八月の初め、その手紙は、ふくろうではなく紙の鶴が運んできた。
朝食のテーブルの上を、白い和紙の鶴が一羽、すうっと滑るように飛んでくる。サミュエルの皿の前に降り立つと、鶴は自分でぱたぱたと翼を開き、一枚の書状に戻った。
ロビンソンが、新聞の向こうで眉をひそめた。
「何だ、それは」
「式神です。日本の魔法使いが使う、紙の使い魔のようなもので」
サミュエルは、書状の折り目を指でなぞった。鶴の折り方が、自分の折るものとよく似ている。日本で暮らしていた頃、誰かに教わった折り方だった。
書状は、墨で書かれた縦書きの日本語と、その横に添えられた丁寧な英語の二本立てになっていた。
〈日本魔法省より、サミュエル・プロキオン・ヴェスゲレート殿へ。
御母堂アメリア・ヴェスゲレート殿より当省にてお預かりしている品につき、受け取りのため、ご来訪を願いたく〉
「母の、預け物だそうです」
その名前を口にした瞬間、ロビンソンのナイフが、皿の上でかちりと止まった。
「……あの女が、日本に何を預けていようと知ったことではない」
父は新聞を畳み、立ち上がった。
「行きたければ勝手に行け。費用は帳簿につけておけ。ただし、九月の新学期までには戻れ」
「はい、父上」
食堂の扉が閉まる音が、いつもより少しだけ大きく響いた。
その夜、荷造りをしていると、窓の外から、どすん、と重たい音がした。
窓枠の上に、白くて丸いものが乗っていた。
「日本へ行くそうじゃな」
「……どこで聞いたの」
「屋敷しもべが、厨房で大騒ぎしておった。坊ちゃまが、遠い東の国へ、と」
オリエンスは窓枠から床へ降りて、トランクの横の籐の籠に、勝手に収まった。
「わしも行く」
「どうして」
「里帰りじゃ。それに、坊一人では、あの国の役人の長話に耐えられまい」
「ぼ、坊ちゃま! ね、猫が、お部屋に……!」
扉の向こうで、着替えを運んできたピッピーが、悲鳴を上げた。
「いいんだ、ピッピー。僕の猫だ」
「ぼ、坊ちゃまの……?」
ピッピーは、籠の中で堂々と寝そべる太った白猫を、信じられないものを見る目で見つめていた。
*
魔法省の国際移動キーは、古びた番傘だった。
握った瞬間、へその裏を引っかけられる感覚がして、世界がぐるぐると回る。足が地面に着いたとき、むっとするような湿った熱気が、全身を包みこんだ。
蝉の声が、耳を埋め尽くしていた。
「……暑い」
「日本の夏じゃからのう」
肩に担いだ籐の籠の中から、オリエンスがのんびりと言った。白い毛がしっとりと汗ばんで、ふだんより一回り細く見える。
目の前には、朱塗りの鳥居が、山の斜面に沿って何十本も続いていた。その奥に、苔むした石段。京都の外れの、地図に載らない山だった。
石段を上りきったところで、袴姿の中年の魔法使いが待っていた。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました。日本魔法省、国際連絡課の大河内と申します」
大河内と名乗った男は、深々と頭を下げた。英語は流暢だったが、ところどころ言葉の選び方が古めかしい。
「サミュエル・ヴェスゲレートです。お招きいただき、ありがとうございます」
サミュエルが日本語で返すと、大河内は目を丸くした。
「おや、日本語を。お上手でいらっしゃる」
「子供の頃、三年ほどこちらにいましたので」
「左様でございましたか。……では、御母堂とご一緒に」
大河内は、何かを思い出すように目を細めた。
*
庁舎は、外から見ればただの古い寺だった。
けれど本堂の奥の襖を開けると、廊下がどこまでも続いている。障子の向こうから、そろばんを弾く音と、紙をめくる音と、式神の鶴が飛び交う羽音が聞こえてきた。
途中ですれ違った着物姿の魔女が、盆に載せた茶碗を二つ、座敷まで運んできてくれた。鮮やかな緑の抹茶と、紫陽花の形をした小さな和菓子。
