イースター休暇のバーク家の屋敷は、いつもより少しだけ明るかった。
庭の生け垣の根元に、黄色い水仙が並んで咲いている。窓から差しこむ四月の光が、食堂の銀の燭台を柔らかく照らしていた。
それでも、朝食のテーブルの静けさは変わらない。
「マルフォイの息子が、罰則を受けたそうだな」
ロビンソンが、新聞をめくりながら言った。
「はい。夜中に寮を抜け出して、二十点の減点と、森での罰則だったそうです」
「ルシウスが気にしている。一人息子が、寮の中で面目を失ったとな」
新聞の縁から、ぎょろりとした目がこちらへ動いた。
「マルフォイ家とうちの付き合いは、お前が生まれる前からだ。息子の顔を立ててやれ」
「贈り物を用意します」
サミュエルは、紅茶のカップを置いた。
「スリザリンの純血の寮生の人数分。ドラコの名前で配れるように、菓子を。ホグワーツの周りでは手に入らない店のものがいいでしょう。ドラコが『父上の伝手で取り寄せた』と言えるように」
「当てはあるのか」
「パリに、一軒」
「ならいい。費用は帳簿につけておけ」
「はい」
「夏に、ルシウスと会食がある。お前の成績表も、向こうの息子のと並べて見せることになる」
「首席は取ります」
「当然だ」
会話は、それで終わった。
その日の午後、サミュエルは自室で手紙を書いた。
宛先は、ボーバトン魔法アカデミー。フラー・デラクール様。
用件だけを、簡潔に書いた。二月にもらったマカロンの店で、同じものを三十二箱。代金はバーク商会のパリの取引先から支払う。手数料は、こちらの言い値で。
ふくろうを放して四日後、返事が届いた。
白い上等な紙に、流れるような字。
〈あなたからの初めての手紙が、お買い物の頼みだなんて。
三十二箱、ちゃんと手配したわ。手数料はいらない。
その代わり、今度会ったときに、氷の薔薇をもう一輪。――F〉
サミュエルは手紙を折りたたみ、少し考えてから、短い返事を書いた。
〈ありがとう。薔薇は、次の合宿で。今度は二輪にしておく。〉
ふくろうを放してから、それを引き出しにしまった。
届いた菓子の箱は、ピッピーが一つずつ包み直した。三十二箱。銀色のリボンに、緑の封蝋。添えるカードには、サミュエルがドラコの筆跡を真似て書いた。
〈スリザリンの誇りある寮生へ。父上の伝手で、パリから。――D・M〉
「ぼ、坊ちゃま。お包み、これでよろしゅうございますか……?」
「リボンの結び目を、全部同じ向きにそろえろ」
「は、はいっ!」
サミュエルは、窓の外のふくろう小屋に目をやった。
これで、ドラコは休暇明けの談話室で、パリの菓子を配って回ることができる。寮生たちは、マルフォイ家の伝手に感心する。ルシウスは満足し、父は満足する。
作業として、何の問題もなかった。
*
四月十一日は、サミュエルの十二歳の誕生日だった。
屋敷では、誰もそれを口にしなかった。朝食の席でも、父は新聞を読んでいただけだった。
ただ、その朝、目を覚ますと、枕元の小机に小さな皿が置いてあった。
皿の上には、親指ほどの大きさのカップケーキが一つ。砂糖衣は、半分だけ。その上に、銀色の粒が一つだけ載っている。去年の誕生日に言いつけたとおりだった。
誰が置いたのかは、聞くまでもなかった。
朝食の給仕に来たピッピーは、いつも以上にびくびくしていた。目が合うと、大きな耳がぱたんと伏せられる。
「ピッピー」
「は、はいっ! ピッピーは何も、何もいたしておりません!」
「……来年も、これでいい」
ピッピーは、ぽかんと口を開けた。それから、テニスボールのような目にみるみる涙をためて、深々と頭を下げた。
「か、かしこまりました……!」
皿は、もう空になっていた。
昼過ぎ、サミュエルは庭の隅へ行った。生け垣の陰に、一本だけ桃の木がある。屋敷の誰も気にかけない、細い若木だ。
薄紅色の花をつけた枝を一本、小刀で切り取った。
それを持って、一人で屋敷を出た。
ロンドンの裏通りに、古びた赤レンガのデパートがある。ショーウィンドウには、流行遅れの服を着たマネキンが一体、ぽつんと立っているだけだ。「改装中につき閉店」の札。
