一月のホグワーツは、凍りついていた。
窓ガラスの内側にまで霜の花が咲き、廊下の石畳は、靴底を通して足の裏まで冷たさが染みてくる。湖の表面には薄い氷が張り、ハグリッドの小屋の煙突からは、一日じゅう煙が途切れなかった。
クリスマス休暇は、マルフォイ家の屋敷で一晩を過ごしただけで終わった。
白い孔雀が庭を歩き回る、大理石の屋敷だった。長いテーブルの上座で、ルシウス・マルフォイがワインのグラスを掲げ、「バーク家の跡取りが、スネイプと引き分けたそうだな」と、父に向かって言った。父は、珍しく満足そうに頷いていた。ドラコの席は、空いていた。息子は学校に残ることにしたのだと、ルシウスは肩をすくめた。
「ライオンの件も、聞いているよ」
食後、暖炉の前で、ルシウスが銀の杖の頭を撫でながら言った。
「土塊から三頭も獅子を作って、スリザリンのチームを囲んだとか。見事な変身術だったそうだね。ただ――理由が、少々気になる」
「寝不足で、機嫌が悪かっただけです」
「そうかね」
ルシウスは、薄い唇で微笑んだ。
「若いうちは、そういうこともあるだろう。だが、バーク家の跡取りが、まさか穢れた血のために杖を振るったなどと噂されては、お父上もお困りだろうからね」
「ご心配には及びません」
サミュエルは、完璧な笑顔で答えた。父は、何も言わずにワインを飲んでいた。
休暇明けの城は、それよりずっと冷たかった。
「ジャスティンと、ほとんど首無しニックだって」
「ゴーストまで石になるなんて……」
十一月の初め、最初の試合のあとには、一年生のコリン・クリービーが石にされていた。カメラを握ったまま、医務室のベッドに運ばれた。それから、冬休みの直前に、ハッフルパフのジャスティン・フィンチ=フレッチリーと、グリフィンドールのゴーストのほとんど首無しニックが、廊下で並んで石になっているのが見つかった。
見つけたのは、ハリーだった。
決闘クラブで、ジャスティンに向かって蛇語を話した、ハリーだった。
「ポッターが継承者だって、ハッフルパフの連中はみんな言ってる」
「廊下で会ったら、目を合わせちゃだめだって……」
談話室の隅で、一年生たちが身を寄せ合って震えていた。ジニーは、暖炉の前の肘掛け椅子に、青い顔で縮こまっていた。
「ハリーは継承者じゃないよ」
サミュエルは、いつものように一年生たちの輪の真ん中に座った。
「一年生のとき、ハロウィンのトロールからグレンジャーを助けに行ったのは誰だった? 賢者の石を守ったのは? マグル生まれを狙う継承者が、マグル生まれを助けに地下まで潜ると思う?」
「……思わない」
「だろ? それに、本当に継承者だったら、もっとうまく隠れるさ。ハリーは隠し事が下手だから」
一年生たちが、少しだけ笑った。
サミュエルは笑顔のまま、談話室を見回した。ハリーとロンが、窓際のテーブルで額を寄せ合っている。
ハーマイオニーの姿は、なかった。
暖炉の前の肘掛け椅子で、ジニーが膝を抱えていた。冬休みのあいだに、また少し痩せたように見えた。
「ジニー、大丈夫? 顔色が悪いよ」
「……平気。ちょっと、眠れないだけ」
ジニーは、ローブの胸元を押さえるようにして、目をそらした。
*
次の日の朝食にも、ハーマイオニーは来なかった。
その次の日も。
「グレンジャーは?」
三日目の朝、サミュエルは、何気ない調子でロンに聞いた。
ロンが、ソーセージを喉に詰まらせた。
「ゲホッ……か、風邪だよ。風邪。医務室にいる」
「風邪?」
「ひどい風邪なんだ。うつるから、面会謝絶だって。な、ハリー」
「う、うん。すぐ治るって、マダム・ポンフリーが」
ハリーは、皿の上のベーコンを見つめたまま言った。
サミュエルは、二人の顔を見比べた。
二人とも、嘘をつくのが下手だった。去年から、ずっとそうだ。何かを隠しているのは、一目で分かった。
ただ、何を隠しているのかが、分からなかった。
