待ち望んだ未来が近づくほど、今まで当たり前だった日々にも、少しずつ終わりが近づいていることを実感していく。
そんなある日、夕莉は「くろさわ」で過ごしてきた時間を写真に残そうと思い立つ。
見慣れた景色。何気ない時間。
そして、これからも忘れたくないもの。
新しい春を迎える前に、夕莉が今ここにある日々を見つめ直す、冬の終わりの物語。
二月。
窓の外では刺すように冷たい木枯らしが街路樹を揺らし、軒下には先日降った雪が硬い氷となって白く残っている。
夕暮れ間際、ガラス越しに斜めに差し込む陽射しには、どことなく冬の終わりと柔らかな春の予感が混ざり始めていた。
私は机の上に置かれた一枚の合格通知書を、もう何度目かも分からないほど見返していた。
そこには自分の名前と大学の名前、そして何度見てもまだ現実味のない「合格」の文字が記されている。
春から、私は写真を学ぶために美術大学へ通うことになった。
それでもまだ、どこか自分のことではないような気がしていた。
あの日、フォトコンテストの会場で一冊のパンフレットを渡されたときには、まさか本当にこんな日が来るとは思っていなかった。
大学への進学を決意したあと、私は密花さんと一緒に大学を訪れた。
パンフレットの中でしか知らなかった暗室や、大きな照明機材が並ぶ撮影スタジオ。
廊下や展示室には、学生たちが撮った写真が所狭しと並んでいて、何もかもが初めて目にするものばかりだった。
その一つ一つに触れるたび、もっと知りたいという気持ちは強くなっていった。
進学を決めたのが十二月だったこともあり、時間に余裕があったわけではない。
それでも、あのときコンテストで声をかけてくれた先生が、年明けにも出願できる選抜があることを教えてくれた。
それからは、あっという間だった。
高校のレポートを進めながら、これまで撮ってきた写真を何度も見返し、ポートフォリオを作った。
なぜその瞬間にシャッターを切ったのか。
一枚ずつ、自分の言葉で向き合った。
そうして年が明け、出願と選考を終え、
――今、私の前には合格通知がある。
嬉しかった。
自分で選んだ道へ、本当に進めるのだと思った。
けれど、その喜びと同時に、それまでどこか遠くに感じていたことも、急に現実味を帯び始めていた。
春になれば、私はこの場所を離れる――。
もちろん、日本を離れるわけでも、二度と戻れないような遠くへ行ってしまうわけでもない。
けれど、今までのように密花さんと二人きりで朝から夜まで同じ時間を分け合う生活は、もうすぐ終わりを迎える。
机に向かってペンを走らせているときや、ふと作業の手を止めたとき、その実感が不意に胸へ押し寄せてくる。
自分で選んだ未来へ進めることは嬉しい。
そのはずなのに、「春」という言葉を思い浮かべるたび、胸の奥には小さな寂しさが残った。
そんなある日の午後。
いつもより早めに客足が途絶え、閉店準備を始めた静かな店内で、私は首からいつもの二眼レフカメラを下げ、ゆっくりと店内を見回していた。
棚には古い真空管ラジオが置かれ、常連さんがいつも座る席も、私が珈琲の勉強をするときに使っていた壁際の小さいテーブルも、いつもと変わらずそこにある。
店の真ん中では、相変わらず売れる気配のない革張りのソファが場所を取り、壁には私がこれまで撮ってきた街の写真が並んでいた。
骨董品と珈琲の匂いが心地よく混ざり合うこの空間は、いつの間にか私の日常そのものになっていた。
「夕莉、どうしたの?」
声に振り返ると、閉店作業をしていた密花さんが、珈琲豆の缶を手にカウンターの向こうから顔を出した。
不思議そうに細められた瞳が、私の首元へ向けられる。
「…このお店を、撮っておこうと思って」
私は照れくささを隠すように、少し視線を落としながら答えた。
「街の人や、公園の風景はたくさん撮ってきたのに…私にとって一番大切なこの場所を、まだちゃんと撮っていなかったことに気づいたんです」
この喫茶「くろさわ」は、私にとって新しい人生が始まった場所であり、過去の暗闇から一歩ずつ抜け出していった場所でもあった。
そんな場所を、私はまだ一度もこのカメラのファインダーに収めたことがなかったのだ。
密花さんは少し驚いたように私を見つめたあと、柔らかな表情を浮かべた。
