ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者 作:ネギタリアン
一話∶血の教え
朝の庭に、小さな光がぱっと瞬いた。
芝の上に並べた小石が、甲虫に変わる。黒光りする背中に、六本の脚。触角がぴくぴくと動いて、朝の空気を探っている。
サミュエル・プロキオン・ヴェスゲレートが杖を引くと、甲虫はころんと小石に戻った。
これで四十八回目。
家庭教師が来るのは九時。それまでの二時間が、彼の自由時間だ。そしてその時間を、彼は毎朝こうして使っている。
庭の隅では、細い線香が一本、白い煙を立てていた。未成年の魔法の気配をごまかしてくれる、バーク商会の売り物だ。おかげで魔法省がこの庭に気づくことはない。
生け垣の向こうで、ようやく一羽目のツグミが鳴き始めた。
次の小石に杖を向けたとき、背後からおそるおそる声がした。
「あ、あの、坊ちゃま……朝食のご用意が……」
「あと二回だ」
「は、はいっ」
屋敷しもべ妖精のピッピーは、タオルを抱えたまま、ぴたりと口を閉じた。枕カバーを縫い直しただけの服から、細い手足が突き出ている。大きな耳が小刻みに震えていた。
四十九回目。五十回目。
最後の甲虫が小石に戻ると、サミュエルは振り返らずに手を伸ばした。ピッピーが慌ててタオルを載せる。額の汗を拭うあいだ、彼は一度もピッピーを見なかった。
「坊ちゃまは、毎朝ほんとうに……」
「何だ」
「い、いえっ! なんでもございません!」
ピッピーは耳をぱたんと伏せ、屋敷のほうへ逃げるように駆けていった。
*
夏物のローブに着替えて食堂に降りると、父はもう席についていた。
長いテーブルに、銀の食器がずらりと並んでいる。皿にもナイフの柄にも、バーク家の紋章。燻製のニシン、焼きたてのパン、蜂蜜を垂らしたポリッジ、卵とベーコン。二人で食べるには、どう見ても多すぎる。
「おはようございます、父上」
「ああ」
ロビンソン・バークは、日刊予言者新聞から顔を上げなかった。紙面の縁から、ぎょろりとした大きな目がのぞいている。その目がこちらへ動くことはない。
「ホグワーツの支度は」
「今夜、持っていくものを選びます」
「そうか」
紙面が、がさりと鳴った。
「マルフォイのところの息子も、今年入学だそうだ」
「ドラコですね。どんな子なんですか」
「知らん」
父は紙面から目を上げなかった。
「ルシウスの息子だ。それ以外に、知っておくことがあるか」
「……いえ。ありません」
「商売の付き合いがある。向こうで顔を合わせたら、仲良くしておけ」
「はい」
会話は、それで終わりだった。
ピッピーが紅茶を注ぎに来た。小さな手で重たいポットを傾けた拍子に、受け皿へ一滴、紅茶がこぼれる。
ピッピーの耳が、びくりと跳ねた。
「替えろ」
サミュエルはカップに目を落としたまま言った。怒鳴ったわけでも、叱ったわけでもない。汚れた皿を下げさせるときと、同じ声だった。
「た、ただいま!」
ピッピーはカップごとさらって、厨房へ駆けていく。扉の向こうで、ごつん、と鈍い音がした。
新聞が一枚めくられた。父は何も言わなかった。
サミュエルはニシンにナイフを入れた。小骨は一本残らず抜かれていた。
*
九時ちょうどに、家庭教師のホロウェイがやって来た。
痩せた中年の魔法使いで、白髪まじりの髪をきっちりと撫でつけている。バーク家に雇われて、もう四年になる。
「おはようございます。今朝も庭で?」
「ええ。五十回」
「……そうですか」
ホロウェイの返事は、いつも少しだけ間が空く。
授業は西翼の練習室で行われる。傷だらけの石の床に、焦げ跡のような古い防護呪文の跡。部屋の隅には、片腕のない決闘用の人形が立てかけてあった。
ホロウェイは懐中時計をちらりと確かめてから、机に陶器のティーカップを置いた。
「さて、今日は無生物から生物への変身です。これを鼠にして、もとに戻す。ホグワーツでは上級生で習う内容ですから、まずは手順の確認から――」
「もう終わりました」
「は?」
机の上を、灰色の鼠が走っていた。髭の一本一本までが震えている。鼠は机の端でくるりと振り返り、次の瞬間にはティーカップに戻っていた。取っ手の角度も、縁の小さな欠けも、もとのままだ。