ジャスティン。ニック。コリン。みんな、医務室のベッドの上にいる。石になって。
この時期に、ひどい風邪で、面会謝絶。
フォークを持つ指先が、冷たくなっていくのが分かった。
*
医務室の扉の前で、マダム・ポンフリーが腰に手を当てて立ちふさがった。
「面会謝絶です」
「少しだけでいいんです。顔を見るだけで」
「謝絶、と言いましたよ、ミスター・ヴェスゲレート」
サミュエルは、扉の隙間から中をのぞいた。
白いベッドが並んでいる。いくつかのベッドの上に、石のように動かない人影。コリンの、カメラを構えたままの腕が見えた。
一番奥のベッドだけが、白いカーテンで囲まれていた。
「あのカーテンの向こうが、グレンジャーですか」
「ミスター・ヴェスゲレート」
「石に、なったんじゃないんですか」
自分の声が、少しだけ大きくなっていた。
マダム・ポンフリーが、目を丸くした。
「何を言っているんです。ミス・グレンジャーは石になどなっていませんよ」
「なら、どうして会えないんですか。ただの風邪なら、扉の外から声をかけるくらい――」
「規則です」
マダム・ポンフリーは、きっぱりと言った。
「本人も、誰にも会いたくないと言っています。お引き取りなさい」
扉が、目の前で閉まった。
サミュエルは、閉まった扉の前に立ち尽くしていた。
会いたくない、と言っている。本人が。
なら、少なくとも、口はきけるのだ。石ではない。そう分かったはずなのに、胸の奥のざわめきは少しも静まらなかった。
カーテンの向こうで、くしゅん、と小さな音がした気がした。
くしゃみにしては、ずいぶん高くて、短い音だった。まるで、子猫のような。
サミュエルは、扉に手をついたまま、しばらく動けなかった。
その夜、トランクの工房で、サミュエルは銀色の紙を一枚取り出した。
羽根ペンを持ったまま、長いこと何も書けなかった。書いては消し、書いては消した。結局、残ったのは一行だけだった。
〈早く、よくなりますように。〉
小さく折った鶴に息を吹きかけると、鶴は寮の窓から、医務室のある棟のほうへ消えていった。
届いたのかどうかは、分からない。返事が来るはずもない。差出人の名前は、書いていないのだから。
*
次の日も、その次の日も、サミュエルは医務室の前まで行った。
そのたびに、マダム・ポンフリーの顔は険しくなった。四日目には、扉を開ける前から「謝絶です」と言われた。
五日目、マダム・ポンフリーは、扉の前で深いため息をついた。
「ミスター・ヴェスゲレート。あの子は、ちゃんと治ります。少し時間はかかりますけどね。それは、私が約束します」
「……本当ですか」
「私が、治らない風邪を治らないまま帰したことがありますか」
「ありません」
「なら、明日からは来なくてよろしい。授業に出なさい」
扉は、今日も閉まった。けれど、閉まる音は、昨日より少しだけ柔らかかった。
右目は、何の役にも立たなかった。数秒先までしか見えない目に、扉の向こうの白いカーテンの中は映らない。
医務室からの帰り道、二階の廊下で、ハリーとロンが女子トイレから出てくるのを見かけた。故障中の札がかかった、いつも水浸しのトイレだ。中から、女の子の幽霊のすすり泣く声が聞こえてくる。
二人は、サミュエルに気づいてぎくりと立ち止まった。
「……何してたの?」
「な、何も。マートルが、ちょっと……泣いてたから」
「マートル?」
「嘆きのマートル。ここのトイレに住んでるゴーストだよ。いつも泣いてるんだ」
ロンは早口でそう言うと、ハリーの腕を引っぱって行ってしまった。
サミュエルは、水浸しの床を見下ろした。ハロウィンの夜、ミセス・ノリスが吊るされていた廊下も、ちょうどこのすぐ先だった。床が、同じように濡れていた。
授業の内容が、頭に入らなかった。変身術の授業で、マクゴナガル先生の質問に、初めて答えを間違えた。先生は眉をひそめただけで、何も言わなかった。
