「影見」の力を失った不来方夕莉は、黒澤密花とともに静かな日々を過ごしていた。
死者のいない世界で、夕莉が初めて向き合うことになったのは、
「普通に生きる」というこれまで知らなかった未来。
これは、長い夜を越えた少女が、
少しずつ「明日」を取り戻していく物語。
全12話+エピローグで構成。
※本作品はpixivにも掲載しています。
八月の朝は、すでに容赦のない陽光を街へ注ぎ込んでいた。
私は布団の中で、ゆっくりと瞼を開く。
すぐには起き上がらず、天井の目詰まりした木目をじっと見つめたまま、静かに耳を澄ませた。
耳を打つ蝉の声。
風鈴の切ない鈴鳴り。
どこかの家の犬の吠え声。
朝の支度で重ねられる、食器同士の小さな不協和音。
――それだけだった。
もう、耳元で怨嗟の声を上げてすがりつく死者の叫びは聞こえない。
助けを求める冷たい吐息も、湿った衣擦れの音もしない。
部屋の仄暗い隅に、虚無の瞳をした人ならざるものが佇んでいることもなかった。
「…うん」
唇から、小さな呟きがこぼれ落ちる。
その耳を刺すほどの静けさは、もう一年近く前から私の世界を覆っていた。
日上山で起きた、あの長い悪夢のような出来事。
あの日を境に、私からも、密花さんからも、異界と現世を繋いでいた「影見」の力は消え去った。
それ以来、死者は姿を見せない。
触れたものから濁流のように流れ込んでいた見知らぬ誰かの記憶も、私を濡れた死へと誘う無数の気配も。
今の私の世界には、何ひとつ存在しなかった。
窓の障子越しに差し込む光は、淡い木目の部屋に鮮明な光の四角を描き出し、静かに漂う空気の粒子を煌めかせている。
窓の外では、羽を震わせる蝉たちが命を削るように競い合って鳴いていた。
軒先に吊るされたガラス風鈴が、吹き抜ける風に揺られて涼やかな水音のような音を立てる。
私という人間が壊れてからの数年間、一度も知ることがなかった穏やかで不気味なほどの静かな朝。
普通の人なら、生まれた時から当たり前に享受してきたはずの朝。
それが今では、少しずつ、私にとっても当たり前の風景になりつつあった。
けれど――。
布団から上体を起こした瞬間、胸の奥底に重く冷たい石が落とされたような錯覚が走る。
深く吸い込み、ゆっくりと息を吐き出す。
ただそれだけの動作に、全身の熱が奪われていくような疲労感を覚えた。
影見の能力さえなくなれば、呼吸をするのも、生きることも、もっと楽になるのだと思っていた。
自分を蝕む呪縛が解ければ、光の中へ歩き出せるのだと。
けれど、それは甘い幻想だった。
世界からノイズが消えても、私という人間の内側にある欠落は何も変わらない。
朝、光の中で目覚めること。
誰かと視線を合わせて言葉を交わすこと。
誰も約束してくれない明日という未来を思い描くこと。
私にとってそれらは、相変わらず果てしなく高く、息苦しい壁のままだった。
それでも、今日は昨日よりも、ほんの少しだけ指先に力が入る。
今の私には、それだけで十分すぎるほどの救いだった。
窓を細く開けると、夏の水分を含んだ重く生温かい風が、部屋の空気を追い出すように流れ込んできた。
眩むような青空には、真っ白な入道雲が巨大な城郭のように聳え立ち、ゆっくりと形を変えていく。
昨夜の夕立の残涙を葉に湛えた朝顔は、吸い込まれるような濃い青の大輪を開かせ、朝日に照らされてきらりと光を弾いていた。
濡れた温かい土の甘い匂いが風に乗って鼻腔をくすぐり、直後、坂道の向こうから軽快な自転車のベルが鳴った。
部活に向かうのか、夏制服姿の高校生たちが汗を光らせながら笑い合って坂を下っていく。
「おい、夏休みの宿題終わったか?」
「終わるわけねぇだろ、あの量。やる気も起きねぇよ」
どこにでもある他愛ない会話が風に乗って届き、やがて騒がしい蝉の声の中に溶けて消えた。
パンと叩いて洗濯物を干す音。
重いサッシを開ける音。
どこかのラジオから流れてくる、かすかなラジオ体操の号令。
鮮やかで、生活の匂いに満ちた夏の朝。
昨日と何も変わらない。
きっと明日も、同じように続いていく日常。
私は手すりに手をかけ、その光景を呆然と眺めていた。
昔から、この街にはこんな景色が存在していたはずだ。
けれど、かつての私には何も見えていなかった。
世界を覆う黒いモヤの向こう側、生きている人間ではなく、その背後に佇む「すでに終わった者たち」ばかりを目で追っていたから。
「…蝉って、こんなにうるさく鳴くんだ」
初めて世界の理を知った子供のように、ぽつりと呟く。
去年の夏も、一昨年も、きっと蝉は同じように命を燃やして鳴いていたはずだ。
けれど、私の記憶のどこを探しても、その声は残っていない。
あの頃の私の耳を満たしていたのは、生きている人間の生動ではなく、死者の悲鳴と水音だけだったから。
もうすぐ二十才になろうというのに、当たり前の夏を知り、当たり前の日常の肌触りを覚えるのが、私は人よりずっと遅かった。
