密花と過ごす穏やかな日々の中で、夕莉は少しずつ「これから」のことを考え始める。
守られるだけではなく、自分の足で歩いていくために。
そんな夕莉の胸に、密花が伝えた言葉とは――。
夏の熱気が少しずつ影を潜め、夕暮れを迎える頃には頬を撫でる風に仄かな冷たさが混ざるようになっていた。
夕食を終え、慣れない手つきで片付けを終える頃には、商店街の街灯がぽつぽつと灯り、昼間の賑わいが嘘のように静まり返っている。
昼間はまだ夏の名残のような強い日差しが残っていたが、陽が沈むと空気の質感がからりと変わり、季節が刻一刻と移り変わっていることを教えてくれた。
あんなに狂おしく鳴き立てていた蝉たちの声はいつの間にか絶え、代わりに軒下や草むらから、秋の虫たちが澄んだ琴線のような音を響かせ始めている。
軒先に飾られた風鈴は静かに揺れるだけで、もう夏を告げる役目を終えようとしていた。
私は自室で何をするでもなく木製の勉強机の前に腰を下ろした。
使い古された机の上には、今日解き終えた問題集と、角の丸まったノート。
その傍らに置かれた小さな月めくりカレンダーへ指先を伸ばし、ゆっくりと一枚、めくった。
九月。
さらに一枚めくる。
十月、十一月、十二月――。
静かな部屋に、乾いた紙が擦れ合う音だけが規則正しく響く。
一年、二年、三年。
カレンダーの数字は、何の迷いも躊躇もなく未来へと先進していく。
けれど、私だけがまだ、去年のあの暗い水底の淵に足を取られ、立ち止まったままのような気がしていた。
このまま密花さんの店を手伝い、穏やかな日々を過ごしていく。
それは私にとって、かつて夢見ることすら許されなかった温かな救いだった。
密花さんと食卓を囲み、珈琲を淹れ、同じ時間を重ねることは、少しずつ私の「当たり前」になりつつある。
けれど――。
このぬるま湯のような優しさに身を委ねたままでいいとは、どうしても思えなかった。
私は、今日で二十歳になった。
人よりも何年も遠回りし、世間から取り残されてしまったからこそ、立ち止まって空を見上げている猶予は長くない。
勉強を続け、高校の卒業証書を手に入れ、普通の人々と同じように社会に出て働くこと。
その先にある「自分の人生」を、そろそろ自らの手で選び取らなければならないのだ。
いつまでも密花さんの優しさに甘え、守られるだけの子供でいるわけにはいかない。
今度は私が、自分の足で土を踏み締め、歩き出さなければ。
少しだけ開いた窓から夜の熱を吸い込んだ心地よい夜風が部屋のカーテンを静かに押し広げ、部屋に入り込んでくる。
遠くの居酒屋から漏れる賑やかな笑い声。どこからか漂う夕食のいい匂い。食器を洗う水の音。
生きている人々が、それぞれの明日を迎えるために今日を紡いでいる。
私はその穏やかな喧噪に、静かに耳を傾けていた。
「…いつか、私も」
小さな呟きは、秋虫の声に紛れて消えていく。
その言葉の続きにどんな未来を紡げばいいのか、今の私にはまだ分からなかった。
そのときトントン、と慎重なノックの音が部屋に響いた。
「夕莉、起きているかしら?」
扉の向こうから聞こえたのは、密花さんの穏やかな声だった。
「…はい、起きています」
「私の部屋で少しだけ、付き合ってくれないかしら」
「わかりました。すぐ伺います」
扉の向こうで衣擦れの音がして、密花さんの気配が離れていく。
首を傾げながら机の上を片付けつつ、接客で何か失礼があっただろうか、それともレジの計算が合わなかったのかなどを考え、自分の未熟さに対する微かな恐縮を胸に抱きながら、私は廊下に出て密花さんの部屋へと向かった。
障子が少しだけ開けられた密花さんの部屋からは、白檀の仄かなお香の香りが漂っていた。
トントン、と襖を叩く。
「どうぞ」
静かな許可を得て、ゆっくりと襖を滑らせた。
開かれた窓の隙間から差し込む夜風が、白いレースのカーテンを優しく揺らしている。