「そう…なら、好きなだけ撮るといいわ」
「はい」
私は小さく頷き、折り畳まれていたファインダーフードを開いた。
上からそっと覗き込む。
そこには、いつもと変わらない「くろさわ」があった。
窓から差し込む夕方の光、使い込まれて艶を増したカウンター、規則正しく時を刻む、壁の柱時計。
日上山から連れ帰ってもらったばかりの頃、絶望の淵にいた私にとって、この店はただ「世界との繋がりを最低限に保つための空間」でしかなかった。
けれど今、ファインダーの中にあるのは、私が確かにここで暮らしてきた日々だった。
ゆっくりとピントを合わせる。
カシャリ。
小さなシャッター音が店内に響いた。
場所を変えながら、カウンターや窓際の席にレンズにを向けた。
古いラジオも、売れ残ったソファも、壁に並ぶ写真も、一つずつファインダーに収めていく。
特別なものなど、何一つない。
それでも今は、その何でもない一つ一つを残しておきたかった。
やがて窓の外が深い群青色に染まり、表の看板の明かりを落とした頃。
最後の片付けを終えた密花さんが、カウンターの向こうで一息ついていた。
湯気の立つマグカップを細い両手で包み込み、窓の外の澄んだ夜気を静かに見つめている。
その横顔を見た瞬間、私は自然とカメラへ手を伸ばしていた。
ファインダーの中に、密花さんの姿が浮かび上がる。
思えば、私はずっとこの人に救われてばかりだった。
射影機を持ち、死や怨念、ずぶ濡れた巫女たちの幻影ばかりを追っていたあの頃。
私にとってファインダーを覗くことは、恐怖や苦痛と結びついた行為だった。
そこから見えるものもまた、冷たく暗いものばかりだった。
けれど、密花さんは私にこの普通のカメラを手渡してくれ、新しい世界の切り取り方を教えてくれたのだ。
密花さんがいなかったら、今の私は存在していない。
私はゆっくりとピントを合わせた。
密花さんの綺麗な輪郭が、ファインダーの中にくっきりと浮かび上がる。
カメラを向けられていることに気づいた密花さんがこちらへ顔を向けた。
「…私を撮るの?」
「はい。撮らせてください。私にとって、とっておきの素敵な一枚を」
「大袈裟よ」
そう言いながらも、密花さんは嫌がる様子もなく微笑んだ。
私はなにも言わずに息を整え、まっすぐにファインダー越しに彼女を見つめた。
密花さんは照れたようにクスッと笑うと、お茶目にポーズをとるでもなく、ただ静かに、まっすぐ私を見つめ返してくれた。
その姿に、あの始まりの日が鮮やかによみがえる。
『試しに私を撮ってみなさい』
廃旅館の前で初めて射影機の使い方を教えてもらったとき、最初にファインダーへ収めたのも密花さんだった。
あの頃の密花さんはどこか遠い目をしていて、影見としての宿命と悲哀を背負っていた。
けれど、ファインダーの向こうから私へ向けられる穏やかな眼差しは、あの頃と少しも変わっていない。
違うのは、その眼差しを受け止める私の方だった。
あの頃は気づく余裕さえなかったものを、今ならこうして、ちゃんと見つめることができる。
この人の、この表情を残しておきたい。
今は、それだけで十分だった。
私は静かにシャッターを切った。
カシャリ。
続いてフィルムを巻き上げる小さな金属音が、しんとした店内に響く。
密花さんが少し照れたように笑う。
「…ねえ。どんな顔で写っているかしら」
私はファインダーから顔を上げ、微笑みながら答えた。
「きっと、綺麗に撮れています」
「ふふ。夕莉がそう言うなら、安心ね」
そう言って、密花さんは店内に飾られた私の写真へ視線を移した。
「あなたも、ずいぶん撮るのが上手になったわ」
「…密花さんに教えてもらったからです」
「私はカメラの使い方を教えただけよ」
密花さんは、いつものように優しく笑った。
私は小さく首を横に振った。
――それだけじゃありません。
カメラの持ち方や、ピントの合わせ方だけじゃない。
あの日、私にこのカメラを渡してくれたこと。
そして、世界にはまだ、目を向けるべき価値のある温かなものがたくさんあるのだと教えてくれたこと。
その一つ一つが、今の私を作ってくれた。
伝えたいことは、いくつもあった。
けれど、まだそれを言葉にすることはできなかった。
