自分に何ができるのか、何になりたいのか――
まだ、その答えは見つからない。
そんなある日、密花が店に飾った夕莉の写真を目にした人々から、思いがけない言葉を受け取る。
自分がただ「残したい」と思って撮った一枚は、誰かの目にはまったく違う景色を映していた。
木枯らしが街路樹を揺らし、吐く息が白くほどける季節。
外を歩くにはすっかり厚手のコートが必要になり、季節は秋から冬へと移り変わった。
私は自室の机に向かい、高校のレポート課題と、卒業に向けた問題集を前にペンを走らせていた。
来年の春には卒業を迎える。
この時期になると提出書類やテスト準備が一気に重なり、勉強にはより一層身を入れなければならない。
けれど、机に向かう時間が長くなればなるほど、その先にある「進路」という漠然とした影が胸を締め付けた。
私には何ができるのだろう。
何になるべきなのだろう。
自分自身の価値さえ見出せずにいた私には、将来の夢も希望も、まだはっきりとした形を結んでいなかった。
もし、どこにも行き場が見つからなかったら…。
甘え、と言ってしまえばそれまでなのかもしれない。
それでも、どうしても進む道を見つけられなかった時には、この場所で密花さんのお手伝いを続けさせてもらうことも、心のどこかで考えていた。
だからこそ、接客の所作や珈琲の淹れ方を少しずつ覚えていくことは、将来への不安をほんの少し和らげてもくれた。
「進路が最後まで決まらなかった時で構わないから、今は自分の勉強に専念しなさい」と密花さんは優しく言ってくれている。
少し前にも、進路について相談した私に、密花さんは「あなたの世界は、きっとこの店の中だけでは終わらないわ」と笑ってくれた。
カリカリと音を立てていたペンを置き、凝り固まった肩を解すように大きく腕を伸ばす。
ふと、飾り気のない木製デスクの端に置かれた写真立てに視線が止まった。
そこには、数週間前の秋祭りの夜、提灯のやわらかな光の中で撮った私と密花さんの姿があった。
二眼レフカメラの自撮りは難しく、少し不格好だったけれど、提灯の橙色に照らされた私たちの笑顔は驚くほど優しく写っている。
私の宝物の一枚。
あの温かな時間を、写真という形にして残せたことが本当に嬉しかった。
息抜き代わりに、私は棚から撮影済みの写真を収めた透明なアルバムファイルを手に取り、膝の上でパラパラとめくった。
公園で落ち葉を掛け合って笑う親子。
路地裏で野良猫と無邪気に遊ぶ子どもたち。
夕暮れのベンチで身を寄せ合う若いカップル。
どれも拙い技術で撮ったものだけれど、その瞬間にしか存在しなかった光景ばかりだ。
自分が生み出した写真たちが、まるで我が子のように愛おしく思えた。
そういえば――
先日、密花さんと一緒にこのアルバムを眺めていた時、『ネガを少し借りるわね』と言っていたのを思い出した。
結局、何に使うのか聞きそびれたままだったので私は気晴らしも兼ねて一階の店内へ向かうことにした。
廊下のギィというかすかな軋みを感じながら階段を下りる。
接客中なら邪魔にならないよう後で聞こうと、店へ繋がる廊下のドアを恐る恐る静かに開けた。
店内にはお客さんの姿はなかった。
カウンターの中にも密花さんの姿は見当たらず、不思議に思いながらドアを押し開けると、死角になっていた壁際に立つ密花さんの背中が視界に入った。
ストーブの温もりが満ちる店内の中で、密花さんは壁に向かって何やら大きなものをフックに掛けようと身を乗り出していた。
「密花さん…?」
「あら、夕莉。お勉強の休憩かしら?」
振り返った密花さんの手元に目を奪われ、私は言葉を失った。
「それって…」
「この間、アルバムで見せてもらった写真よ。写真屋さんにお願いして、ネガから大きなサイズに引き伸ばして額装してみたの」
密花さんは当然のように微笑んでいるけれど、彼女の手にある額縁は、私の想像を遥かに超えて大きかった。
「…にしては、少し大きすぎませんか?」
「大きく引き伸ばして、A2の額縁に入れてみたの。フックに引っ掛けて飾ることにしたわ」