床の間の花瓶には、季節の移ろいを告げる小さな紫色の野草が一輪、静かに活けられていた。
叱責を覚悟して身構えていた私の視線は、部屋の中央に置かれた小さな折りたたみテーブルの上でピタリと止まる。
そこには、見覚えのある清潔な白い紙箱が置かれていた。
中ほどに持ち手のついた、見覚えのあるお菓子屋さんの箱。
「さあ、座って」
座布団の向こうで、密花さんがどこか照れくさそうに、けれど心からの温かい笑顔を向けてくれていた。
私は促されるまま正座し、目の前の白い箱をまじまじと見つめた。
どこかで見たことがあるはずなのに、最後にそれを見たのがいつだったのか、記憶の霧の向こう側に隠れて思い出せない。
箱の中身を推理するように首を傾げる私を見て、密花さんはフフッと小さく笑うと、箱の持ち手を両手でつまみ、静かに横へと広げた。
やわらかな紙の擦れる音とともに箱が開き、部屋の中に甘い生クリームと甘酸っぱい苺の香りが弾けた。
「あ…」
私の両目が丸く見開かれる。
そこに収まっていたのは、真っ白な粉雪のようなクリームに真っ赤な苺がちょこんと乗った、二つのショートケーキだった。
「驚いたかしら?」
密花さんは愛おしそうに私を見つめながら言った。
「さすがにホールケーキは二人だと食べきれないから、ショートケーキをひとつずつにしたんだけど…」
言葉を一度区切り、密花さんは優しく目元を緩めた。
「誕生日おめでとう、夕莉」
――誕生日。
その言葉が鼓膜を揺らした瞬間、遠い昔の記憶が津波のように胸へ押し寄せてきた。
両親がいて、温かな部屋で、ろうそくの火を囲んでいた幼い頃の記憶。
二度と取り戻せないと思っていたあの日の景色と香りが、胸の奥で鮮やかに蘇る。
今日が、自分の誕生日だということは知っていた。
けれど、死者の影に追われ、生きることすら不確かだった私にとって、「誕生日を祝う」という営みはあまりにも遠い世界の話だった。
当然、特別な日だなんて思ったこともなかった。
けれど、私の誕生日を、密花さんが覚えていてくれた。
その事実だけで、胸の奥が焼き尽くされるほど熱くなる。
「…覚えていてくださったんですね」
声が震えて、うまく言葉にならない。
密花さんは当然のことのように頷いた。
「当たり前でしょう? 大切な家族の誕生日だもの」
溢れ出しそうになる涙を、私は必死で奥歯を噛み締めて堪えた。
「ありがとうございます…本当に、ありがとうございます…」
「それから、もうひとつ」
密花さんは立ち上がり、押し入れの引き出しから小さな包みを取り出した。
生成り色の柔らかな包装紙に、深く澄んだ紺色のリボンが結ばれている。
「これ、受け取って」
おそるおそる両手で受け取り、リボンを解く。
中に収まっていたのは、温かみのある深緑色の陶器で作られた、小ぶりなマグカップだった。
両手で覆うとすっぽりと収まるような、丸く優しい形をしている。
「これからは、お客さんに淹れるものだけじゃなくて…自分自身のためにも、温かいものを淹れて飲んでね」
密花さんはどこか愛おしいものを見るような眼差しで、静かに微笑んだ。
掌で抱え込んだ器の滑らかな質感を感じていると、ふと、密花さんが淹れてくれる一杯の珈琲のぬくもりが脳裏に浮かんだ。
日上山から戻り、心も体も冷え切って途方に暮れていたとき、私をこの世界に引き留めてくれたのは、あの温かい湯気の立つカップのぬくもりだった。
大層な生き方なんてわからない。
けれど、人生の苦しさや冷たさなんて、きっとほんの小さな温もりひとつで踏みとどまれるものなのかもしれない。
コーヒー一杯の温かさがあるかないか――
たったそれだけのことで、人は今日を、明日を生きていけるのだと、手に伝わる陶器の丸みを通じて感じていた。
密花さんは手際よく、二つの小皿にケーキを移すと、小さな赤と青の二本のろうそくを取り出した。二十歳という節目を象徴するようなそのろうそくを、ケーキの柔らかい生地へ静かに刺していく。
