五月のホグワーツは、試験の匂いがした。
インクと、羊皮紙と、夜更かしの匂い。大広間の朝食の席でさえ、半分の生徒が教科書を開いたままトーストをかじっている。窓の外はもう初夏の陽射しで、湖ではイカがのんびりと日向ぼっこをしているのに、校庭に出ていく生徒はほとんどいなかった。
ハーマイオニーは、色分けした予定表を三枚に増やしていた。ハリーは、ときどき額の傷を指で押さえている。
「最近、ずっと痛むんだ。ちくちくする感じで」
「試験の前は、みんなどこかしら痛くなるものさ。僕は胃が痛い」
「サミュエルが? 嘘だろ」
「嘘だよ」
ハリーは苦笑いして、また教科書に目を落とした。
「消灯時間を過ぎて談話室に残っている者は、減点だぞ。監督生として、言わせてもらうが――」
パーシーが、毎晩九時になると談話室を見回りに来た。そのたびに、暖炉の前のテーブルから、何人かがこそこそと寝室へ引き上げていく。
「無理だ。絶対無理。こんなの、一晩で覚えられるわけない」
ロンは、魔法史の教科書に額をつけて呻いていた。
「一晩で覚えようとするからだよ。まだ一か月もあるのに」
「ハーマイオニーみたいなこと言うなよ……」
ネビルは、変身術の教科書を抱えたまま、青白い顔で暖炉の前を行ったり来たりしている。
「ど、どうしよう。マッチ棒を針に変えるやつ、まだ一回も成功してないんだ」
「ネビル、ちょっとこっちに来て」
サミュエルは、自分の隣の椅子を引いた。
「マッチ棒の変身は、先っぽから変えようとすると失敗する。真ん中から、こう――芯を一本、通すみたいに想像するんだ」
「芯を……一本……」
ネビルが杖を振ると、マッチ棒の真ん中が、きらりと銀色に光った。
「あっ!」
「ほら、半分できた。あとは両端だけ」
ネビルの顔が、ぱっと明るくなった。
十分後、ネビルのマッチ棒は、とうとう一本の銀の針になった。ネビルはそれを宝物みたいに握りしめて、半べそで笑った。
「で、できた……! ばあちゃんに手紙で知らせなきゃ」
それを見ていた何人かが、羊皮紙を持ってそろそろと近づいてきた。
「サミュエル、この呪文の発音なんだけど……」
「僕も、薬草学のここが……」
いつの間にか、暖炉の前のテーブルは、小さな教室になっていた。
*
その夜、サミュエルはトランクの工房にこもって、大鍋を火にかけた。
棚の一番奥、魔法薬の小瓶の陰に、銀色の細長い缶が一本だけ隠してある。マグルの店で売っている、眠気覚ましの炭酸飲料の空き缶だ。屋敷の隠し部屋から、一本だけ持ってきた。
鍋の中の薬は、教科書どおりに作れば、泥のような茶色で、ひどく苦い。
サミュエルは缶の裏の成分表を眺めながら、柑橘の皮と、蜂蜜と、ほんの少しの噛みつきキャベツの汁を加えた。最後に、泡立ち呪文を一つ。
鍋の中身が、鮮やかな黄緑色に変わって、しゅわしゅわと泡を立て始めた。
味見をして、うなずく。缶は、また棚の奥にしまった。
*
談話室の勉強会が始まって、三日目の夜。サミュエルは、テーブルの上に木箱を一つ置いた。
「今夜は、特別なものを用意してきた」
蓋を開けると、細長いガラスの小瓶が二十本ほど並んでいた。中身は、目に痛いほど鮮やかな黄緑色の液体だ。瓶を傾けると、細かい泡がしゅわしゅわと立ちのぼっていく。
「……何、これ」
「記憶増強薬。トランクの工房で作った。飲んでから三時間、読んだものが頭に残りやすくなる」
「記憶増強薬って、六年生で習うやつじゃ……」
「味は保証する」
ロンが、おそるおそる一本を手に取った。栓を抜くと、ぷしゅっと音がして、甘酸っぱい匂いが広がる。
一口飲んで、ロンの目が丸くなった。
「……うまい。なんだこれ、しゅわしゅわする!」
「ちょっと見せて」
