ファインダーを覗けば、そこに映るのはいつもと変わらない景色だった。
それでも、初めて見るような光景に、夕莉は小さな好奇心を抱いていく。
新しい何かが、静かに芽生え始める秋の日の物語。
初秋の風は、肌に触れるたびにどこかひんやりとした心地よさと、微かな寂しさを運んでくる。
夏の盛りを過ぎた陽射しは少しずつ角が取れ、昼下がりの光にも、夏とは違う柔らかさが混じり始めていた。
半袖の袖口から覗く腕に小さく鳥肌が立つのを感じ、羽織っていたカーディガンの前を少しだけ引き寄せる。
喫茶「くろさわ」の定休日。
私は密花さんに頼まれ、店舗の奥にある使われなくなった和室の掃除をしていた。
ここはかつて、密花さんが見つけ出してきた「神隠し」の被害者や、行き場を失った行方不明者を一時的に保護するために使われていた部屋だった。
心も身体も傷ついた人々が、ここで涙を拭い、やがて安堵の笑みを浮かべて元の暮らしへと帰っていったのだろう。
私もまた、あの崖の上から密花さんに抱きかかえられるようにして連れてこられた夜、この部屋の布団に横たわっていた。
あの頃の私にとって、夜は途方もなく長く、眠ることすら恐怖でしかなかった。
まぶたを閉じれば、暗闇の向こうから死者たちの冷たい手足が伸びてくるような気がして、呼吸さえ浅くなっていた。
何度も跳ね起き、冷や汗を流しながら部屋の隅で膝を抱える。
そんなとき、障子戸の小さな隙間から漏れてくる喫茶店のあたたかな明かりと、かすかな生活音が私を現実に繋ぎ止めてくれた。
カチャカチャと重なる食器を片付ける音。
ことことと、やかんの中でお湯が沸く音。
廊下を静かに通り過ぎる、密花さんの足音。
それらは死者の蠢く静寂とは真逆の、生きている人間がそこにいる証だった。
ただそれだけの音が、どれほど私の凍りついた心を温めてくれたか分からない。
今思えば、私はあの小さな音のひとつひとつに、少しずつ救われていたのだと思う。
けれど、この部屋には誰もいない。
日上山でのあの長い夜が明け、影見の力を失った私たちは、もう以前のように迷い人の捜索や霊的な依頼を受けることができなくなったからだ。
役目を終えた部屋は、静かに時を止めている。
今後この場所をどう使うかは、密花さんもまだ考え中らしい。
部屋に充満する古い木の匂いと、防虫剤のツンとした香りに眉をひそめながら、私はタンスの引き出しを片っ端から開け、中身を床に並べていく作業を繰り返した。
埃っぽい空気の中で、格子窓から差し込む秋の日差しが、舞い上がる小さな粒をきらきらと金色に光らせている。
散らかしているように見えて、自分なりに古い書類、衣類、日用品とそれらしく仕分けして置いていたつもりだった。
密花さんからは「とりあえず何があるか把握したいから、引っ張り出しておいて」と言われていた。
そうしてタンスの奥底に手を伸ばしたとき、指先に固く規則的な感触が触れた。
引っ張り出してみると、色あせた書類や黒ずんだ段ボール箱がひしめく中で、それだけが一際異彩を放っている。
他の品々のようにそれほど埃を被っておらず、まるで時間から取り残されたように妙にきれいな箱だった。
両手で持つとすっぽりと収まるほどの大きさの長方形で、表面にはどこか童話の絵本を思わせるメルヘンチックな装飾模様が描かれていた。
どうやら二眼レフカメラのパッケージのようだった。
箱のテープはすでに剥がされており、一度開封された形跡がある。
慎重に蓋を開けると、中には透明なドーム型のプラスチックケースが収まっており、その厳重なプラスチックをパカッと外すと、黒く艶やかなボディが姿を現した。
「…きれい」
思わず声が漏れる。
何年も引き出しの奥で眠っていたはずなのに、一度も使われたことがないのか、傷ひとつない。
滑らかな金属と革のボディは手のひらにひんやりと冷たく、見た目よりもずっしりとした重みがあった。
けれど、それは決して嫌な重さではなく、確かな存在感として胸に馴染むものだった。
密花さんの趣味もあって、「くろさわ」の店内や客間にはヴィンテージの古風なカメラがいくつも飾られている。
だから古いカメラには見慣れているつもりだったけれど、こうして新品の状態のものを手に取ると、店にあるカメラたちがいかに長い年月を生き抜いてきたかを改めて実感させられる。
レンズカバーを取り外し、カメラ上部のファインダーの折りたたみ式フードをパチリと開く。
恐る恐る上からファインダーを覗き込んだ。
四角いすりガラスの中に、小さく収まった世界が浮かび上がる。
そこに映っていたのは、散らかった畳と、秋の斜光が差し込む部屋の風景だけだった。
誰の泣き声も聞こえない。
おどろおどろしい影も、怨念を孕んだ姿も映らない。
あの呪縛は、本当に終わったんだと、静かな確信が、胸の奥にすっと落ちていくのを感じる。
ファインダーの中の景色は、肉眼で見るものとは少し違っていた。
左右が鏡のように反転していて右へ移動すれば像は左へ流れ、左へ動かせば右へ流れる。
どういう光学の仕組みなのかは分からない。
けれど、私は子どもみたいに興味を惹かれ、カメラを抱えたまま部屋のあちこちをファインダー越しに覗き込んでみた。
勉強机の丸い角。古びた壁紙の繊細な木目。障子紙の破れ目。隙間から差し込む秋の光の粒子。