「面会に来ました」
ガラスに向かって小声で言うと、マネキンがわずかに指を曲げた。サミュエルはガラスを通り抜けて、中に入った。
聖マンゴ魔法疾患傷害病院。
受付のロビーは、いつも通り混み合っていた。耳から煙を出している魔法使い。手が鶏の足になってしまった魔女。ライムグリーンのローブを着た癒者たちが、忙しそうに行き来している。
サミュエルは受付には寄らずに、階段を上った。この四年で、受付の魔女に行き先を聞かれることもなくなった。踊り場ですれ違った年配の癒者が、黙って小さく会釈をしていった。
五階の奥。長期療養の患者が入る、静かな廊下。消毒液の匂いが、下の階よりも濃くなる。壁に掛かった歴代の癒者の肖像画たちは、ここではみんな声をひそめて話していた。
突き当たりの個室の扉を、ノックせずに開けた。
白いベッドの上に、母が眠っていた。
黒い髪が、枕の上に広がっている。四年前より少し伸びた。肌は透き通るように白く、閉じたまぶたの下で、睫毛がかすかに影を落としている。
誰が見ても、ただ眠っているだけにしか見えなかった。
サミュエルは、窓辺の花瓶の古い花を抜き、桃の枝を挿した。それから、ベッドの脇の椅子に腰を下ろした。
「母さん」
返事はない。
「今日、十二歳になったよ」
窓の外で、鳩が一羽、羽ばたいた。
「ホグワーツに入った。寮は、グリフィンドール。父上は寮なんてどうでもいいって言ってたけど、ドラコはまだ根に持ってるみたいだ」
サミュエルは、膝の上で手を組んだ。
「みんな、僕のことが好きだって言うんだ。同じ寮の子も、ほかの寮の子も、先生も。バレンタインには、チョコレートが四十二個届いた」
少しだけ、笑った。
「変だよね。誰も、僕の何が好きなのか、分かってないのに。僕だって分かってない」
母の胸が、ゆっくりと上下している。
「でも、困ったことは一度もないんだ。みんなが欲しがってる顔をすれば、みんな喜ぶ。父上の屋敷で、ずっとそうしてきたから。……上手いんだよ、僕。たぶん、母さんが思ってるより、ずっと」
しばらく、黙っていた。
「ピッピーは、相変わらずだよ。紅茶をこぼすたびに、耳がびくってなる。父上も、相変わらず」
窓辺の桃の花が、かすかに揺れた。
「……そういえば、一人、うっとうしい子がいるんだ」
言うつもりのなかった言葉が、口からこぼれた。
「同じ寮の子。とにかく口うるさくてさ。僕が何か言うと、必ず言い返してくる。人の呪文の発音にまで口を出すし、宿題は、頼まれてもいないのに羊皮紙一本分も多く書くし。手を挙げるときなんて、椅子から半分立ち上がってるんだよ」
思い出して、少しだけ笑った。
「髪もすごいんだ。毎朝、爆発したみたいに広がってて。本ばっかり読んでるから、たぶん梳かす暇がないんだと思う」
母の寝顔は、少しも変わらなかった。
「……でも、頭はいいよ。教科書なんて、全部覚えてる。たぶん、学年で一番」
窓の外で、鳩がくぐもった声で鳴いた。
「それに、間違ってると思ったら、相手が誰でも、間違ってるって言う。僕にもね。僕が何を言っても、ちっとも感心してくれないんだ。そんな子、あの子くらいだよ」
膝の上で、指を組み直した。
「……話してると、なんだか、楽なんだ」
そこまで言って、口をつぐんだ。
文句を言うつもりだったのに、いつの間にか、褒めていた。
名前は、言わなかった。
サミュエルは、母の手にそっと触れた。冷たくはなかった。でも、握り返してはこなかった。
「……また来るね」
扉を開けて廊下に出ると、ライムグリーンのローブの若い癒者が、カルテを手に立っていた。
「あら。面会時間は、もう過ぎてますよ」
「すみません」
「休みのたびにいらしてるのね。……話しかけても、たぶん聞こえてはいないと思いますよ。あまり、期待なさらないほうが」
癒者は、それだけ言うと、隣の病室へ入っていった。
廊下には、消毒液の匂いだけが残った。
サミュエルはしばらくその場に立っていた。それから、何事もなかったように階段を降りていった。
