
「……あ」
ユイトの視線が、厨房へ向く。
いた。
ミズキが今日もそこで働いている。
それを確認した瞬間。
ドクン。
「……」
まただ。
胸が大きく鳴った。
ミズキはユイトに気づく。
「あら、昨日のお客さん」
「あ……はい」
「いらっしゃい」
それだけだった。
特別な反応はない。
昨日と同じ。
普通の客としての対応。
だが、ユイトにとってはそれだけで十分だった。
「……はい」
少し嬉しそうに答える。
その様子を、千束が見ていた。
「……」
千束の目が細くなる。
ユイトを見る。
ミズキを見る。
またユイトを見る。
そして――。
ニヤッ。
「……なるほど」
「千束?」
たきなが声をかける。
「どうしたんですか?」
「いやぁ」
千束は腕を組んだ。
「分かっちゃった」
「何がです?」
「恋だよ」
「……はい?」
たきなが固まる。
「恋」
「いや、何を根拠に……」
「見れば分かるよ」
「分かりません」
「分かるって」
千束は自信満々に頷いた。
「だって、入ってきた瞬間にミズキを探す目をしてたもん」
「……」
「普通のお客さんなら、店内を見回して席を探すでしょ?」
「はい」
「でもあの人、最初にミズキを探した」
「……」
「しかも、見つけた瞬間――」
千束は自分の胸に手を当てる。
「ドクン!」
「……千束」
「いや絶対鳴ったって!」
「本人に聞こえてないでしょう」
「私には聞こえた!」
「聞こえてません」
「恋愛の鼓動は聞こえるの!」
「そんな特殊能力ありませんよ」
「あるの!」
千束は胸を張った。
「私、こういうのだけは超得意だから」
「こういうの“だけ”なんですか?」
「たきな、そこは聞かないで」
たきなが呆れた顔をする。
その横で、千束は再びユイトを見る。
「……ふふ」
「何ですか?」
「いやぁ、これは面白くなりそうだなぁって」
「まったく」
◆
「今日は何にする?」
千束がユイトの前にメニューを置く。
「えっと……」
ユイトはメニューを開く。
昨日と同じものにしようか。
そう思ったところで――。
「……おはぎセット、お願いします」
「おっ、渋いね!」
「昨日、他のお客さんが食べてるの見て、美味しそうだったので」
「了解!」
千束が注文を取る。
その瞬間。
千束の目がキラッと光った。
「……昨日のこと覚えてるんだ」
「え?」
「いや、なんでもない!」
千束は笑顔で誤魔化す。
しかし、心の中では――。
(はい、確定)
完全に確信していた。
(これはミズキ目当てだ)
「おはぎセット入りました〜」
「ああ」
「飲み物は?」
「ブレンドコーヒーで」
「分かった」
ミカがコーヒーを淹れ始める。
その間に、ミズキがおはぎを用意する。
「……」
ユイトは、無意識に厨房へ目を向ける。
ミズキが手際よくおはぎを盛り付けている。
「……」
綺麗だな。
そんなことを考えていた。
そして。
その視線を――。
千束は見逃さなかった。
「……」
ユイト。
ミズキ。
ユイト。
ミズキ。
ユイト。
ミズキ。
千束の視線が忙しく往復する。
「……ぬふふ」
たきなが隣を通る。
「何を笑ってるんですか?」
「いやぁ、恋だなぁって」
「……?」
たきなもユイトを見る。
ユイトはミズキを見ている。
たきなはミズキを見る。
ミズキはおはぎを盛り付けている。
「……普通に仕事してますね」
「そうなんだよ」
「では、何が恋なんですか?」
「たきなはまだまだだねぇ」
「何がですか」
千束は得意げに笑った。
「視線だよ、視線」
「視線?」
「好きな人を見る目って、ちょっと違うんだよ」
「……」
「ほら」
千束が顎でユイトを示す。
「今もミズキ見てる」
「……本当ですね」
「でしょ?」
千束がニヤリと笑う。
「これはもう――」
「千束」
たきなが止める。
「本人に聞こえます」
「あ」
千束が口を押さえる。
「……危ない危ない」
「千束は時々、本当に余計なことをしますね」
「だって面白いんだもん」
そして千束は、ユイトのところへ向かう。
「ねえ」
「はい?」
「ミズキのこと、気になる?」
「――っ」
ユイトの肩が跳ねる。
「な、何を……」
「やっぱり!」
千束が勢いよく指を差す。
「ほら! 今の反応!」
「ちょっと、千束!」
たきなが慌てて止める。
「お客さん困ってます」
「だって分かりやすいんだもん!」
ユイトは顔を赤くして俯く。
「……すみません」
「謝らなくていいよ!」
千束はケラケラ笑う。
「むしろ応援する!」
「応援……?」
「うん!」
