しかし、大切な人や居場所から離れることへの迷いを拭えずにいた。
そんなある冬の日、自転車で街を走る夕莉は、進路に悩む一人の少女と出会う。
そんな少女へかけた言葉は、やがて夕莉自身の心にも静かに返ってきていた。
コンテストから数日後。
私は相変わらず、勉強と店の手伝いを繰り返す毎日を送っていた。
机の上には、高校卒業に向けた問題集と愛用の二眼レフカメラ。
そしてその隣には、あの日受け取った一冊のパンフレットが置かれている。
勉強の合間に何度も手を伸ばしては、写真スタジオや暗室、学生たちの作品が並ぶページを眺めた。
ページをめくるたび、今まで知らなかった世界への興味が膨らんでいく一方で、本当にここが自分の進むべき道なのかという不安も、まだ胸のどこかに残っていた。
大学はここから決して近くはない。
通えない距離ではないものの、本格的に学ぶのなら、寮へ移ることも考えなければならないだろう。
写真をもっと知りたいという気持ちは、パンフレットを開くたびに強くなっている。
それでも、いざその先を想像すると、密花さんや「くろさわ」から離れて暮らす自分の姿だけは、どうしてもうまく思い描けなかった。
写真を好きだという気持ちを、そのまま「将来」と呼んでしまっていいのか。
まだ、そこまでの確信は持てずにいた。
無意識にペンが止まっていることに気が付き、私はパンフレットを引き出しにしまった。
コートを着込んでカメラを持ち、自室を出て階段を下りる。
私はお店を通らず、勝手口から外へ出た。
扉を開けた途端、暖かな室内とは打って変わって、冬の冷たい風が頬を撫でた。
店の敷地の隅には、いつも使っているシティサイクルが置いてある。
考えがまとまらない時、私は時々こうして自転車で街へ出ていた。
目的地を決めずにペダルを漕いでいると、部屋の中で同じことを考え続けるよりも、少しだけ頭の中が整理される気がするからだ。
写真を撮るようになってからは、カメラを連れて街を巡るために乗ることも増えていた。
自転車の鍵を開け、スタンドを蹴る。
そのまま店裏の細い小脇に押し出し、跨ると同時にペダルを漕ぎ始めた。
吐く息は白く、商店街から少し離れた道には静かな時間が流れていた。
自転車で走っていると、歩いている時とは少し違う街の表情が見えてくる。
普段なら通り過ぎてしまう路地や、今まで気づかなかった小さな店、季節とともに少しずつ変わっていく街の色。
そんな何気ないものを見つける時間が、私は好きだった。
私はペダルを漕ぎながら、考える。
この先、私はどうやって生きていきたいのだろう。
毎朝、密花さんと同じ時間に起きて朝食をとり、店の開店準備を始める。
そんな穏やかな毎日が、この先もずっと続けばいいと思う。
けれど、あの日、密花さんは私に「送り出す」と言ってくれた。
それはきっと、ここから出ていってほしいという意味ではない。
私がどんな未来を選んでも、それを受け止めてくれるということなのだと思う。
それでも私は、その優しさに甘えて、この場所から離れない理由にしているだけなのではないか。
そんな疑問が、ずっと胸の奥に残っていた。
そんなことを考えながらしばらくペダルを漕いでいると、前方に自転車の脇で屈んでいる人影が見えた。
近づくにつれシルエットがはっきりし、制服を着た女子高生だと分かった。
トラブルだろうか。
チェーン付近を覗き込みながら、何度も首を傾げている。
通り過ぎかけて、私はペダルを止めた。
自転車の故障なら、近くの店まで押していけばどうにかなるのかもしれない。
それでも、チェーンを覗き込んで途方に暮れている彼女の姿が、どうしても気になった。
困っているのに、どうしていいか分からない。
誰かに助けを求めたいのに、迷惑をかけることをためらっている。
そんな表情に、どこか覚えがあるような気がした。
私は自転車を降り、彼女のそばまで押していった。
「あの…大丈夫ですか?」
声をかけると、女子高生は驚いたように顔を上げた。
「あ、はい…チェーンが外れちゃって……」
彼女はえへへと申し訳なさそうに笑う。
見ると、チェーンが前後の歯車から外れてしまっていた。
私も長く自転車に乗っているので、チェーンが外れる程度のトラブルなら何度か経験がある。
