十一月の土曜日の朝、クィディッチ競技場には、白い霜が降りていた。
城の裏手の芝生の斜面を下った先に、競技場はある。その向こうには、禁じられた森の縁と、ハグリッドの小屋の煙突から立ちのぼる細い煙が見えた。
観客席の木のベンチは、座るとお尻から凍りつきそうに冷たい。吐く息が白く、指先がかじかむ。空はどんよりと曇り、湖のほうから冷たい風が吹きつけてくる。
「ウッドのやつ、正気じゃないよ。夜明けと同時に練習なんて」
ロンが、マフラーに顎を埋めて文句を言った。手には、大広間からくすねてきたトーストを二枚握っている。
グリフィンドールのチームは、もう一時間も前から空の上にいた。ハリーの赤いローブが、灰色の空を小さく横切っていく。
サミュエルは、最前列のベンチで、ロンの隣に座っていた。その向こうに、ハーマイオニーがいる。
九月の廊下の一件から、二人の間の会話は減っていた。減った、というより、どちらからともなく、言葉を選ぶようになっていた。
「……寒くない?」
サミュエルが聞くと、ハーマイオニーは本から顔を上げずに答えた。
「平気よ。マフラー、二重に巻いてきたから」
「そう」
それで、会話は終わった。ロンが二人の顔を見比べて、気まずそうにトーストをかじった。
そのとき、競技場の入口のほうから、緑のローブの一団が入ってきた。
*
「おい、あれ、スリザリンじゃないか?」
ロンが、身を乗り出した。
スリザリンのクィディッチ・チームだった。七人全員が、肩に箒を担いでいる。空からグリフィンドールの選手たちが、次々と降りてきた。
「フリント! 今は僕たちの練習時間だ!」
ウッドが、怒鳴った。スリザリンのキャプテンのフリントは、にやにやしながら羊皮紙を一枚、ひらひらと振ってみせた。
「スネイプ先生の許可証だ。新しいシーカーの特訓のためにな」
「新しいシーカー?」
フリントの後ろから、一人が前に出てきた。
プラチナブロンドの髪。青白い、尖った顔。
ドラコだった。
「ルシウス・マルフォイ氏が、チーム全員に贈ってくださったものを見せてやろうか」
七本の箒が、いっせいに突き出された。真新しい、黒光りする柄。その先に、金色の文字が刻まれている。
〈ニンバス2001〉
グリフィンドールの選手たちが、息を呑んだ。
「最新型だ。先月出たばかりのな。旧型のクリーンスイープなんか、これの前じゃ箒置き場の掃除にしか使えない」
ドラコが、得意げに顎を上げた。
いつの間にか柵を越えて芝のピッチに降りていたハーマイオニーが、選手たちの後ろから声を上げた。
「少なくとも、グリフィンドールの選手は、お金で選ばれたりしてないわ。純粋に、才能で選ばれたのよ」
ドラコの顔が、ぴくりと引きつった。
それから、ゆっくりと、唇の端が吊り上がった。
「誰もお前の意見なんか聞いてない。生まれそこないの――」
ドラコは、一語一語を、楽しむように区切った。
「――穢れた血め」
*
競技場が、しんと静まり返った。
フレッドとジョージが、ドラコに飛びかかろうとした。アンジェリーナが叫んだ。ロンが、ローブのポケットに手を突っこんで、杖を探していた。
ハーマイオニーは、何も言わなかった。
ただ、その場に立っていた。唇が、かすかに震えていた。大きく見開いた目に、みるみる涙が溜まっていく。
彼女は、くるりと背を向けた。
何も言わずに、競技場の出口へ走った。向かったのは、城ではなかった。霜の降りた斜面を、禁じられた森のほうへ――ハグリッドの小屋の細い煙を目指して、駆けていった。
栗色の髪が、灰色の朝の中で揺れて、遠ざかっていく。
サミュエルは、それを見ていた。
ハロウィンの夜の、壁の赤い文字。石になった猫。震えていた羽根ペンの先。廊下で落ちた本。九月の廊下で自分が投げつけた言葉。朝食の席の、あの冷たい声。
何かが、音もなく切れた。
「――聡明な魔法使いであれば」
自分の声が、ひどく遠くで聞こえた。
