そんなある日、密花とともに秋祭りへ出かけることになる。
提灯の明かり、人々の笑顔、大切な人と過ごす時間。
夢中でシャッターを切る夕莉は、やがて自分もまた、その温かな景色の中にいることに気づいていくのだった。
朝夕の冷え込みが日ごとに増し、街路樹のハナミズキや銀杏が深紅や黄金色に染まり始める頃、秋はいよいよその終盤へと差し掛かっていた。
あのカメラを抱えて街へ出かけることは、すっかり私の日課になっている。
外を歩いている時はもちろん、店の中で掃除や仕込みの手伝いをしている時でさえ、気がつけば胸元にその心地よい重みを感じていた。
今日も、少し冷たい秋風が吹き抜ける商店街や近所の公園へ足を伸ばし、様々な情景にカメラを向けていた。
朝日に照らされた商店街の暖簾。
日向の温もりを求めてベンチで丸くなる野良猫。
放課後、舞い落ちる落ち葉を追いかけながら無邪気に笑い合う子どもたち。
近所のカメラ屋で現像と印刷を終えた写真を受け取り、自室へ戻る。
使い古された木製の机の上に写真を扇状に並べ、一枚ずつ慈しむように視線を落とした。
軒先で楽しそうに言葉を交わすお年寄りたち。
膝の上の猫を優しく撫でるおばあさんのしわくちゃの手。
どの写真の中にも、その一瞬、その場所にしか存在しなかった光景が確かに収められていた。
写真の知識も経験もない私には、これらの写真が技術的に見てどれほどの出来栄えなのかは分からない。
構図の黄金比や光の露出など、難しいことは今もまだ勉強中だが、そんな形式的なことはあまり気にならない。
レンズを向けたその瞬間に感じた胸の熱さや、その人だけがまとっていた世界の温もりを一枚の紙に残すことができたなら、私にとってはそれで十分だったのだ。
写真を一枚ずつ慎重に透明なファイルへ収めると、私は机の上に置いていたカメラを手に取った。
裏蓋を開き、新しいフィルムを慎重にセットする。巻き上げノブを回しながら、きちんと送られていることを確かめた。
今日はどんな世界を残せるだろう。
密かな期待に胸を膨らませ、カメラのストラップを首に掛けながら階段をトントンと下りていった。
一階の喫茶「くろさわ」へ下りると、カウンター席にいつもの常連客の男性が一人腰掛けていた。
ちょうど密花さんが湯気の立つサイフォンからカップへ珈琲を注ぎ終えたところらしい。
香ばしく芳醇な豆の香りが、店内に心地よく満ちていた。
「いらっしゃいませ」
「やあ、夕莉ちゃん。お邪魔してるよ」
男性は気さくに挨拶すると、軽く会釈を返してくれた。
そのまま厚手の陶器カップを口元へ運び、ふうふうと息を吹きかけながら珈琲を一口啜る。
「あら、夕莉。お出かけかしら?」
カウンターの奥から、密花さんが優しく声をかけてくれた。
最近、カメラに夢中になるあまり店の手伝いを密花さんに任せきりにしてしまっている気がして、少しだけ恐縮しながら答える。
「はい、少しだけ近所を歩いてきます」
すると常連客の男性が何かを思い出したように、カチャリと小さな音を立ててカップをソーサーに置いた。
「そういえば夕莉ちゃん、これ。途中の掲示板で見かけてさ」
男性は上着の内ポケットから小さく折りたたまれたチラシを取り出し、私に差し出してくれた。
受け取ってぱさりと開いてみる。
『秋の神明神社・感謝お祭り』
鮮やかな紅葉の写真を背景に、会場の案内や開催時間、立ち並ぶ屋台や催し物の一覧が賑やかな書体で刷り込まれている。
見慣れた近所の神社で、毎年この時期に催されている小さなお祭りだった。
「もう、今年もそんな時期なのね」
密花さんがカウンター越しにチラシを覗き込みながら感慨深そうにつぶやいた。
毎年このお祭りが開かれていたことは、私も知っている。
けれど…かつての私は、死者の影におびえ、己の存在すら呪っていた。
人混みの中へ足を踏み入れることなど到底考えられず、世間の賑わいから背を向けて部屋に閉じこもっていたのだ。
けれど――。
今の私なら。
このカメラと一緒に、あの光の中へ歩いていけるかもしれない。
「密花さん…私、このお祭りに行ってみたいです」
私の言葉を聞いた密花さんは、すべてを理解してくれているかのように、目元を優しく和ませた。
「ええ、もちろんだわ。一緒に行きましょう」
そう言ってから、密花さんは少し思案するように
「せっかくだし、箪笥にしまってある秋用の着物を出して着付けましょうか」
「えっ…着物ですか?」
思わず声が裏返ってしまった。
こんな私が、そんな華やかなものを身にまとって良いのだろうかという戸惑いが胸を突く。
「それは良いねぇ! 夕莉ちゃんなら絶対に似合うよ」
常連客の男性が上機嫌に手を打つ。
