そんなある日、商店街で開かれる小さなフォトコンテストへの参加を勧められる。
迷いながらも夕莉が選んだのは、初めて自分の意志でシャッターを切った、あの日の一枚。
ただ「残したい」と願って撮った写真は、やがて夕莉を今まで知らなかった世界へと導いていく。
写真の新たな魅力に気づいてから、季節は本格的な冬へと移り変わっていた。
窓の外では木枯らしが吹き抜け、朝には庭の落ち葉の上に真っ白な霜が降りる。
勉強と喫茶「くろさわ」の手伝いで多忙な日々が続き、私にはカメラを持って街へ出る時間がほとんどなくなっていた。
それでも、ファインダー越しに見つめた世界の温もりを忘れることはない。
机に向かって問題集を解いているときも、厨房で珈琲豆を挽いているときも、
「次はどんな瞬間を撮ろうか」「あの常連さんの笑顔を残してみたい」という思いが自然と胸に湧き上がる。
気づけば自分から、密花さんや常連さんに写真の話題を投げかけるようになっていた。
そんなある日、ストーブのやわらかな熱気が漂う店内で、町の役員をしている常連のおじさんが珈琲カップを置きながら言った。
「今年から新しい試みとして、商店街のフォトコンテストをやるんだよ。夕莉ちゃん、エントリーしてみないかい?」
カウンターの奥から珈琲の湯気越しに密花さんが顔を出し、「まあ、素敵な企画ね」と目を細めた。
「フォトコンテスト…ですか?」
「そうそう。今年が第一回目でね。この地域に住んでいる人限定の小さな催しだから小規模開催だし、夕莉ちゃんも気軽に応募しやすいと思うんだ」
「私が…」
写真は好きだ。
他の人がどんな世界を切り取っているのか見てみたいという興味もある。
けれど、私の写真は「くろさわ」の壁に飾ってもらって、知っている人たちと微笑み合うのが関の山だと思っている。
その一方で、あのときのように自分の写真を見た人が笑顔になってくれるのなら、挑戦してみたいという小さな芽も胸の奥で動いていた。
迷いから視線を落としていると、密花さんが私の顔を覗き込むようにして優しく笑い、
「迷ってるの、夕莉?」
「…はい」
私は素直に頷いた。
「私なんかが応募してもいいのかなって…」
本格的にカメラを触り始めてから、まだほんの数ヶ月。
構図や露出の計算など、専門的な知識は一つもない。
ただ、自分が『残したい』と思った瞬間にシャッターを切ってきただけだ。
そんな拙い写真を人に評価してもらうなんて、考えたこともない。
すると密花さんは、静かに、けれど強い眼差しで首を横に振った。
「夕莉、賞を取りに行くんじゃないのよ」
「え…?」
壁に飾られた私の写真に視線を向け、
「あなたがこの街で見つけてきた光景を、もっとたくさんの人に見てもらうの」
その言葉は、冷えた身体に温かなお茶が染み渡るように、すっと胸に届いた。
『写真は誰かに見てもらったとき、撮影者も知らなかった意味が生まれることがある』。
以前、密花さんが言ってくれた言葉の意味が、少しずつ私の中で確かな形を結んでいく。
おじさんも破顔して頷いた。
「結果なんて気にしなくていいさ。入賞したらラッキーくらいでいいんだよ。それにね、夕莉ちゃんの写真は、この街をすごく魅力的に撮ってくれている」
「私は…街を撮っているつもりなんて…」
「そうかもしれないね」
おじさんは壁に飾られた写真たちに優しい視線を向けた。
「でもね、これを見る人には、この街の温もりそのものに見えるんだよ」
私は改めて壁の写真を見つめた。
秋の陽射しの中で幸せそうに目を細める柴犬。
商店街を行き交う親子の笑顔。
公園で水たまりを飛び越える子どもたち。
秋祭りの幻想的な提灯の光。
どれも私にとっては「その人だけの二度と来ない時間」だった。
けれど、ここで見る人にとっては「この街が生きている証」になっていたのだ。
写真というものは、撮る人と見る人でいくらでも意味が広がる。
そんな当たり前で美しい奇跡を、私は知り始めていた。
私は小さく息を吸い込み、密花さんとおじさんを見つめ返した。