サミュエルは茶碗を両手で受け、手前に二度回してから口をつけた。
「……これは驚いた。お作法まで」
「母に、教わりました」
大河内は、何も言わずに微笑んだ。
通された座敷には、文机が一つ。その上に、紫の袱紗に包まれた、平たい丸いものが載っていた。
「まずは、お詫びを申し上げねばなりません」
大河内は、畳に手をついた。
「御母堂からは、ご子息がホグワーツへご入学なさる年に、この品をお渡しするようにと承っておりました。ところが、書類が三つの部署を回るうちに、一年が過ぎてしまいまして……」
「三つの部署で、一年ですか」
「はい。国際連絡課と、文化財保護課と、それから呪物管理課でございます。誠に、お恥ずかしい」
サミュエルは、思わず笑いそうになった。どこの国の魔法省も、似たようなものらしい。
大河内が、袱紗をそっと開いた。
中から現れたのは、古い銅の鏡だった。
手のひらを二つ並べたほどの大きさ。裏側には、獣とも神ともつかない像が、輪のように並んで浮き彫りにされている。表は、長い年月で曇っているのに、なぜか覗きこむと、自分の顔だけははっきりと映った。
「卑弥呼の鏡、と呼ばれております」
「卑弥呼……古代の女王の?」
「ええ。占いと呪いの道を極めた、古の女王でございます。その遺品に、強い闇の術がかけられておりまして。いかなる魔法でも、壊すことができません」
「壊せない?」
「試した者は、大勢おりました。千年以上前、それを解いて鎮めたのが、安倍晴明公でございます」
籠の中で、オリエンスの耳がぴくりと動いた。
「以来、鏡は晴明公のご一族が、代々お守りしてまいりました。ですが、時代が下るにつれ、何のための鏡なのかを知る者もいなくなり……近頃は、蔵の奥の、ただの置き物になっておりましたそうで」
「それが、どうして母のところに」
「六年ほど前、御母堂がこちらに滞在しておられた折に、晴明公のご子孫のお一人が、ひどい呪いに巻きこまれたことがございました。命の危ういところを救ってくださったのが、御母堂だったのです。お礼に何でも差し上げると申し上げたところ、御母堂はただ一つ、この鏡を、と」
サミュエルは、鏡を手に取った。
ひんやりと重い。指先に、かすかな脈のようなものが伝わってきた気がした。
「……母は、なぜこれを欲しがったんでしょう」
「それが、私どもにも分かりかねまして」
大河内は、困ったように首を振った。
「ただ、ご子息にお渡しするようにと。それだけでございました」
*
その夜は、山のふもとの古い宿に泊まった。
畳の部屋に、糊のきいた浴衣。夕食には、小さな器がいくつも並んだ膳が運ばれてきた。鮎の塩焼き、胡麻豆腐、冷たい茶碗蒸し、青紅葉をあしらった水菓子。
「まあ、なんて可愛らしい猫ちゃん。真っ白で、まんまるで」
膳を運んできた宿の女将が、座布団の上のオリエンスを見て目を細めた。
「お魚、少し分けてあげましょうか」
オリエンスは、ふい、とそっぽを向いた。女将がいなくなると、尻尾をばたんと畳に打ちつけた。
「まんまる、とは何じゃ。失礼な」
「事実だろ」
「坊、その鮎の頭は、わしがもらう」
「猫は魚の頭が好きっていうの、本当だったんだ」
「猫だからではない。わしが好きなのじゃ」
オリエンスは膳の端から鮎の頭をくわえ取ると、満足げに座布団の上で丸くなった。
窓の外で、虫が鳴いている。山の稜線の上に、大きな月が昇り始めていた。
サミュエルは縁側に出て、鏡を膝の上に載せた。
この国の夏の夜の匂いを、彼はまだ覚えていた。湿った土と、蚊遣りの煙と、どこか遠くの線香の匂い。母と暮らしていた頃、こういう縁側で、母の膝に頭を載せて眠ったことがあった気がする。
母は、何を考えていたのだろう。
あの頃、一度だけ、母が一晩帰ってこなかった夜があった。朝になって戻ってきた母は、着物の袖が焦げていて、それでも笑って「お土産よ」と飴をくれた。もしかしたら、あれがその夜だったのかもしれない。
