九月一日のホグワーツ特急に、ハリーとロンの姿はなかった。
「どこにもいないわ。全部のコンパートメントを見て回ったのに」
ハーマイオニーが、息を切らせて扉を開けた。夏休みのあいだに、少しだけ髪が伸びている。
「乗り遅れたんじゃないかな。ロンの家、人数が多いから」
「それにしたって、二人ともなんて……」
ハーマイオニーは心配そうに眉を寄せ、それから、サミュエルの向かいの席が空いているのに気づいて、少し迷うような顔をした。
「……ここ、座ってもいい?」
「どうぞ。ネビルとディーンが戻ってくるまでなら」
ハーマイオニーは腰を下ろすと、鞄から分厚い本を取り出した。表紙で、波打つ金髪の魔法使いが、白い歯を見せてウィンクしている。
「ギルデロイ・ロックハート?」
「今年の闇の魔術に対する防衛術の教科書よ。七冊全部、この人の本なの。読んでないの?」
「目次だけ読んだ。どの章も、最後は著者が勝つ」
「それは、本当に勝ったからでしょう」
「そうかもね」
サミュエルは、窓の外に目をやった。
夏のあいだ、ほとんど毎週、古文書館に通っていた。夜はトランクの工房で、障子に映したあの模様を写し取った羊皮紙と、にらめっこをしていた。眠ったのは、たいてい明け方だった。
車窓の景色が、ぼんやりと流れていく。
ハーマイオニーが何か話しかけてきた気がしたが、少し遅れて「何?」と聞き返すと、彼女は「……別に」と本に目を戻した。
*
新学期の宴会で、ダンブルドアが新しい先生を紹介した。
「闇の魔術に対する防衛術の新しい先生、ギルデロイ・ロックハート先生じゃ」
勿忘草色のローブを着た金髪の魔法使いが、立ち上がって大広間じゅうに手を振った。女子生徒の何人かが、うっとりとため息をつく。その中に、ハーマイオニーの姿もあった。
サミュエルは、かぼちゃジュースのゴブレットを傾けながら、ロックハートの歯の白さをぼんやりと眺めていた。
ハリーとロンが空飛ぶ車で暴れ柳に突っこんだ、という噂は、その夜のうちに寮中に広まった。
次の日の朝食では、ロンの母親から届いた真っ赤な吼えメールが、大広間じゅうに響き渡る声で怒鳴り散らした。ロンはテーブルの下に潜りこみそうなほど小さくなり、ハリーはトーストを握ったまま固まっていた。
「……災難だったね」
「災難なんてもんじゃないよ……」
ロンが、テーブルに額をつけて呻いた。
グリフィンドールのテーブルには、新入生の顔もあった。燃えるような赤毛の、ロンの妹のジニー。それから、首からカメラを提げた、小柄な男の子。
「あの! あなたがサミュエル・ヴェスゲレートさんですか!」
男の子は、目をきらきらさせてサミュエルの前に立った。
「コリン・クリービーです! ハリー・ポッターと、サミュエル・ヴェスゲレートは絶対に撮ってこいって、兄弟みんなに言われたんです。……一枚、いいですか?」
「どうぞ。ただし、ハリーと並んで撮るなら、ハリーにも聞いてからね」
ハリーが、トーストをくわえたまま首をぶんぶん横に振った。
ぱしゃっ、とフラッシュが光った。
サミュエルは、いつも通りに笑っていた。誰が見ても、文句のつけようがない笑顔だった。
その晩の談話室も、去年と同じだった。
暖炉の前の一番いい場所には、自然とサミュエルの席が空けてある。フレッドとジョージが夏休みの武勇伝を披露し、一年生たちが遠巻きにこちらを見てはひそひそと話している。
「ねえ。あなたが、サミュエル?」
燃えるような赤毛の女の子が、腕を組んで目の前に立った。ジニーだった。
「そうだよ。ジニーだね。ロンから聞いてる」
「ロンも、手紙であなたのことばっかり書いてた。サミュエルがチェスで三回連続で勝った、サミュエルがピクシーを――あ、それは今日か」
「書いてない! 一回くらいしか書いてない!」
ロンが、耳まで真っ赤になって叫んだ。談話室が、どっと笑いに包まれた。
*
闇の魔術に対する防衛術の最初の授業は、小テストから始まった。
「ギルデロイ・ロックハートの好きな色は何?」
「ギルデロイ・ロックハートのひそかな大望は何?」
「ギルデロイ・ロックハートの誕生日はいつで、理想的な贈り物は何?」
問題は、全部で五十四問あった。
サミュエルは羽根ペンをくるりと回して、白紙のまま答案を伏せた。隣のロンが、絶望的な顔で「三問目からもう分からない」と呟いている。
「ちっ、ちっ、ちっ――私の好きな色がライラック色だと、ほとんど誰も覚えていないようですね」
ロックハートは、答案をめくりながら残念そうに首を振った。
「ところが、ミス・ハーマイオニー・グレンジャー! 満点です! グリフィンドールに十点! 君のような熱心な読者がいてくれて、作家冥利に尽きますよ!」
