零~転生ノ巫女~   作:TSUKUSHIBUNTA

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写真を学ぶという、新たな道を前にした夕莉。
しかし、大切な人や居場所から離れることへの迷いを拭えずにいた。

そんなある冬の日、自転車で街を走る夕莉は、進路に悩む一人の少女と出会う。

そんな少女へかけた言葉は、やがて夕莉自身の心にも静かに返ってきていた。


第九話:選路

コンテストから数日後。

私は相変わらず、勉強と店の手伝いを繰り返す毎日を送っていた。

机の上には、高校卒業に向けた問題集と愛用の二眼レフカメラ。

そしてその隣には、あの日受け取った一冊のパンフレットが置かれている。

勉強の合間に何度も手を伸ばしては、写真スタジオや暗室、学生たちの作品が並ぶページを眺めた。

ページをめくるたび、今まで知らなかった世界への興味が膨らんでいく一方で、本当にここが自分の進むべき道なのかという不安も、まだ胸のどこかに残っていた。

大学はここから決して近くはない。

通えない距離ではないものの、本格的に学ぶのなら、寮へ移ることも考えなければならないだろう。

写真をもっと知りたいという気持ちは、パンフレットを開くたびに強くなっている。

それでも、いざその先を想像すると、密花さんや「くろさわ」から離れて暮らす自分の姿だけは、どうしてもうまく思い描けなかった。

写真を好きだという気持ちを、そのまま「将来」と呼んでしまっていいのか。

まだ、そこまでの確信は持てずにいた。

無意識にペンが止まっていることに気が付き、私はパンフレットを引き出しにしまった。

コートを着込んでカメラを持ち、自室を出て階段を下りる。

私はお店を通らず、勝手口から外へ出た。

扉を開けた途端、暖かな室内とは打って変わって、冬の冷たい風が頬を撫でた。

店の敷地の隅には、いつも使っているシティサイクルが置いてある。

考えがまとまらない時、私は時々こうして自転車で街へ出ていた。

目的地を決めずにペダルを漕いでいると、部屋の中で同じことを考え続けるよりも、少しだけ頭の中が整理される気がするからだ。

写真を撮るようになってからは、カメラを連れて街を巡るために乗ることも増えていた。

自転車の鍵を開け、スタンドを蹴る。

そのまま店裏の細い小脇に押し出し、跨ると同時にペダルを漕ぎ始めた。

 

吐く息は白く、商店街から少し離れた道には静かな時間が流れていた。

自転車で走っていると、歩いている時とは少し違う街の表情が見えてくる。

普段なら通り過ぎてしまう路地や、今まで気づかなかった小さな店、季節とともに少しずつ変わっていく街の色。

そんな何気ないものを見つける時間が、私は好きだった。

私はペダルを漕ぎながら、考える。

この先、私はどうやって生きていきたいのだろう。

毎朝、密花さんと同じ時間に起きて朝食をとり、店の開店準備を始める。

そんな穏やかな毎日が、この先もずっと続けばいいと思う。

けれど、あの日、密花さんは私に「送り出す」と言ってくれた。

それはきっと、ここから出ていってほしいという意味ではない。

私がどんな未来を選んでも、それを受け止めてくれるということなのだと思う。

それでも私は、その優しさに甘えて、この場所から離れない理由にしているだけなのではないか。

そんな疑問が、ずっと胸の奥に残っていた。

 

