旅立ちの準備を進める彼女のもとに、思いがけない人物が訪れる。
それぞれの道を歩み始めた者たちとの再会を通して、夕莉は自分自身が歩んできた一年を振り返る。
死者を写す射影機ではなく、生きている人々の時間を残すためのカメラ。
それを手にした夕莉が、旅立ちの前に最後に向かうと決めた場所は――。
冬の名残を残した冷たい空気が、窓から差し込む春の柔らかな陽光に少しずつ溶けていく。
片付けを終えた部屋で、私は机に向かい、愛用の二眼レフカメラを手入れしていた。
柔らかなクロスでレンズを拭いながら、このカメラを初めて手にした日のことを思い出す。
日上山から戻り、密花さんと共に影見の力を失ってから、もう一年近くが経とうとしていた。
その間に私は高校を卒業し、写真と出会い、春からは美術大学へ進むことになった。
ほんの少し前まで、卒業したあとの自分が「くろさわ」を離れることなど、考えたこともなかった。
けれど今、部屋の中には荷造りを終えた段ボールがいくつも並んでいる。
私は手の中のカメラへ目を落とした。
埃を被った棚の奥から見つけた、古い二眼レフカメラ。
かつて射影機のファインダー越しに見ていたのは、死者や、この世に未練を残した怨霊ばかりだった。
けれど、このカメラを手にしてから、私が残したいと思うものは少しずつ変わっていった。
みおちゃんとお母さんの笑顔。
秋祭りの光。
街で暮らす人たち。
そして、「くろさわ」で過ごしてきた日々。
人が今を生きている、その瞬間を残したい。
いつしか、そう思うようになっていた。
私はクロスを置き、手の中のカメラを眺めた。
入寮日まで、あと数日。
もうすぐ私は、この部屋を離れる。
ふと、これまで出会った人たちの顔が頭に浮かんだ。
――みんなは今、どうしているだろう。
日上山の過酷な運命の中で出会った人たち。
雛咲さん、蓮さん、そして累さん。
雛咲さんは俳優やモデルとして復帰し、時折テレビの画面越しにその姿を見かける。
お母さんと再会を果たした彼女の瞳にはもう迷いはなく、遠くからでもわかるほど晴れやかな笑顔を見せていた。
あの日以来直接は会えていないけれど、華やかな世界で忙しく過ごしているのだろう。
密花さんの古い友人である作家の蓮さんは、事件の後も何度か店に顔を出してくれていたが、ここ最近はめっきり足が遠のいていた。
もともと彼は執筆の資料となる「失せ物」の調査を密花さんに依頼するために訪れていたのだ。
私たちの影見の力が失われた以上、来る理由がなくなったのも当然かもしれない。
蓮さんが店に来なくなってからは、その助手である累さんの近況も分からないままだった。
ファインダーフードを畳み、レンズキャップを被せる。
本当なら、この店を去る前に自分の言葉で報告がしたい。
けれど、人にはそれぞれ歩むべき自分の人生がある。
私自身がそうであるように、彼らもまた自分の道を歩んでいるのだから。
かつての私は、息をすることすら苦痛だった。
「見えざるもの」が見えてしまう恐怖と、誰にも理解されない孤独に苛まれ、そちら側の世界へ行ってしまいたいと毎日死ばかりを考えていた。
そんな私を暗闇の中から抱き上げてくれたのが、密花さんだった。
密花さんに見つけてもらえなければ、今の私は存在しない。
そして…
『あなたはこちらに来てはいけない』
日上山で別れた黒澤逢世の言葉を、今でも時折思い出す。
あのときはただ胸に残っただけの言葉が、今なら少しだけ分かる気がした。
フィルムの装填を確かめ、カメラをそっと机に置く。
今日は昼食を終えたら、お店の手伝いをする日だ。
この店で密花さんと過ごせる時間は、もう数えるほどしかない。
残り少ないこの店での日々を、いつも以上に大切に過ごしたかった。
そのとき、ドアの隙間からかすかに香ばしいスパイスの香りが漂ってきた。
クミンとガラムマサラの温かい香り。
今日は密花さん特製のカレーだ。お腹が軽く鳴るのを感じながら、私はドアを開け、階段を下りて行った。
「ありがとうございました」
最後のお客様をドアの前まで見送り、深々と頭を下げる。
カウベルが鳴り、ドアが閉まった直後、背後からくすっと笑う声が降りてきた。
「夕莉、そんなところまで見送らなくていいのよ。まるでうちの専属メイドさんね」
振り返ると、カウンターの向こうで密花さんが楽しそうに目を細めていた。
「あと何回、このお店のお客さんと会えるか分からないと思ったら、つい気持ちが入ってしまって」
「なるほどね。それで今日はいつもよりずっと積極的だったの」
密花さんは妙に納得したように頷いた。
