ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者   作:スウィフト

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十一話∶半分正解

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 五月のホグワーツは、試験の匂いがした。

 

 インクと、羊皮紙と、夜更かしの匂い。大広間の朝食の席でさえ、半分の生徒が教科書を開いたままトーストをかじっている。窓の外はもう初夏の陽射しで、湖ではイカがのんびりと日向ぼっこをしているのに、校庭に出ていく生徒はほとんどいなかった。

 

 ハーマイオニーは、色分けした予定表を三枚に増やしていた。ハリーは、ときどき額の傷を指で押さえている。

 

「最近、ずっと痛むんだ。ちくちくする感じで」

 

「試験の前は、みんなどこかしら痛くなるものさ。僕は胃が痛い」

 

「サミュエルが? 嘘だろ」

 

「嘘だよ」

 

 ハリーは苦笑いして、また教科書に目を落とした。

 

「消灯時間を過ぎて談話室に残っている者は、減点だぞ。監督生として、言わせてもらうが――」

 

 パーシーが、毎晩九時になると談話室を見回りに来た。そのたびに、暖炉の前のテーブルから、何人かがこそこそと寝室へ引き上げていく。

 

「無理だ。絶対無理。こんなの、一晩で覚えられるわけない」

 

 ロンは、魔法史の教科書に額をつけて呻いていた。

 

「一晩で覚えようとするからだよ。まだ一か月もあるのに」

 

「ハーマイオニーみたいなこと言うなよ……」

 

 ネビルは、変身術の教科書を抱えたまま、青白い顔で暖炉の前を行ったり来たりしている。

 

「ど、どうしよう。マッチ棒を針に変えるやつ、まだ一回も成功してないんだ」

 

「ネビル、ちょっとこっちに来て」

 

 サミュエルは、自分の隣の椅子を引いた。

 

「マッチ棒の変身は、先っぽから変えようとすると失敗する。真ん中から、こう――芯を一本、通すみたいに想像するんだ」

 

「芯を……一本……」

 

 ネビルが杖を振ると、マッチ棒の真ん中が、きらりと銀色に光った。

 

「あっ!」

 

「ほら、半分できた。あとは両端だけ」

 

 ネビルの顔が、ぱっと明るくなった。

 

 十分後、ネビルのマッチ棒は、とうとう一本の銀の針になった。ネビルはそれを宝物みたいに握りしめて、半べそで笑った。

 

「で、できた……! ばあちゃんに手紙で知らせなきゃ」

 

 それを見ていた何人かが、羊皮紙を持ってそろそろと近づいてきた。

 

「サミュエル、この呪文の発音なんだけど……」

 

「僕も、薬草学のここが……」

 

 いつの間にか、暖炉の前のテーブルは、小さな教室になっていた。

 

*

 

 その夜、サミュエルはトランクの工房にこもって、大鍋を火にかけた。

 

 棚の一番奥、魔法薬の小瓶の陰に、銀色の細長い缶が一本だけ隠してある。マグルの店で売っている、眠気覚ましの炭酸飲料の空き缶だ。屋敷の隠し部屋から、一本だけ持ってきた。

 

 鍋の中の薬は、教科書どおりに作れば、泥のような茶色で、ひどく苦い。

 

 サミュエルは缶の裏の成分表を眺めながら、柑橘の皮と、蜂蜜と、ほんの少しの噛みつきキャベツの汁を加えた。最後に、泡立ち呪文を一つ。

 

 鍋の中身が、鮮やかな黄緑色に変わって、しゅわしゅわと泡を立て始めた。

 

 味見をして、うなずく。缶は、また棚の奥にしまった。

 

*

 

 談話室の勉強会が始まって、三日目の夜。サミュエルは、テーブルの上に木箱を一つ置いた。

 

「今夜は、特別なものを用意してきた」

 

 蓋を開けると、細長いガラスの小瓶が二十本ほど並んでいた。中身は、目に痛いほど鮮やかな黄緑色の液体だ。瓶を傾けると、細かい泡がしゅわしゅわと立ちのぼっていく。

 

「……何、これ」

 

「記憶増強薬。トランクの工房で作った。飲んでから三時間、読んだものが頭に残りやすくなる」

 

「記憶増強薬って、六年生で習うやつじゃ……」

 

