ハロウィンの大広間は、今年も千匹のコウモリでいっぱいだった。
天井近くを黒い影がばさばさと飛び交い、テーブルの上では、人の背丈ほどもある巨大なかぼちゃがくり抜かれて、中で蝋燭が揺れている。ハグリッドが畑で育てたという特大のかぼちゃは、三人がかりでも抱えきれないほどだった。
「ハリーたちは?」
サミュエルが聞くと、ネビルがパンプキンパイを頬張りながら答えた。
「ほとんど首無しニックの、絶命日パーティーだって。五百回目の命日なんだって」
「……命日を、祝うの?」
「ゴーストのパーティーなんだって。ハーマイオニーが、すごく楽しみにしてた。歴史的に貴重な体験だからって」
サミュエルは、空いた三つの席を見た。
ハーマイオニーが楽しみにしていた、というところだけが、妙に耳に残った。
今年のハロウィンの料理は、去年よりさらに豪華だった。丸ごと焼いた七面鳥に、かぼちゃのスープ、糖蜜をかけたローストパースニップ。デザートには、かぼちゃのタルトと、コウモリの形をしたジンジャーブレッド。
「サミュエル、これ、ゴキブリ・ゴソゴソ豆板に似てない?」
ディーンが、黒いジンジャーブレッドを掲げてみせた。
「似てない。似てると思ったら、食べなくていい」
「じゃあ、もらう!」
ジニーが、横からさっとかすめ取った。
ジニーは今年入学したばかりで、ふだんはロン以上によく喋る。けれど、今夜は妙に顔色が悪かった。ジンジャーブレッドも、一口かじっただけで皿に戻してしまう。
「ジニー、具合悪いの?」
「……ちょっと、寒いだけ」
ジニーは、ローブの襟を引き寄せた。
*
宴会が終わり、生徒たちが寮へ戻る途中だった。
二階の廊下の先で、人の流れが止まっていた。
前のほうから、ざわめきが波のように伝わってくる。サミュエルは人垣の後ろから、首を伸ばした。
廊下の床が、水浸しになっていた。
その向こうの壁に、松明の灯りに照らされて、赤い文字が光っていた。
〈秘密の部屋は開かれたり
継承者の敵よ、気をつけよ〉
その下の松明の腕木に、何かがぶら下がっていた。
猫だった。管理人のフィルチの飼い猫、ミセス・ノリス。尻尾を腕木に引っかけたまま、板のように硬直している。見開いた目は、宙の一点を見つめたまま動かない。
そして、その真下に、ハリーとロンとハーマイオニーが立っていた。
誰かが、息を呑んだ。誰も、何も言わなかった。
その沈黙を破ったのは、人垣の前のほうから聞こえた声だった。
「継承者の敵よ、気をつけよ!」
ドラコだった。青白い頬を紅潮させて、ミセス・ノリスを見上げている。
「次はお前たちの番だぞ、『穢れた血』め!」
その言葉が、廊下の石壁に反響した。
サミュエルは、自分の指先が冷たくなっていくのを感じた。
穢れた血。
何度も聞いた言葉だった。父の食卓で。自分自身の口からも、去年、列車の通路で一度だけ。いつもそれは、ただの悪口だった。相手を見下すための、品のない言葉にすぎなかった。
今は、違った。
壁の赤い文字が、松明の灯りの中で、濡れたように光っている。その下で、生き物が一匹、石のように固まっている。
これは、悪口ではない。
誰かが本当に、その言葉の意味のとおりに、何かをしようとしている。
サミュエルの目は、ミセス・ノリスの真下に立つ、栗色の髪の女の子に吸い寄せられていた。
「何事だ? 何事だ?」
フィルチが、人垣をかき分けてやって来た。ミセス・ノリスを見た瞬間、彼は顔を両手で覆って、悲鳴を上げた。
「わたしの猫だ! わたしの猫が! お前だな! お前が殺したんだ!」
フィルチが、ハリーに飛びかかろうとする。
「アーガス!」
ダンブルドアの声が、廊下に響いた。後ろから、先生たちが次々と駆けつけてくる。
「ミスター・ポッター、ミスター・ウィーズリー、ミス・グレンジャー。一緒に来なさい」