「あら。私は似合わないとでも言いたげね?」
密花さんが少しだけ眉をひそめて見せると、男性は慌てて「滅相もない! 密花さんはいつだって粋ですよ」と手を振り、店内はドッと楽しげな笑いに包まれた。二人の楽しげな掛け合いに押し切られるようにして、私が着物を着てお祭りへ行くことが決まってしまった。
――そして、お祭り当日の夕刻。
少し早めに「Close」の札を店に出し、私と密花さんは祭り会場へと向かった。
昼間の日差しが嘘のように沈み、初冬の足音が聞こえてきそうなほどひんやりとした夜風が頬を撫でる。
軒下からは、去りゆく季節を惜しむように秋の虫たちが琴線のような音色を響かせていた。
冷えた空気の中、からん、ころんと下駄の乾いた音が夜の小道に心地よく響く。
密花さんは深い紫地に菊が描かれた美しい着物を粋に着こなし、私はオレンジ色の地に小さな蝶々が舞う羽織を重ねた。
生地が厚めの着物は冷え込む秋の夜風の中でも、そのぬくもりが心地よい。
自分に自信を持てない私は、家を出てからも何度も裾を気にしながら、
「本当に…私がこんな格好をして、おかしくないでしょうか」
と密花さんに尋ねていた。そのたびに密花さんは、
「今のあなたなら、何を着たって美しいわよ」
と、心からの確信を込めて微笑んでくれるのだった。
下駄の音を揃えて数分ほど歩くと、賑やかなお囃子の音が聞こえてくる。
暗い小道を抜け、神社の境内へ足を踏み入れた瞬間、色鮮やかな提灯の明かりが一気に視界を埋め尽くした。
まるで漆黒の夜の中に、そこだけ色鮮やかなおとぎ話の世界がぽっかりと浮かび上がっているようだった。
朱色や黄色の提灯が秋風に揺れ、その下を家族連れや若者たちが行き交う。
屋台からは香ばしいソースの匂いや焼き鳥の甘辛い煙が立ち上り、子どもたちの黄色い歓声があちこちで弾けていた。
立ち並ぶ屋台を見渡すと、たこ焼き、焼きそば、金魚すくい、射的――
夏祭りの名残を感じさせる光景が広がり、まるで過ぎ去った季節が最後の輝きを放っているかのようだった。
「さあ夕莉、好きに撮ってきていいのよ。もちろん屋台も楽しんでね。私は何か食べ物買ってベンチで食べながら待っているわ」
密花さんが提灯の明かりに照らされながら優しく背中を押してくれる。
密花さんと一緒に見て回りたくもあったけれど、せっかくの機会に一人でレンズ越しに世界と向き合ってほしいという密花さんの配慮が嬉しかった。
「ありがとうございます。行ってきます」
私は胸元でカメラのフードをパチリと立ち上げ、お腹の高さで抱えるように構えると、一人境内の中へ歩みを進めた。
ファインダーを上から覗き込む。すりガラスの四角い窓の中に、賑やかな祭りの光景が反転して映し出される。
お祭りという空間は、今の私にとってとても不思議で、眩しい場所だった。
いったい何年ぶりに賑やかな場所へ来たのだろうか。
これほど多くの人々が集まり、それぞれが大切な人と笑い合っている。
お祭りを成功させようと汗を流す大人たち。
誰かを喜ばせようとおもちゃを狙う子ども。
寄り添って歩く夫婦。
人と人との温かな繋がりが幾重にも重なり合って、この優しい空間を作り出している。
かつての私にとって、人混みは恐怖の象徴でしかなかった。
けれど、今の私の目には、そのすべてが優しく、かけがえのないものとして映っている。
ここには恐ろしい影も、死者の怨念もない。ただ、生きている人々が、それぞれの大切な人と今日という時間を過ごしている。
この瞬間を、ずっと残しておきたい。
私は胸の底から湧き上がる衝動に突き動かされるように、側面のダイヤルをカリカリと回して銀色のシャッターレバーに指を掛けた。
提灯のやわらかな光。
屋台の熱気。
はしゃぐ子どもたち。
すりガラスの中で切り取られた光景は、どれも生命の輝きに満ちていた。
友達と笑い合う子ども。
カシャ。
手際よく焼きそばを炒める屋台のおじさん。
カシャ。
手を繋いで楽しそうに歩く着物姿の親子。
カシャ。
また一枚。
夢中になるにつれ、周りの喧騒さえ遠のき、私はただ四角い窓の中の世界とひとつになっていた。
撮りたいと胸が躍った瞬間には、指先が自然とシャッターを押し込んでいる。
写真を撮ることが、こんなにも胸を熱くさせるものだなんて知らなかった。
しばらく夢中で境内を巡り、フィルムの残数が数えるほどになった頃、後ろからトントンと優しく肩を叩かれた。
「調子はどうかしら?」
振り返ると、温かいお茶のペットボトルと小さな紙袋を手にした密花さんが立っていた。
「あ、密花さん。夢中になっちゃって…もう残り数枚になっちゃいました」
「その様子だと、充実した時間になったみたいね」