「味は保証する」

 

 ロンが、おそるおそる一本を手に取った。栓を抜くと、ぷしゅっと音がして、甘酸っぱい匂いが広がる。

 

 一口飲んで、ロンの目が丸くなった。

 

「……うまい。なんだこれ、しゅわしゅわする!」

 

「ちょっと見せて」

 

 ディーンが瓶を取り上げて、明かりにかざした。

 

「これ、マグルの店で売ってる、眠気覚ましの炭酸飲料にそっくりだ。色も味も。僕の兄ちゃんが試験前に箱で買ってたやつ」

 

「へえ、そうなの? 偶然だね」

 

 サミュエルは、何でもないように笑った。

 

 テーブルの端で、ハーマイオニーが一本の瓶をじっと見つめていた。彼女は何か言いかけて、結局、黙って栓を抜いた。

 

「ひっく」

 

 ロンが、しゃっくりをした。口から、黄緑色のシャボン玉が一つ、ふわりと浮かんだ。

 

「あ、副作用で、しばらくしゃっくりが泡になる」

 

「先に言えよ! ひっく」

 

 談話室が、どっと笑い声に包まれた。泡は天井まで昇っていって、ぱちんと弾けた。

 

 記憶増強薬の噂は、次の日には寮中に広まっていた。三日後には、ハッフルパフとレイブンクローの生徒までが、こっそり「あの黄緑の瓶」を分けてもらいに来るようになった。

 

 ある晩、見回りに来たパーシーが、テーブルの上の木箱に目を留めた。

 

「ヴェスゲレート。それは何だ。まさか、校則で禁止されている薬じゃないだろうな」

 

「ただの記憶増強薬だよ。材料は全部、授業で使うものだけ」

 

 サミュエルは、木箱から一本取り出して差し出した。

 

「監督生の分も取ってあるよ。パーシー、今年はO・W・Lだろう?」

 

 パーシーは眼鏡を押し上げ、しばらく瓶を見つめていた。

 

「……没収だ。念のため、私が成分を確かめておく」

 

 パーシーは瓶をローブのポケットに入れ、咳払いをして寝室へ戻っていった。

 

 次の朝、パーシーのしゃっくりが黄緑色の泡になっているのを、何人もが目撃した。

 

「サミュエルに聞けば、だいたい分かる」

 

「教え方が、先生よりうまい」

 

「あの薬、試験の日にも出してくれないかな」

 

 三月の減点騒ぎで談話室に漂っていた重たい空気は、もうどこにも残っていなかった。

 

*

 

 五月も半ばを過ぎた、ある夕方のことだった。

 

 サミュエルが談話室の窓際の席で羊皮紙を広げていると、視界の端を、栗色の髪が二度通り過ぎた。

 

 一度目は、暖炉のほうへ。二度目は、肖像画の穴のほうへ。どちらも、途中で足が少しだけ遅くなった。

 

 三度目に、テーブルの向こうに誰かが立った。

 

 ハーマイオニーだった。

 

 腕に、魔法薬学の教科書と、ノートの束を抱えている。いつもならまっすぐ図書室へ向かう時間だ。

 

「……何?」

 

「別に。ちょっと、その……」

 

 彼女らしくなかった。いつもなら、言いたいことは三倍の速さで言い終えている。

 

 ハーマイオニーは、ノートの束をぎゅっと抱え直した。

 

「魔法薬学のことなんだけど」

 

「うん」

 

「スネイプ先生は、私が何を答えても、点をくれないでしょう。だから……自分のやり方が合ってるのか、分からないの。教科書どおりにやってるつもりなんだけど、教科書に書いてないことのほうが、多い気がして」

 

 サミュエルは、羽根ペンを置いた。

 

「……その、私にも教えてもらえる?」

 

 最後の一言は、ほとんど聞き取れないくらい小さかった。

 

 サミュエルは、一瞬だけ目を見開いた。

 

 入学してから八か月以上。彼女のほうから何かを頼まれたのは、これが初めてだった。

 

「いいよ」

 

 それから、いつもの調子で付け加えた。

 

「ただし、授業料は高いよ。年号の清書、まだ一回分残ってるからね」

 

「あれは、引き分けだったでしょう!」

 

「僕のほうが、羽根を回すのが二秒早かった」

 

