十三話∶古本と猫
ホグワーツから戻って三週間。バーク家の屋敷の庭では、生け垣沿いの薔薇が重たそうに咲き揃っていた。開け放った食堂の窓から、刈ったばかりの芝の匂いと、蜂の羽音が入ってくる。
七月の朝、その窓から、見慣れないふくろうが舞いこんできた。
灰色の大きなワシミミズクだった。脚に結ばれた封筒は分厚く、魔法省の紋章を押した紫色の封蝋が、朝日を受けてつやつやと光っている。
ミミズクは、新聞を広げたロビンソンの前ではなく、まっすぐサミュエルの皿の横に降り立った。
「……僕宛て?」
宛名には、確かに〈サミュエル・P・ヴェスゲレート殿〉とある。
封を切ると、羊皮紙が二枚と、銀色の小さな鍵が一本、テーブルの上に滑り出た。
〈国際魔法協力部および魔法省古文書局は、昨冬の三校合同強化合宿における貴殿の功績――古代ルーン文字の独学による解読、ならびに散逸した古代呪文の復元――を高く評価し、ここに、ブルームズベリー古文書館への閲覧許可を与えるものとする。〉
サミュエルは、その一文を二度読んだ。
独学による解読。そういうことになっている。誰かに習ったことがないのは、確かだった。けれど、学んだ覚えもなかった。古いルーンは、物心ついたときから、文字というより絵のように、意味ごと目に入ってきた。
「何だ」
ロビンソンが、新聞の縁から目をのぞかせた。
「古文書館の、閲覧許可証です」
「古文書館?」
「魔法省が管理している、古い魔術書の書庫です。普通は、成人の研究者しか入れないところで……」
父が、新聞を下ろした。
一枚目の羊皮紙を受け取り、目を走らせる。ぎょろりとした目が、文面の上をゆっくりと二往復した。
「十二歳でか」
「最年少だそうです。二枚目に、そう書いてありました」
「……そうか」
ロビンソンは羊皮紙を丁寧に畳み、自分の胸ポケットにしまった。
「ルシウスに見せる。それから、ノットとエイブリーにもだ。魔法省の古文書局が、バーク家の跡取りに鍵を渡した。この意味が分かる連中は、わざわざ説明しなくても分かる」
父は、羊皮紙の宛名をもう一度指でなぞった。
「紙には、ヴェスゲレートの名が書いてある。光の側にも、闇の側にも、同じ紙で見せられる。……使い勝手のいい名だ」
「はい」
父の口元が、ほんのわずかに上がっていた。息子を見て笑ったのではない。帳簿の数字が思ったより良かったときの顔だった。
サミュエルは、それでもよかった。
テーブルの下で、銀の鍵を握りしめる。手のひらに、鍵の歯がくっきりと食いこんだ。
朝食の残りを、何を食べたのか覚えていなかった。
「ぼ、坊ちゃま。お紅茶が、冷めてしまいます……」
ピッピーが、おそるおそるポットを持ち上げた。
「いい。このままで」
「は、はい……?」
ピッピーは不思議そうに首をかしげた。冷めた紅茶をそのまま飲む坊ちゃまを見るのは、初めてだったのかもしれない。
*
ブルームズベリーの裏通りに、間口の狭い古本屋がある。
看板の文字はすっかり剥げ落ち、ショーウィンドウには日に焼けた詩集が三冊、斜めに立てかけてあるだけだ。マグルの客が入っていくのを、サミュエルは一度も見たことがなかった。
店の奥のカウンターに、誰もいない。その後ろの壁に、小さな鍵穴が一つ。
銀の鍵を差しこんで回すと、壁の煉瓦が一枚ずつ音もなく引っこみ、その奥に、地下へ降りる石の螺旋階段が現れた。
階段は、思ったより長かった。
降りるにつれて、空気がひんやりと冷えていく。壁の松明が、近づくたびにひとりでに灯り、通り過ぎると消える。
最後の段を降りると、鉄の扉の前に、白髪の小柄な魔女が座っていた。分厚い眼鏡の奥から、じろりとこちらを見上げる。
「鍵を」
差し出すと、魔女は鍵を受け取って眼鏡に近づけ、それからサミュエルの顔を見た。もう一度、鍵を見る。
「……本当に子供じゃないの」
「十二歳です」
「通知は来てたけどね。何かの間違いだと思ってたよ」
魔女は、ため息とともに分厚い帳面を開いた。
「規則は三つ。一つ、書架の本はこの館から一冊も持ち出さないこと。二つ、赤い紐で封をされた本には、許可なく手を触れないこと。触れたら、指が一本ずつ石になる」
「三つ目は?」
「三つ、閉館の鐘が鳴ったら、どんなにいいところでも本を閉じること。去年、それを守らなかった研究者が、まだ第七書架で眠ってるよ」