ふと壁に掛けられた古時計を見ると、いつもの閉店時間にはまだ一時間ほど早い。
「あの、密花さん。そういえば、どうして今日は一時間も早くお店を閉めたんですか?」
お昼にカレーを食べながら尋ねた時は、少し悪戯っぽい微笑みを浮かべて「あとのお楽しみ」としか教えてくれなかったのだ。
「ふふ、もうそろそろ来る頃よ…あ、ほら」
密花さんが視線を向けた先、先ほどお客さんを見送ったすりガラス状のドアの向こうにふたつの影が揺れた。
一歩下がった瞬間、カウベルが涼やかな音を立て、ドアが開く。
「お邪魔するよ…おや、夕莉?」
入ってきた人物の顔を見て、私は思わず目を見開いた。
今朝、部屋でカメラの手入れをしながら思い返していた人物、放生蓮さんだった。
「先生、ちょっと立ち止まらないでください。入れないじゃないですか」
蓮さんの肩越しから、聞き覚えのある声がした。
「…累さんも」
少し背伸びをするようにひょこっと顔を覗かせたのは、以前より少し髪が伸び、どこか柔らかな雰囲気を纏った鏡宮累さんだった。
「久しぶりだな、夕莉。わざわざ出迎えてくれるなんて」
「いえ…あ、どうぞ」
入口で立ち止まっていた二人を店内へ促す。
「お久しぶりです、夕莉さん」
累さんは以前と変わらない控えめな笑みを浮かべ、蓮さんのあとに続いた。
「暫くぶりね。二人とも元気にしてた?」
カウンター越しに迎える密花さんに、二人は席につきながら挨拶を返す。
「久しぶりだな、密花」
「ご沙汰しております、密花さん」
私は入口の看板をひっくり返し「Close」に変えてから、慌てて二人の元へ駆け寄った。
「密花さん、これって…」
密花さんはいつ準備したのか、湯気の立つ珈琲をふたつのカップに注ぎながら微笑んだ。
「今日の残りの時間は、この二人の貸切よ。久しぶりなんだから、積もる話もあるでしょう?」
「それはもちろん嬉しいですけど…」と私が言葉を詰まらせていると、珈琲を一口含んだ蓮さんが訝しげに密花さんを見た。
「俺たちが来ること夕莉に言ってないのか?」
「ええ、ちょっと驚かせようかと思ってね」
ごめんなさいねとでも言うように密花さんは私を見た。
すかさず累さんが、
「いえ、驚いたのはこっちのほうですよ」
累さんが身を乗り出し、私をまっすぐ見つめた。
「夕莉さん、ここを出て行かれるって本当ですか?」
「本当なのか、夕莉?」
二人から同時に問いかけられ、私は思わずたじろいだ。
「えっと…ほんとです」
蓮さんは整えられた口髭をぽりぽりと掻いた。
「信じられんな。一体なにがあったんだ」
「お、お給料のことでケンカでもしたんですか…?」
生唾を飲み込むように珈琲を口にした累さんが、おそるおそる私と密花さんを見比べる。
密花さんはくすくすと肩を揺らした。
「ごめんね、夕莉。二人を勝手に呼んだのは私だけど…このままだと、私たちケンカ別れでもすることになっちゃうわよ?」
そう言って、密花さんは楽しそうに笑った。
「え、ケンカ別れ?」
「そんなわけないだろう」
ポンと累さんの頭を叩く蓮さんたちの仲睦ましいやり取りに胸が温かくなりながら、私は意を決して口を開いた。
「あの…私、春から大学に進学するんです」
私は密花さんの隣に立ち、この数か月のことを二人に話した。
二眼レフカメラと出会い、写真を撮ることが自分にとって大切なものになっていったこと。
そしてコンテストをきっかけに、もっと写真を学びたいと思うようになったこと。
自分の口から語り直してみると、この数ヶ月がいかに濃密で、光に満ちた時間だったかを改めて実感する。
「そうか…そんなことがあったんだな」
カチャリ、とカップをソーサーに戻し、蓮さんがしみじみと呟いた。
「寂しくなりますね、でも…」
累さんは店内を見渡し、壁に飾られた私の写真へと視線を止めた。
「すごく素敵な写真です。私も写真は素人ですが…なんていうか、そこに生きている人の温もりや、大切な時間がそのまま封じ込められている気がします」
「ああ」と感心したように頷きながら、蓮さんも写真をじっと見つめた。
やがて知性的な黒縁メガネの奥の瞳を、私の顔へと向ける。
「ど、どうしました…?」
まじまじと見つめられ、気恥ずかしさに身を縮めると、蓮さんはふっと目元を緩めた。
「変わったな、夕莉」
「あら、あなたもそう思う?」
密花さんも嬉しそうに頷き、私の横顔を覗き込む。
「以前の夕莉は…言葉を選ばずに言えば、いつ消えてしまってもおかしくないような、生気を失った顔をしていた」
蓮さんは静かに言葉を区切り、温かい眼差しで私を見据えた。