どれもこれまで見てきたはずの景色なのに、この四角い枠を通すだけで、まるで別の物語の一場面のように新しく映る。
不思議だった。
世界は何も変わっていないのに、この覗き窓を通すだけで、日常がこんなにも別世界に見えてくる。
命を削り、恐怖におびえながら覗き込んだ「射影機」とは、まるで違う。
散らかったこの物置部屋でさえ、少しだけ美しく思えた。
試しに、レンズの脇に取り付けられた銀色の小さなレバーを下ろしてみる。
カチッ。
乾いた軽い音が、静かな部屋に響いた。指先に伝わる手応えも心地よい。
今度は側面に付いているツマミやダイヤルをカリカリと回してみる。
何のための設定なのか、回すことで何が変わるのかも分からない。
けれど、その金属音と手応えだけで胸が少しだけ踊った。
そのまま部屋の入り口にカメラを向けた、ちょうどその時。
ガチャリとドアが開いた。
「あら…あら?」
足元に広がる散らかった荷物を見回し、最後に私の手元にあるカメラに視線を止めた密花さんが、二度目を丸くした。
私は慌ててファインダーから顔を上げる。
「懐かしいもの持ってるわね」
密花さんはくすりと笑うと、シーツが外されて木目が剥き出しになったベッドの端に、腰を下ろした。
私が尋ねるより先に、密花さんは遠い目をして口を開いた。
「昔の知り合いにもらったの。『古い物ばかり見てないで、たまには新しい物も使ってみろ』ってね」
「そうだったんですね…でも、全然使われていないみたいです」
カメラの外観をなでながら答えると、密花さんは少しだけ申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「結局、一度も使わなかったわ。贈ってくれた人には、悪いことをしてしまったけれど」
私は手の中のカメラを見つめ、少しの沈黙のあと、ずっと気になっていたことを問いかけた。
「…密花さんは、写真は好きなんですか?」
密花さんは「うーん」と顎に手を当てて少し考え込んだあと、柔らかな声で答えた。
「見るのは好きよ。でも、自分で撮るのは少し苦手かしら」
そう言ってから、ふっと目元を緩める。
「誰かが切り取った景色を見る方が、私は好きなの」
密花さんは、まだ片付けの途中だった部屋を咎める様子もなく、そのままの優しい笑顔で私を見つめた。
「夕莉。よかったら、それ使ってみる?」
思いがけない言葉に、胸が跳ねる。
「え…いいんですか?」
「ええ。このまま押し入れの奥にしまっておいても、私がいつ使うか分からないし…カメラにとっても、使われないままの方がかわいそうだもの」
密花さんは少しだけ身を乗り出し、私とカメラを交互に見比べると、小さく微笑んだ。
「それに…その顔を見たら、このカメラも喜ぶと思うわ」
自分の顔がどんな表情をしていたのか、私にはまったく分からなかったが、照れくささと自覚のなさで固まる私の中で、胸の奥が熱く、静かに揺れていたのは確かだった。
その感情の芽生えが何なのか、この時の私にはまだ言葉にできない。
けれど、理由のない温かさが身体を満たしていくのを感じていた。
「…ありがとうございます。大切に使わせていただきます」
小さく頭を下げると、密花さんは満足そうに頷いた。
その後、二人で手分けして部屋の片付けを終えると、少し遅めの昼食をとった。
食卓を囲みながら、これからこの部屋をどうするかという話にもなったけれど、結局これといった案は出ず、密花さんは「私の骨董コレクション置き場にしようかしら」なんて冗談めかして笑っている。
そんな何気ない話をしながら昼食を終えると、私は密花さんにカメラの操作方法を教えてもらいながら、新品のフィルムを装填した。
窓から差し込む秋の日差しを受けて、黒いボディが静かに鈍い光を返している。
何を撮りたいのかさえ、まだ分からない。
それでも、カメラを手にした私は、いつの間にか玄関へ向かっていた。
早くこのカメラと一緒に、外の世界に出てみたい――
そんな衝動が、静かに胸の奥から湧き上がっていた。
カメラのストラップを首から下げ、重みを感じながら店の玄関を開けて一歩外に出る。
外には、初秋の風が吹き抜けていた。
陽光に透ける木々の葉。通り慣れた商店街。日陰で欠伸をする野良猫。高く澄み渡った秋の空。
そこには、いつもと変わらない日常の商店街が広がっていた。
右手の指は、すでにシャッターレバーに掛かっている。
ほんの少し力を込めれば、カチリと音を立ててこの世界を切り取ることができる。
けれど――
そのほんの少しの一歩が、踏み出せなかった。
何を撮れば正解なのか分からない。
何を記録に残すべきなのか、迷いが生じてしまう。
私はファインダーに目を押し当て、ただ静かに目の前の世界を見つめ続けた。
毎日見慣れた商店街のはずなのに、ファインダーの四角いフレームを通すだけで、まるでどこか遠くの知らない街を旅しているような錯覚に囚われる。
誰かが歩いていく。
誰かが楽しそうに笑い合う。
誰かが遠くの知り合いに手を振る。
ただの何気ない、どこにでもある一瞬。
それなのに、どうしてこんなにも愛おしく、目が離せないのだろう。
その時、胸の奥で小さな芽が弾けるような気がした。
世界が変わったんじゃない。
変わろうとしていたのは、ずっと暗闇の中にいた私の方だったのだ。
私の両手に包まれたファインダー越しの世界が、秋の光に包まれて静かに揺れていた。