三人が、先生たちに連れられていく。ハーマイオニーは青ざめた顔で、両腕で自分の体を抱えるようにして歩いていた。
人垣の間を通り過ぎるとき、彼女が一瞬だけ、こちらを見た気がした。
サミュエルは、何も言えなかった。
人垣が少しずつほどけていく中、サミュエルは最後まで廊下に残っていた。
水浸しの床。赤い文字。それから、窓枠の隅に、黒い点のようなものが一列に並んでいるのに気づいた。
蜘蛛だった。何十匹もの小さな蜘蛛が、我先にと窓の隙間から外へ逃げ出していく。まるで、何かから逃げるように。
サミュエルは、その光景をしばらく見つめていた。
「おい、サミュエル。行こうぜ」
シェーマスが、袖を引いた。
「なあ、本当にポッターがやったのかな。あそこにいたんだし」
「猫一匹を石にするのに、わざわざ壁に字を書くほど、ハリーは暇じゃないよ」
「……それもそうか」
シェーマスは納得したように頷いた。サミュエルはもう一度だけ、窓の隙間を振り返った。最後の一匹が、夜の闇の中へ消えていくところだった。
*
ハリーたちが談話室に戻ってきたのは、真夜中近くだった。
「ミセス・ノリスは、死んでないって」
ロンが、暖炉の前の椅子にどさりと座りこんで言った。
「石になっただけだって、ダンブルドアが。スプラウト先生がマンドレイクを育ててて、それが成長したら、薬を作って元に戻せるんだって」
「それで、ハリーたちは何もお咎めなし?」
「証拠がないからって。フィルチは最後まで、ハリーがやったって喚いてたけど」
ロンは声を落とした。
「……ハリーがさ、壁の中から声が聞こえたって言うんだ。『殺してやる』って。僕とハーマイオニーには、何にも聞こえなかったのに」
ハリーは少し離れた椅子で、黙って膝を抱えていた。ハーマイオニーは、もう女子寮へ上がったあとだった。
*
それから数日、学校はその話で持ちきりだった。
「秘密の部屋って、何なの?」
「スリザリンが作った、隠し部屋だって。中に怪物がいるんだって」
「マグル生まれだけを狙う怪物だって、パーシーが言ってた」
噂が、尾ひれをつけて廊下を駆け巡っていく。
魔法史の授業で、ハーマイオニーが手を挙げた。ビンズ先生の授業で誰かが手を挙げるのは、前代未聞のことだった。
「先生、『秘密の部屋』について、何か教えていただけませんか」
幽霊の先生は、眠たげな目を瞬かせた。
「……私が扱うのは事実です、ミス・グレンジャー。神話や伝説ではない」
「でも、先生。伝説というのは、必ず事実に基づいているのではありませんか?」
教室じゅうの生徒が、居眠りから目を覚ました。
ビンズ先生は、しばらく黙っていた。それから、しぶしぶ話し始めた。
ホグワーツを創った四人の魔法使いのこと。サラザール・スリザリンが、マグル生まれの生徒を入学させることに反対して、ほかの三人と争ったこと。城を去る前に、誰にも知られない部屋を作ったこと。
「伝説によれば、スリザリンの真の継承者だけが、その部屋を開けることができる。そして、中に封じられた恐怖を解き放ち、学校から――」
ビンズ先生は、一瞬だけ言葉を切った。
「――魔法を学ぶにふさわしくない者を、追放する、と」
教室が、しんと静まり返った。
誰も、口に出しては言わなかった。けれど、何人もの目が、ちらりとハーマイオニーのほうを向いた。
ハーマイオニーは、背筋を伸ばして羽根ペンを走らせていた。羽根ペンの先が、羊皮紙の上でかすかに震えていた。
サミュエルは、手を挙げた。
「先生、補足してもよろしいですか」
ビンズ先生が、眠たげな目をこちらに向けた。
「……ミスター・ヴェスゲレート」
「伝説には、続きがあります。ホグワーツの古い年報に、五十年前、一度だけ部屋が開かれたという記録があるんです。そのときは生徒が一人亡くなって、部屋は再び閉ざされた、と」
教室の空気が、凍りついた。