密花さんは「よいしょ」と最後のひとつの額縁をフックに掛け、満足そうに微笑んだ。
「こんなに良い写真なんですもの。アルバムの中に閉まったままにしておくなんて、もったいないでしょう?」
壁際には、四枚の大きな額縁が新しく並んでいた。
秋の陽射しの中で幸せそうに目を細める柴犬。
商店街を行き交う親子の笑顔。
公園で水たまりを飛び越える子どもたち。
秋祭りの幻想的な提灯の光。
迫力あるサイズに引き伸ばされたことで、写真の中の光や人々の表情が、まるで今にも動き出しそうなほどの温かな存在感を放っていた。
「でも…こんなの、人に見せられるようなものじゃありません。構図だって、光の加減だって、何も考えずに撮っただけの自己満足のクオリティですよ…」
恥ずかしさで顔が熱くなる。
私の写真は、ただ「この瞬間を残したい」という衝動だけでシャッターを切った素人の写真だ。
こんな風に店の壁へ堂々と飾られるなんて、とても耐えられそうにない。
けれど、密花さんは両手をパンとはたき、柔らかく、けれど揺るぎない声で私を見つめた。
「それは違うわよ、夕莉」
「え…?」
「写真はね、誰かに見てもらった時に、あなた自身も知らなかった意味が生まれることがあるのよ」
言葉の意味を咀嚼しようとしたその時、カラン、とドア上の鈴が乾いた音を立てた。
「いらっしゃいませ」
私と密花さんは反射的に声を揃える。
密花さんは素早くカウンターの内側へ戻り、接客の準備に入った。
入ってきたのは、コートの襟を立て、首元に少し気が早いような分厚いマフラーを巻き付けた常連客のおじさんだった。
外の冷気をほのかに纏っている。
「あれ、夕莉ちゃん。今日はお店のお手伝い?」
「いえ、少しだけ休憩で下りてきたところです」
「そうかそうか」
おじさんはいつもの席へ向かおうとして、ふと足を止めた。
壁際に並んだ四枚の大きな額縁へ、吸い寄せられるように視線を向けたのだ。
「…お?」
一歩、また一歩と写真へ近づいていく。
そこには、柴犬の写真だけではなく、商店街を行き交う親子、公園で歓声を上げる子どもたち、そして秋祭りの幻想的な提灯の光――
私がこれまで撮りためてきた様々な風景が、大きな額の中に誇らしげに並べられている。
思わずたまらなくなって俯いた。
やっぱり変だと思われるに決まっている。
専門的な写真の勉強なんて一度もしたことがない。
ただ、自分の心が動いた瞬間にシャッターを押しただけの、まとまりのない写真たち。
そんなものを飾られて、困惑させてしまったらどうしよう。
胸の奥で鼓動が早くなるのを感じていると、おじさんは写真と私たちを交互に見比べ、不思議そうな声を上げた。
「密花さん、この写真…どうしたの?」
密花さんは「よくぞ聞いてくれました」と言わんばかりの誇らしげな笑みを浮かべ、
「全部、夕莉が撮った写真なのよ」
と告げた。
私は小さくなりながら、「恥ずかしいです」と打ち明けるように小さく頷く。
おじさんは腕を組み、並んだ写真をもう一度見渡し、そして、静かに吐息を漏らすように口を開いた。
「…いい写真だなぁ」
予想もしなかった素直な言葉に、私は戸惑った。
「あ、ありがとうございます…でも、写真の技術とか、そういうのは全然なくて…」
見苦しい言い訳を重ねようとした私を、おじさんは手で静かに制した。
「いや、夕莉ちゃん」
おじさんは首を横に振った。
「写真が上手いとか上手くないとか、そういうことじゃないんだよ」
深く透き通った眼差しで柴犬の写真を見つめ、それから街の人々が写った写真へと視線を滑らせていく。
「毎日見ている景色って、不思議なくらい見えなくなっていくんだよ」
おじさんはどこか遠くを見るような目でつぶやいた。
「犬が散歩しているのも、子どもたちが笑っているのも、お祭りが賑やかなのも…ここに住んでいる自分にとっては、全部『いつもの当たり前の景色』だ。だけどさ、こうやって写真の中で切り取られているのを見ると…この街が、すごく宝物みたいに見えてくる」