けれど、ここまで弛んでいるとなると、掛け直すだけでは長く持たないだろう。
指先はチェーンの錆で黒く汚れてしまっている。
見過ごすわけにはいかなかった。
「ちょっと見せてください」
「どうぞ…」
彼女は指先をはたきながら、私が作業しやすいよう脇へ退いてくれた。
しゃがみ込んでチェーンを確かめると、かなり弛んでしまっている。これでは直してもまたすぐに外れてしまうだろう。
「これは…ずいぶん乗ってますね」
「はい! 小学校五年生の時からずっと乗ってます」
大切な相棒なのだと誇るような、明るい声が頭上から降ってくる。
その気持ちに応えたかった。
「これくらいなら…」
片方のチェーンを歯車に乗せ、もう片方を軽く引っかける。
そのままペダルを手で空回りさせると、ガラガラと音を立ててチェーンは滑らかに収まった。
「…あ、すごい! こんな簡単に乗せられたんですね…」
もう一度ペダルを手で回してみると、今度はチェーンが外れることなく、後輪が滑らかに回った。
私は立ち上がり、手についた錆を払いながら言葉を続ける。
「とりあえず乗れるとは思いますが、チェーンがかなり弛んでいるので、近いうちに自転車屋さんで見てもらった方がいいですよ」
「はい! ありがとうございます!」
女の子はパッと表情を輝かせ、跳ねるように喜んでくれた。
役に立ててよかったと思う。
「あ、お姉さん」
自転車を押して走り出そうとした彼女がピタッと足を止め、私の首から下がったカメラを指差した。
「それってカメラですよね…カメラマンなんですか? あ、この場合はカメラウーマン?」
「これは…えっと、趣味みたいな感じかな」
苦笑しながらレンズキャップを外し、折り畳まれていたファインダーフードを開いてみせる。
「変わったカメラですね。レンズが二つ付いてる」
「二眼レフカメラって言うんです」
携帯の画面を見せるような仕草で、上からのぞき込むファインダーを見せてあげる。
「…あれ? 左右が反転してる!? どうして!?」
好奇心旺盛な、本当に元気な子だ。
「私も詳しい仕組みまでは分かってなくて…不思議ですよね」
専門知識もないまま好きで撮っていると言ったら、笑われるだろうか。
「なんとなくですけど」
女の子は顔を上げ、微笑みながら言った。
「お姉さん、すごく素敵な写真を撮りそうですね」
予想外の言葉に戸惑いつつも、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「…ありがとうございます」
素敵な言葉をくれた彼女に、少しだけ尋ねてみた。
「今日は学校の帰りですか?」
「はい…その、来年の進路のことで迷ってて、先生と相談してたんです。もうすぐ三年生になるんですけど、就職か、大学や専門学校に行くか決まらなくて」
言葉を選びながら話す様子から、ずっと思い悩んでいたことが伝わってくる。
「お姉さんは…大学生ですか?」
「いえ、私は通信制の高校生で、あと数ヵ月で卒業で…」
「そうなんですね! いいなぁ」
「でも…」と断りを入れつつ、私は呟いた。
「私も、まだ進路が決まってないんだ」
彼女少し驚いたように目を見開かせた。
「えっ、でももう少しで卒業なんですよね?」
「うん。…やりたいことは、なんとなくあるんだけどね」
二眼レフの革ケースをそっとなぞる。
彼女はサドルに体重を預け、遠くを見るような目になった。
「私、本当は服飾の専門学校に行きたいんです。でも親は、家から通える短大の方が安心だって。友達もいるし、私もそっちの方が楽なのは分かってるんですけど……」
彼女は少し俯き、困ったように笑った。
そんな彼女を見つめながら、私は自分の胸にあった迷いの正体に気づかされた。
私も、似たところで立ち止まっていたのかもしれない。
密花さんのいる「くろさわ」。
私を受け入れ、守ってくれた日常。
そこから離れることが、私は怖かった。
写真をもっと学びたいという気持ちに気づいていながら、その怖さと向き合うことを、どこかで避けていたのかもしれない。
だけど、私の心はあのパンフレットを開いた瞬間から、すでに動き出していた。
暗室の赤い光の中で写真が浮かび上がる瞬間。
見知らぬ世界で写真を学ぶ自分を、確かに思い描いていたのだから。