「…応募してみます」
密花さんは、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「決まりね」
その夜、夕食と入浴を済ませた私は、ストーブで温めた自室で応募写真の選定を始めた。
木製の机いっぱいに、これまで撮り溜めてきた写真を並べる。
どの一枚にも、その日、その場所にしかなかった空気と光が閉じ込められていた。
一枚手にとっては指先で確かめるように眺め、また静かに戻す。
それを何度も繰り返した。
どれも私にとっては我が子のように思える写真だ。
どれが「一番良い」なんて、私には決められない。
賞が欲しいわけではない。
上手だと褒められたいわけでもない。
ただ、この写真を見た誰かが、私と同じように『この世界はこんなにも素敵なんだ』と感じてくれたら。
そんな一枚を選びたかった。
「…これにしようかな」
私は指先で一枚の写真を取り上げた。
アルバムの奥に大切に挟んでいた、あの一枚。
そこに写っていたのは、小さな女の子がお母さんの隣で、眩しい笑顔を浮かべながらこちらに小さな手を振っている写真。
あの日、公園で不安そうに震えていた迷子の『みおちゃん』。
無事にお母さんを見つけた瞬間、私は初めて「この時間を残さなければ」という強い衝動に駆られてシャッターを切ったのだった。
写真を見つめていると、あの日の空気感が鮮やかに蘇る。
女の子が手を振る瞬間なんて日常の中に溢れているかもしれない。
けれど、あの瞬間のあの二人の時間は、世界にたった一つしかなかった。
子どもはあっという間に大きくなり、今日という時間は二度と戻らない。
だからこそ、私はあの一瞬を形に残したかったのだ。
写真を見た誰かが、自分の大切な人と過ごす「いま」の尊さを感じてくれたなら、それで十分だった。
写真の角が折れないよう丁寧にあて紙をし、透明な保護袋に入れる。
必要事項を記入した応募用紙と一緒に封筒へ収め、宛名を一文字ずつ確かめるように書いていく。
最後にもう一度中身を確認してから、私はしっかりと封をした。
その封筒は、私が初めて「外の世界」へと届ける、一筋の光のように思えた。
それから数週間が過ぎた頃。
季節は一層深まり、街には時折うっすらと粉雪が舞うようになった。
私は相変わらず勉強と「くろさわ」の手伝いを往復する毎日を送っている。
この頃になると珈琲の抽出も様になり、常連さんとのちょっとした世間話も自然にできるようになっていた。
もし春までに進む道を決められなくても、しばらくはこの店で密花さんを手伝いながら、自分の未来を探していけばいい。
メニューの写真をもっと綺麗に撮り直してみようか、本当に私オリジナルのブレンド珈琲を作ってみようか――
そんな穏やかな日々を思い浮かべながら、机に向かって勉強を続けていた、ある日の夕方。
コンコン、と自室のドアがノックされた。
「夕莉?」
密花さんの落ち着いた声が聞こえる。
「どうぞ」
ドアが開くと、パタパタとエプロンを外したばかりの密花さんが入ってきた。
「あ、すみません。閉店作業を手伝えなくて…」
「いいのよ、勉強が本分なんだから。それより、ポストにこれが届いていたわ」
密花さんが差し出したのは、ちょっとした厚みがある1通の白い封筒だった。
「私宛…?」
差出人欄に目を走らせる。
「『商店街フォトコンテスト実行委員会』…」
「結果が送られてきたのね」
密花さんは自分ことのように少し声を弾ませている。
いつもより少し高めのトーンに、私にも胸が締め付けられるような緊張が伝染し、封を開ける手が震えた。
結果はどうあれ、自分の想いが他人にどう受け止められたのかを知るのが怖かったのだ。
それを察した密花さんが隣に寄り添い、私の肩へそっと温かな手を置いた。
「きっと大丈夫よ」
「…はい」
意を決してハサミで封を切り、中身を滑り出させる。
出てきたのは、丁寧に保護紙に包まれた私の応募写真と、一枚の上質な折りたたまれた用紙だった。
