最後の試験が終わったのは、六月の焼けつくような午後だった。
魔法史の答案用紙が回収されると、大広間の外で待っていた生徒たちから、いっせいに歓声が上がった。
「終わった……終わったぞ!」
ロンが両手を突き上げて、校庭へ駆け出していく。
一週間の試験は、どれも暑さとの戦いだった。妖精の呪文の実技では、パイナップルを机の端から端までタップダンスさせた。変身術ではネズミを嗅ぎタバコ入れに変え、魔法薬学では忘れ薬を調合した。
サミュエルのパイナップルは、最後にくるりと一回転して、フリットウィック先生にお辞儀をした。先生は感激のあまり、試験官席の本の山から転げ落ちた。
試験のあいだじゅう、ハーマイオニーは休み時間のたびに教科書を開き、答え合わせをしては青くなっていた。
「ねえ、第三問の答え、『ドラゴンの血の十二の使い方』の七番目は何て書いた?」
「オーブンの汚れ落とし」
「……合ってる。よかった……いえ、待って、私、それを六番目に書いたかもしれない」
「順番は聞かれてないよ」
「聞かれてなくても、気になるの!」
湖のほとりの木陰には、もう何人もの生徒が寝転がっていた。フレッドとジョージが、浅瀬で日向ぼっこをしている大イカの足をくすぐっている。
「試験の問題、どうだった?」
「簡単だったよ」
「……君に聞いた僕がばかだった」
ロンが芝生の上に大の字になった。ハリーは、少し離れた木の根元に座って、額の傷をさすっていた。
「まだ痛むの?」
「うん。……ずっと、何かを忘れてる気がするんだ」
ハリーは落ち着かない様子で、城のほうを見上げていた。
*
その夜、談話室は試験明けの解放感でいっぱいだった。
誰かが爆発スナップのカードを広げ、誰かが蛙チョコレートのカードを交換している。夜が更けるにつれて、一人、また一人と寝室へ引き上げていった。
サミュエルが最後に談話室へ降りてきたのは、日付が変わる少し前だった。部屋に置き忘れた本を取りに来ただけだった。
暖炉の前の床に、誰かが倒れていた。
ネビルだった。両腕を体の脇にぴたりとつけ、両脚をそろえて、板のように硬直している。目だけが、恐怖で大きく見開かれていた。
「全身金縛り……」
サミュエルは膝をつき、杖を振った。
「フィニート」
ネビルの体から、ふっと力が抜けた。ネビルは大きく息を吸いこみ、咳きこんだ。
「サ、サミュエル……! ハリーが……ハリーたちが……」
「落ち着いて。何があったの」
「出ていったんだ。三人で。止めようとしたんだ、僕。また点を減らされるって。そしたら、ハーマイオニーが……ごめんって言って、呪いを……」
ネビルの声が震えている。
「どこへ行ったか、分かる?」
「わ、分からない。でも、何か、すごく大変なことだって……ハリーが、『僕が行かなきゃ』って……」
サミュエルは、肖像画の穴を振り返った。
右目の奥で、景色はずれない。数秒先の未来には、閉じた肖像画の穴が映っているだけだった。
――追いかけるべきだろうか。
ほんの一瞬だけ、そう思った。どこへ行ったのかも分からない三人を、一人で。
「ネビル、ここにいて」
サミュエルは男子寮の階段を駆け上がり、監督生の部屋の扉を叩いた。
「パーシー、起きて。ハリーとロンとハーマイオニーが、寮を抜け出した」
「……なんだって?」
寝ぼけ眼のパーシーが、眼鏡を探して手探りした。
それから先は、慌ただしかった。
パーシーがマクゴナガル先生のもとへ走り、ほかの監督生たちが寮の中を見回る。物音を聞きつけた生徒たちが、次々と寝室から顔を出した。
「何があったの?」
「ポッターがいないって」
「また? また減点されるの?」
階段の途中で、一年生や二年生の小さな子たちが、寝間着のまま身を寄せ合っていた。
サミュエルは、その真ん中に腰を下ろした。
「大丈夫。先生たちが探しに行った。僕たちは、ここで待っていればいい」
「でも、もし何かあったら……」
「ハリーだよ? トロールを倒したやつだ。それに、ハーマイオニーがついてる。あの子が一緒なら、少なくとも道に迷うことはない」
小さな子たちが、少しだけ笑った。
サミュエルは、暖炉に薪を一本足した。ネビルにはココアを持ってこさせ、怖がる二年生には、去年の今頃の失敗談を話して聞かせた。
夜明けまで、談話室の灯りは消えなかった。
窓の外が白み始めた頃、サミュエルはふと、窓ガラスに映る自分の顔を見た。
なぜか、胸の奥がざわついていた。
その理由を、彼は考えなかった。
*
朝になって、知らせが寮に飛びこんできた。
ハリーは医務室に運ばれた。ロンとハーマイオニーは、無事に戻ってきた。
何があったのかは、誰にも正確には分からなかった。分からないまま、噂だけが城じゅうを駆け巡った。
「クィレル先生が、いなくなったんだって」