観客席の階段を降りて、霜の降りたピッチへ。ゆっくりと歩いていく。一歩ごとに、霜がきしきしと鳴った。
「わざわざ穢れた血なんて言葉は、使わない」
その声に合わせて、足元の凍った地面に、ぴしり、と細いひびが走った。
ひびは蜘蛛の巣のように広がり、観客席を支える太い木の柱の根元まで届いた。柱の表面に、縦に長い亀裂が駆け上がる。ぎしり、と木が悲鳴を上げた。
ドラコが、こちらを振り向いた。
「……ヴェスゲレート?」
「皮肉が下手なんだな、ドラコ」
二本目の柱にも、ばきん、と乾いた音を立てて亀裂が走った。霜が、細かく震えて砕け散っていく。
ドラコは、きょとんとした顔をした。何を言われたのか、すぐには理解できないようだった。
「な……何だよ、それ。お前だって――お前の家だって、去年まで――」
「なんだ、ヴェスゲレート」
ドラコの横から、ゴイルが太い首を突き出した。隣のクラッブが、にやにや笑っている。
「お前、もしかして、穢れた血が好きなのか?」
スリザリンの選手たちが、どっと笑った。
サミュエルは、何も答えなかった。
腰の箱から、扇を抜いた。開きもせず、閉じたまま、ふっと持ち上げただけだった。
声は、出さなかった。
*
最初に動いたのは、足元の土塊だった。
霜の降りた芝の下から、凍った土の塊が三つ、ごろりと転がり出た。それが、ぐにゃりと膨らんだ。土の色が黄金色に変わり、塊の端から、太い四肢がせり出していく。首のまわりに、豊かな鬣が広がった。
まばたき三つ分の間に、サミュエルの前には、三頭の獅子が立っていた。
牙は、大人の掌ほどの長さがあった。黄金色の毛皮の下で、肩の筋肉が波打っている。吐く息が白く煙り、濃い獣の匂いが、競技場いっぱいに立ちこめた。分厚い爪が、凍った芝を音もなく裂いていく。
どこからどう見ても、本物だった。いや、本物以上だった。本物の獅子には、これほどの憎しみはない。
獅子たちは、ゆっくりと歩き出した。
笑っていたスリザリンの選手たちを、ぐるりと取り囲む。低い唸り声が、地面の底から湧いてくるように、競技場の空気を震わせた。誰も、箒を握る手を動かせなかった。
一頭が、天を仰いだ。
雄叫びが、競技場を揺さぶった。
観客席の木のベンチが震え、フリントの手から箒が滑り落ちた。遠くの禁じられた森で、鳥の群れがいっせいに飛び立った。それは、獣の声ではなかった。声を出さなかった主の怒りそのものが、獅子の喉を借りて叫んでいるようだった。
二頭目が吠えた。三頭目が続いた。
重なった咆哮が、胸の骨を内側から叩いた。
競技場が、凍りついた。
フレッドとジョージさえ、口を開けたまま固まっていた。ロンの手の中で、杖が宙ぶらりんになっていた。
ゴイルとクラッブは、腰を抜かして座りこんだ。ゴイルのローブの膝が、じわじわと濡れていく。
ドラコの目の前で、一頭が顎を開いた。
熱い息が、ドラコの前髪を揺らした。牙の先から唾液が糸を引いて、霜の上に落ちた。その顎が閉じれば、細い首など、ひと呑みだ。血走った金色の目は、瞬きもせず、ただ一点を見つめている。獲物を見る目だった。
それでも、獅子は閉じなかった。
拳一つ分の距離で、止まっている。止められている。
ドラコは、悲鳴を上げることもできなかった。唇が、紙のように白かった。
サミュエルは、扇を手にしたまま、ドラコを見ていた。
いつもの笑顔は、なかった。獅子の目と同じ、温度のない目だった。
ドラコが、一歩、後ずさろうとして、獅子の鬣に背中が触れた。
「ぼ、僕は――」
「――何事ですか!」
鋭い声が、競技場に響いた。
マクゴナガル先生が、城のほうから、エメラルド色のローブを翻して走ってくる。後ろから、マダム・フーチも続いていた。
マクゴナガル先生は、三頭の獅子を見て、ぴたりと足を止めた。
それから、扇を持ったまま立っているサミュエルを見た。
「……ミスター・ヴェスゲレート」
「はい」
「これは、あなたがやったのですか」