ホロウェイはカップを手に取り、裏返して、しばらく底を眺めた。
「……完璧ですね。まだ手順も教えていないのに、いったいどこで――」
言いかけて、ホロウェイは口をつぐんだ。
「いえ。先週、私がお貸しした本でしたか」
「はい。先生の蔵書で」
サミュエルはにこりともせずに答えた。
「先生」
ホロウェイの胸元、ローブの隙間から、銀の鎖がのぞいている。
「さっき、時間を確かめてましたよね」
「え? ええ、まあ」
サミュエルはもう一度、杖をカップに向けた。
カップの輪郭がほどけ、縮み、平たく丸まっていく。光が収まると、机の上には懐中時計がひとつ載っていた。銀の蓋に、竜胆の彫刻。耳を澄ませば、秒針の音まで聞こえる。
ホロウェイの手が、反射的に自分の胸元へ伸びた。本物を取り出して、机の上の時計と見比べる。
蓋の右下に、同じ形の小さな擦り傷があった。
「……一度、見ただけで?」
「ええ。中の歯車までは見えなかったので、そこは適当です」
ホロウェイは笑おうとしたらしい。けれど口の端が、少し引きつっただけだった。本物の時計を握る指の関節が、白くなっている。
「……つ、次の課題に、移りましょうか」
声が、途中で裏返った。
「はい、先生」
サミュエルは行儀よく答えて、杖を机に置いた。
*
午前の最後は、決闘の練習だ。
練習室の中央で、二人は向かい合って一礼した。十一歳の少年と、四十を過ぎた大人。体格の差は誰の目にも明らかだった。
「ルールはいつもどおり。先に杖を手放したほうの負けです」
「承知しています」
「今日こそ、一本くらいは取らせてもらいますよ」
「どうぞ」
ホロウェイが杖を構える。
その瞬間、サミュエルの右目の奥で、景色がわずかにずれた。目の前のホロウェイに、半透明のホロウェイが重なる。数秒先の姿だ。影は杖を斜めに振り抜き、赤い閃光を放っていた。
サミュエルは、一歩だけ左へ動いた。
「ステューピファイ!」
遅れて本物が、影と同じ動きをなぞる。失神呪文は、さっきまで彼がいた場所を素通りして、石壁でぱっと散った。
「なっ……」
ホロウェイの顔色が変わった。足縛りの呪い。武装解除呪文。全身金縛り術。立て続けに光が飛んでくる。
サミュエルは杖を向けもしなかった。右目に映る影に合わせて、半歩ずつ身体をずらすだけだ。どの光も、袖の端すらかすめない。
「はあ、はあ……っ」
ホロウェイが次の呪文のために杖を引いた、その一瞬。
「エクスペリアームス」
サミュエルが初めて唱えた呪文で、ホロウェイの杖が宙を舞った。片手で受け止めると、握りは汗でじっとりと湿っていた。
石の床に、ホロウェイが片膝をついている。
「今日は、ここまでですね」
サミュエルは杖の持ち手を向けて差し出した。
「……ええ。そう、ですね」
受け取る指先が、かすかに震えていた。
「どうして、私の呪文が分かるんです」
「先生の癖ですよ。杖を振る前に、必ず右肩が上がるので」
「右肩……」
ホロウェイは自分の肩に手をやった。そんな癖があるのかどうか、彼自身にも分からないようだった。
サミュエルは、にこやかに笑ってみせた。
本当の理由を、わざわざ教えてやるつもりはなかった。
練習室を出ると、窓のない薄暗い廊下が続いている。両側の壁には、歴代のバーク家当主の肖像画がずらりと並んでいた。
「おや、跡取り殿のお通りだ」
「また家庭教師を青ざめさせたらしいな。練習室の絵から聞いたぞ」
「結構、結構。バークの男は、そうでなくてはいかん」
額縁の中で、髭の当主たちが好き勝手にしゃべる。
「お褒めにあずかり、光栄です」
サミュエルは足を止めずに答えた。肖像画たちが満足げに髭をしごく。
「ロビンソンの代で家が傾くかと思ったが、これなら安泰だな」
「少なくとも、あの女よりは出来がいい」
誰かが、そう付け足した。
廊下の突き当たりには、壁紙の色がそこだけ鮮やかな、四角い跡がある。昔は何かの額が掛かっていたのだろう。
彼はその前を、一度も目を向けずに通り過ぎた。
*
夕食は、朝よりもさらに静かだった。