「ダンブルドアが、何かを取り戻したらしいよ。すごく大事なものを」
「ポッターが、例のあの人と戦ったって聞いたぞ」
「まさか。一年生が?」
どれが本当で、どれが嘘なのか。サミュエルは、どの噂にもうなずきながら、どの噂も信じなかった。
談話室で、ロンが同じ話を何度もせがまれていた。チェスの話。巨大なチェス盤の上で、自分が駒になって戦ったという話。
「――それで、僕は自分を犠牲にしたんだ。ハリーを先に進ませるために」
ロンの顔は青白くて、額には大きなたんこぶができていた。それでも、目は輝いていた。
サミュエルは、いつものように笑って聞いていた。
「すごいな、ロン。それは、僕には真似できない」
本心から、そう言った。
それでも、胸の奥のどこかに、小さな棘のようなものが引っかかっていた。
昨夜、ネビルの金縛りを解いたあと、自分は監督生の部屋の扉を叩いた。正しいことをした。規則どおりに。
あの三人は、規則を破って、どこかへ行った。そして、何かを守って帰ってきた。
――その場所に、自分はいなかった。
今まで、そんなことを気にしたことは一度もなかったのに。
*
学期の最後の数日、サミュエルはどこへ行っても、誰かに呼び止められた。
グリフィンドールの二年生が、羊皮紙を抱えて廊下を追いかけてくる。
「ヴェスゲレート、変身術のレポート、結論のところだけ見てくれない?」
「僕、一年生だけど」
「分かってるよ。でも、君のほうが説明が分かりやすいんだ」
五年生の上級生までが、廊下の向こうから手を上げた。あの薬のレシピを、夏休みのあいだに教えてほしいのだという。フレッドとジョージは、「うちの寮の看板だ」と言って、通りがかりの人間の肩を片っ端から叩いて回っていた。
レイブンクローのテーブルの横を通ると、女子生徒たちのおしゃべりがぴたりと止まり、全員がいっせいに背筋を伸ばした。
「……あれ、何?」
隣を歩くロンが、小声で言った。
「何でもないよ」
「名簿まであるらしいぜ。『見守る会』だって。パチルの片割れが、書記なんだってさ」
ハッフルパフのテーブルでは、ハンナが小さく手を振ってくれた。こちらは、いつもどおりの穏やかな距離だった。
スリザリンのテーブルの前を通るときだけ、少し空気が変わる。けれど、グリフィンドールとのいがみ合いは、入学した頃よりずいぶん静かだった。
「おい、ヴェスゲレート!」
ドラコが、わざとらしく声を張り上げた。
「来年の夏、うちの別荘に来いよ。父上が、お前と話したがってる」
「喜んで」
それだけで、周りの寮生たちが口をつぐんだ。ドラコが認めている相手を、表立って悪く言える者はいない。
その後ろの席で、スリザリンの二年生が数人、すれ違いざまに、ほんの少しだけ会釈をした。家柄を気にして揉め事を避けたい連中だ。話の分かる相手が一人いるだけで、胸を撫で下ろしている。
テーブルの端では、小柄な一年生が一人、そっとこちらに会釈をした。マグル生まれだと、入学早々に噂が立った子だ。例年なら、真っ先に標的にされる。けれど今年は、足を引っかけられることも、教科書を隠されることもなかった。
二月ごろ、地下牢の廊下で、サミュエルがドラコに何気なく言ったことがある。
「君は、上に立つ人間だろう。下の連中を小突き回すのは、取り巻きのやることだ。混血でも、マグルの出でも、うまく手綱を握って使いこなしてこそ、本物の頭じゃないかな」
「……使いこなす、ね」
ドラコは、考えこむように顎を撫でた。それ以来、取り巻きの手綱を締めるようになったらしい。
誰とも揉めない。誰にも嫌われない。
それが、サミュエルがこの一年で作り上げた景色だった。
*
宴会の前日、サミュエルは医務室をのぞいた。
ハリーのベッドの脇の机は、お菓子の山で埋まっていた。城じゅうの生徒からのお見舞いだという。マダム・ポンフリーが、「五分だけですよ」と念を押して、奥へ引っこんだ。
「サミュエル」
ハリーは、まだ少し青い顔で体を起こした。
「ネビルのこと、ありがとう。ロンから聞いた。君が金縛りを解いて、パーシーを起こしたって」
「何もしてないよ。床に人が転がってたら、誰だって起こすだろ」
「でも、そのせいで、先生たちが早く動いてくれたんだって。ダンブルドアが言ってた」
サミュエルは、机の上の蛙チョコレートの箱を一つ手に取って、包みを開けた。
「なら、これはその報酬にもらっておく」
「どうぞ。百個くらいあるから」
ハリーが笑った。いつもの笑い方だった。
何があったのかは、聞かなかった。ハリーも、言わなかった。
*
学年末の宴会の夜、大広間はスリザリンの色に染まっていた。
七年連続の寮杯を祝う緑と銀の垂れ幕が、壁一面にかかっている。上座のテーブルの後ろには、スリザリンの蛇を描いた巨大な旗。スリザリンのテーブルでは、ドラコがゴブレットでテーブルを叩いていた。