「二十歳で、間違いないわよね?」
私は言葉の代わりに、何度も深く頷いた。
密花さんは小さなライターで火を点けると、部屋の電気を静かに消した。
部屋が暗闇に包まれ、ふたつの小さな焔がぽつんと揺れる。
ゆらゆらと揺れる橙色の光が、ケーキの白いクリームと、密花さんの穏やかな微笑みを優しく浮かび上がらせていた。
去年の今頃、暗闇の中で死の気配におびえながら日上山の社を彷徨っていた自分と、今の自分が同じ人間なんだとまるで思えない。
ここは世界で一番、温かく、幸せな場所だった。
「バースデーソングはご所望かしら?」
密花さんが悪戯っぽく囁く。
照れくささで胸がいっぱいになり、私は小さく首を横に振った。
密花さんはその反応を見越していたように、目を細め、
「ふふ、そうね。改めて…二十歳のおめでとう、夕莉」
密花さんが両手を差し出し、火を消すよう促してくれた。
私は、できることなら消えてほしくないその小さな光を、この瞬間を胸の深くに刻み込むように、優しく息を吹きかけた。
ふっと火が消え、甘い煙の匂いが漂う。
暗闇の中で、私たちは顔を見合わせてくすくすと笑い合った。
電気を点け、小さなお皿を並べてケーキにフォークを入れる。
近所の洋菓子店の話、うちの店のコーヒーにはどちらが合うかという話、今日やってきたお客さんの話――
何気ない会話を交わしながら、二人でゆっくりとケーキを味わった。
あっという間にケーキを食べ終え、密花さんが皿を重ねたとき、
「夕莉。あなたは、この先どうしたいかしら?」
静かで、けれどまっすぐな問いかけだった。
私は手元に残されたマグカップを見つめながら、素直な気持ちを口にした。
「お店を手伝いながら…密花さんと、このままずっと一緒にいたいです」
この言葉に偽りはない。
それが私の唯一の願いだったから。
けれど、密花さんは優しく、どこか切なそうに目を伏せた。
「…迷っているのね」
その一言に、胸の奥がチクリと痛む。
「違います」と言い返そうとして唇を開く。
けれど、言葉が喉の途中でつっかえて出てこない。
密花さんには全部見透かされていたのだ。
ここにいたい。
密花さんと一緒にいたい。
けれど、自分を偽って密花さんの優しさにしがみついたまま、立ち止まり続けるわけにはいかないという焦りと恐怖。
ふたつの想いが胸の中で激しく渦巻いていた。
「…違わ、ないです…」
搾り出した声は、風が吹けば消えてしまいそうなほど小さかった。
静寂が部屋を包む。
壁にかかった古時計の音だけが、二人の間を刻んでいく。
やがて、密花さんが静かに口を開いた。
「夕莉、私はね」
「あの崖の上で、あなたを助けたなんて…一度も思ったことはないのよ」
私は驚いて顔を上げた。
「…え?」
密花さんは遠くを見るような瞳で、窓の外の夜空を見つめていた。
「あの日、あなたの捜索依頼を受けて、あの崖へ向かったとき…私の頭の中に依頼のことなんてなかった」
膝の上でギュッと拳を握り締める。
「『また、間に合わないかもしれない』…頭の中には、その恐怖しかなかったの」
密花さんの声が、かすかに揺れていた。
普段は決して見せることのない、一人の人間としての弱さと傷口が、そこに剥き出しになっていた。
「私は…あかりさんを、救えなかった」
あかりさん。
私と同じ崖で自ら飛び降りてしまった女性だ。
密花さんがかつて失い、今も胸の奥で血を流し続けている大切な存在。
私が密花さんの過去の傷を穿り返してしまったのではないかという罪悪感で、息が詰まりそうになる。
「あの後悔だけは、どんなに時間が経っても消えなかった。だから、崖の上に立つあなたの背中を見たとき、お願いだから間に合ってと…それだけを祈って走って、あなたを抱きしめたの」
あの日の記憶が、鮮明に蘇る。
高校にも行かず、死に場所を求めて彷徨い歩き、たどり着いた断崖絶壁。