「…逃げてるんじゃないと思うよ」
自分自身に言い聞かせるように、静かに言葉を紡ぐ。
「迷うのは…本当に行きたい場所があるからじゃないかな。今いる場所が大切だからこそ、離れるのが怖いんだと思う。…私も、たぶん同じだから」
「お姉さんも?」
「うん。でも…離れたからって、そこで過ごした時間までなくなるわけじゃない、大切にしてくれた人との繋がりが消えるわけでもないと思う」
そこまで口にして、私はようやく気づいた。
これは彼女に向けているようで、本当はずっと、自分自身に言ってほしかった言葉なのかもしれない。
密花さんが私を「送り出す」と言ってくれたのは、きっと見放すからではない。
私がどこへ行っても、帰りたいと思った時には迎えてくれる。
そう信じていいのだと思えた。
なら私は、離れることを怖がるだけではなく、自分が本当に進みたい道を選んでもいいのかもしれない。
女の子は私の言葉を噛み締めるように聞いていたが、やがてパッと顔を明るくした。
「…そっか。大切だから、怖いんだ。私、自分が臆病なだけだと思ってました」
深呼吸をし、乗れるようになった自転車に跨る。
「お姉さん、ありがとうございました! 私、…もう一度、お母さんと先生に話してみます。まだ怖いけど…自分が本当はどうしたいのか、ちゃんと伝えてみたいです」
「うん。気を付けてね、あと…」
私はふと思い立って、彼女を呼び止めた。
「一枚、撮ってもいいですか?」
「私を?」
「はい。今のあなたを、残しておきたいなって」
女の子は少し驚いたあと、照れくさそうに笑った。
「…いいですよ!」
手を振って走り去っていく彼女の後ろ姿を見送りながら、私は二眼レフを構えた。
ファインダーを覗き込む。
左右が反転した世界の中で、冬の澄んだ光を浴びて遠ざかっていく彼女の背中が映っていた。
カシャリ、と静かなシャッター音が響く。
ファインダーから顔を上げると、頬を撫でる冬の風が、先ほどよりもずっと心地よく感じられた。
密花さんのそばを離れることを思えば、今でも寂しい。
一人で知らない世界へ踏み出すことも、やっぱり怖い。
それでも、ファインダーの中には、私がまだ知らない景色がいくつも待っている。
私はもっと見てみたい。
誰かが生きている一瞬を、自分の心が動いた瞬間を、これからも写真に残していきたい。
そのために、もっと写真を知りたいと思った。
自転車に跨り、ペダルを踏み込む。
風を切りながら走る帰り道、頭の中にはやるべきことが次々と浮かんでいた。
高校の勉強。大学の見学。入試について調べること。密花さんに、自分の気持ちを話すこと。
やるべきことは山積みだけれど、胸にあるのは焦りではなく、穏やかな高鳴りだった。
商店街を抜け、見慣れた喫茶「くろさわ」の看板が見えてくる。
自転車を止め、ドアノブに手をかけた。
カウベルがカラカランと涼やかな音を立てる。
カウンターの向こうで、密花さんが優しく微笑みながら私を迎えてくれた。
「お帰り、夕莉。寒かったでしょう」
「ただいま帰りました、密花さん」
コートを脱ぎながら、私は密花さんの目をまっすぐ見つめた。
不安が消えたわけではない。
それでも、今なら自分の口で言える気がした。
「…密花さん。私、あの大学を目指してみたいです」
私の言葉に、密花さんは少しだけ目を見開いた。
けれどすぐに、その表情が柔らかな微笑みに変わっていく。
「そう」
それだけ言って、密花さんは嬉しそうに目を細めた。
「決めたのね、夕莉」
「…はい」
自分の口から出たその返事は、思っていたよりもずっと真っ直ぐだった。
密花さんはカウンターを回り込み、私の前まで来ると、そっと肩に手を置いた。
「分かったわ。なら、一緒に準備しましょう」
そう言ってから、密花さんは少し考えるように視線を上げた。
「…でも、まずは夕食ね。そのあと、大学のことをゆっくり調べましょうか」
「はい、密花さん」
思わず、小さく笑った。
大学を目指すと決めたからといって、明日から何もかもが変わってしまうわけではない。
今夜も密花さんと夕食を囲み、明日になれば勉強をして、店を手伝う。
けれど、その先に続いている未来は、昨日までとは少しだけ違って見えた。
密花さんが厨房へ向かう。
私もコートを抱え、その背中を追いかけた。