そんなある日、公園で出会った小さな女の子との出来事が、彼女の心を動かす。
残したいと思ったのは、特別な景色ではなく、誰かを想う温かな瞬間だった。
それから数日後、私はその日の勉強がひと段落したところで、あのカメラを抱えて外に出ていた。
店の手伝いも気になっていたけれど、密花さんは「お店のことは気にせず、好きなように歩いてきなさい」と、柔らかい手つきで私の背中をそっと押してくれた。
当然ながら私には写真の知識など何ひとつない。
どこにピントを合わせ、どの瞬間を切り取ればいいのかさえ分からない。
高く澄み渡る秋の空を見上げても。
路傍に咲く小さな花を見つめても。
日向で丸くなる野良猫を覗き込んでも。
これだ、と思える瞬間に出会えずにいた。
ここ最近は、カメラを首から下げて外に出てみても、結局は近所の商店街や路地裏をあてもなくうろつくだけで、一枚もシャッターを切れずに帰る日々が続いている。
場所を変えれば何か変わるかもしれないと思い、少し足を延ばして近所の公園へ向かった。
そこは、遊具のある広場を中心に、木々に囲まれた園路が奥へと続く、近所では比較的大きな公園だった。
広場の向こうにはベンチが点在し、その先には背の高い木々が並んでいる。
場所によっては枝葉が重なり、少し離れただけでも向こう側の様子が見えにくくなっていた。
公園の木々はすっかり秋の色を帯び始め、銀杏の葉が黄色く色づいている。乾いた秋風が吹くたび、色づいた葉がハラハラと地上へ舞い降りていた。
滑り台。ブランコ。砂場。
風に乗って聞こえてくる、子どもたちの無邪気な笑い声。
ファインダーのフードを開き、上から覗き込む。
四角いすりガラスの中に、橙色の斜光に照らされた公園の風景が映し出された。
右手の指先は、すでにシャッターレバーに掛かっている。
けれど、指に力を込めることができない。
「何を、撮ればいいんだろう……」
ぽつりと漏れた呟きは、カサリと音を立てて転がる落葉の音に消えた。
私はカメラを首からぶら下げたまま、木製のベンチにぽつんと腰を下ろし、ひたすら思考を巡らせた。
指先ひとつでシャッターを切る。
それはどんぐりを拾うくらい簡単な動作だ。
ただ、今の私が安直にレバーを下げてしまうのは、何かが決定的に違う気がする。
何の想いもなく、目の前にある景色や花や猫をフレームに収めたところで、それはただ「紙の上に像を記録しただけ」になってしまうのではないか。
去年の私にとって、カメラ――射影機とは、人を探し出し、襲い来る死者の影から身を守るための「武器」だった。
生き延びるために、必死でレンズを向けていた。
しかし、あの呪縛が解けた今、私は何のために、何を思ってこの四角い窓を覗くのだろう。
このままでは、ただの気まぐれな趣味と好奇心で終わってしまう。
せっかく密花さんが譲ってくれたカメラなのに、私はまだ、その使い道さえ見つけられずにいる。
私はもう一度ファインダーに目を落とした。
カメラを水平に保ちながら、ゆっくりと公園の風景をなぞるように巡らせる。
子どもたちは友達同士で落ち葉を掛け合い、声を上げて走り、ベンチでは母親たちが幼子を見守りながら楽しそうにおしゃべりに花を咲かせていた。
そんな時だった。
その賑やかな光景の中、奥のほうで一人だけ明らかに違う動きをしている小さな影があった。
六歳くらいの女の子。
他の子どもたちが弾むように遊んでいる中で、その子だけは誰とも目を合わせず、何度も何度も同じ場所をぐるぐると見回している。
遊具には目もくれず、何かを探すように立ち止まり、少し歩いては不安そうに後ろを振り返る。
その幼い表情だけが、秋の柔らかな光に包まれた公園の楽しそうな空気から、ぽつんと取り残されていた。
私はファインダーから顔を上げ、肉眼でもその動向を捉えた。
もう私には、過去や人の心を見通す「影見」の力なんてない。
それでも、身体がその女の子に向かって足早に勝手に動き出していた。
「どうしたの…?」
私はスカートの裾を気にすることなく膝をつき、女の子と目線の高さを合わせて、できる限り穏やかな声で語りかけた。
「…っ」
女の子は大きな瞳を涙で潤ませ、私を見つめた。
それから唇をひくひくと震わせると、蚊の泣くような声で言った。
「ママが、いないのぉ…」
溢れ出した涙を小さな拳で拭いながら、しくしくと泣き出してしまった。
「お母さんと、はぐれちゃった?」
不器用ながらも、なるべく怖がらせないように重ねて尋ねる。
女の子は涙をボロボロとこぼしながら、コクリと無言で頷いた。
「お姉ちゃんと一緒に、探してみようか」
女の子は泣くのに精いっぱいで、私の言葉に返事をする余裕もないようだった。
私は、その子が再び不安に押しつぶされてしまわないよう、そっとその小さな手を握りしめる。