ハリーが、大広間に入ってきた。
一瞬、大広間がしんと静まり返り、それからいっせいにざわめいた。誰もが立ち上がって、ハリーを見ようとしている。
ダンブルドアが、上座で立ち上がった。
「また一年が過ぎた。それでは、寮対抗杯の表彰を行うとしよう。四位、グリフィンドール、三百十二点――」
スリザリンのテーブルから、どっと歓声が上がった。
「しかし、つい最近の出来事も、勘定に入れねばなるまいて」
大広間が、しんと静まった。
「まず、ロナルド・ウィーズリー。ここ何年かのホグワーツで見ることのできなかった、最高のチェス・ゲームを見せてくれたことに、グリフィンドールに五十点を与える」
グリフィンドールのテーブルが、天井を揺るがすほど沸いた。
「次に、ハーマイオニー・グレンジャー。火に囲まれながら、冷静な論理を用いて対処したことを称え、五十点」
ハーマイオニーが、両腕に顔をうずめた。肩が震えている。サミュエルは、その背中を少し離れた席から見ていた。
「三番目は、ハリー・ポッター。その完璧な精神力と、並外れた勇気を称え、六十点」
歓声が、耳をつんざくほどになった。スリザリンと、同点。
「勇気にも、いろいろある。敵に立ち向かうのには大いなる勇気がいる。しかし、味方の友人に立ち向かうのにも、同じくらい勇気が必要じゃ」
ダンブルドアは、ほほえんだ。
「そこで、ネビル・ロングボトムに、十点を与えたい」
大広間が、爆発した。
グリフィンドールのテーブルの生徒が、全員立ち上がって叫んでいた。ネビルは、あまりの驚きに真っ青になって、もみくちゃにされている。
ダンブルドアが手を叩くと、緑の垂れ幕が真紅に、銀の旗が金色に変わった。スリザリンの大蛇が消え、グリフィンドールのライオンがそびえ立つ。
「サミュエル! 乾杯の音頭を!」
誰かが叫んだ。いくつもの手が、サミュエルの背中を押した。
サミュエルはベンチの上に立ち、かぼちゃジュースのゴブレットを高く掲げた。
「グリフィンドールに! それから――ネビルの十点に!」
「ネビルに!」
何百というゴブレットが、いっせいに掲げられた。
サミュエルは、心から笑っていた。
*
ホグワーツ特急の窓の外を、六月の緑が流れていく。
試験の結果は、宴会の翌日に発表されていた。学年首席は、サミュエル・ヴェスゲレート。二位は、ハーマイオニー・グレンジャー。差は、わずか四点だった。
コンパートメントには、二人しかいなかった。ハリーとロンは、フレッドとジョージを探しに行ったきり、戻ってこない。
ハーマイオニーは窓際の席で、膝の上に本を広げていた。けれど、目は窓の外に向けられていた。
顔色が、少しやつれて見えた。目の下に、薄い影がある。
何があったのか、サミュエルは聞かなかった。彼女も、話そうとはしなかった。
「……四点よ」
ハーマイオニーが、窓の外を見たまま言った。
「何が?」
「とぼけないで。首席と二位の差」
「ああ。惜しかったね」
「惜しかった、じゃないわ。魔法史の年号を一つ間違えたの。一つよ。たった一つ」
「その一つが大事なんだよ。ビンズ先生は、そういうところで減点するから」
ハーマイオニーが、ぱっと振り向いた。
「それ、私がハリーに言った台詞じゃない」
「そうだっけ」
「……来年は、負けないから」
「楽しみにしてる」
ハーマイオニーは、ふん、と鼻を鳴らして、また窓の外に目をやった。
サミュエルは鞄から蛙チョコレートを一つ取り出して、向かいの席に放った。ハーマイオニーは、窓の外を見たまま、それを片手で受け止めた。
「……ハリーのお見舞いの残り?」
「報酬の一部」
「何の報酬?」
「さあね」
ハーマイオニーは怪訝そうな顔をしたが、黙って包みを開けた。蛙は、窓枠に飛び移る前に彼女の手の中で捕まった。カードは、ダンブルドアだった。
車輪の音が、規則正しく響いている。
しばらく、二人とも黙っていた。
ふと、サミュエルが顔を上げたとき、ハーマイオニーもこちらを見ていた。
目が合った。
一秒か、二秒か。どちらも、何も言わなかった。
先に目をそらしたのが、どちらだったのか。サミュエルには、分からなかった。
ハーマイオニーは本のページをめくり、サミュエルは窓の外に目を向けた。
この一年で、ホグワーツの誰もが「サミュエル・ヴェスゲレート」を知るようになった。陽気で、頼りになって、何でもできて、誰にでも優しい。困ったときには、彼に聞けばいい。そういう人間として。
それは、彼が作り上げたとおりの姿だった。一つの綻びもなかった。
ただ一人、その姿に一度も騙されなかった相手がいる。
今も、向かいの席に座っている。
車窓の向こうで、遠くの丘が、夏の光に白く霞んでいた。