あやふやな伝説よりも、事実のほうが、まだ向き合える。曖昧な恐怖ほど、人を縛るものはない。そう思って口にしたのだった。
「……よく調べましたね」
ビンズ先生は、珍しく、ほんの少しだけ感心したように言った。
「その通りです。記録には、確かに」
誰かが、息を呑む音がした。
それから、サミュエルは、自分の羊皮紙に一行も書けなかった。
授業のあと、廊下でドラコが近づいてきた。
「聞いたか、ヴェスゲレート。秘密の部屋だってさ。いい気味だ。継承者が誰だか知らないが、父上は前から言ってたんだ。この学校には、ふさわしくない連中が多すぎるって」
ドラコは、楽しそうに声を弾ませていた。
「声が大きいよ、ドラコ」
サミュエルは、いつもの穏やかな口調で言った。
「先生たちに聞かれたら、君が継承者だと思われる。ミセス・ノリスの前で、一番楽しそうにしてたのは君だったからね」
ドラコの顔から、さっと血の気が引いた。
「ぼ、僕じゃない。僕は、何も――」
「知ってるよ。だから、気をつけたほうがいい」
ドラコは、ぎこちなく頷いて、クラッブとゴイルを連れて足早に去っていった。
その夜、サミュエルはトランクの工房で、持っている本を片っ端から開いた。
『ホグワーツの歴史』。スリザリンの伝記。中世の魔法生物の図鑑。古文書館で書き写してきた、古い怪物の記録。
秘密の部屋について、確かなことを書いた本は一冊もなかった。ただ、蜘蛛が逃げ出す、という記述が、ある古い図鑑の片隅に一行だけあった。どの生き物の項目だったのかは、ページが破れていて読めなかった。
サミュエルは、その一行を羊皮紙に書き写して、引き出しにしまった。
*
その日の夕方、談話室の本棚の陰で、ハーマイオニーは膝を抱えて泣いていた。
声を殺していた。肩だけが、小刻みに震えている。
階段を降りてきたジニーが、足を止めた。
「……ハーマイオニー?」
「な、何でもない」
「何でもなくない」
ジニーは、何も聞かずに隣に座った。ローブのポケットから、くしゃくしゃのハンカチを取り出して、無言で差し出す。
しばらくして、ハーマイオニーがしゃくりあげながら言った。
「みんなが、私を見るの。ミセス・ノリスのことも、壁の字も、ビンズ先生の授業も。マグル生まれだから、次は私だって」
「うん」
「それに、あの人まで」
「あの人?」
「サミュエルよ。九月の廊下で、マルフォイと一緒になって、私を笑ったの。マグルにはお似合いだって」
ハンカチを握る手に、力がこもった。
「どうして。どうしてあの人は、マグルだってだけで、私をそんなふうに差別するの」
言ってから、ハーマイオニーは自分の言葉に、ひどく傷ついたような顔をした。
ジニーは、きょとんとして、それから眉をひそめた。
「……ハーマイオニー、本気で言ってる?」
「え?」
「サミュエルが何をしてるか、知らないの?」
ハーマイオニーは、涙に濡れた目で、ジニーを見た。
「去年、スリザリンにいたマグル生まれの子や、混血の子たち。入学した頃は、毎日いじめられてたんでしょう? それが、去年の二月ごろから、ぴたりと止まったって、ロンが手紙に書いてた。サミュエルがマルフォイに、それとなく話してくれたからだって」
「……それは」
「それだけじゃない。困ってる混血の子やマグル生まれの子がいると、いつの間にか、あの人がそばにいるの。ロンも言ってた。気がつくと、いつも誰かを助けてるって」
ジニーは、あっさりと言った。
「それに、あの人を見てれば分かるでしょう。差別するほど、馬鹿じゃないよ」
ハーマイオニーは、しばらく黙っていた。
「……分かってる」
小さな声だった。
「頭では、分かってるの。でも、あんなふうに言われたら」
「うん。傷つくよね」
ジニーは、しばらく暖炉の火を見ていた。それから、ふと、にやりと笑った。
「ねえ。ロックハート先生に褒められて、嬉しそうにしてたんでしょう? そのとき、サミュエルはどんな顔してた?」