あたたかく、華奢な手。
悲しみに震えていて、じんわりと汗ばんでいる。
密花さんが私を死の淵から引き揚げ、強く握りしめてくれた手も、きっとこんなふうに温かく、切実だったのだろうか。
今度は、私が誰かを安心させる番なのだと、胸の奥が温かくなった。
「いこうか」
安心させるように柔らかく笑いかけ、私は女の子の手を引いてゆっくりと歩き始めた。
ここはそれほど広い公園ではない。
園路を一周すれば、きっとお母さんに会えるはずだ。
そう考えていたつかの間、実際に歩き始めると木々の陰や遊具の裏側など、目の届きにくい場所が思いのほか多いことに気づいた。
女の子は小さく鼻をすすり、懸命に涙を堪えながら私の隣に並んで歩く。
私は歩幅を女の子の小さな足取りに合わせながら、静かに問いかけた。
「お名前、なんていうの?」
少しの間を置いてから、ぽつりと声が返ってきた。
「…みお」
「みおちゃん、っていうんだね」
私は繋いだ手に、ほんの少しだけ力を込めた。
「みおちゃん、今日はお母さんと公園に何をしに来たの?」
「どんぐり…ひろい」
「どんぐり拾い。そうだったんだ」
「ママね、みおのために、どんぐりでコマをつくってくれるって…」
「楽しみにしてたんだね」
私が目を細めて微笑むと、みおちゃんは小さく頷いた。
「お母さんのお名前、分かるかな?」
「…まま。」
「…ふふ、そうだよね」
それはそうだと少し困ったように笑ってしまう。
たとえ母親のフルネームを聞き出せたとしても、公園で大声でその名を叫びながら歩き回るわけにもいかないと、聞いてから自分でも苦笑した。
私は次の手がかりを探すことにした。
「じゃあ、お母さんのお洋服のお色は覚えてる?」
「しろい、おようふく」
「白い服ね」
一度足を止め、周囲を見渡してみる。
秋の公園には白いカーディガンやシャツを着た大人が何人か見えたけれど、我が子を探して狼狽しているような様子の人物は、今のところ見当たらない。
「もう少し、向こうの方も探してみようね」
みおちゃんの頭を優しく撫でてあげると、私は再びその小さな歩幅に合わせて歩き出した。
それからも、私たちは公園の園路をたどりながら、お母さんの姿を探し続けた。
遊具の周りを離れ、木々に囲まれた小道を進み、ベンチの並ぶ一角や公園の出入り口にも目を向ける。
それでも、白い服を着た女性は見つからなかった。
歩き続けるうちに、頭上の木々の隙間から差し込む光が、少しずつ低い位置へと移っていく。
地面に伸びた影は先ほどよりも長くなり、黄色い落ち葉の上を、柔らかな橙色の光が滑っていた。
繋いだ手から伝わる不安を少しでも和らげたくて、私はみおちゃんの表情が暗く沈んでしまわないよう、努めて明るい声をかけた。
「みおちゃん、ブランコは好き?」
みおちゃんは小さく首を横に振った。意外だなと思いながら、
「じゃあ、すべり台は?」
と聞くと、今度はコクリと小さく頷いてくれた。
「私も…すべり台、好きだった気がするな」
遠い幼少期の不確かな記憶をたどりながら答えると、
「おねえちゃんも?」
と、みおちゃんが不思議そうに見上げてくる。
「昔のこと、あんまりよく覚えていなくて」
首を傾げて苦笑いすると、みおちゃんは「へんなの」と、ほんの少しだけ口元を緩めて笑ってくれた。
その小さな笑顔を見て、私は自然に昔の自分について言葉を紡いでいた。
「お姉ちゃんもね…昔、すごく怖くて、暗いことがあったの」
「そうなの?」
「うん。でもね、温かい手が私を見つけて、助けてくれたの」
あの日、夕暮れの崖の上で密花さんが私を強く抱きしめてくれたこと。
あたたかな珈琲の湯気と、あの優しい声を、私は今でも鮮明に覚えている。
私は密花さんの面影を重ねるように、みおちゃんへ優しい微笑みを向けた。
「だから今日は、私がみおちゃんを助ける番だよ」
そう言って、ポンポンと柔らかく頭を叩いてあげた。
その後も、私とみおちゃんはお母さんを探し続けた。
大きな滑り台の周り、古びた手洗い場、自動販売機の陰、公園の出入り口のまわり。
公園のあちこちを巡り、残る場所も少なくなってきた頃、私の胸の中にも「本当に見つからなかったらどうしよう」という焦りの色が滲み始めていた。
その時だった。
「みおちゃーん! みおちゃん!!」
悲鳴にも似た、必死な女性の声が静まり返った公園に響き渡った。
私とみおちゃんはハッと同時に振り向いた。
視線の先、公園の入り口から、髪を振り乱した若い母親らしき人物が、今にも泣き出しそうな顔でこちらへ走り込んでくるのが見えた。
「あ……!」
みおちゃんの瞳に光が戻る。
「ママぁーっ!」
繋いでいた手から離れ、みおちゃんは小さな足で落ち葉を蹴立てながら、お母さんに向かって突っ走っていった。