「はい」
マクゴナガル先生は、黙って杖を振った。獅子たちの輪郭がほどけ、ただの土塊に戻って、ばらばらと霜の上に崩れ落ちた。スリザリンの選手たちは、へたりこんだまま、しばらく立ち上がれなかった。
「グリフィンドールから五十点、減点します。それから、今夜から一週間、罰則です」
「はい」
「理由を、聞いてもよろしいですか」
サミュエルは、扇を箱にしまった。
そのときにはもう、いつもの顔に戻っていた。
「頭に血が上っただけです。寝不足で、機嫌が悪かったもので。申し訳ありませんでした」
マクゴナガル先生は、長いこと、眼鏡の奥からサミュエルを見つめていた。
「……あなたらしくありませんね」
「そうですね」
サミュエルは、軽く頭を下げた。
*
噂は、昼食の前には城じゅうに広まっていた。
「聞いた? ヴェスゲレートが、土からライオンを三頭も作って、スリザリンのチームを囲んだって!」
「本物のライオンだったらしいよ。鬣の一本一本まで」
「呪文も唱えなかったんだって。無言で、一瞬で」
「でも、なんで?」
「マルフォイと揉めたらしい。機嫌が悪かったんだってさ」
夕食の席で、フレッドとジョージがサミュエルの両側に陣取った。
「いやあ、見事だった。我々が七年かけてもたどり着けない境地だ」
「ライオンの鬣のなびき具合が、芸術的だった。何本あったか数えたか、ジョージ?」
「数えきれん、フレッド。ただ、グリフィンドールの旗と、まったく同じ色だった」
「寝不足だったんだよ。たまたま機嫌が悪かっただけ」
サミュエルは、いつもの調子で肩をすくめた。
「五十点も減らしちゃって、悪かったね。そのぶん、ハリーにスニッチを取ってもらおう」
「任せて!」
ハリーが拳を突き上げ、周りがどっと笑った。
「珍しいこともあるもんだな。サミュエルが、機嫌悪いなんて」
「たまにはあるさ。人間だもの」
みんな、それで納得した。
一人を、除いて。
夕食のあと、大広間を出たところで、ドラコが待っていた。今日は、クラッブもゴイルも連れていなかった。
「……なんで、あんなことしたんだ」
ドラコの声は、いつもの気取った調子ではなかった。
「機嫌が悪かった」
「嘘だ」
ドラコは、廊下の松明の灯りの中で、サミュエルの顔をにらんだ。
「お前、去年からおかしいんだ。グリフィンドールなんかに入って、ポッターやウィーズリーとつるんで。それで、今度はあの――」
「ドラコ」
サミュエルは、穏やかに遮った。
「ライオンは、ちゃんと土に返しておいたから。そう、チームの連中に伝えておいて。腰が抜けたままだと、箒に乗れないだろう」
ドラコは、何か言いかけて口を閉じた。それから、くるりと背を向けて、地下牢への階段を降りていった。
*
ハーマイオニーは、女子寮の窓辺に座っていた。ハグリッドの小屋で熱い紅茶をもらって、ようやく泣きやんだあとだった。
膝の上に本を開いているが、もう一時間も同じページのままだった。
ロンから、全部聞いた。マルフォイが何と言ったか。そのあと、サミュエルが何をしたか。
――聡明な魔法使いであれば、わざわざ穢れた血なんて言葉は使わない。
――穢れた血が好きなのか、って聞かれて、何にも答えないで、土からライオンを出して、囲んじゃったんだ。
状況だけを見れば、答えは一つだった。私が馬鹿にされたから、あの人は怒った。
でも、そんなはずはない。
あの人の根っこには、純血の考えがある。去年、列車の中で、あの人自身がそう言った。血だよ、と。穢れた血という言葉を、最初に私にぶつけたのは、あの人だった。
それに、九月の廊下で、マルフォイと一緒になって、ロックハート先生の本を持つ私を笑ったとき。あの人は、確かに、私に「マグルにはお似合いかもな」と言った。
それなのに、今日は。
ジニーの声が、耳によみがえった。差別するほど、馬鹿じゃないよ。
「寝不足で、機嫌が悪かっただけ」
あの人は、みんなにそう言っているらしい。
