ダンジョン物件の不動産鑑定士 〜欠陥アビスも、建築基準法と重要事項説明でスマートに解決します〜 作:ルクエリシオン
「だから大家さん! 賃貸契約の原状回復ガイドラインにおいて、経年劣化や建物自体の構造トラブルによる修繕費を、借り主に全額請求するのは明らかに違反です!」
都内某所、築四十年を超える木造二階建てアパート『わかば荘』の二〇一号室。畳の青畳臭さと湿気たカビの匂いが混ざり合う和室で、一ノ瀬葵(いちのせ あおい)はハキハキとした声を張り上げていた。
黒髪のショートボブを揺らし、首からデジタル距離測定器と一眼レフカメラを下げた彼女は、国土交通省ダンジョン建築管理課からの出向調査員だ。
対する相手は、丸眼鏡の奥で豚のように目を細めた大家の男・大河原。男は太い腕を組み、鼻を鳴らした。
「ハッ! お前みたいな青臭い役人に何がわかる! 見ろよこの押し入れを!」
大河原が踏み込み、押し入れの襖(ふすま)を荒々しく開け放つ。中段のベニヤ板が腐ちかけ、奥の壁紙がぽっかりと黒い大きな穴となって撃ち抜かれていた。
その穴の奥からは、ひんやりとした不気味な冷気と、緑色にほの暗く光る粘液が滲み出ている。あからさまなアビス・ノード(ダンジョン孔)の発生痕だ。
部屋の隅で縮こまっている貧乏大学生の借り主・佐藤が、怯えたように肩を震わせる。
「このガキが押し入れの奥から湧き出たスライムの湿気を放っておいたせいで、部屋全体の壁紙がカビで全滅したんだよ! 清掃代と壁紙の張り替え、ダンジョン封印費用で合わせて百万円! 借りた奴が払うのは当然だろうが!」
「うっ……! そ、それは……確かにスライムの分泌液には強力な保湿作用と魔力湿気が含まれますけど……!」
大家の気勢に押され、葵は一歩後退りしてしまう。確かに、発生したモンスターの放置による損害は、借り主の『善管注意義務違反』に問われるケースが多い。魔術的な原因と物理的な原因の因果関係を明確に言い返せず、葵は悔しそうに唇を噛みしめた。
その時だった。
「——一ノ瀬調査員。……いや、今日からうちの事務所で研修を受ける予定の一ノ瀬葵だな?」
静かだが、驚くほど低く通る声が和室に響いた。
葵がハッと振り向くと、玄関のたたきで几帳面に革靴を揃え、スーツの上から耐魔性のレザーベストを羽織った男が足を踏み入れるところだった。手には、カチャリと心地よい金属音を立てて伸ばされた一本のステンレス製打診棒。
男——設楽 錬(したら れん)は、黒髪の奥の冷静な瞳で葵を一瞥し、呆れたように息を吐いた。
「事務所への着任挨拶より先に現場へ飛び込んで揉めているとは、フットワークだけは良いようだな」
「えっ……!? あ、あなたが設楽不動産鑑定事務所の設楽先生……!? すみません、借り主さんからの相談資料を見ていたら居ても立ってもいられなくなって、つい先に来てしまって……!」
「まあいい。依頼人の佐藤くんから正式に鑑定依頼を受けたのは俺だ。……感情論では家は建たないし、敷金も返ってこないぞ」
設楽は恐縮する葵を制し、挨拶もそこそこに押し入れの前へと歩み寄った。
「な、なんだお前は! 関係ない奴が入ってくるな!」
いきり立つ大家を一切無視し、設楽は胸ポケットから特製の魔力測定眼鏡を取り出して装着する。そして、伸ばした打診棒の先端で、押し入れの柱と奥の壁を『コン、コン、コン』とテンポよく叩き始めた。
硬質な金属音が室内に響く。
「打診音の空洞率、約四十五パーセント。魔力残留値はゼロ点ゼロ三ppm……なるほど」
「な、なにを一人でぶつぶつ言っていやがる!」
設楽は眼鏡を外し、冷徹な視線を大家へと向けた。
「大家さん。嘘をつくなら、もう少し建築基準法と防湿施工の勉強をしてからにしてください」
「なんだと!?」
「このカビの原因、スライムの湿気じゃありませんよ」
設楽は手帳を開き、淡々と数字を指で示した。
「先ほど外壁を調査させてもらいましたが、このアパート、十年前の大規模修繕の際、外壁の防水シート施工を完全に省いていますね? 雨水が外壁から染み込み、壁裏のグラスウール断熱材が完全に腐食している。このカビは、あなたが修繕費をケチったことによる構造的な内部結露です」
「な……っ! な、なにを根拠に!」
「打診音による剥離部分の特定と、魔力波形の分離解析です。スライムが発する魔力湿気はアルカリ性ですが、この壁のカビは酸性の結露由来。……スライムは単に、あなたが作った結露の湿気とカビに引き寄せられて、押し入れの隙間に住み着いていただけだ」
設楽は打診棒をジャキッと短く収め、スーツのポケットに手を突っ込んだ。
「民法第606条において、賃貸物の使用および収益に必要な修繕を行う義務は、貸主であるあなたにあります。構造上の欠陥による損害を借り主に転嫁することはできません。……よって、原状回復費用百万円の請求は無効。それどころか、借り主から預かっている敷金十五万円は全額返還の対象です」
「〜〜〜〜っ!?」
大家は顔を真っ赤にし、ぐうの音も出ずに絶句した。
葵は目を丸くし、口をぽかんと開けたまま設楽の横顔を見つめていた。
(な、何者……!? 感情的にならずに、建築の知識と法律、それに魔力解析だけで完璧に論破しちゃった……!?)