「だが、今の夕莉はまるで別人だ。久しぶりに会った俺にでもはっきりと分かるくらい、良い顔をしている」
「よかったですね、夕莉さん」
累さんが胸の前で小さく手を叩き、心からの祝福をくれた。
二人の言葉に、私は照れくささと嬉しさが入り交じった気持ちになり、思わず視線を泳がせた。
「…自分では、あまり実感がないんですけど」
私がそう呟くと、蓮さんは手にしていたカップをソーサーへ戻し、壁に並んだ写真へ目を向けた。
「麻生邦彦が残した射影機は、異界や死者を写し出すためのものだった。…だが、今お前が手にしているカメラは、その逆だな」
蓮さんは確かな重みを持って言葉を紡ぐ。
「逆…?」
蓮さんは静かに壁に並んだ写真へ目を向けた。
「ああ。人が生きている時間を残すためのカメラなんだ」
その言葉に、私は壁の写真を見つめた。
みおちゃんの笑顔も、祭りの日の人々も、そこに写っている。
「表現というのは、自らの影や過去と向き合うことでもある。夕莉、お前がその写真に込めた光は、暗闇を潜り抜けて生還したお前だからこそ、写せるものなんだと思う」
作家である蓮さんらしい言葉が、胸の奥深くにじんと沁み渡っていく。
私は何も言わず、蓮さんの視線を追うように壁の写真を見つめた。
そこには、私がこの一年で出会い、残してきた人たちの時間がある。
「…ありがとうございます」
ようやくそれだけを口にすると、蓮さんは小さく頷いた。
「あ、そうだ。夕莉さん」
累さんが思い出したように足元に置いた鞄から、小さなリボンがかけられた小箱を取り出した。
「これ、雛咲さんから預かってきたんです。先日ここに向かう連絡を取ったら『絶対に夕莉ちゃんに渡して』って」
「雛咲さんから…?」
驚きながら受け取り、箱を開けると、そこには繊細なデザインの革製カメラストラップと、一枚のメッセージカードが入っていた。
『夕莉ちゃん、高校卒業おめでとう。密花さんから、春から大学に進むって聞きました。私もこっちで頑張るから、夕莉ちゃんも頑張ってね。また今度、ゆっくり会えたら嬉しいです。』
画面の向こうで輝く雛咲さんの、温かい声が聞こえてくるようだった。
みんな、それぞれの場所で自分の人生を力強く歩んでいる。
「みんな、自分の足で前を向いて走っているんだな」
蓮さんが満足そうに微笑み、珈琲を最後の一滴まで飲み干した。
「俺も、次の小説の構想がようやくまとまり始めてね。夕莉に負けていられないよ」
「先生の新作、私もすごく楽しみにしているんです」
累さんが嬉しそうに頷き、店内には和やかな笑い声が広がった。
その後も、時間はゆっくりと流れていった。
かつて日上山で過酷な運命を共にしたことが嘘だったかのように、店内に響くのは穏やかな談笑と、カトラリーの重なる音だけだった。
こんなふうに四人で珈琲を囲んで笑える日が来るなんて、あの頃の私は想像もしなかっただろう。
やがて外の陽が傾き始め、二人を見送るためにドアの前へ立った。
「じゃあな、夕莉。美大で個展を開く時は、真っ先に招待状を送ってくれ」
「夕莉さん、お体に気をつけて頑張ってくださいね。密花さんのこと、私も時々様子を見に来ますから」
「はい。蓮さん、累さん…本当に、ありがとうございました」
夕闇に染まる街並みの中へ溶けていく二人の背中を、私は姿が見えなくなるまでずっと見送っていた。
ドアが閉まり、カウベルの澄んだ音だけがあとに残る。
振り返ると、カウンターの横で密花さんが優しく私を見つめていた。
「いい時間を過ごせたわね、夕莉」
「はい…本当に」
会えないままここを離れるのだと思っていた人たちに、ちゃんと自分の口で伝えることができた。
蓮さんにも、累さんにも。
そして直接ではないけれど、雛咲さんとも互いのこれからを知ることができた。
みんな、それぞれの場所で生きている。
歩んでいく道は違っても、いつかまた会うことができる。
けれど――
もう二度と、言葉を交わすことのできない人もいる。
『あなたに出会えてよかった』
ふと、胸の奥にあの人の声が蘇った。
あの日、逢世さんから受け取ったその言葉に、私はまだ何も返せていない。
あの頃とは違う今の私で、もう一度向き合いたかった。
あの人がいた場所と。
そして、あの場所で一度は終わりを望んだ、かつての自分自身と。
だから、明日――
カメラを持って、あの山へ行こう。
死者を写すための射影機ではなく、今を生きる時間を残すための、このカメラを持って。
私が一度は終わりを望み、それでも生きて帰ってきた場所。
すべての始まりであり、すべてが変わった場所――
日上山へ。