「二秒なんて、誤差よ」

 

 言い返しながら、ハーマイオニーの肩から、少しだけ力が抜けたのが分かった。

 

「図書室でいい? ここだと、みんなに見られるから」

 

「見られたら困るの?」

 

「……困らないけど。集中できないもの」

 

*

 

 閉館前の図書室には、ほかに誰もいなかった。

 

 マダム・ピンスは、カウンターの奥で目録の整理をしている。書架の間を、ろうそくの灯りがぼんやりと照らしていた。窓の外は、もうすっかり暗い。

 

 二人は、窓際の長いテーブルに並んで座っていた。テーブルの上には、ハーマイオニーが持ってきた本が五冊と、サミュエルの持ってきた羊皮紙が一枚。荷物の量だけ見れば、どちらが教わる側なのか分からなかった。

 

 いつもとは、逆だった。いつもなら、サミュエルが書架の陰から彼女を見かけて、通りすがりに一言からかっていく。今夜は、彼女の頼みで、ここにいる。

 

「――だから、この工程は教科書だと『時計回りに七回』になってるけど、本当は鍋の大きさで変わる。大事なのは回数じゃなくて、色が変わる瞬間を見逃さないこと」

 

「色が変わる瞬間……」

 

 ハーマイオニーの羽根ペンが、さらさらと走る。

 

「蛇の牙は、すり潰す前に一晩、月明かりに当てておく。そうすると、粉が固まらない。これは本には載ってない」

 

「どうして、そんなことを知ってるの?」

 

「失敗したから。三回くらい」

 

「……あの黄緑の薬も、失敗したの?」

 

「あれは一回で成功した」

 

「本当に、マグルの飲み物にそっくりだったわ。色も、泡も、味も。……偶然?」

 

 ハーマイオニーが、じっとこちらを見ている。

 

「偶然だよ」

 

「ふうん」

 

 それ以上、彼女は何も聞かなかった。ただ、ノートの隅に小さく何か書きつけた。

 

「あなたでも失敗するのね」

 

「未来が見えても、鍋の中身が三十分後にどうなるかまでは見えないからね」

 

「……そういえば、その目で、試験の問題も分かるの?」

 

「数秒先だけだよ。問題用紙が配られてから、裏返すまでの間くらい」

 

「それ、ずるじゃない」

 

「見ないよ」

 

「どうして?」

 

「見なくても、解けるから」

 

「……本当に、嫌みな人」

 

 ハーマイオニーは呆れたように言って、また羽根ペンを走らせ始めた。

 

「……失敗はするよ。しないと、分からないことのほうが多いから」

 

 ハーマイオニーは、ペンを止めて、サミュエルの横顔を見た。

 

「……列車で言ってたわよね。本に書いてないことのほうが多いって」

 

「言ったね」

 

「それ、こういうこと?」

 

「……かもしれない」

 

「でも、私は、やっぱり血は関係ないと思うわ」

 

 ハーマイオニーは、羽根ペンを置いた。

 

「図書室で、古代ルーンの本を読んだの。昔の誰かが、ちゃんと書き残してくれてる。今に残ってるのは、本になった知識でしょう。なら、読めば誰でも辿り着けるはずよ」

 

「半分は、君が正しい」

 

 するりと、言葉が出た。

 

「……半分?」

 

「今残っている古代ルーンの知識は、ほとんどが本の形で残ってる。そこは君の言うとおりだ。血は要らない。読んで、練習すれば、誰でも辿り着ける」

 

 窓の外の暗い湖に目を向けたまま、続けた。

 

「でも、血で受け継がれるものは、本当にあるんだ。家の中でしか伝わらない術がある。……知識だけじゃない。財産も、名誉も、人が自分を見る目も。全部、生まれる前に、血で決まってる」

 

 言ってから、はっとした。

 

 父の食卓で覚えた言い回しではなかった。自分の言葉だった。誰にも話したことのない言葉だった。

 

「……だから」

 

 もう、止まらなかった。

 

「僕は、君の勤勉なところを、尊敬してる」

 

 ハーマイオニーの手が、止まった。

 

 羽根ペンの先が、羊皮紙に触れたまま、動かなくなった。書きかけの一文字の上で。

 