ディーンが瓶を取り上げて、明かりにかざした。
「これ、マグルの店で売ってる、眠気覚ましの炭酸飲料にそっくりだ。色も味も。僕の兄ちゃんが試験前に箱で買ってたやつ」
「へえ、そうなの? 偶然だね」
サミュエルは、何でもないように笑った。
テーブルの端で、ハーマイオニーが一本の瓶をじっと見つめていた。彼女は何か言いかけて、結局、黙って栓を抜いた。
「ひっく」
ロンが、しゃっくりをした。口から、黄緑色のシャボン玉が一つ、ふわりと浮かんだ。
「あ、副作用で、しばらくしゃっくりが泡になる」
「先に言えよ! ひっく」
談話室が、どっと笑い声に包まれた。泡は天井まで昇っていって、ぱちんと弾けた。
記憶増強薬の噂は、次の日には寮中に広まっていた。三日後には、ハッフルパフとレイブンクローの生徒までが、こっそり「あの黄緑の瓶」を分けてもらいに来るようになった。
ある晩、見回りに来たパーシーが、テーブルの上の木箱に目を留めた。
「ヴェスゲレート。それは何だ。まさか、校則で禁止されている薬じゃないだろうな」
「ただの記憶増強薬だよ。材料は全部、授業で使うものだけ」
サミュエルは、木箱から一本取り出して差し出した。
「監督生の分も取ってあるよ。パーシー、今年はO・W・Lだろう?」
パーシーは眼鏡を押し上げ、しばらく瓶を見つめていた。
「……没収だ。念のため、私が成分を確かめておく」
パーシーは瓶をローブのポケットに入れ、咳払いをして寝室へ戻っていった。
次の朝、パーシーのしゃっくりが黄緑色の泡になっているのを、何人もが目撃した。
「サミュエルに聞けば、だいたい分かる」
「教え方が、先生よりうまい」
「あの薬、試験の日にも出してくれないかな」
三月の減点騒ぎで談話室に漂っていた重たい空気は、もうどこにも残っていなかった。
*
五月も半ばを過ぎた、ある夕方のことだった。
サミュエルが談話室の窓際の席で羊皮紙を広げていると、視界の端を、栗色の髪が二度通り過ぎた。
一度目は、暖炉のほうへ。二度目は、肖像画の穴のほうへ。どちらも、途中で足が少しだけ遅くなった。
三度目に、テーブルの向こうに誰かが立った。
ハーマイオニーだった。
腕に、魔法薬学の教科書と、ノートの束を抱えている。いつもならまっすぐ図書室へ向かう時間だ。
「……何?」
「別に。ちょっと、その……」
彼女らしくなかった。いつもなら、言いたいことは三倍の速さで言い終えている。
ハーマイオニーは、ノートの束をぎゅっと抱え直した。
「魔法薬学のことなんだけど」
「うん」
「スネイプ先生は、私が何を答えても、点をくれないでしょう。だから……自分のやり方が合ってるのか、分からないの。教科書どおりにやってるつもりなんだけど、教科書に書いてないことのほうが、多い気がして」
サミュエルは、羽根ペンを置いた。
「……その、私にも教えてもらえる?」
最後の一言は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。
サミュエルは、一瞬だけ目を見開いた。
入学してから八か月以上。彼女のほうから何かを頼まれたのは、これが初めてだった。
「いいよ」
それから、いつもの調子で付け加えた。
「ただし、授業料は高いよ。年号の清書、まだ一回分残ってるからね」
「あれは、引き分けだったでしょう!」
「僕のほうが、羽根を回すのが二秒早かった」
「二秒なんて、誤差よ」
言い返しながら、ハーマイオニーの肩から、少しだけ力が抜けたのが分かった。
「図書室でいい? ここだと、みんなに見られるから」
「見られたら困るの?」
「……困らないけど。集中できないもの」
*
閉館前の図書室には、ほかに誰もいなかった。
