新しい生活へ踏み出す前に、夕莉にはどうしても訪れておきたい場所があった。
かつて生きることを諦めようとした自分と向き合い、これまで歩んできた日々を胸に、夕莉は愛用の二眼レフカメラを手に歩き出す。
別れではなく、新しい日々への旅立ち。
死の側に立っていた少女は、生きることを選び――
今、新たな人生へと転生する。
春の微かな気配が、街のすみずみに少しずつ混ざり始めていた。
朝晩にはまだ肌を刺す冬の冷気が残っているものの、窓から差し込む陽射しには角が取れたような柔らかさがある。
私はいつもより少し早く目を覚ました。
荷造りを終えた部屋を見渡す。
本棚に並んでいた厚い参考書や問題集は、すでに段ボールへ収めて大学寮へ送ってあるため、残っているのはがらんとした机の上にある愛用の二眼レフカメラと、今日羽織るコートだけだった。
明日には、この慣れ親しんだ部屋を出る。
そう思った瞬間、胸の奥がキュッと小さく締め付けられた。
寂しい。
けれど、それと同時に明日から未来へ踏み出すかすかな高揚感も確かに息づいていた。
カメラを手に取り、雛咲さんから贈られた革のストラップを丁寧に確かめる。
今日は、この街を離れる前にどうしても訪ねておきたい場所があった。
日上山――
私の人生が暗闇の中で一変し、そして、生きていくことを選び直した場所。
自室を出て階段を下りると、一階の店内から香ばしい珈琲の湯気が漂ってきた。
「もう起きたの?」
カウンターから顔を出した密花さんが、コートを羽織った私の姿に目を留める。
「…はい。この街を離れる前に、どうしても行っておきたい場所があるので」
密花さんはそれ以上、何も理由を尋ねなかった。
静かな瞳で私を見つめ、どこか誇らしげに、優しく微笑む。
「…気をつけてね、夕莉」
「…はい」
外へ出て自転車に乗り、ペダルを漕ぎ出す。
春を待つ街の空気は、冬のそれとはどこか違っていた。
コンクリートの隙間から小さな草花が青い芽を覗かせ、頬を撫でる風にも冷たさの中に微かな甘さが混ざっている。
いつもなら気にも留めずに通り過ぎていた街並みが、今日は暖かく、目に焼き付いて離れない。
静かな住宅街を通り過ぎると、やがて遠くに山の雄大なシルエットが見えてきた。
日上山だ。
その姿を捉えた瞬間、自転車を漕ぐ足が自然と緩やかになる。
あの山を最後に仰ぎ見たのは、いつだっただろう。
かつての私にとって、あの山は恐怖そのものだった。
近づくたびに胸を掻きむしられるような痛みに襲われ、深い黒い水と死の誘惑へ引きずり込まれる感覚に耐えていた。
けれど今、見上げる日上山は不思議なほど静かで、穏やかに見える。
入口に到着し、自転車を沿道の木に立てかけた。
水籠池の向こうには、古びた水籠橋が変わらぬ姿で架かっている。
その先から分かれていく道にも、見覚えがあった。
左へ行けば、密花さんと影見の練習をした一縷荘へ。
別の道を辿れば、雛咲さんを探すため必死になって動かしたケーブルカーの停留所へと続いている。
そして正面には、木々の奥深くへと消えていく山道があった。
どの道にも、忘れられない記憶があるが、今の私には、もうあの日の足跡を一つずつ辿り直す必要はない。
あの日々の痛みも、得た温もりも、すべて私の中に刻まれている。
確かめるように歩き直さなくても、私はもう前を向けているのだから。
私は首から下げた二眼レフカメラを持ち上げた。
山の姿を広く収められる場所まで少し下がり、ファインダーを上から覗き込む。
左右が反転した画面の中には、木々の隙間から降り注ぐ春の光と、まだ残雪を抱いた山肌、その上に広がる澄んだ青空が収まっていた。
フォーカスリングを微調整し、この場所の「今」が収まるよう、丁寧に構図を整える。
かつては恐ろしい場所だったこの山も、本当はこんなにも美しい場所なのだ。
そして、幾重もの悲しい運命が生まれた場所でもある。
黒澤逢世――
彼女が独りで背負い続けた果てしない孤独と悲しみ。
そして彼女と同じように、この山の水に翻弄されて散っていったたくさんの魂。
私が生きている限り、その悲劇の存在を忘れることはない。
けれど、過去を抱えて生きることと、過去の暗闇に囚われ続けることは違うのだ。