燭台の灯りの下に、ローストした仔羊とミントのソース。スープの皿が下げられたところで、ロビンソンが口を開いた。
「ホロウェイが、今月いっぱいで辞めたいと言ってきた」
「そうですか」
「もう教えられることはない、だそうだ」
「推薦状は、お書きになるのですか」
「必要ない。バーク家で四年勤めた。それが推薦状代わりだ」
父は興味もなさそうに、ワインを一口含んだ。
「九月まで、あと二月だ。代わりは要らん」
グラスが置かれる。それが合図だった。
「二十八の家を」
サミュエルはナイフとフォークを置き、背筋を伸ばした。
「アボット。エイブリー。ブラック。ブルストロード。バーク――」
二十八の家名が、よどみなく並んでいく。一つでも順番を間違えれば、最初からやり直し。四年前の最初の夜は、九回やり直した。いまはもう、一度も詰まらない。
最後の一つを言い終えると、暖炉の上の大時計が一度だけ鳴った。
「よし」
「では、そのうち血を軽んじている家は」
「ウィーズリー家。それから、ウィーズリー家と縁を結んだプルウェット家です」
「理由は」
「マグルやマグル生まれと交わることを、恥と思っていないからです」
模範解答だった。問答は、ここで終わるはずだった。
「それと――ウィーズリー家は、二十八に数えること自体が間違いだと思います」
「ほう?」
ロビンソンの指が、グラスの脚で止まった。
「当主は魔法省で、マグルの品を集めて喜んでいると聞きました。純血を名乗りながら、自分からその価値を捨てている。ほかの二十七の家への侮辱です」
しばらく、沈黙が落ちた。
父は残りのワインを、ゆっくりと飲み干した。
「いいだろう」
微笑みも、頷きもない。帳簿の数字を確かめるときと同じ顔だった。
空いたグラスを、ピッピーがすかさず満たす。父はそちらを見もしない。
「九月からは、私の目は届かん」
「はい」
「首席を取れ」
「はい」
「誰と付き合って、誰と付き合わないか。よく考えて選べ」
「はい」
「バークの名を汚すな」
「はい、父上」
*
その夜、サミュエルは自室で荷造りを始めた。
机の上には、数日前に届いたホグワーツからの手紙が置いてある。エメラルド色のインクの宛名には、この部屋の場所まで正確に書かれていた。
――バーク邸 東翼の角部屋 サミュエル・P・ヴェスゲレート様。
何度読んでも、少しだけ可笑しい。まだ一度も会ったことのない誰かが、自分の寝ている部屋まで知っている。サミュエルは手紙を折りたたみ、教科書のあいだに挟んだ。
ベッドの脇に置いた古いトランクの留め金を外す。蓋を開けると、中には下へ続く短い梯子がかかっていた。検知不可能拡大呪文。外から見ればただの旅行鞄だが、中は小さな部屋ほどの広さがある。
ランプに火を入れると、油と古い羊皮紙の匂いがふわりと立ちのぼった。壁の棚には、古い文字を刻んだ短剣。色とりどりの魔法薬の小瓶。作業台の上には、分解されたままの道具の部品。どれも彼が自分で集め、自分で手を加えたものだ。
手持ちの本と着替えを棚の空きに収めていると、頭の上で、扉を叩く小さな音がした。
「ぼ、坊ちゃま。お荷物のお手伝いを……」
「要らない」
「で、でも、旦那さまが――」
「入るな。この部屋にも、このトランクにもだ」
扉の向こうが、しんと静かになった。やがて、ぱたぱたと小さな足音が遠ざかっていく。
旦那さまが、か。父が息子の荷物の心配などするはずがない。いつもの、ピッピーの気の回しすぎだ。
サミュエルは最後に、杖を手に取った。
柔らかい布で拭ってから、漆塗りの細長い箱に納めた。杖を入れるには、少し幅の広すぎる箱だった。蓋を閉じ、留め紐を二重に結ぶ。
梯子を上がってトランクを閉じると、留め金がかちりと鳴った。
部屋の隅の姿見の前に立つ。
黒い髪。白い肌。灰色の左目と、深紅の右目。十一歳の顔が、鏡の中からこちらを見返している。
彼は口の端を、わずかに持ち上げた。
「……もう少し。もう少しだけ、自然に」
何度か繰り返すうちに、鏡の中の少年はゆったりと笑うようになった。誰が見ても文句のつけようがない、育ちのいい笑顔だった。
「格の違いを――あの学校で、証明してやる」