マダム・ピンスは、カウンターの奥で目録の整理をしている。書架の間を、ろうそくの灯りがぼんやりと照らしていた。窓の外は、もうすっかり暗い。
二人は、窓際の長いテーブルに並んで座っていた。テーブルの上には、ハーマイオニーが持ってきた本が五冊と、サミュエルの持ってきた羊皮紙が一枚。荷物の量だけ見れば、どちらが教わる側なのか分からなかった。
いつもとは、逆だった。いつもなら、サミュエルが書架の陰から彼女を見かけて、通りすがりに一言からかっていく。今夜は、彼女の頼みで、ここにいる。
「――だから、この工程は教科書だと『時計回りに七回』になってるけど、本当は鍋の大きさで変わる。大事なのは回数じゃなくて、色が変わる瞬間を見逃さないこと」
「色が変わる瞬間……」
ハーマイオニーの羽根ペンが、さらさらと走る。
「蛇の牙は、すり潰す前に一晩、月明かりに当てておく。そうすると、粉が固まらない。これは本には載ってない」
「どうして、そんなことを知ってるの?」
「失敗したから。三回くらい」
「……あの黄緑の薬も、失敗したの?」
「あれは一回で成功した」
「本当に、マグルの飲み物にそっくりだったわ。色も、泡も、味も。……偶然?」
ハーマイオニーが、じっとこちらを見ている。
「偶然だよ」
「ふうん」
それ以上、彼女は何も聞かなかった。ただ、ノートの隅に小さく何か書きつけた。
「あなたでも失敗するのね」
「未来が見えても、鍋の中身が三十分後にどうなるかまでは見えないからね」
「……そういえば、その目で、試験の問題も分かるの?」
「数秒先だけだよ。問題用紙が配られてから、裏返すまでの間くらい」
「それ、ずるじゃない」
「見ないよ」
「どうして?」
「見なくても、解けるから」
「……本当に、嫌みな人」
ハーマイオニーは呆れたように言って、また羽根ペンを走らせ始めた。
「……失敗はするよ。しないと、分からないことのほうが多いから」
ハーマイオニーは、ペンを止めて、サミュエルの横顔を見た。
「……列車で言ってたわよね。本に書いてないことのほうが多いって」
「言ったね」
「それ、こういうこと?」
「……かもしれない」
「でも、私は、やっぱり血は関係ないと思うわ」
ハーマイオニーは、羽根ペンを置いた。
「図書室で、古代ルーンの本を読んだの。昔の誰かが、ちゃんと書き残してくれてる。今に残ってるのは、本になった知識でしょう。なら、読めば誰でも辿り着けるはずよ」
「半分は、君が正しい」
するりと、言葉が出た。
「……半分?」
「今残っている古代ルーンの知識は、ほとんどが本の形で残ってる。そこは君の言うとおりだ。血は要らない。読んで、練習すれば、誰でも辿り着ける」
窓の外の暗い湖に目を向けたまま、続けた。
「でも、血で受け継がれるものは、本当にあるんだ。家の中でしか伝わらない術がある。……知識だけじゃない。財産も、名誉も、人が自分を見る目も。全部、生まれる前に、血で決まってる」
言ってから、はっとした。
父の食卓で覚えた言い回しではなかった。自分の言葉だった。誰にも話したことのない言葉だった。
「……だから」
もう、止まらなかった。
「僕は、君の勤勉なところを、尊敬してる」
ハーマイオニーの手が、止まった。
羽根ペンの先が、羊皮紙に触れたまま、動かなくなった。書きかけの一文字の上で。
「君は、ゼロから積み上げた。家にも、血にも、誰にも頼らずに、ここまで来た。僕が持ってるものの半分は、もらったものだ。君のは、全部、君が自分で積んだものだ」
図書室が、しんと静まり返った。
ランプの炎が、かすかに揺れた。書架の奥で、誰かが本を閉じる音がした。それきり、何の音もしなかった。