ファインダー越しに、静かに息を整える。
カシャリ。
二眼レフ特有の、小さく乾いたシャッター音が春の空気に溶けていく。
角度を少し変えて、もう一枚。
そうして最後の一枚を撮り終えると、私はゆっくりとカメラを下ろして呟いた。
「…ありがとうございました」
誰か一人に向けた言葉ではなかった。
日上山へ。
あの日出会った悲しい魂たちへ。
私を助けてくれた人たちへ。
そして、諦めずに生きることを選んだ自分自身へ。
山を見上げ、静かに誓う。
「私…これからも、しっかりと生きていきます」
言葉にすると、胸の奥がじんわりと熱くなった。
満足して踵を返し、自転車へ戻ろうとしたその時――。
視界の端で、木々の奥から白い何かがふわりと揺れた気がした。
「…え?」
思わず足を止め、振り返る。
そこには春風に揺れる枯れ草と、木漏れ日が落ちる静かな参道があるだけだった。
春風が枝葉を揺らし、微かな音を立てて通り過ぎていく。
恐怖は少しもない。
ただ、懐かしい何かに包まれたような感覚だけが、胸の奥に残っていた。
気のせいだったのかもしれない。
それでも私は、誰もいない木々の奥へ向かって、小さく微笑んだ。
『あなたに出会えてよかった』
あの日、最後まで返すことのできなかった言葉が蘇る。
私はカメラを胸元でそっと抱え、今度こそ、自分の言葉で答えた。
「…私も、あなたに出会えてよかったです」
それだけを告げて、私は山に背を向けた。
胸元には、今日の日上山を収めたフィルムがある。
かつて死を望んだこの場所を、今の私がどんなふうに写したのか――
その姿を、自分の目で確かめてみたかった。
そして、今日見た景色がそこに残っていたなら、そのうちの一枚を「くろさわ」に置いていこう。
そんなことを考えながら、私は自転車を停めた場所へと歩き出した。
街へ戻った私は、写真に興味を持ち始めた頃からお世話になっている老舗のカメラ店へ立ち寄った。
店主のおじいさんに進学することと、明日この街を離れることを伝えると、今日撮ったフィルムをすぐに仕上げてくれるという。
出来上がった写真を抱えて「くろさわ」のドアを開けると、香ばしい珈琲の香りとともに密花さんが迎えてくれた。
「お帰りなさい、夕莉」
「ただいま帰りました、密花さん」
密花さんの視線が、私の抱えた大きめの封筒へ向く。
「それって…日上山の写真かしら?ずいぶん大きくしてもらったのね」
私はカウンターの端で、出来上がったばかりの写真を一枚ずつ取り出した。
写真には、春の光を受けた山並みと澄んだ空、残雪と木々のコントラストが鮮やかに残されていた。
そこに、かつて私が見た濡れた巫女たちの姿はない。
水に沈んだ人々も、私を死の側へ引き寄せようとした影もない。
写っているのは、ただの日上山だ。
その中の一枚を手に取り、しばらく見つめる。
「…綺麗」
思わず、そんな言葉が零れた。
あれほど恐ろしかった場所を、こんなふうに綺麗だと思える日が来るなんて、あの頃は想像もしていなかった。
「素敵な写真ね」
隣から声がして振り返ると、密花さんも写真を覗き込んでいた。
「日上山って…こんなに綺麗な場所だったかしら」
「…はい。私も今日、初めて気づきました」
密花さんは何も言わず、穏やかに写真を見つめた。
そこに何があったのかを、私たちは知っている。
だからこそ、今そこにある静かな景色も、忘れずにいたい。
「密花さん、お願いがあります」
「なにかしら?」
「…この写真、お店に置いてもらえませんか」
「もちろんよ」
「この山であったことを、忘れたくないんです」
新しい額縁を用意して密花さんと一緒に、日上山の写真を壁へ加えた。
みおちゃん親子、秋祭り、街の人々、そして「くろさわ」。
その中に、春を待つ日上山が並ぶ。
私がこの一年で出会い、残してきた時間が、そこにあった。
新しく加わった山の写真を見つめながら、私は小さく息を吐く。
これでいい。
忘れなくても、前へ進むことはできるのだから。
その夜、自室へ戻った私は、窓の外へ目を向けた。
明日には、この部屋を離れる。
暗い空の向こうに、昼間訪れた日上山の姿を思い浮かべた。
逢世さんのこと。
あの山で出会った人たちのこと。