今ここで口にしてしまえば、胸の奥にしまっていたものまで全部溢れてしまう気がしたから。
だから私は、それ以上何も言わなかった。
「…ありがとうございます」
それだけを、静かに伝えた。
密花さんは少し意外そうな顔をしたものの、何も尋ねずに微笑んでくれた。
「そういえばね、夕莉」
密花さんはカウンターの戸棚から、珈琲豆の入った袋をいくつか取り出した。
「新しいブレンドを試しているの。少し付き合ってくれる?」
「ええ、それはもちろん」
こうして新しい豆やブレンドを試すとき、私が味見役になることはこれまでにも何度かあった。
だから、それ自体は特別なことではない。
私はカメラをテーブルの上へ置き、カウンター席に腰を下ろした。
豆を挽く音とともに、珈琲の香りが閉店後の店内へ広がっていく。
「できたわ」
やがて密花さんが差し出したものを見て、私は思わず目を見開いた。
深い緑色のマグカップ。
去年の誕生日に、密花さんからもらったものだった。
「どうしてもこの珈琲は、あなたのカップに入れてあなたに飲んでもらいたかったの。勝手に使っちゃってごめんね」
「いえ、そんな…。こちらこそ、いつも大切に使わせていただいています」
それは私がカメラと同じくらい大切にしている、温かみのある陶器のマグカップだった。
勉強の合間や、撮影した写真をアルバムに整理するときにも、私はよくこのカップで珈琲を飲んでいる。
私にとってかけがえのない至福の一つだ。
「いただきます」
両手で受け取ると、陶器越しにじんわりと熱が伝わってくる。
立ち上る香りを楽しみながら、そっと口をつけた。
最初に感じたのは、少し強めの苦味だった。
けれど、それは決して嫌な苦さではない。
その奥から柔らかな甘みが広がり、飲み込んだあとにも香りは長く残り続け、不思議ともう一口飲みたくなるような味だった。
いつもの「くろさわ」の珈琲とは、少し違う。
どこか新しくて、それでいて、最後にはよく知っている場所へ戻ってくるような――
「どうかしら?美味しい?」
「すごく…美味しいです。ありがとうございます」
「そう。よかった」
密花さんは、それだけ言って嬉しそうに微笑んだ。
私はもう一度、珈琲を口にする。
「このブレンド、名前はあるんですか?」
そう尋ねると、密花さんはちらりとこちらを見て、まるで「聞いちゃう?」とでも言いたげな、少しお茶目な笑みを浮かべた。
その顔を見ているうちに、ふと思い直す。
「…やっぱり、今は聞かないでおきます」
「あら。どうして?」
「それは…」
手の中の深緑色のマグカップへ目を落とした。
「私がここに戻ってきたときのお楽しみにしておきますね」
密花さんは少し驚いたように私を見て、
「…そう」
やがて、その表情が柔らかくほどけていく。
「じゃあ、それまで秘密にしておくわ」
「はい」
私はもう一度、マグカップを口元へ運んだ。
結局その夜、私は新しいブレンドの名前を聞かないまま、密花さんと他愛のない話をしながら珈琲を飲み終えた。
閉店後の店内には、二人の声と、ときおりカップを置く小さな音、そして柱時計が時を刻む音が響いていた。
数日後。
現像を終えて受け取った写真を、私は自室の机いっぱいに並べた。
窓辺。
使い込まれたカウンター。
古い真空管ラジオ。
売れ残った革張りのソファ。
ストーブの上のやかん。
壁に並んだ、私の写真。
写っているのは、毎日のように見てきたものばかりだった。
それなのに、こうして写真として並べてみると、その一つ一つに、ここで過ごしてきた時間が重なって見える。
そして、その中に一枚だけ、密花さんの姿があった。
冬の柔らかな光の中で、こちらを見つめながら穏やかに微笑んでいる。
私はその写真を手に取った。
「…綺麗に撮れてる」
誰に聞かせるでもなく、小さく呟く。
あのとき密花さんに言った言葉は、どうやら間違っていなかったらしい。
しばらく眺めてから、私はその一枚を手帳の間へそっと挟んだ。
春になれば、私はここを離れる。
それでも、この場所で過ごした時間までなくなってしまうわけではない。
机の上には、まだ整理しきれていない写真が何枚も残っている。
私はその一枚一枚を、もう一度ゆっくりと手に取っていった。