「え? ……不機嫌そうには、見えたけど」
ジニーの目が、きらりと光った。
「それ、嫉妬じゃない?」
「は?」
「ロックハート先生に。ハーマイオニーが、他の人に笑うのが面白くなかったんだよ」
「な、何を言ってるの。そんなわけないでしょう! あの人は、マグルを――」
「差別するほど馬鹿じゃないって、さっき言ったばかりだよ」
「それとこれとは……!」
ハーマイオニーの頬が、涙のあとのまま、みるみる真っ赤になった。ジニーは満足そうに、ふふん、と笑った。
ハーマイオニーは、涙を拭って、ふとジニーの横顔を見た。
「ジニー、あなたも顔色が悪いわよ。ちゃんと眠れてる?」
「……平気」
ジニーは、ローブの胸元を片手で押さえて、目をそらした。
「ハーマイオニーが泣いてると、ロンが役立たずになるから。早く泣きやんでね」
ハーマイオニーは、泣きながら、少しだけ笑った。
*
その夜の談話室は、いつもより人が多かった。誰も、早く寝室に引き上げようとしない。
「サミュエル、本当に、怪物なんているの?」
一年生の女の子が、泣き出しそうな顔で聞いてきた。周りの一年生たちも、すがるようにこちらを見ている。コリンが、カメラを胸に抱きしめていた。
「伝説だよ。ビンズ先生も、そう言ってた」
サミュエルは、いつもの調子で肩をすくめた。
「それに、もし本当に何かいたとしても、ダンブルドアがいる。あの人が校長でいるかぎり、ホグワーツで本当にまずいことは起きない」
「本当に?」
「本当さ。それより、明日の変身術、マッチ棒を針に変える課題だろう? ネビル先輩が、こつを教えてくれるって」
「ぼ、僕?」
ネビルが目を白黒させ、一年生たちがくすくす笑った。張り詰めていた空気が、少しだけほどける。
サミュエルは笑顔のまま、一年生たちに囲まれて座っていた。
けれど、その目は、ずっと別のところを追っていた。
暖炉から少し離れた窓際の席。ハリーとロンと額を寄せ合って、ハーマイオニーが何か話しこんでいる。ときどき、窓の外の暗がりに目をやる。そのたびに、彼女の手が、膝の上の本をぎゅっと握りしめるのが見えた。
去年までなら、こんなふうに誰かを目で追ったりはしなかった。必要なときに、必要なだけ、さりげなく手を回せばよかった。
今は、目を離すことができなかった。
部屋の隅の肘掛け椅子では、ジニーが一人、膝の上に何かを広げていた。黒い表紙の、小さな帳面のようなものだった。サミュエルが目を向けると、ジニーはびくりとして、それをさっとローブの中にしまった。
夜が更けて、一年生たちが寝室へ引き上げていった。ハーマイオニーも本を抱えて、女子寮の階段へ向かう。
サミュエルは、気がつくと立ち上がっていた。
階段の一段目に足をかけた彼女の背中が、遠く見えた。
声をかけようとして、口が動かなかった。九月の廊下。朝食の席での、あの冷たい声。「事実を言っただけだよ」。いまさら、どの口で話しかければいい。
サミュエルは、椅子に腰を下ろし直した。ハーマイオニーが階段を上りきるまで、その背中から目を離さなかった。
*
その夜、トランクの工房で、サミュエルは銀色の紙を一枚取り出した。
書く言葉は、決まっていた。
〈夜に、一人で図書室へは行かないこと。必ず、誰かと一緒に。〉
それだけを書いて、折った。羽根のように軽い鶴に息を吹きかけると、鶴は寮の窓から、女子寮の塔のほうへ飛んでいった。
届いたとして、彼女は読むだろうか。差出人のないこの鶴を、まだ信じてくれるだろうか。
ランプの芯が、じじ、と小さな音を立てた。
――次はお前たちの番だぞ。
ドラコの声が、耳の奥で何度も繰り返された。
壁の赤い文字。石になった猫。震えていた羽根ペンの先。
サミュエルは、自分の手のひらを見下ろした。
握りしめていた拳の中で、爪が、手のひらに深く食いこんでいた。