おじさんは少しだけ照れくさそうに苦笑いを浮かべた。
「こんな写真で見せられるとさ。『ああ、この町って、こんなにいい町だったんだな』って…改めて思えるんだよ」
私は息を飲んだ。
胸の奥が、じんわりと温かいもので満たされていく。
そんな風に自分の写真をとらえたことなんて、一度もなかった。
私は街の素晴らしさをアピールしたくて写真を撮ったわけじゃない。
ただ、目の前の誰かの笑顔や、二度と戻らない一瞬の温もりを残したかっただけだった。
「ありがとう、夕莉ちゃん」
「え…?」
思いがけない感謝の言葉に、私は声が裏返りそうになった。
「忘れていた景色を、思い出させてもらったよ」
その一言が、冬の冷えた空気を溶かすように、深く私の心に染み渡っていった。
技術でも、構図でもない。
私が「残したい」と思った気持ちが、写真を通してこの人の心に届いた。
そのことが、何よりも嬉しかった。
その時、再びカランとドアの鈴が鳴った。
「こんにちはー」
入ってきたのは、買い出し袋を手にした一人の女性だった。
「いらっしゃいませ」
密花さんが声をかける。
私はその女性の顔に見覚えがあり、思考が一瞬停止して挨拶が遅れてしまった。
女性は、おじさんと私が壁際に立っていることに気づき、「何かあるのかしら」とでもいうようにそちらへ目を向けた。
吸い寄せられるように写真の前まで歩み寄ると、指先で額を指し、
「これ…うちの『ハル』ちゃん?」
「ハルちゃん…?」
私は思わず言葉を反芻した。
女性は柴犬の写真を見つめながら、弾んだ声で笑い、
「この赤地に唐草模様の首輪、おでこの白い毛…間違いないわ。ハルだわ」
女性はくるりと私の方を振り返った。
「あなた、この間公園で散歩中に『写真を撮らせてもらってもいいですか』って声をかけてくれた子よね?」
過去の記憶が鮮やかによみがえる。
秋の柔らかな光の中。
公園の木陰で、飼い主さんに甘えて目を細めていた柴犬。
二眼レフを抱えて外に出始めた頃に、緊張しながら初めて撮影の許可をもらった相手だった。
「あ…はい! あの節は、本当にありがとうございました」
私が改めて頭を下げると、女性は私の挨拶に笑顔で頷くと、すぐにまた写真へ視線を戻した。
「毎日一緒にいて、毎日見ているはずなのに…この子、私に撫でられている時、こんなに幸せそうな顔で笑っていたのね」
女性は懐かしむように小さく笑い、目元を少し潤ませた。
「全然、気づかなかったなぁ」
ガラス越しに、写真の中の柴犬の頭を人差し指でそっと撫でる。
「ありがとうね。この子のこんなに素敵な一瞬を、形に残してくれて」
心からの笑顔で私にお礼を言う女性に、すぐには言葉を返せなかった。
私はただ、自分が「残したい」と感じた温かな光景を、カメラのファインダー越しに切り取っただけだった。
けれど、その一枚が、自分にとってかけがえのない存在を改めて見つめ直す「宝物」になる。
写真は、撮った私だけのものじゃない。
それを見た誰かの記憶を呼び覚まし、心に灯りをともすことができる。
その光景をカウンターの向こうで見守っていた密花さんが、深く、優しく微笑んだ。
「ねえ、夕莉。あなたの写真は、あなたが思っているより、ずっと遠くまで届くみたいよ?」
私は壁に飾られた写真たちを見つめ直した。
さっきまで気恥ずかしく、不格好に見えていた自分の写真たちが、今はまったく違う輝きを放って見える。
誰かの記憶を呼び覚まし、誰かを笑顔にし、見慣れた日常を、かけがえのないものに変えていく。
カメラという四角い箱には、そんな優しい奇跡を起こす力があるのかもしれない。
私はもう一度、壁に並んだ写真を見上げた。
私に何ができるのか。
何になりたいのか。
その答えは、まだ分からない。
けれど――。
もし、この胸が動いた瞬間を残すことで、誰かが忘れていた大切なものを思い出せるのなら。
そんなことを、これからも続けてみたい。
初めて、そう思った。
ストーブの橙色の光が、店内の木目の壁と、そこに並んだ写真たちを静かに照らしていた。