緊張で視界が揺れる中、挨拶文の目頭を滑り抜け、中央の大きな余白に目が留まる。
そこには、はっきりと刻まれていた。
【選考結果:優秀賞】
「優秀賞…」
ぽつりと呟いた私に、密花さんは「私は最初から分かっていたわ」と誇らしげに目を細めた。
初めての応募で優秀賞。
最優秀賞ではないものの、現実感がまったく湧いてこなかった。
私のような素人が賞をもらって良かったのだろうか。
もっと技術があり、伝えたい世界を持った人がいたのではないか――。
戸惑いながら、続きの文章に目をやる。
『厳正なる審査の結果、あなたの作品を優秀賞に選出いたしました。つきましては、以下の日程より開催の表彰式へご出席くださいますようお願い申し上げます。当日は受賞作品の展示も予定しております』
作品展示。
その文字を目にした瞬間、心臓が跳ね上がった。
私の写真が、見知らぬ人たちの前に並ぶ。
たくさんの視線に晒される。
嬉しさよりも先に、身がすくむような羞恥心が押し寄せてきた。
「…私が、表彰式に出てもいいんでしょうか」
本音が零れ落ちる。
密花さんは私の肩をぽんぽんと叩き、くすっと笑った。
「まだそんな弱気なことを言ってるの?」
「でも…」
「審査員の方々は、あなたの写真を選んだのよ。遠慮することなんて何もないわ。あなたは賞じゃなくて、あなたの写真が、誰かの心に届いた証明を受け取りに行くの」
手元の写真に目を落とす。
迷子の『みおちゃん』の天使のような笑顔。
あの日、私は誰かに評価されるためにカメラを構えたわけじゃない。
ただ、この温かな時間だけは世界から消えてほしくない、そう願って残した。
それが誰かの心に届いた。
その事実だけは、素直に胸を温かくしてくれた。
「…行ってみます」
小さく頷くと、密花さんは満足そうに頷いた。
「ええ。せっかくだもの、当日は少しおしゃれをして行きましょうね」
表彰式当日。
会場となったのは、地域の人々が利用する古い公民館の視聴覚室だった。
使い込まれた木床の匂いと、石油ストーブの独特の温もりが混ざり合う室内には、パイプ椅子がずらりと並べられ、百人ほどの地域住民や関係者が集まっていた。
前方には、特別賞、優秀賞、最優秀賞の展示コーナーが設けられている。
私の応募した写真も、大きな額縁に入れられ、現物よりも遥かに存在感を増して飾られていた。
私は自分の写真から目を背けるように、隣の作品たちを見つめた。
最優秀賞は、冬の澄み渡る早朝の商店街を切り取った一枚だ。
開店前の静けさの中、店主たちがシャッターを上げ、打ち水をして、一日を始めようとしている。
派手さはないけれど、凛とした冷気と人々の息遣いが画面から溢れ出していた。
「…綺麗」
思わず言葉が漏れる。
自分の知らない時間にも、誰かがこの街の尊い生を写真に残している。
それがとても感慨深く思えた。
特別賞の写真は、冬の夕暮れ、オレンジ色に染まる空の下で孫と祖父が凧揚げをしているカットだった。
見上げている二人の弾けるような笑顔が、見ているこちらまで温かくさせる。
そして、自分の写真を見つめた。
みおちゃんのなんとも愛らしい笑顔。
構図も、光のコントロールも、他の二人には到底敵わない。
けれど――。
あの一瞬だけは、誰にも撮れない、あの場所にいた私だけが見た世界だ。
そう思えたとき、不思議と肩の力が抜け、素直な気持ちで作品と向き合えた。
「他の写真も素敵だけど、夕莉の写真だって少しも見劣りしていないわ」
隣で密花さんが、私にだけ聞こえる声で囁いた。
「あなたにはきっと、人が大切にしているものを見つけられる眼差しがあるのよ」
射影機を手にし、日上山の湿った闇の中で『死』や『念』ばかりを映していた頃を思う。
あのおぞましくも哀しい日々を経て、密花さんからカメラを譲り受け、『生きている時間』を残したいと思えるようになった。
遠い惨劇の記憶は消えないけれど、あの痛みがあったからこそ、私は今、目の前の光を愛おしく思えるのかもしれない。
「それでは皆様、ご着席ください」