千束は親指を立てた。
「恋する男の子、私は好きだよ!」
「ちょっと千束!」
「なに?」
「声が大きいです」
「はーい!」
千束は何事もなかったように返事をする。
「……でも、ミズキにはまだ言わないほうがいいかも」
「……?」
「たぶん今、ミズキに言っても」
千束はミズキを見る。
ミズキは何も知らずにおはぎを盛り付けている。
「『へえ、そう』で終わるから」
「……その可能性は高いですね」
たきなが冷静に頷く。
◆
そこへ、ミズキが料理を持ってくる。
「お待たせ。おはぎセット」
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
ミズキはそれだけ言って、厨房へ戻ろうとする。
だが――。
「あの」
「ん?」
ユイトが呼び止めた。
「……昨日の、どら焼きバーガー。美味しかったです」
「ああ、そう?」
「はい。また食べたいと思って」
「そりゃよかった」
ミズキは軽く笑った。
「じゃあ、また食べに来て」
「……はい」
その一言だけで。
ユイトの胸は、また大きく鳴った。
ドクン。
「……!」
千束が目を見開く。
「今!」
たきなが振り向く。
「何ですか?」
「今の!」
「何がです?」
「完全に恋する男の顔だった!」
「……」
たきながユイトを見る。
ユイトは明らかに照れている。
「……まあ」
たきなが少し考える。
「確かに……分かりやすいですね」
「でしょ!?」
千束が嬉しそうに笑う。
しかし。
当のミズキ本人は。
「おっさん、コーヒー豆そろそろ補充したほうがいいんじゃない?」
「そうだな」
そんな会話をしながら、いつも通り仕事をしていた。
ユイトの恋心など――。
まったく気づいていない。
「……」
千束はそんなミズキを見て、ユイトを見る。
そして。
「……これは長期戦だね」
「まったく余計なことしないでくださいよ?」
たきなが呆れた声を出す。
「いいじゃんいいじゃん」
千束は楽しそうに笑った。
「面白そうだし」
◆
しばらくして。
ユイトはおはぎを食べながら、店内を眺めていた。
千束とたきなが何やら話している。
クルミはカウンターでミカと話している。
ミズキは厨房で皿を洗っている。
――平和だ。
不思議なくらい。
昨日初めて来ただけなのに。
どこか落ち着く。
「……いい店だな」
ユイトが小さく呟く。
その瞬間だった。
――ドクン。
「……!」
ユイトの手が止まった。
胸の奥。
心臓のさらに奥から。
何かが警告している。
「……この感じ」
昨日と同じ。
あの化け物だ。
どこか近くに。
ユイトはゆっくりと顔を上げる。
さっきまで穏やかだった表情が消える。
「……」
千束がそれに気づいた。
先ほどまでのニヤニヤした表情も消える。
「……どうしたの?」
ユイトは答えない。
視線だけが、窓の外へ向いている。
「お客さん?」
たきなも異変に気づく。
ミカがカウンター越しにユイトを見る。
「……何かあったか?」
「……すみません」
ユイトは立ち上がった。
「ちょっと、外に出ます」
「え?」
ユイトは懐から財布を取り出した。
「あ……」
千束が目を丸くする。
「お会計、まだだったね」
「はい」
ユイトはカウンターへ向かう。
「おはぎセット、いくらですか?」
「六百円です。」
千束が答える。
ユイトは財布から六百円を取り出し、カウンターへ置いた。
「ありがとうございます」
ミカが受け取る。
「ごちそうさまでした」
「はいよ」
ユイトは一礼する。
そして、改めて店の外を見る。
「……」
胸の奥で、再び鼓動が鳴った。
ドクン。
――近い。
「じゃあ、ありがとうございました」
ユイトはすでに扉へ向かっていた。
カラン――。
扉が閉まる。
「……」
店内に沈黙が落ちる。
「……何だったんでしょう?」
たきなが呟く。
「さあ」
千束も窓の外を見る。
そして、少しだけ笑う。
「でも……ちゃんとお金払ってから出ていったね」
「そこですか?」
「大事だよ?」
千束は真面目な顔で頷いた。
「喫茶店の基本だからね」
「……そうですね」
たきなも窓の外を見る。
ミカは静かにユイトが出ていった扉を見つめていた。
「……何か、嫌な予感がするな」
◆
店の外。
ユイトは一人、路地へ入っていた。
「……間違いない」
胸の奥で、鼓動が鳴る。
ドクン。
ドクン。
その先に――。
何かがいる。
「あいつがいる……」
ユイトは拳を握った。
そして。
喫茶リコリコの日常は、一瞬にして非日常へと変わろうとしていた。