冗談なのかどうか、魔女の顔からは分からなかった。
「分かりました」
鉄の扉が、重たい音を立てて開いた。
*
サミュエルは、扉の内側で立ち止まった。
天井が、見えなかった。
書架が、上へ上へと伸びている。何十段もの棚が、天井の暗がりに吸いこまれるように続き、その間を、梯子が何本も行き来していた。ところどころに浮かぶ蝋燭の灯りが、背表紙の金文字を一瞬ずつ照らしては、また暗がりに沈める。
埃と、古い羊皮紙と、乾いた革の匂い。
屋敷の書斎とも、ホグワーツの図書室とも違う匂いだった。何百年分の、誰かが考えたことの匂い。
一番手前の棚に近づいて、背表紙を指でなぞる。
読めない文字があった。アラム語の魔術書。見たこともない、渦を巻くような文字で書かれた巻物。それから、読める文字も。古い北の国のルーンは、辞書も引かないのに、意味が頭に流れこんでくる。千年前の錬金術師の手記。失われたとされていた、中世の変身術の理論書。
「……全部、本物だ」
声が、小さく漏れた。
誰も聞いていない。誰に見せるための顔も、作る必要がない。
サミュエルは梯子を一段飛ばしで駆け上がった。三段目の棚から一冊を抜き出し、その場で開く。古い羊皮紙が、ぱりぱりと乾いた音を立てた。
『魂と器――古代魔術における生命の座についての試論』
著者の名前は、かすれて読めなかった。
ページをめくる。図が描いてある。人の形をした輪郭の中に、いくつもの円と線が重なり、その一つ一つに細かい注釈がついている。変身術で、生き物を物に変えるとき、生き物の「何か」はどこへ行くのか。物を生き物に変えるとき、その「何か」はどこから来るのか。
家庭教師に一度だけ聞いて、「それは哲学の領分です」とはぐらかされた問いだった。
「――おい、坊や。そこで何をしている」
下から、不機嫌な声がした。
閲覧机の一つに、灰色の髭を伸ばした痩せた魔法使いが座っていた。机の上には、羊皮紙の山と、半分空になった紅茶のカップ。
「迷子なら、上の古本屋に戻りなさい。ここは子供の遊び場じゃない」
「閲覧許可証は持っています」
「……は?」
サミュエルは梯子を降りて、銀の鍵を見せた。魔法使いは目をむいた。
「どこの家の子だ」
「バークです」
「バーク……ああ、ノクターン横丁の。金で買った鍵か」
「いいえ。古代ルーンの論文の功績で、と書いてありました」
魔法使いは鼻で笑いかけて、サミュエルの手元の本に目を留めた。
「『魂と器』だと? その本は、十一世紀の北方ルーンで書かれている。読めるはずがない」
「読めます。習った覚えはないんですが、昔から」
サミュエルは、本の上に指を置いた。
「三章の図の注釈が、一か所だけ間違ってると思います。ここ、『器』のルーンが逆向きに書いてある。写本を作った人の写し間違いじゃないでしょうか」
魔法使いは黙って立ち上がり、本をのぞきこんだ。長いこと、そのページを見つめていた。
「……写し間違いだ」
低い声で、彼は言った。
「わしは、この写本を三年読んでいて、気づかなかった」
それから、何も言わずに自分の机に戻り、羊皮紙に猛然と何かを書きつけ始めた。
梯子の上で、サミュエルは読み続けた。
蝋燭が一本、また一本と短くなっていく。脚が痺れて、梯子から閲覧机に場所を移した。それでも、本は閉じなかった。
ごおん、と低い鐘の音が、書庫の底から響いてきた。
「閉館だよ!」
入口のほうから、魔女の声がした。
サミュエルは顔を上げた。机の上には、いつの間にか七冊の本が積まれていた。窓のない書庫で、時間の感覚はとうに消えていた。
「……もう、そんな時間ですか」
「六時間いたよ。昼も食べずにね。第七書架の研究者の仲間入りをしたいのかい?」
「いえ」
サミュエルは本を一冊ずつ、元の棚に戻した。最後の一冊を棚に差しこむ指が、名残惜しそうに背表紙の上で止まった。
鉄の扉の前で、魔女が鍵を返してくれた。
「……あんた、変わった子だね」
「よく言われます」
「普通の子供は、ここに来たら十分で飽きるもんだよ。それか、怖がって泣く」
「来週も、来ていいですか」
魔女は眼鏡の奥で目を細めた。
「鍵があるうちはね。好きにおし」
それから、カウンターの下から紙袋を一つ取り出して、サミュエルの手に押しつけた。
「ショートブレッドだよ。次からは、昼をちゃんと食べてから来な。あんたの腹の虫、第三書架まで聞こえてたからね」