「う、うう……だがな!」
大家の大河原は、なおも足掻くように押し入れの穴を指差した。
「そんな屁理屈を並べたって、押し入れの奥にダンジョン孔が開いてるんだぞ!? こんな穴が空いた事故物件、次の借り手なんてつくわけねえだろうが! 大損害には変わりねえんだ!」
「……はあ」
設楽は小さく溜息をつくと、押し入れの穴へ歩み寄り、穴のフチの岩肌を指先でなぞった。
「大河原さん。このダンジョン孔、危険度は最も低い『F級』です。湧き出る魔物は小型の幼体スライムのみ。それどころか、奥からの魔力冷気によって、穴の周囲は一年を通じて常に『温度十二度・湿度七十パーセント』に保たれている」
「だ、だからそれがどうしたってんだよ!」
「リフォームのアイデアですよ」
設楽は淡々と手帳に図面を書き走りながら言った。
「穴の周囲に防魔ガラスの観音扉を取り付け、ステンレス枠で補強する。工事費はせいぜい十万円程度です。そうすれば、ここは『年間を通じて温度と湿度が一定に保たれる、天然の極上ワイン&熟成食材ウォークインセラー付き物件』に生まれ変わる」
「な……ワインセラー!?」
「ええ。ワインの保管に最適な湿度七十パーセントが常時キープできる環境は、通常なら高価な空調設備が必要です。昨今のレトロアパートブームとワイン人気を考えれば、この『天然の魔導冷暗所』は強烈な売りになります。事故物件どころか、鑑定評価額はむしろ二割増し。家賃を月五千円上げても、即座に次の入居者が決まりますよ」
「が、家賃を上げても即満室……!?」
大河原の目が、一瞬で強欲な輝きを取り戻した。
「ほ、本当にそんな金額で鑑定書を書いてくれるのか……!?」
「条件があります。今回の件で佐藤くんへの100万円の請求を完全に撤回し、敷金15万円を今すぐ返還すること。そして、その返還金で今回のガラス工事を発注すること。……どうしますか?」
「やる! やるに決まってるだろ! おい佐藤、敷金は全額返してやる! 今すぐ荷物をまとめて出ていけ!」
手のひらを返した大家の態度に、借り主の佐藤は「あ、ありがとうございました……!」と設楽に深く頭を下げ、逃げるように部屋を飛び出していった。
「……ふう。これで一件落着だな」
アパートを出て、夕暮れの街並みを歩きながら設楽が呟く。隣を歩く葵は、未だに興奮冷めやらぬ様子で設楽の顔を覗き込んだ。
「設楽先生! すごいです! 悪徳大家さんの言いがかりを完全論破した上に、ダンジョン孔をワインセラーにして解決しちゃうなんて……!」
「別にすごいことじゃない。現場の構造を正しく観察し、法律と市場価値に沿って『鑑定』しただけだ」
設楽はポケットから煙草を取り出そうとしてやめ、葵に向き直った。
「一ノ瀬調査員。挨拶が遅れたな。設楽不動産鑑定事務所の設楽だ。……改めて、今日からよろしく頼む」
「あっ、はい! こちらこそ、本日より研修でお世話になります、一ノ瀬葵です! 改めてよろしくお願いします!」
葵はハキハキとお辞儀をし、それから疑問を口にした。
「でも設楽先生。あんな不気味なダンジョン孔が開いているのに、どうしてそんなに冷静でいられるんですか? 普通の不動産屋さんなら、関わりたくなくて逃げ出しちゃいますよ」
設楽は足を止め、遠くの街並みに聳え立つ巨大なタワーマンションを見上げた。かつてB級探索員として、血と暴力が支配するダンジョンの最前線にいた頃の記憶が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
「一ノ瀬」
「はい?」
「どれほど恐ろしいモンスターがいようと、異次元空間が広がろうと……人間が住み、街が存在する以上、そこは不動産だ。そして人間が関わる限り、日本の不動産登記法と建築基準法からは誰も逃げられない」
設楽は静かに口元を緩め、歩き出した。
「法律と構造の力で、住人の安心と資産を守る。それが俺の仕事だ」
その背中に、葵はプロフェッショナルとしての圧倒的な格好良さを感じずにはいられなかった。
「……はい! 設楽先生、どこまでもお供します!」
こうして、知識とロジックでダンジョン物件の不条理を叩き潰す二人の、最初の事件は幕を閉じたのだった。