そして、生きることを諦めようとしていた、あの頃の自分のこと。
もう、あの頃には戻らない。
「…さようなら」
この小さな呟きは日上山への別れではない。
あの場所で死を望んでいた、かつての私への別れだった。
「しっかり食べて行きなさいね。一人暮らしが始まったら、しばらくは慌ただしい日々になるんだから」
翌朝。
いつもの席に座った私の前には、トーストと目玉焼き、それに温かいスープが並んでいた。
「はい。…密花さんのごはん、しばらく食べられなくなると思うと、なんだか勿体ないですね」
「何言っているの」
密花さんは、ふふっと笑った。
「帰ってきたときには、いつでも好きなものを作ってあげるわ。だから、向こうでもちゃんと栄養のあるものを食べるのよ?」
「…はい。約束します」
スープを一口飲むと、慣れ親しんだ味が口の中に広がった。
こうして密花さんと朝を迎え、その手料理を食べることも、これまで何度繰り返してきただろう。
それが今日でひとまず終わるのだと思うと、何でもないはずのこの時間が、いつもより少しだけ名残惜しく感じられた。
大学寮へ送る荷物はすでに発送してある。今日持っていくのは、ボストンバッグと二眼レフカメラだけだった。
もともと質素だった私の部屋の荷物は、引っ越しにしては拍子抜けするほど少なく、これまでの私が、どれほど少ないもので暮らしてきたのかを改めて実感する。
それでも今は、その空いた分だけ、これから新しいものを増やしていけるような気がした。
「タクシー、来たみたいよ」
カウンターに座りそのときを待っていた私は、密花さんのその言葉に胸がきゅっと痛むのを覚えた。
荷物を背負い、立ち上がると同時にコンコン、と店の扉が軽やかにノックされた。
「はーい」
密花さんが駆け寄ってドアを開けると、運転手さんが気さくな笑顔で会釈を見せた。
運転手さんにボストンバッグをトランクへ預けてもらい、私は後部座席に乗り込む。
「夕莉、駅まで送るわ」
密花さんが私の隣に乗車した。
「ありがとうございます」
もうすっかり覚悟は決まっていたはずだったのに、駅までのわずかな時間だけでも密花さんと一緒にいられることに、どこかで安堵している自分がいた。
タクシーが滑らかに走り出し、車窓の外には、春の柔らかい陽射しを浴びて輝く街並みが流れていく。
街路樹の桜の蕾は今にも弾けそうに膨らみ、道行く人々の装いも心なしか軽やかだ。
何度も自転車で走り抜けた商店街、迷子の女の子と出会ったあの公園の脇を車は静かに通り過ぎていく。
私は小さくなっていく日上山を見えなくなる最後まで見届けた。
「忘れ物はない?」
隣に座る密花さんが、ふと私に視線を向けた。
「はい。大丈夫です」
「本当に?」
「…たぶん」
自信なさげに答えると、二人で顔を見合わせ、同時に自然と小さく笑ってしまった。
「カメラは、ちゃんと手元にあるわね?」
「はい。これだけは絶対に忘れません」
膝の上にあるカメラの感触を、確かめるようにそっと撫でる。
密花さんは満足そうに頷き、静かに窓の外の景色へと目をやった。
流れる景色を見つめる密花さんの横顔は、光の中に溶け込んでしまいそうなほど綺麗で、私はその姿を目に焼き付けようとじっと見つめ続けた。
やがて、見慣れた駅のロータリーが見えてきた。
タクシーが停車し、運転手にお礼を言って車を降りる。
トランクから荷物を受け取り、私たちは改札へと続くロータリーの隅へと歩を進めた。
「ここでお別れね」
密花さんが足を止め、ついにその時がやってきた。
春風が吹き抜け、長い髪をふわりと揺らす。
「密花さん…その…」
何か言わなければと思うのに、言葉が続かない。
昨夜まで、伝えたいことはいくらでもあると思っていた。
それなのに、いざその時が来ると、胸の奥につかえて出てこない。
「…夕莉?」
「私…」
俯いたまま、ボストンバッグの持ち手を握る。
「ちゃんと、一人でやっていけるでしょうか」
口にした瞬間、自分でも、なぜ今になってそんなことを口にしたのか分からなかった。
大学へ行くと決めたことに後悔はない。
楽しみにしていることだって、たくさんある。
それでも、ずっと胸の奥に残っていた小さな不安だけは、どうしても消えてくれなかった。