足元には何もなく、一歩踏み出せばすべてが終わるはずだった。
その時、背中にぶつかってきた強烈な衝撃とぬくもり。
『許さない…』
泣きながら、狂おしいほど強く私を抱きしめてくれた密花さんの声。
「夕莉」
密花さんはテーブル越しに手を伸ばし、私の右手を両手で優しく包み込んだ。
「私はね、あなたをこの店に置きたくて引き留めたんじゃないの」
「生きることを、あなた自身の手で選んでほしかったのよ」
生きることを、選ぶ――。
あの日までの私には、「生きる」か「死ぬ」かの選択肢なんて存在しなかった。
ただ、溢れ出す死者の声と苦しみから逃れたくて、すべてを終わらせたかっただけだった。
だから、「生きる」という発想そのものがなかったのだ。
「あの日、あの崖にいたのが誰であっても、私はきっと走って抱きとめていたと思う。でもね」
密花さんが握る手に、ぎゅっと力がこもる。
「この店で一緒に暮らしたいと思ったのは…夕莉、あなただったからよ」
「店を継がせるために引き取ったわけでもない。恩返しをしてほしいわけでもない。だから――」
密花さんは私の目を真っ直ぐに見つめた。
「もし、あなたが自分の道を見つけて外の世界へ歩き出したいのなら、私は笑顔であなたを送り出すわ」
隠すことのない、密花さんの本心。
その温かさに触れ、私の胸の奥に溜まっていた泥のような感情が溢れ出しそうになる。
私も、自分のすべてをさらけ出さなければならないと思った。
「…怖いんです」
ようやく出た声は、湿り気を帯びて震えていた。
「前は…死ぬことしか考えていませんでした。だから、明日や未来のことなんて、何も考えなくてよかった」
「でも今は、生きなければいけない。未来を、決めなきゃいけない…それが、たまらなく怖いんです。私なんかが、ちゃんと生きていけるのかって…」
密花さんはすぐには答えてくれなかった。
ただ、子供をあやすように、私の手の甲を親指で優しく撫で続けてくれた。
「未来はね、探すものじゃないのよ」
密花さんは窓の外、澄んだ秋の夜空を見上げた。
「今日という日を丁寧に生きていたら…ある日ふと振り返ったとき、『ああ、こんなところまで歩いてきたんだ』って気づくものなの」
「だから、焦らなくてもいいのよ。一歩ずつでいいの」
私は深く息を吐き出し、密花さんから贈られた深緑色のマグカップを見つめた。
その丸みを帯びた器の中には、まだ何も入っていない。
けれど、これから先、ここにどんなものを注いでいくのかは、自分で選んでいいのかもしれない。
そんなことを、ふと思った。
「…探してみます」
「私が、私として生きる道を」
密花さんは深く頷くと、テーブル越しに身を乗り出し、私の華奢な身体をそっと抱きしめてくれた。
そして、耳元で静かに囁いた。
「夕莉」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その言葉が落ちた瞬間、胸の奥で固く結ばれていた冷たい結び目が、音を立てて解けていった。
瞳から、温かいものがボロボロと零れ落ちる。
拭おうとしても、次から次へと溢れ出して止まらない。
家族を失ったあの日も、崖の上で抱きしめられたあの日も、涙を一滴も流せなかった私が。
あの時以来、初めて自分のために声を上げて泣いていた。
密花さんは何も言わず、ただ私の背中を優しく撫で続ける。
その手のぬくもりは、崖の上で私を死の淵から引き揚げてくれた腕と同じ、絶対的な温かさだった。
時計の針が、規則正しく時を刻んでいく。
窓の外では、秋の虫たちが祝福するように美しい音色を奏で続けている。
あの崖の上で止まってしまっていた私の時間が、今、静かに、確実に動き始めていた。
カレンダーの数字だけが過ぎ去っていく日々は、もう終わったんだ。
これからは、私もこの足で、未来に向かって歩いていける。
夏の熱残る夜風が去り、澄んだ初秋の風が、静かに部屋を吹き抜けていった。