*
古本屋を出ると、ロンドンの空はもう茜色に染まっていた。
漏れ鍋の暖炉まで歩く途中、裏通りの塀の上で、何か白くて丸いものが寝そべっているのが見えた。
サミュエルは足を止めた。
真っ白な、まるまると太った猫だった。夕日を浴びて、毛並みが薄紅色に光っている。猫は大きなあくびをして、片目だけを開けた。
「――オリエンス」
「ふむ。ようやく気づいたか、坊」
猫は、のっそりと塀の上で体を起こした。
オリエンス。母と中国で暮らしていた頃、なぜか懐かれた妖怪だった。猫の姿をしているが、猫ではない。人の言葉を話し、見た目よりずっと長く生きている。追い払っても勝手についてきて、気がつけば、サミュエルのペットということになっていた。名前は、サミュエルがつけた。
「この一年、一度も顔を見せなかったじゃないか」
「わしにも色々と用事があるのじゃ。昼寝とか、昼寝とか、昼寝とかな」
「全部昼寝だろ」
「うむ」
オリエンスは悪びれもせずに、塀からサミュエルの肩へ、どすんと飛び移った。重い。前に会ったときより、また少し太った気がする。
「それで。何やら、ずいぶんと鼻息が荒いようじゃが」
サミュエルは、歩きながら話し始めた。
古文書館のこと。天井の見えない書架のこと。読めない文字の巻物のこと。それから、あの一冊――『魂と器』のこと。変身術で生き物を物に変えるとき、その「何か」はどこへ行くのか。
「何百年も前に、同じことを考えてた人がいたんだ。答えはまだ書いてなかったけど、問いの立て方が、家庭教師の誰よりも正確だった。それに、図の描き方が――」
話しているうちに、早口になっていた。
オリエンスは、肩の上で黙って聞いていた。ときどき尻尾が、サミュエルの首筋をくすぐる。
「――で、来週も行っていいって。鍵があるうちは、好きにしろって」
「ほう」
「しかし、坊は昔から、古い本ばかり好むのう。新しい本のほうが、よほど整っておろうに」
「整ってるから、物足りないんだよ」
サミュエルは、歩きながら言った。
「知識って、時間をかけて磨かれるだろう。無駄だと思われたものは削られて、役に立つものだけが残る。今の本は、そうやってできてる。読みやすいし、間違いも少ない」
「ふむ」
「古い本は、その逆。無駄だらけなんだ。同じことが三回書いてあったり、関係のない話が混じってたり」
「それで、なぜ好む」
「たまに、削られたほうに宝が眠ってるから。無駄だって捨てられた記述の中に、誰も気づかなかったものが残ってる。……それを掘り当てるのが、好きなんだ」
オリエンスは、喉の奥でごろごろと笑った。
「坊がそんな顔をするのは、久しぶりに見たのう」
「そんな顔って?」
「さあて。鏡でも見てみるがよい」
サミュエルは、ショーウィンドウのガラスに映った自分の顔を見た。
口の端が、勝手に上がっていた。誰かに向けて作った笑い方ではなかった。
「それで、ホグワーツはどうじゃった」
「楽しかったよ。友だちもたくさんできた」
「ほう」
オリエンスの片目が、じろりとサミュエルの顔をのぞきこんだ。
「坊は、嘘をつくとき、少しだけ言葉が早くなる」
「嘘じゃないよ。本当に、たくさんできたんだ」
「数の話はしておらん」
サミュエルは、言い返す言葉を探して、口をつぐんだ。
「……同じ寮に、本ばっかり読んでる子がいる」
「ほう、ほう」
「何でも言い返してくる。こっちが何を言っても、まっすぐ正面から」
「それは、愉快じゃのう」
オリエンスは喉の奥で、ごろごろと笑った。それ以上は、何も聞かなかった。
「……『魂と器』の問いには、答えがあると思う?」
「あるとも。ただし、それを見つけるのは、わしではない」
「また、それか」
「答えを人から貰うと、坊はすぐに飽きるからのう。自分で掘り当てた答えしか、坊は大事にせん」
オリエンスは、ふあ、とまた大きなあくびをした。
漏れ鍋の看板が見えてきた。夕暮れの風が、通りの埃を巻き上げていく。
サミュエルは、ポケットの中の銀の鍵を、もう一度握った。
来週も。その次の週も。夏休みが終わるまで、毎週ここへ来よう。
書架の奥には、まだ読んでいない本が何万冊も眠っている。その中のどれか一冊が、いつか自分にしか解けない問いをくれる気がした。
その予感が、どれほど遠くまで彼を連れていくことになるのか。
十二歳の夏の彼は、まだ知らなかった。