ハーマイオニーの頬が、ぱっと染まった。嬉しそうに背筋を伸ばして、両手を胸の前で握りしめている。
サミュエルは、羽根ペンを持つ指に、知らず力が入っていることに気づいた。理由は、考えなかった。
「さて、それでは――」
ロックハートが、布をかぶせた檻を机の上に置いた。
「捕らえたばかりの、コーンウォール地方のピクシー小妖精です!」
布が取り払われた瞬間、檻の中から、電気のような青色の小鬼が何十匹も飛び出した。
インク壺が宙を舞った。教科書が引き裂かれ、窓ガラスが割れた。ネビルが両耳をつかまれて、シャンデリアに吊り下げられた。
「さあ、さあ、捕まえなさい! たかがピクシーでしょう!」
ロックハートが杖を振り上げた。
「ペスキピクシ・ペステルノミ!」
何も起きなかった。ピクシーが一匹、ロックハートの杖をひったくって窓の外へ放り投げた。
サミュエルは、腰の箱から扇を抜いた。
閉じたまま、手首を軽く一振りする。
教室じゅうを飛び回っていたピクシーたちが、空中でぴたりと止まった。羽ばたいたままの姿勢で、まるで見えない琥珀に閉じこめられたように、一匹残らず固まっている。
教室が、しんと静まり返った。
サミュエルはもう一度、扇を振った。凍りついたピクシーが、一匹ずつ宙を滑り、行儀よく檻の中へ戻っていく。最後の一匹が収まると、檻の扉がかちりと閉まった。
ネビルが、シャンデリアからどさりと落ちてきた。
「……す、素晴らしい!」
ロックハートが、机の陰から顔を出した。
「実にお見事! 私が教えたとおりの、完璧な対処です! グリフィンドールに十点!」
「何も教わってないけどな」
ロンが、ぼそりと呟いた。
「あ、ありがとう、サミュエル……」
ネビルが、ずれたローブを直しながら近づいてきた。髪に、ピクシーにむしられたシャンデリアの埃がついている。
「シャンデリアの上、すごく怖かった。もう少しで、本当に落ちるところだった」
「落ちてたよ。最後に」
「……あ、そっか」
ネビルが情けなさそうに笑い、周りの何人かもつられて笑った。
授業が終わると、ハーマイオニーがロックハートをかばうように言った。
「先生は、私たちに実地で学ばせようとなさったのよ」
「実地で、ね」
サミュエルは扇を箱にしまいながら、肩をすくめた。
「なら、実地で学んだことが一つある。あの先生の呪文は、ピクシーに効かない」
ハーマイオニーはむっとした顔をしたが、何も言い返さなかった。
*
それは、二週目の水曜日のことだった。
魔法薬学の授業が終わり、地下牢から大広間へ向かう廊下は、昼食に急ぐ生徒たちでごった返していた。サミュエルは、ハリーとロンと並んで歩いていた。
少し前を、ハーマイオニーが一人で歩いていた。腕に、ロックハートの本を四冊も抱えている。
その行く手に、ドラコが立ちふさがった。両脇に、クラッブとゴイルを従えている。
「やあ、グレンジャー。ずいぶん重そうだな」
ドラコは、ハーマイオニーの腕の中の本の表紙を、指でとんとんと叩いた。ロックハートの写真が、迷惑そうに顔をしかめた。
「サインでも貰ったのか? マグル出の連中は、有名人に弱いからな。親がマグルの何をやってるんだか知らないが、魔法界の本物を見るのは、さぞかし珍しいんだろう」
クラッブとゴイルが、げらげらと笑った。
ハーマイオニーは、本を抱えたまま立ち止まっていた。何か言い返そうとして、唇を引き結んでいる。
ロンが、ちらりとサミュエルを見た。ハリーも、こちらを見た。
いつもなら。
いつもなら、ここで何か言う。ドラコの興味をよそへ逸らす、何でもない一言を。クィディッチの話でも、スリザリンの寮杯の話でもいい。ドラコがそれに飛びつけば、ハーマイオニーはその隙に通り過ぎていける。去年は、何度もそうしてきた。
口を開いた。
「四冊も、ね」
出てきたのは、いつもの一言ではなかった。
寝不足で、頭の芯が重かった。昨夜も明け方まで、障子に映った模様の写しとにらめっこをしていた。そこへ、ロックハートの白い歯だ。教室でも大広間でも、あの笑顔が目に入るたびに、神経に障っていた。
「ロックハートの本なら、僕も全部読んだ」
サミュエルは、ハーマイオニーの腕の中の表紙に目をやった。
「小説としては悪くない。どの章も、主人公が勝って終わる。でも、あれを事実だと信じて、四冊も抱えて崇拝するなんて……やっぱり、君はマグルらしいね。有名人の笑顔に、簡単に騙される」
ドラコが、目を丸くした。それから、声を上げて笑った。
「ほら見ろ! ヴェスゲレートもこう言ってる!」
「ワガドゥグの吸血鬼も、人狼も、全部作り話だよ。誰が確かめたんだ? 本人以外に」
ハーマイオニーの目が、見開かれた。
怒鳴られると思った。けれど彼女は、怒る前に、驚いた顔でこちらを見ていた。あなたまで、とでも言いたげに。