魔法薬学の授業では、スネイプが、サミュエルの大鍋をのぞきこんで足を止めた。
「ミスター・ヴェスゲレート。決闘のときの、あの集中力はどこへ置いてきた」
鍋の中の薬は、教科書の色より、わずかに濁っていた。
「……失礼しました」
「グリフィンドールから五点。理由は、言わずとも分かるだろう」
スネイプは、それ以上何も言わずに通り過ぎていった。
その夜の談話室で、シェーマスが冗談めかして言った。
「グレンジャーのやつ、もしかして、次の犠牲者になりかけたんじゃないの? それで、先生たちが隠してるとか――」
「やめろ」
声が、出ていた。
談話室が、しんと静まり返った。
サミュエルは、自分が椅子から半分立ち上がっていることに気づいた。シェーマスが、目を丸くしてこちらを見ている。周りの一年生たちも、ネビルも、ディーンも。
低い、硬い声だった。笑顔は、どこにもなかった。
一秒。二秒。
サミュエルは、ゆっくりと椅子に座り直した。
「……冗談でも、そういうのはやめよう。一年生が怖がる」
いつもの声に、戻そうとした。
「そ、そうだな。悪い」
シェーマスが、気まずそうに頭をかいた。談話室のざわめきが、少しずつ戻ってくる。
窓際のテーブルで、ハリーとロンが、何とも言えない顔でこちらを見ていた。
*
それから三週間あまりが過ぎた朝、大広間に入ると、グリフィンドールのテーブルに、栗色の髪が見えた。
ハーマイオニーだった。
少し痩せたように見えた。頬の色が、まだ少し悪い。それでも、ハリーとロンの間に座って、いつものように分厚い本を開き、トーストにマーマレードを塗っていた。
サミュエルは、大広間の入口で立ち止まった。
胸の奥で、何かがほどけていく音がした。
ずっと握りしめていた拳を、ゆっくりと開く。手のひらに、爪の跡が四つ、赤く残っていた。
「……おはよう、グレンジャー」
テーブルに着きながら、いつもの調子で言った。
「風邪、もういいの?」
「ええ。もう平気」
ハーマイオニーは、本から顔を上げずに答えた。
ロンが、トーストを喉に詰まらせた。ハリーは、急に皿の上のベーコンを熱心に眺め始めた。
「ずいぶん長い風邪だったね。マダム・ポンフリーが、医務室の扉の前に番兵みたいに立ってた」
「……毎日来てたって、聞いたわ」
サミュエルの手が、ティーポットの上で止まった。
「マダム・ポンフリーから?」
「ええ。『あの子に、もう来ないように言ってちょうだい』って」
「それは、お手数をおかけしました」
サミュエルは、何でもないように紅茶を注いだ。
「医務室は、図書室より暖かいからね。冬は、ついね」
「……そう」
ハーマイオニーは、ようやく本から顔を上げた。
何か、言いかけた。
唇が、わずかに開いて、形を作りかけた。
けれど、言葉にはならなかった。彼女は唇を引き結んで、またトーストに目を落とした。
サミュエルは、それ以上何も聞かなかった。
ただ、紅茶を飲みながら、あの三週間の自分のことを考えていた。
たかが、風邪だった。結局は、ただの風邪だったのだ。
それなのに、自分は何をしていた。毎日医務室の前に立って、扉の向こうのカーテンを見つめて、シェーマスの冗談一つに、談話室じゅうが静まり返るほどの声を出した。
去年の自分なら、考えられないことだった。
誰に何を言われても、どんな噂が流れても、笑って受け流せた。動じないことが、自分の一番の取り柄だった。
――それが、たかが風邪で。
サミュエルは、カップの中の紅茶を見下ろした。琥珀色の水面に、自分の顔がゆがんで映っていた。
その顔が何を意味しているのか、考えるのが怖かった。
だから、考えないことにした。
向かいで、ハーマイオニーがページをめくる音がした。その指先が、一度だけ、こちらへ向かいかけて、止まったのを、サミュエルは見なかった。