そんなことを考えながらしばらくペダルを漕いでいると、前方に自転車の脇で屈んでいる人影が見えた。

近づくにつれシルエットがはっきりし、制服を着た女子高生だと分かった。

トラブルだろうか。

チェーン付近を覗き込みながら、何度も首を傾げている。

通り過ぎかけて、私はペダルを止めた。

自転車の故障なら、近くの店まで押していけばどうにかなるのかもしれない。

それでも、チェーンを覗き込んで途方に暮れている彼女の姿が、どうしても気になった。

困っているのに、どうしていいか分からない。

誰かに助けを求めたいのに、迷惑をかけることをためらっている。

そんな表情に、どこか覚えがあるような気がした。

私は自転車を降り、彼女のそばまで押していった。

「あの…大丈夫ですか?」

声をかけると、女子高生は驚いたように顔を上げた。

「あ、はい…チェーンが外れちゃって……」

彼女はえへへと申し訳なさそうに笑う。

見ると、チェーンが前後の歯車から外れてしまっていた。

私も長く自転車に乗っているので、チェーンが外れる程度のトラブルなら何度か経験がある。

けれど、ここまで弛んでいるとなると、掛け直すだけでは長く持たないだろう。

指先はチェーンの錆で黒く汚れてしまっている。

見過ごすわけにはいかなかった。

「ちょっと見せてください」

「どうぞ…」

彼女は指先をはたきながら、私が作業しやすいよう脇へ退いてくれた。

しゃがみ込んでチェーンを確かめると、かなり弛んでしまっている。これでは直してもまたすぐに外れてしまうだろう。

「これは…ずいぶん乗ってますね」

「はい! 小学校五年生の時からずっと乗ってます」

大切な相棒なのだと誇るような、明るい声が頭上から降ってくる。

その気持ちに応えたかった。

「これくらいなら…」

片方のチェーンを歯車に乗せ、もう片方を軽く引っかける。

そのままペダルを手で空回りさせると、ガラガラと音を立ててチェーンは滑らかに収まった。

「…あ、すごい! こんな簡単に乗せられたんですね…」

 

【挿絵表示】

 