「……先生は、実績のある方よ」
声が、少し震えていた。
「実績?」
サミュエルの声が、低くなった。
「なぜ、君ほど聡明な人が、あんな見え透いたペテンを見抜けないんだ」
自分でも驚くほど、尖った声だった。周りの生徒たちが、足を止める。
「ちょっと褒められたくらいで、頬を染めて。……ああ、でも、仕方ないか。マグルには、お似合いかもな」
ハーマイオニーの顔から、血の気が引いた。大きく見開いた目が、まっすぐこちらを見ている。唇が何か言おうとして、動かなかった。
ハリーとロンが、ぽかんと口を開けてサミュエルを見ていた。誰に対しても穏やかで、声を荒げたところなど一度も見たことのない友人が、そこにいた。
ドラコだけが、満足そうに腕を組んでいた。ほら見ろ、とでも言いたげな顔だった。
「行くぞ」
ドラコは、クラッブとゴイルに顎をしゃくり、ハーマイオニーの横をすり抜けていった。二人が、わざと肩をぶつけていく。本が一冊、床に落ちた。
ハーマイオニーは黙ってそれを拾い上げた。
顔を上げたとき、彼女の目が、ほんの一瞬だけサミュエルを捉えた。驚きと、傷ついたような色が、そこにあった。
それから、何も言わずに大広間のほうへ歩いていった。
「……行こうぜ」
ロンが、気まずそうに言った。ハリーは何か言いかけて、小さく首を振った。誰も、サミュエルの顔を見ようとしなかった。
*
その夜、サミュエルは天蓋つきのベッドの中で、何度も寝返りを打った。
大したことではない。ドラコはいつもああだし、ロックハートがいかさまなのも、たぶん本当のことだ。言ったことは、何一つ間違っていない。
それなのに、廊下の光景が、何度も瞼の裏に浮かんできた。
ロックハートに褒められて、頬を染めていた横顔。見開かれた目。震えていた声。床に落ちた本。
――どうして、あんなことを言った。
寝不足だったから。苛々していたから。理由ならいくらでも並べられる。けれど、どれも本当の答えではない気がした。
ドラコの横で、一緒になって笑う必要は、どこにもなかった。「マグルにはお似合いかもな」。あれは、ロックハートのことでも、本のことでもない。彼女に向けた言葉だった。
あの男に褒められて、嬉しそうに笑っていた。それを見たとき、腹の底がざらついた。どうしてなのかは、分からない。
ロンもハリーも、何も言わなかった。二人とも、信じられないものを見る目でこちらを見て、それから、そっと視線をそらした。
去年の自分なら、同じ場面で、真っ先にドラコの興味を逸らしていた。誰も傷つかない一言を、考える前に口にしていた。
今日は、その逆をした。
何が自分をそうさせたのか、分からない。分からないことが、いちばん気持ち悪かった。
隣のベッドから、ロンのいびきが聞こえてくる。
サミュエルは天蓋の暗がりを見上げたまま、朝まで眠れなかった。
*
夜明け前、サミュエルはいつも通りベッドを抜け出した。
寮の部屋の床で、腕立て伏せを二百回。腹筋を二百回。トランクの工房の梁にぶら下がって、懸垂を五十回。夏のあいだも、一日も欠かしたことはない。体を動かしているあいだは、余計なことを考えずに済んだ。
今朝は、二百回が少しだけ長く感じた。
朝食の席で、ハーマイオニーと目が合った。
彼女は、トーストを皿に置いて立ち上がった。まっすぐ、こちらへ歩いてくる。
周りの生徒たちが、ちらりと二人を見た。ロンが、ソーセージを持ったまま固まった。
「ヴェスゲレート。少し、いい?」
声は、静かだった。怒っているようにも、泣いているようにも聞こえなかった。
「昨日のことなんだけど」
「何?」
サミュエルは、紅茶のカップから目を上げなかった。
「あなたが、あんなことを言う人だとは――」
「事実を言っただけだよ」
自分の声が、ひどく冷たかった。
「ロックハートがペテン師なのも、君がそれを見抜けなかったのも。朝から説教なら、遠慮させてもらう」
ハーマイオニーの唇が、わずかに開いた。何かを言いかけて、閉じた。
その顔に浮かんでいたのが何だったのか、サミュエルは見なかった。見ないようにした。
「……そう」
それだけだった。
ハーマイオニーは自分の皿を取りに戻り、ジニーの隣の席へ移っていった。
サミュエルは、紅茶に砂糖を一つ落とした。スプーンで、ゆっくりとかき混ぜる。
去年なら、分かったはずだった。誰の顔を見ても、その人が何を考えているのか、手に取るように分かった。それが自分の一番の取り柄だったはずだ。
今朝は、見ようとさえしなかった。
いつも通りに笑って、いつも通りに軽口を叩く。去年は、息をするのと同じくらい簡単だったことが、今朝は、できなかった。
紅茶の渦が、なかなか止まらなかった。