密花さんは嬉しそうに目を細めると、紙袋から香ばしい匂いを漂わせる細長い包みを取り出した。
「お腹、空いたでしょう? 出来立ての焼き鳥を買ってきたの。少し休憩しましょう。カメラは持っていてあげるから」
「あ…ありがとうございます」
私はカメラを密花さんに預け、代わりに焼きたての焼き鳥の包みを受け取った。
竹串に刺さった焼き鳥からは、甘辛いタレと香ばしい炭火の香りが立ち上っている。
一口頬張ると、柔らかいお肉の旨味が口いっぱいに広がった。
「…美味しい」
思わず笑みがこぼれた、その瞬間。
カシャ。
聞き慣れた軽やかな金属音が響いた。
驚いて顔を上げると、お腹の高さでカメラを構えた密花さんが、ファインダーから顔を上げていたずらっぽく微笑んでいた。
「こんなに素敵な場所で、夕莉の写真が一枚もないなんて勿体ないわ」
「…あ」
言われて初めてハッとした。
私はずっと、祭りの中にいる「自分以外の誰か」ばかりをカメラで追いかけていた。
笑っている人。誰かと寄り添う人。
けれど今、密花さんが撮ってくれた一枚の中には、その同じ場所で笑っている私がいる。
――私も、この景色の中にいたんだ。
そう思うと、不思議なくらい胸が温かくなった。
「ほら、夕莉。もう一枚撮るわよ」
密花さんが手慣れた動作でフィルム巻き上げノブをカリカリと回し、再びカメラを構える。
私は照れくささに頬を染めながら、片手に焼き鳥を持ったまま、もう片方の手でぎこちなく小さくピースサインを作った。
カシャ。
「ふふ、良いお顔。フィルムは…まだ何枚か残っているわね」
密花さんはフィルムカウンターを確認すると、優しく目を細めた。
「夕莉。残りは全部、私があなたを撮ってあげる」
焼き鳥を食べ終えたあと、密花さんは私の歩む姿を静かに追いかけてくれた。
盆踊りの輪を少し離れた場所から見つめる私。
童心に返ってヨーヨー釣りの水面に集中する私。
射的で狙いを定めて真剣な目つきになる私。
祭りの賑やかな光景とともに、密花さんは私の姿を一枚、また一枚と丁寧にフィルムに焼き付けてくれた。
レンズを向けられる気恥ずかしさはあったけれど、密花さんの優しい眼差しを感じる撮影は、胸が温かくなるほど嬉しかった。
そして、フィルムはついに最後の「一枚」となった。
最後に残されたその一枚で、私にはどうしても撮りたいものがある。
今日まで、私はたくさんの人を撮ってきた。
笑う人、誰かを待つ人、手を繋いで歩く人。その一枚一枚に、それぞれの大切な時間があった。
だったら――
私と密花さんの間にある、この温かな時間も残したい。
「密花さん…最後に、どうしても撮りたいものがあるんです」
密花さんは「なにかしら?」と優しく微笑みながら、カメラを私に手渡してくれた。
「あの…密花さんと、一緒に映りたくて」
私は密花さんの隣へ寄り添うと、カメラを二人の方へ向けた。
けれど、当然ファインダーを覗くことはできない。
どこまで写るのかも分からず、重いカメラを持つ腕も少し震えた。
「…これで、二人とも入るでしょうか」
「さあ。撮ってみないと分からないわね」
密花さんはくすりと笑い、カメラの底へ手を添えた。
「私が支えるわ。夕莉はシャッターを切りなさい」
密花さんの温かな手が、大切なカメラを包むように安定させてくれる。
私はそっと息を整えた。
「密花さん…いつも、本当にありがとうございます」
「ふふ、こちらこそよ、夕莉」
カシャ。
シャッターの乾いた音が、お祭りの喧騒と秋風の中に静かに溶けていった。
この夜の景色のこと、手に残ったカメラの重みのこと、そして密花さんのぬくもりのこと。
きっと、私は一生忘れない。
私が初めて、自分自身と大切な人の「今」を刻みつけた日だった。
後日、現像されて仕上がってきた写真の束を二人で覗き込んだ。
自撮り慣れなんてしていなかったため、綺麗に撮れているか不安だった最後の写真には、少し傾きながらも提灯のやわらかな光に包まれた私たちの姿がちゃんと収まっていた。
写真として見れば、きっと上手な一枚ではない。
それでも、私はその写真から目を離すことができなかった。
写真の中の私は、着物の袖を少し窄め、照れくさそうに、けれど心から嬉しそうに笑っている。
そしてその隣では、密花さんがいつもの優しい眼差しを私へ向けながら、穏やかに微笑んでいた。
写真の中の私は、もう何かに怯えてはいない。
密花さんの隣で、ただ嬉しそうに笑っている。
確かにここに存在し、大切な人と一緒に、今を生きている。
――そんな自分の姿を、私は初めて愛おしいと思った。
窓の外では秋の夜風が静かに吹き抜け、季節はゆっくりと、確実な足取りで冬へと移り変わろうとしていた。