司会のアナウンスが響き、私たちは密花さんが確保してくれていた前列の席へ腰を下ろした。
開会宣言、コンテスト開催の経緯、審査員の紹介が滞りなく進み、いよいよ表彰へと移る。
特別賞の受賞者が壇上で賞状を受け取り、胸に秘めた想いを語るのを聞きながら、私は膝の上で拳を握りしめてそのときを待った。
「それでは続きまして、優秀賞を受賞されました、不来方夕莉さん。ご登壇ください」
名前を呼ばれた瞬間、背筋が跳ね上がる。
「夕莉、大丈夫よ。行ってらっしゃい」
密花さんがそっと背中を押してくれた。
「…はい」と深く息を吐き、私は壇上へと足を進めた。
「優秀賞、不来方夕莉殿――」
賞状を読み上げる役員長の声を聞きながら、中学生の頃に習った卒業式の作法を思い出し、両手でしっかりと賞状を受け取った。
「不来方さん、よろしければ作品への想いを一言お聞かせいただけますか」
マイクを渡され、百人近い視線が一斉に私へ集まった。
喉が急に渇き、鼓動が耳元でうるさいほど鳴っている。
私はマイクを両手で握り、一度だけ大きく息を吸った。
「この写真は…その、本来なら、生まれなかった写真です」
自分でも驚くほど小さな声だ。
それでも、会場は静かに私の次の言葉を待ってくれている。
「写真に写っている女の子は、公園で迷子になっていました。偶然そこに居合わせた私が、一緒にお母さんを探して…無事に会えた、その直後に撮った写真です」
みおちゃんがこちらへ手を振っていた、あの日の光景が脳裏に蘇る。
「もし私があの日、あの時間に、あの場所にいなかったら、この写真は存在していませんでした」
そこまで話すと、不思議と震えが少しだけ収まっていた。
「そしてこの写真は、私が初めて…『人が生きている時間を残したい』と思ってシャッターを切った写真でもあります」
射影機の冷たい感触。
影見によって触れてきた、数え切れないほどの悲しみ。
それらを乗り越えた先にある、今の自分。
「私は以前まで、ファインダーを覗くことが決して楽しいとは思えませんでした。ですが、人が生きている瞬間、誰かを想い合う瞬間を残したい…そう思えるようになったきっかけが、この一枚です。私にとって、一生忘れることのできない大切な時間です」
自然と、口元が少しだけ緩んだ。
「まだ写真を始めて間もない私ですが、この写真をたくさんの方に見ていただけたことを、本当に嬉しく思います。ありがとうございました」
深く頭を下げる。
一瞬の静寂のあと、会場から大きな拍手が湧き起こった。
その音は思っていたよりもずっと温かく、私は顔を上げるまでに、ほんの少し時間がかかった。
ステージを降りる足取りはまだ少し頼りなかったけれど、胸の中は、不思議なくらい晴れやかだった。
最優秀賞の授賞式も終わり、閉会を迎えると、観客たちは思い思いに展示された写真を見て回り始めた。
受賞作品は、このあとしばらく公民館に展示されるらしい。
「夕莉、立派だったわ」
密花さんが優しく手を差し伸べる。
私もようやく緊張から解放され、ほっと息をつきながら席を立とうとした。
そのときだった。
「不来方さん、少しよろしいでしょうか」
落ち着いた男性の声に振り返る。
そこに立っていたのは、先ほど審査員として紹介されていた年配の男性だった。
シックなコートを纏い、穏やかながらも知的な眼差しをこちらへ向けている。
「突然すみません。今回、外部審査員として参加させていただいた者です」
差し出された名刺には、男性の名前とともに、ある芸術大学の写真学科教授という肩書きが記されていた。
「あなたの作品は、審査のときから少し気になっていましてね。先ほどのお話を聞いて、その理由が少し分かったような気がしました」
「私の写真が…ですか?」
「ええ」
男性は展示されている、みおちゃんの写真へ視線を移した。
「専門家として見れば、構図や露出にはまだ粗いところがあります。技術的には、これから学ぶことがたくさんあるでしょう」
少し胸が痛む。
けれど、男性の瞳はとても優しかった。