「君は、ゼロから積み上げた。家にも、血にも、誰にも頼らずに、ここまで来た。僕が持ってるものの半分は、もらったものだ。君のは、全部、君が自分で積んだものだ」

 

 図書室が、しんと静まり返った。

 

 ランプの炎が、かすかに揺れた。書架の奥で、誰かが本を閉じる音がした。それきり、何の音もしなかった。

 

「……それ、本気で言ってる?」

 

 ハーマイオニーは、顔を上げなかった。羊皮紙を見つめたまま、小さな声で聞いた。

 

「本音だよ。……言うつもりは、なかったけど」

 

 ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。頬が、ほんのり赤い。

 

「……そういうこと、急に言わないで」

 

「どうして?」

 

「字が、歪んじゃうじゃない」

 

 止まったままだったペン先の下で、インクが、小さく滲んで広がっていた。書きかけの一文字を、黒く呑みこむように。彼女はそれを、慌てて袖で隠した。

 

 サミュエルは、見なかったふりをした。

 

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

 

 羽根ペンの音。ページをめくる音。遠くで、時計塔の鐘が一つだけ鳴った。

 

 ハーマイオニーの羽根ペンが、かすれた音を立てた。インクが切れたらしい。彼女がインク壺を探して鞄をかき回している間に、サミュエルは自分の壺を、黙って彼女のほうへ滑らせた。

 

「……ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 ハーマイオニーが、ノートの端に何か書きこんでいる。サミュエルはそれをのぞきこまなかった。代わりに、窓の外の暗い湖に目をやった。

 

 隣の椅子に誰かが座っていて、何も話さなくても居心地が悪くない。そういう時間が自分にもあるなんて、彼は思いもしなかった。

 

「ねえ」

 

「うん」

 

「さっきの、月明かりの話。ノートに書いてもいい? あなたの名前、つけて」

 

「名前は、いらないよ」

 

「どうして」

 

「僕の名前がついてたら、スネイプ先生が点をくれなくなる」

 

 ハーマイオニーが、小さく吹き出した。慌てて口を押さえて、カウンターのほうをうかがう。マダム・ピンスは、まだ目録に夢中だった。

 

「――閉館ですよ」

 

 しばらくして、マダム・ピンスの乾いた声が響いた。

 

 二人は本を閉じて、立ち上がった。廊下の松明の灯りの中を、並んで歩く。肖像画たちは、もうほとんどが額縁の中で眠っていた。

 

 歩きながら、サミュエルは、さっき自分が口にした言葉を反芻していた。

 

 尊敬している、と言った。嘘ではない。けれど、それだけでもなかった。

 

 ――羨ましかったのだ。

 

 彼女は、何にも縛られていない。家も、血も、期待も、誰かの顔色も。ただ知りたいから学ぶ。そこにあるのは、魔術そのものへの、純粋な興味だけだ。自分がいつの間にか手放してしまったものを、彼女は当たり前のように持っている。

 

 けれど、この世界で生きていくなら、彼女もいずれ変わっていくのかもしれない。家柄。派閥。立場。噂。しがらみは、魔法界で長く生きるほど、足首に絡みついてくる。

 

 太った婦人の肖像画の前で、ハーマイオニーが足を止めた。

 

「……明日も、同じ時間でいい?」

 

 サミュエルは、少しだけ間を置いた。

 

「いいよ」

 

 ハーマイオニーは、何も言わずにうなずいた。

 

 ぽつりと、言葉がこぼれた。

 

「……僕らのほうが、穢れてるのかもな」

 

「え? どういうこと?」

 

 ハーマイオニーが、ぱっと顔を上げた。

 

「忘れて」

 

 それだけ言って、サミュエルは合言葉を告げ、肖像画の穴をくぐった。

 

 談話室の暖炉の灯りが、背後で揺れた。ハーマイオニーが穴の前でしばらく立ち尽くしていたことを、彼は振り返らなかったから知らない。

 

 暖炉の前では、ハリーとロンが額を寄せ合って、何かひそひそと話していた。ハグリッド、という名前が聞こえた気がした。サミュエルが通りかかると、二人はぱっと口をつぐんだ。

 

「宿題の話だよ」

 

「そう。おやすみ」

 

 サミュエルは、それ以上聞かずに、男子寮の階段を上っていった。

 

 六月の試験まで、あと三週間だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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