自室を出てギシりと鳴る廊下を渡り、階段を下りていくと、香ばしい珈琲豆の香りが鼻をくすぐった。
まだ「close」の札がかかった静かな店内。
カウンターの向こうで、密花さんが手際よく白い磁器のカップを並べ替えている。
「おはよう、夕莉」
「…おはようございます、密花さん」
私の気配に気づいた密花さんが振り返り、目元を和らげて小さく微笑んだ。
あの日から一年。
絶望の底からすくい上げられ、こうして毎朝、彼女の穏やかな笑顔と交わす日常が訪れるなんて、あの山の上にいた頃の私には想像すらできなかった。
「朝ご飯、できているわ。今日は一段と暑くなりそうね」
「…ありがとうございます」
奥の食卓には、こんがりと焦げ目のついた焼き魚と、湯気の立つお味噌汁、小さな小鉢が整然と並べられていた。
向かい合わせに座り、「いただきます」と小さく手を合わせる。
交わされる会話は少ない。
けれど、そこに重苦しい沈黙はなかった。
この家に流れる静寂は、傷を癒やす包帯のように優しく、二人を包み込んでいる。
それが私たちにとって一番心地よい距離感なのだと、密花さんも分かってくれていた。
しばらくの間、カチャカチャと器と箸が触れ合う心地よい音だけが響く。
「今日は、勉強の日だったわね」
味噌汁を一口含んだあと、密花さんが何気ないトーンで問いかけてきた。
「はい。午前中は、数学の問題集を進めます」
「午後は?」
「お店の手伝いをします」
「無理はしなくていいのよ、夕莉」
「いえ…大丈夫です」
昔から変わらない私の返答。それに少しだけ言葉を付け足した。
「…人と話すことに、少しずつ慣れていかないと」
私の言葉を聞いた密花さんは、目を細め、小さく頷いた。
「じゃあ、お昼前に少し早めに切り上げて、一緒に冷やし中華でも食べましょうか」
「…はい」
“大丈夫?”という問いかけを、密花さんはもう滅多にしなくなった。
私がどれほど苦しくても「大丈夫です」としか答えられないことを、痛いほど知っているから。
代わりに彼女は、決まった時間に温かい料理を作り、お気に入りの紅茶を淹れ、何気ない日常の骨組みを静かに整えてくれる。
それが、今の密花さんなりの、私という存在の繋ぎ止め方だった。
朝食を終え、二階の自室へ戻ると、使い込まれた木製机の上に整然と参考書が積まれていた。
数学、英語、現代文。
市販の厚い問題集と、通信制高校から送られてきた薄いレポート用紙。
私はどこかの学校の制服を着て、教室に通っているわけではない。
事故で両親を失い、影見の力に狂わされて精神科の保護病棟へ収容されて以来、人と関わることを極限まで避けて生きてきた私にとって、「教室」という空間はまだ、あまりに刺激が強すぎる遠い世界だった。
使い古した椅子に腰を下ろし、問題集を開く。
カツカツと、紙の上を芯が滑る規則的な音だけが静まり返った部屋に響き始めた。
十五分ほど経った頃、ふと指先が止まる。
開け放した窓の向こうから、またあの高校生たちの屈託のない笑い声が風に乗って運ばれてきたからだ。
私はペンを置くと、それを指先でゆっくりと転がした。
私には決して訪れなかった時間。
本当は私にもあったはずの、失われてしまった時間。
ただ生き延びること、死の誘惑から逃れることに必死すぎて、通り過ぎてしまった輝き。
私と同じ年頃の人たちは、きっと今頃、大学のキャンパスを歩いたり、将来の夢を語り合ったり、誰かと恋をしたりしているのだろう。
それに引き換え、私は二十歳を目前にして、ようやく高校の参考書を開いている。
焦りがないと言えば、嘘になる。
取り残されたような孤独感が、夜中にふと首筋を撫でていくこともある。
けれど、葛藤に押し潰されそうになっていた私に、密花さんは言ってくれたのだ。
『他の人と同じ速さで歩く必要はないわ』
その静かな言葉に、私はどれほど救われてきただろう。
だから、今は一歩ずつでいい。
将来のことなんて、まだ何も見えない。
何になりたいのかも、この手で何が掴めるのかも、何一つ分からない。
それでも、昨日より一ページ多く問題を解くこと。
お店で「いらっしゃいませ」と、少しだけ大きな声で言えるようになること。
そんな小さな躓きの繰り返しが、いつか私を、まだ見ぬどこかへ連れて行ってくれるかもしれないから。
その途方もない道の中で、私には一つだけ、胸に誓っていることがあった。
それは、普通の人として、生きてみること。
死者の無念や過去の影ではなく、自分自身の「明日」を恐れずに考えながら生きること。
影見を失った私にとって、それはどんな霊を祓うことよりも、一番難しく、恐ろしい挑戦だった。
窓の外から、遠くで鳴く蝉の声が波のように寄せては返していく。
私は深呼吸をひとつすると、握り直したペンに少しだけ力を込めた。
残されている課題は、参考書の中だけじゃない。
勉強も。将来も。
そして、この世界で生きていくことも。
「…よし」
心の中で小さく呟き、私は静かに、次の問題へと視線を落とした。