「技術は学ぶことができます。ですが、何に心を動かされ、どの瞬間にシャッターを切るのか。それは撮影者自身の眼差しです」
そして、こちらを向いた。
「あなたの写真には、その眼差しがはっきりと出ている。私はそこが、とても面白いと思いました」
私は思わず息を飲んだ。
「あなたは、高校生ですか?」
「はい。来年の春に卒業する予定です」
「卒業後の進路は?」
「…まだ、決められていません」
男性は少し考えるように頷いた。
「そうですか。今から今年度の入試を考えるとなると、少し慌ただしくなりますね」
その言葉に、私は小さく俯いた。
「ですが、焦る必要はありません」
思いがけない言葉に顔を上げる。
「卒業してから準備する人もいますし、別の道を歩きながら写真を学ぶ人もいます。進路というものは、必ずしも一度で決めなければならないものではありませんから」
男性は鞄から一冊のパンフレットを取り出した。
「もし、もっと写真について知りたいと思ったら、一度、私たちの大学を見に来てみませんか」
差し出されたパンフレットを、私は両手で受け取った。
ページを開く。
そこには、赤い灯りに照らされた暗室、自然光の差し込むスタジオ、壁いっぱいに並べられた学生たちの写真が載っていた。
私の知らない世界だった。
「もちろん、入学を勧めているわけではありません。興味があるなら、まずは一度見に来てください。写真を学ぶということが、今より少し具体的に見えると思います」
そのとき、密花さんが静かに一歩前へ出た。
「失礼ですが、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
男性が穏やかに頷く。
「もちろんです」
「大学を見学させていただけるとのことですが、それは大学として受け入れていただける、正式な見学ということでしょうか?」
男性はすぐに頷いた。
「ええ、もちろんです。私個人のところへ来ていただく、という意味ではありません。事前にご連絡いただければ、大学を通して見学の手続きを取ります」
そう言って、先ほど渡した名刺を示す。
「ご心配でしたら、大学の窓口へ直接お問い合わせいただいても構いません。私の名前を伝えていただければ分かるようにしておきます」
「…分かりました。ありがとうございます」
密花さんの表情が、わずかに和らいだ。
「いえ。当然のことです。興味があれば、まずは見に来てください。そこで何を感じるかは、不来方さん自身が決めればいいことです」
そして最後にもう一度、展示された写真を一瞥し、
「素敵な写真をありがとうございました」
軽く一礼すると、男性はほかの来場者たちの中へ戻っていった。
手元に残ったのは、一枚の名刺と、まだ開いたばかりのパンフレット。
『写真を学ぶ大学』。
そんな場所があることすら、私は今まで知らなかった。
パンフレットをパラりと捲る。
暗室も、スタジオも、そこに並ぶ見たことのない機材も、私にとっては何もかもが未知のものだったが、不思議と不安は感じなかった。
ページをめくるたびに、ここでは何を学ぶのだろう、どんな写真を撮ることができるのだろうと、知らない世界への興味が少しずつ膨らんでいく。
気づけば私は、パンフレットを胸元へそっと抱き寄せていた。
もちろん、これだけで未来が決まったわけではない。
進学するのか、このまま「くろさわ」で密花さんを手伝うのか、それともまったく別の道を選ぶのか。
考えれば考えるほど分からないことは多く、迷いや不安はまだ胸の中に残っている。
それでも、今までとは明らかに何かが違っていた。
どこへ進めばいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた私の前に、今まで知らなかった一本の道が伸びている。
その道がどこへ続いているのかは、まだ分からないけれど、その先に何があるのかを、少しだけ自分の目で見てみたい。
そんな小さな好奇心が、確かに私の胸の中に芽生えていた。