もう一度ペダルを手で回してみると、今度はチェーンが外れることなく、後輪が滑らかに回った。

私は立ち上がり、手についた錆を払いながら言葉を続ける。

「とりあえず乗れるとは思いますが、チェーンがかなり弛んでいるので、近いうちに自転車屋さんで見てもらった方がいいですよ」

「はい! ありがとうございます!」

女の子はパッと表情を輝かせ、跳ねるように喜んでくれた。

役に立ててよかったと思う。

「あ、お姉さん」

自転車を押して走り出そうとした彼女がピタッと足を止め、私の首から下がったカメラを指差した。

「それってカメラですよね…カメラマンなんですか? あ、この場合はカメラウーマン?」

「これは…えっと、趣味みたいな感じかな」

苦笑しながらレンズキャップを外し、折り畳まれていたファインダーフードを開いてみせる。

「変わったカメラですね。レンズが二つ付いてる」

「二眼レフカメラって言うんです」

携帯の画面を見せるような仕草で、上からのぞき込むファインダーを見せてあげる。

「…あれ? 左右が反転してる!? どうして!?」

好奇心旺盛な、本当に元気な子だ。

「私も詳しい仕組みまでは分かってなくて…不思議ですよね」

専門知識もないまま好きで撮っていると言ったら、笑われるだろうか。

「なんとなくですけど」

女の子は顔を上げ、微笑みながら言った。

「お姉さん、すごく素敵な写真を撮りそうですね」

予想外の言葉に戸惑いつつも、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「…ありがとうございます」

素敵な言葉をくれた彼女に、少しだけ尋ねてみた。

「今日は学校の帰りですか?」

「はい…その、来年の進路のことで迷ってて、先生と相談してたんです。もうすぐ三年生になるんですけど、就職か、大学や専門学校に行くか決まらなくて」

言葉を選びながら話す様子から、ずっと思い悩んでいたことが伝わってくる。

「お姉さんは…大学生ですか?」

「いえ、私は通信制の高校生で、あと数ヵ月で卒業で…」

「そうなんですね! いいなぁ」

「でも…」と断りを入れつつ、私は呟いた。

「私も、まだ進路が決まってないんだ」

彼女少し驚いたように目を見開かせた。

「えっ、でももう少しで卒業なんですよね?」

「うん。…やりたいことは、なんとなくあるんだけどね」

二眼レフの革ケースをそっとなぞる。

彼女はサドルに体重を預け、遠くを見るような目になった。

「私、本当は服飾の専門学校に行きたいんです。でも親は、家から通える短大の方が安心だって。友達もいるし、私もそっちの方が楽なのは分かってるんですけど……」

彼女は少し俯き、困ったように笑った。

そんな彼女を見つめながら、私は自分の胸にあった迷いの正体に気づかされた。

私も、似たところで立ち止まっていたのかもしれない。

密花さんのいる「くろさわ」。

私を受け入れ、守ってくれた日常。

そこから離れることが、私は怖かった。

写真をもっと学びたいという気持ちに気づいていながら、その怖さと向き合うことを、どこかで避けていたのかもしれない。

だけど、私の心はあのパンフレットを開いた瞬間から、すでに動き出していた。

暗室の赤い光の中で写真が浮かび上がる瞬間。

見知らぬ世界で写真を学ぶ自分を、確かに思い描いていたのだから。

「…逃げてるんじゃないと思うよ」

自分自身に言い聞かせるように、静かに言葉を紡ぐ。

「迷うのは…本当に行きたい場所があるからじゃないかな。今いる場所が大切だからこそ、離れるのが怖いんだと思う。…私も、たぶん同じだから」

「お姉さんも?」

「うん。でも…離れたからって、そこで過ごした時間までなくなるわけじゃない、大切にしてくれた人との繋がりが消えるわけでもないと思う」

そこまで口にして、私はようやく気づいた。

これは彼女に向けているようで、本当はずっと、自分自身に言ってほしかった言葉なのかもしれない。

密花さんが私を「送り出す」と言ってくれたのは、きっと見放すからではない。

私がどこへ行っても、帰りたいと思った時には迎えてくれる。

そう信じていいのだと思えた。

なら私は、離れることを怖がるだけではなく、自分が本当に進みたい道を選んでもいいのかもしれない。

女の子は私の言葉を噛み締めるように聞いていたが、やがてパッと顔を明るくした。

「…そっか。大切だから、怖いんだ。私、自分が臆病なだけだと思ってました」

深呼吸をし、乗れるようになった自転車に跨る。

「お姉さん、ありがとうございました! 私、…もう一度、お母さんと先生に話してみます。まだ怖いけど…自分が本当はどうしたいのか、ちゃんと伝えてみたいです」

「うん。気を付けてね、あと…」

私はふと思い立って、彼女を呼び止めた。

「一枚、撮ってもいいですか?」

「私を?」

「はい。今のあなたを、残しておきたいなって」

女の子は少し驚いたあと、照れくさそうに笑った。

「…いいですよ!」

手を振って走り去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、私は二眼レフを構えた。

ファインダーを覗き込む。

左右が反転した世界の中で、冬の澄んだ光を浴びて遠ざかっていく彼女の背中が映っていた。

カシャリ、と静かなシャッター音が響く。

ファインダーから顔を上げると、頬を撫でる冬の風が、先ほどよりもずっと心地よく感じられた。

密花さんのそばを離れることを思えば、今でも寂しい。

一人で知らない世界へ踏み出すことも、やっぱり怖い。

それでも、ファインダーの中には、私がまだ知らない景色がいくつも待っている。

私はもっと見てみたい。

誰かが生きている一瞬を、自分の心が動いた瞬間を、これからも写真に残していきたい。

そのために、もっと写真を知りたいと思った。

自転車に跨り、ペダルを踏み込む。

風を切りながら走る帰り道、頭の中にはやるべきことが次々と浮かんでいた。

高校の勉強。大学の見学。入試について調べること。密花さんに、自分の気持ちを話すこと。

やるべきことは山積みだけれど、胸にあるのは焦りではなく、穏やかな高鳴りだった。

 

商店街を抜け、見慣れた喫茶「くろさわ」の看板が見えてくる。

自転車を止め、ドアノブに手をかけた。

カウベルがカラカランと涼やかな音を立てる。

カウンターの向こうで、密花さんが優しく微笑みながら私を迎えてくれた。

「お帰り、夕莉。寒かったでしょう」

「ただいま帰りました、密花さん」

コートを脱ぎながら、私は密花さんの目をまっすぐ見つめた。

不安が消えたわけではない。

それでも、今なら自分の口で言える気がした。

「…密花さん。私、あの大学を目指してみたいです」

私の言葉に、密花さんは少しだけ目を見開いた。

けれどすぐに、その表情が柔らかな微笑みに変わっていく。

「そう」

それだけ言って、密花さんは嬉しそうに目を細めた。

「決めたのね、夕莉」

「…はい」

自分の口から出たその返事は、思っていたよりもずっと真っ直ぐだった。

密花さんはカウンターを回り込み、私の前まで来ると、そっと肩に手を置いた。

「分かったわ。なら、一緒に準備しましょう」

そう言ってから、密花さんは少し考えるように視線を上げた。

「…でも、まずは夕食ね。そのあと、大学のことをゆっくり調べましょうか」

「はい、密花さん」

思わず、小さく笑った。

大学を目指すと決めたからといって、明日から何もかもが変わってしまうわけではない。

今夜も密花さんと夕食を囲み、明日になれば勉強をして、店を手伝う。

けれど、その先に続いている未来は、昨日までとは少しだけ違って見えた。

密花さんが厨房へ向かう。

私もコートを抱え、その背中を追いかけた。

 

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