「……それ、本気で言ってる?」
ハーマイオニーは、顔を上げなかった。羊皮紙を見つめたまま、小さな声で聞いた。
「本音だよ。……言うつもりは、なかったけど」
ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。頬が、ほんのり赤い。
「……そういうこと、急に言わないで」
「どうして?」
「字が、歪んじゃうじゃない」
止まったままだったペン先の下で、インクが、小さく滲んで広がっていた。書きかけの一文字を、黒く呑みこむように。彼女はそれを、慌てて袖で隠した。
サミュエルは、見なかったふりをした。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
羽根ペンの音。ページをめくる音。遠くで、時計塔の鐘が一つだけ鳴った。
ハーマイオニーの羽根ペンが、かすれた音を立てた。インクが切れたらしい。彼女がインク壺を探して鞄をかき回している間に、サミュエルは自分の壺を、黙って彼女のほうへ滑らせた。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
ハーマイオニーが、ノートの端に何か書きこんでいる。サミュエルはそれをのぞきこまなかった。代わりに、窓の外の暗い湖に目をやった。
隣の椅子に誰かが座っていて、何も話さなくても居心地が悪くない。そういう時間が自分にもあるなんて、彼は思いもしなかった。
「ねえ」
「うん」
「さっきの、月明かりの話。ノートに書いてもいい? あなたの名前、つけて」
「名前は、いらないよ」
「どうして」
「僕の名前がついてたら、スネイプ先生が点をくれなくなる」
ハーマイオニーが、小さく吹き出した。慌てて口を押さえて、カウンターのほうをうかがう。マダム・ピンスは、まだ目録に夢中だった。
「――閉館ですよ」
しばらくして、マダム・ピンスの乾いた声が響いた。
二人は本を閉じて、立ち上がった。廊下の松明の灯りの中を、並んで歩く。肖像画たちは、もうほとんどが額縁の中で眠っていた。
歩きながら、サミュエルは、さっき自分が口にした言葉を反芻していた。
尊敬している、と言った。嘘ではない。けれど、それだけでもなかった。
――羨ましかったのだ。
彼女は、何にも縛られていない。家も、血も、期待も、誰かの顔色も。ただ知りたいから学ぶ。そこにあるのは、魔術そのものへの、純粋な興味だけだ。自分がいつの間にか手放してしまったものを、彼女は当たり前のように持っている。
けれど、この世界で生きていくなら、彼女もいずれ変わっていくのかもしれない。家柄。派閥。立場。噂。しがらみは、魔法界で長く生きるほど、足首に絡みついてくる。
太った婦人の肖像画の前で、ハーマイオニーが足を止めた。
「……明日も、同じ時間でいい?」
サミュエルは、少しだけ間を置いた。
「いいよ」
ハーマイオニーは、何も言わずにうなずいた。
ぽつりと、言葉がこぼれた。
「……僕らのほうが、穢れてるのかもな」
「え? どういうこと?」
ハーマイオニーが、ぱっと顔を上げた。
「忘れて」
それだけ言って、サミュエルは合言葉を告げ、肖像画の穴をくぐった。
談話室の暖炉の灯りが、背後で揺れた。ハーマイオニーが穴の前でしばらく立ち尽くしていたことを、彼は振り返らなかったから知らない。
暖炉の前では、ハリーとロンが額を寄せ合って、何かひそひそと話していた。ハグリッド、という名前が聞こえた気がした。サミュエルが通りかかると、二人はぱっと口をつぐんだ。
「宿題の話だよ」
「そう。おやすみ」
サミュエルは、それ以上聞かずに、男子寮の階段を上っていった。
六月の試験まで、あと三週間だった。