お母さんはその場に崩れ落ちるようにしゃがみ込み、勢いよく飛び込んできた小さな身体を、力いっぱい抱きしめる。
「ごめんね…みお、よかった…!」
何度も何度も、我が子の背中を撫でながら涙を流すお母さん。
そのあたたかな再会の光景を、私は少し離れた場所から静かに見守っていた。
聞けば、夢中になってどんぐりを拾っているうちに、お互いに少しずつ離れてしまい、気付いたときには姿を見失ってしまっていたのだという。
お母さんは何度も私に向かって深く頭を下げてくれた。
「本当に…本当にありがとうございました!」
「いえ…無事に見つかって、本当によかったです」
私は首を横に振り、静かに微笑んだ。
みおちゃんはお母さんの白い服の裾をぎゅっと握りしめながら、去り際、こちらを何度も振り返り見ていた。
そして、照れくさそうに口元を綻ばせると、小さな手を可愛らしく振ってくれた。
「おねえちゃん、ありがとう!」
――その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
ずっと分からなかった答えが、今、目の前にある。
今まで、ずっと迷っていた。
何を撮れば正解なのか。何を残すべきなのか。
ファインダーを覗くたび、答えが見つからずに立ち尽くしていた。
けれど、今この瞬間だけは違った。
この弾けるような笑顔を。
この愛おしい再会の瞬間を。
「無事でよかった」という、世界で一番温かい時間を。
残したい。
忘れたくない。
その想いが胸いっぱいにあふれたとき、私の右手は吸い寄せられるように胸元のカメラへ伸びた。
カメラを構え、そっと上からファインダーを覗き込んむ。
すりガラスの四角い世界の中で、みおちゃんがこちらに向かって小さな手を振っていた。
お母さんの隣で、眩しいほどの笑顔を浮かべながら。その頬を、傾き始めた夕日の光が柔らかく照らしている。
さっきまで涙をこぼして怯えていた子とはとても思えないくらい、光に満ちた姿だった。
ファインダーを固定し、指先にそっと力を込める。
もう、迷いは何ひとつない。
息を止め、そっと銀色のレバーを引き下ろす。
カシャ―
金属が擦れ合う乾いた小さな音が、夕闇の迫る公園へ静かに溶けていった。
たった一枚の、シャッター。
去年までの私なら、迷い人を探すため、あるいは死者の影を払うための「手段」としてシャッターを切っていた。
けれど今のは違う。
誰に頼まれたわけでもなく、ただ「この奇跡のような温もりを忘れたくない」と願った、自分の意思で残した初めての写真だった。
みおちゃん親子と別れた頃には、街はすっかり深い藍色の夜に包まれていた。
喫茶「くろさわ」へと続く商店街を歩くと、どこかの家から漂ってくる夕飯の出汁の匂いと、あたたかな生活の明かりが街を満たしていた。
カラン、と鈴を鳴らして店の扉を開ける。
「ただいま戻りました」
ちょうど閉店作業を終えたところだったのだろう。
密花さんがカウンターの奥で、洗いたてのカップを棚にしまっていた。
「お帰りなさい、夕莉。…あら?」
私を迎えるために振り向いた密花さんが、ふと手を止め、目元を丸くした。
そして、優しく目を細めると、静かに微笑んだ。
「夕莉、今あなたとてもいい顔をしているわね」
カメラを受け取った日のときとは違う。
あの時は、自分がどんな顔をしているのかさえ分からなかったけれど、今の自分ならはっきりと分かる。
自分でも無意識のうちに、口角がほんの少し上がり、胸の奥からあふれ出る温もりで顔がほころんでいた。
「密花さん。私、初めて撮りたいと思えるものを撮れました」
その言葉を聞いた密花さんは、手早くカップを棚に収めると、カウンターの横から歩み寄ってきた。
私の首からカメラをそっと外し、お腹の高さあたりで静かに構える。
上からファインダーを覗き込みながら、側面のダイヤルをカリカリと回してフィルムを巻き上げ、
「その素敵な笑顔、残しておきましょう?」
レンズが私を捉え、密花さんが悪戯っぽく微笑んだ。
「え…っ」
慌てる私に、密花さんは悪戯っぽく目配せをする。
私は照れくささに顔を赤らめながらも、不器用な手つきで小さなピースサインを作った。
誰かにカメラを向けられ、写真を撮られるなんて、一体いつ以来のことだろう。
かつての私は、鏡に映る自分の姿を見ることさえ拒むほど、己の存在に恐怖と嫌悪を抱いていた。
それなのに――
密花さんの覗くレンズの前に立つのは、不思議と少しも怖くなかった。
カシャ。
静まり返った閉店後の店内に、軽やかなシャッター音が響き渡る。
夕闇の深まる店内で、私と密花さんは顔を見合わせ、くすくすと笑い合った。
レンズの向こう側から届いたその小さな音が、私の新しい日々の始まりを告げるように、優しく胸に響いたのだった。