六年も前に、こんな鏡を欲しがって。息子がホグワーツに入る年に渡すようにと、遠い国の役所に預けて。それから一年後には、もう何も話せなくなっていた。
答えは、どこにもなかった。
月が、山の上に昇りきった。
サミュエルは、何の気なしに、鏡の表を月に向けた。
障子に、光が跳ね返った。
ただの丸い光ではなかった。
白い障子の上に、幾重にも重なる円が浮かび上がっていた。円と円の間を、細い線が何本も走っている。線の交わるところには、見たこともない文字のような形が刻まれていた。円の中に円があり、その中にまた円がある。目で追えば追うほど、奥へ奥へと続いていく。
「……オリエンス」
声が、かすれた。
「オリエンス、起きて。見て、これ」
座布団の上で、オリエンスがのそりと顔を上げた。障子の模様を見た瞬間、とぼけたような半眼が、すっと開かれた。
しばらく、オリエンスは何も言わなかった。
「……魔鏡じゃな」
「魔鏡?」
「表は平らに見えて、目に見えぬほどの凹凸が刻まれておる。光を当てると、その凹凸が模様を映し出す。昔の職人の業じゃ」
オリエンスは縁側まで歩いてきて、鏡の前に座った。月光に照らされた白い毛並みが、ぼんやりと光っている。
「この模様は、西洋でいう魔法陣に近いのう」
「何の魔法陣?」
「さてな」
オリエンスは、障子の模様をじっと見つめていた。
「わしにも、すべては読めん。ただ――この円の重なり方、この線の結び方は、肉や骨に働きかける術ではない。もっと奥の……魂に関わる術式、かもしれん」
「魂……」
サミュエルは、障子の模様を見上げた。
ひと月前、古文書館で読んだ本の題名が、頭の中で鳴った。『魂と器』。生き物を物に変えるとき、その「何か」はどこへ行くのか。
「推測じゃぞ、坊。わしにも確かなことは言えん」
「分かってる」
「坊の母御が、何を思ってこれを望んだのかもな」
オリエンスの声は、いつもより少しだけ低かった。
月が雲に隠れると、障子の模様は、ふっと消えた。
*
翌朝、宿を発つとき、大河内が見送りに来ていた。
「何か、お分かりになりましたか」
「いいえ。何も」
サミュエルは、紫の袱紗に包んだ鏡を、胸に抱え直した。
「でも、持って帰ります」
「左様でございますか」
大河内は、深く頭を下げた。
「御母堂も、きっとお喜びでしょう」
帰りの移動キーの番傘を握る前に、サミュエルは一度だけ、山の上を振り返った。朱色の鳥居が、朝靄の中に霞んでいた。
屋敷に戻った日、父は何も聞かなかった。日本で何があったのかも、母が何を預けていたのかも。
「お、お帰りなさいませ、坊ちゃま。と、遠い国は、いかがでございましたか……?」
ピッピーだけが、おずおずと尋ねた。
「暑かった」
「あ、暑かった……でございますか」
「それから、魚がうまかった」
ピッピーは、なぜか自分のことのように嬉しそうな顔をした。
その週の終わり、サミュエルは古文書館の鉄の扉をくぐった。
「おや、今日は何を探しに来たんだい」
白髪の管理人の魔女が、眼鏡の奥から尋ねた。
「魂の本を。古いものから、全部」
「全部?」
「全部です」
魔女は、呆れたように肩をすくめた。
閲覧机のいつもの席から、灰色の髭の魔法使いが顔を上げた。
「坊主、また来たか。例の写し間違いの件、短い論文にさせてもらったぞ。共著者に、お前の名前も入れておいた」
「……いいんですか」
「見つけたのはお前だ。学者というのは、そういうところで嘘をつかんものだ」
魔法使いはそれだけ言うと、また羊皮紙に顔を埋めた。
トランクの工房の一番奥の引き出しで、鏡は紫の袱紗に包まれたまま、静かに眠っている。
あの模様が何を意味するのか、まだ何も分からない。
ただ、いつか必ず読み解いてみせる――その思いだけが、胸の奥で、小さな火のように灯り続けていた。