*
休暇が明けると、ホグワーツには春が来ていた。
校庭の雪はすっかり溶け、湖の水面が四月の陽射しにきらきらと光っている。中庭の木々に、薄緑の若葉がのぞき始めていた。
スリザリンのテーブルでは、ドラコが得意げに銀色のリボンの箱を配っていた。
「父上の伝手でね。パリの店から、わざわざ取り寄せたんだ」
スリザリン生たちが、感心したようにどよめいている。ドラコが一瞬だけ、グリフィンドールのテーブルに視線を投げてきた。サミュエルは、気づかないふりをした。
その日の午後、地下牢へ続く廊下で、ドラコに呼び止められた。
「……菓子のこと、父上から聞いた。バーク家の伝手だって」
「何のこと?」
「とぼけるなよ」
ドラコは、ばつが悪そうに顎を上げた。
「言っとくけど、借りだなんて思ってないからな」
「思わなくていいよ。僕は何もしてない。パリの菓子を取り寄せたのは、マルフォイ家だろ?」
ドラコは何か言いかけて、口を閉じた。それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……あのマカロン、うまかった」
「それはよかった」
ドラコはくるりと背を向けて、地下牢の暗がりへ歩いていった。耳の先が、少しだけ赤かった。
図書室は、試験前の生徒で混み始めていた。
その奥の窓際の席に、ハリーとロンとハーマイオニーが陣取っている。ここ最近、三人はやけに図書室に入り浸っていた。ハーマイオニーの前には、色分けされた復習の予定表と、分厚い本が何冊も積み上がっている。
「試験まで、まだ十週間もあるんだよ」
通りかかったとき、ロンがうんざりした声で言っているのが聞こえた。
「十週間しか、よ!」
ハーマイオニーが、色分けした予定表をばしんと叩いた。
しばらくして、サミュエルがもう一度書架の間を通りかかったとき、ハーマイオニーが顔を上げた。
ハリーとロンは、ちょうど席を外していた。
「ねえ、ヴェスゲレート」
半分独り言のような声だった。
「ニコラス・フラメルって、知ってる?」
サミュエルは、足を止めた。
「知ってるよ」
理由は聞かなかった。彼女の手元の本が何なのかも、のぞきこまなかった。
「ニコラス・フラメル。錬金術師。現存する唯一の賢者の石を作った人として知られてる。賢者の石は、どんな金属も純金に変えて、飲めば不老不死になる『命の水』を生み出す。フラメルは最近、六百六十五歳の誕生日を迎えた。奥さんはペレネレ、六百五十八歳。デヴォンで静かに暮らしてる。それから、ダンブルドアとは錬金術の共同研究をしていたことがある」
ハーマイオニーは、ぽかんと口を開けていた。
「……全部、合ってる」
「そう?」
「私、それを見つけるのに何週間もかかったのよ。図書室中の本をひっくり返して」
「読んだことがあっただけさ。家に、錬金術の本が山ほどあったから」
ハーマイオニーは、しばらくサミュエルの顔を見つめていた。
いつもの、言い返す前の目ではなかった。何か、本当に感心したものを見たときの目だった。
「……すごいわね、あなた」
サミュエルは、少しだけ言葉に詰まった。
すごい、と言われることには慣れている。家庭教師にも、先生にも、上級生にも、何十回と言われてきた。どれも、相手が欲しい答えを差し出した結果だった。
今のは、何も計算していなかった。
「……どういたしまして」
「まだ何もお礼なんて言ってないわよ」
「じゃあ、先に言っとく」
ハーマイオニーが、ふっと吹き出した。
ハリーとロンが本を抱えて戻ってくる足音がした。サミュエルは軽く手を上げて、書架の間を歩き出した。
「何話してたんだ?」
背後で、ロンの声がした。
「何でもないわ。……ちょっと、答え合わせをしただけ」
ハーマイオニーの声は、どこか弾んでいた。
背中に向けられた視線が、図書室の出口に着くまで消えなかったことに、彼は気づかなかった。
ドラコに菓子を贈ったのと同じくらい、完璧な答えだった。
違うのは、今度は何の見返りも、頭に浮かばなかったことだけだ。