嘘だ、とハーマイオニーは思った。
根拠はなかった。ただ、あの人が私に向けるからかいと、ほかの人に向ける笑顔が、どこか違うことには、少し前から気づいていた。その違いの理由が、まだ分からないだけだ。
窓の外では、初雪がちらつき始めていた。
*
罰則の終わりに、マクゴナガル先生は、トロフィー室の扉の前でサミュエルを呼び止めた。
「ミスター・ヴェスゲレート。あの変身は、六年生でも難しいものです。無生物から、生き物へ。それも、本物と見まがうほど完全に、無言で、三頭同時に」
「練習しましたから」
「そうでしょうね」
マクゴナガル先生は、眼鏡の位置を指で直した。
「一つだけ、覚えておきなさい。怒りに任せて振るった変身術は、いつか必ず、自分に返ってきます。術は、使う者の心をそのまま映すものですから」
「……覚えておきます」
「よろしい。明日も、八時に」
その夜、一回目の罰則を終えて談話室に戻ると、もうほとんど誰もいなかった。
暖炉の前に、ハーマイオニーが一人で座っていた。
サミュエルが肖像画の穴をくぐると、彼女が顔を上げた。
目が、まだ少し赤かった。
「……あ」
「……やあ」
それで、二人とも黙った。
暖炉の薪が、ぱちりと鳴った。
「罰則」
ハーマイオニーが、先に言った。
「どうだった?」
「トロフィー室の盾を、魔法なしで二百枚。手がつりそう」
「そう」
「うん」
また、沈黙が落ちた。
「あの――」
「今日の――」
二人の声が、きれいに重なった。そして、きれいに止まった。
「……どうぞ」
「……いや、君から」
「いいの。大したことじゃないから」
「僕も」
ハーマイオニーは、膝の上の本を意味もなく開いて、また閉じた。
「その手」
「ん?」
「赤いわ。盾を磨いて」
「ああ。そのうち治る」
サミュエルは、思わず両手をポケットに突っこんだ。ハーマイオニーの視線が、その動きを追った。
「……そう」
彼女は、本の表紙を指で撫でた。何か言葉を探すように、唇が動いた。結局、何も出てこなかった。
サミュエルも、探していた。何を言えばいいのか。礼を言われるのも、問いただされるのも、どちらも違う気がした。
「……おやすみ」
「……おやすみ、グレンジャー」
ハーマイオニーが鞄を持ち上げて立ち上がった。女子寮の階段へ向かう。
一段目に足をかけたところで、サミュエルの声が追いかけた。
「グレンジャー」
ハーマイオニーが、振り返った。
サミュエルは、暖炉の火を見ていた。ポケットの中で、赤くなった手を握ったまま。
「九月の廊下で、言ったこと」
「……」
「悪かったね。あんなこと言って」
薪が、ぱちりと鳴った。
ハーマイオニーは、階段の手すりに手を置いたまま、しばらく動かなかった。
「……どれのこと?」
サミュエルは、少しだけ笑った。人に見せるための笑い方ではなかった。
「全部」
ハーマイオニーの唇が、何か言いかけて、閉じた。
理由を聞かれる、と思った。今日、なぜあんなことをしたのか。なぜ、今になって謝るのか。
彼女の視線が、一度だけ、ポケットの中で握られた手に落ちた。昼間、「寝不足だ」と答えたときと同じ顔を、自分がしているのだろう、と思った。ここで問われれば、口は勝手に「機嫌が悪かっただけだ」と動く。彼女は、それを知っている。
息を吸う音がして、それが、吐き出されないまま飲み込まれた。
ハーマイオニーは、聞かなかった。
「……おやすみ、ヴェスゲレート」
女子寮の階段を上っていく足音が、途中で一度だけ止まった。それから、また上っていった。
サミュエルは、暖炉の前に一人で残った。
磨きすぎて赤くなった自分の手のひらを、ポケットの中で握りしめる。
謝ることは、できた。
理由は、言わなかった。彼女も、聞かなかった。聞かないでいてくれたのだと、分かっていた。
暖炉の火が、ぱちりと爆ぜた。
二人の間に落ちた沈黙は、これまでのどの沈黙とも、少しだけ違う重さをしていた。