密花さんは少しだけ目を丸くして、それから柔らかく笑った。
「大丈夫よ」
迷いのない声だった。
「だって、この一年ずっと見てきたもの」
密花さんはそう言って、私の胸元にある二眼レフカメラへ目を落とした。
「夕莉が自分で悩んで、自分で選んで、ここまで歩いてきたところをね」
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「それに、一人で全部できるようになる必要なんてないのよ」
「え…?」
「困ったら誰かを頼ればいいの。大学で出会った人でもいいし、もちろん私でもいい」
密花さんは、いつものように少しだけ首を傾げた。
「それくらいは、遠くにいたってできるでしょう?」
「…はい」
返事をした声が、わずかに震えた。
「忘れないでね、夕莉。あなたの帰ってくる場所は、ここにあるってこと。辛くなったら、いつでも帰ってきていいのよ」
その言葉を胸に刻むように、私はしっかりと頷いた。
「…はい。必ず、帰ってきます」
そう答えたところで、ふと一つだけ聞きそびれていたことを思い出す。
「それに…まだ聞いていないこともありますから」
「あら?」
「この前の珈琲です。あのブレンドの名前」
密花さんは一瞬きょとんとしたものの、やがて思い当たったように目元を和らげた。
「…覚えていたのね」
「もちろんです」
密花さんは、どこか嬉しそうに目を細めた。
「じゃあ、ちゃんと帰ってこないと教えてあげないわ」
「…はい。約束します」
二人で顔を見合わせる。
笑ったはずなのに、視界が滲んだ。
こみ上げる感情を抑えきれず、私はこれまで以上に深く頭を下げた。
「密花さん。本当に…本当に、ありがとうございました」
密花さんは何も言わず、ただ、そっと私のそばへ歩み寄る。
次の瞬間、その腕が私の身体を包んだ。
コート越しに伝わる体温が、ひどく懐かしかった。
初めてこの人に見つけてもらったときから、何度この温もりに救われてきただろう。
堪えていた涙が、頬を伝った。
私も密花さんの背中へ腕を回す。
「密花さん…私を見つけてくれて、ずっとそばにいてくれて…本当に、ありがとうございました」
「…ええ」
密花さんの声が、すぐそばで聞こえた。
言葉にして返すたびに、この店で過ごしたかけがえのない思い出や、交わした言葉、穏やかな時間の数々が頭の中を駆け巡る。
「私、密花さんに会えて、本当によかったです」
抱きしめる腕に、少しだけ力がこもった。
「私もよ、夕莉」
耳元で、いつもの優しい声がした。
その一言だけで、また涙が溢れる。
しばらく、どちらからも身体を離さなかった。
駅前を行き交う人の声も、車の音も、どこか遠くに聞こえる。
やがて密花さんの手が、私の背中を優しく二度叩いた。
「…私は泣かないわよ」
身体を離すと、密花さんはいつものように穏やかに笑っていた。
「だって、これで最後じゃないもの」
「…はい」
涙を拭いながら、私も笑った。
最後じゃない。
いつかまた、密花さんのいる店へ帰る。
あのカウンターに座って、珈琲を飲んで。
そのときには、あのブレンドの名前を聞こう。
荷物を持ち直し、もう一度だけ、密花さんの顔を見る。
密花さんに見つけてもらった。
密花さんと暮らして、笑って、泣いて。
そして今、私は自分で選んだ場所へ向かおうとしている。
「…行ってきます、密花さん」
拭っても拭いきれない涙をそのままに、私は密花さんへ笑いかけた。
「ええ。行ってらっしゃい、夕莉」
密花さんは笑って、しっかりと頷いた。
私は荷物を持ち直し、改札へ向かって歩き出す。
数歩進んだところで一度だけ振り返ると、密花さんはまだ同じ場所に立っていた。
目が合い、小さく手を振ってくれた密花さんに私も手を振り返して、今度こそ前を向く。
春の光が差し込む駅には、それぞれの場所へ向かう人々が行き交っていた。
私もその中に混ざり、改札へと歩いていく。
胸元には、あの二眼レフカメラがある。
これから何を写すことになるのかは、まだ分からない。
それでも、きっと大丈夫だと思えた。
ファインダーの向こうには、まだ見たことのない景色が待っている。
私は歩きながら、ほんの少しだけ笑った。
――行ってきます。