ハーマイオニー・グレンジャーと緋色の予見者 作:ネギタリアン
漏れ鍋の暖炉から緑の炎ごと転がり出ると、カウンターの向こうで、禿げ頭のバーテンが目を丸くした。
「おや、バークさんとこの坊ちゃんか。もうホグワーツの年かい。早いもんだねえ」
「ええ。裏庭、通らせてもらいます」
煤を払う間もなく、サミュエルは店の奥へ抜けた。
八月のダイアゴン横丁は、どこを向いても人だらけだった。
石畳の上を、新入生らしい子供たちが親の手を引っぱって駆けていく。大鍋を山積みにした店先。イーロップのふくろう百貨店から聞こえる、ホーホーという鳴き声。フローリアン・フォーテスキューのアイスクリームパーラーの前には、甘い匂いにつられた行列ができている。通りの奥では、真っ白なグリンゴッツ銀行の建物が、夏の日差しを眩しく跳ね返していた。
「ぼ、坊ちゃま……つ、次はどちらへ……」
ピッピーが、自分の背丈ほどもある包みを抱えて、よろよろとついてくる。
フローリシュ・アンド・ブロッツで買った教科書は、どれももう読んだことのあるものばかりだった。ついでに上級生向けの棚を眺めていたら、店員に声をかけられた。
「坊や、そこは七年生用だよ。一年生の教科書なら、あっちの――」
「知っています。新しい版が出ていないか、確かめていただけです」
「……え?」
マダム・マルキンの店では、勝手に動き回る巻き尺に寸法を測られるあいだ、十分ほど黙って突っ立っていた。
アイスクリームパーラーの前を通りかかったとき、ピッピーの大きな目が、ほんの一瞬だけ店先の看板に吸い寄せられた。
「欲しいのか」
「め、めめめ、めっそうもございません!」
「……なら、前を見て歩け。包みを落とすぞ」
「は、はいっ!」
「あと二軒だ」
サミュエルが足を止めたのは、古びた狭い店の前だった。剥げかけた金文字の看板に、〈オリバンダーの店――紀元前三八二年創業 高級杖メーカー〉とある。
「お、お杖を……お買いになるので?」
「いや。見るだけだ」
杖作りの店を、一度この目で見てみたかった。それだけだ。
「ここで待っていろ」
「は、はいっ」
*
店の中は、狭くて薄暗かった。
天井まで届く棚に、細長い箱がぎっしりと積まれている。埃と古い木の匂い。表通りの賑わいが嘘のように、しんと静まり返っていた。
――いや。先客がいた。
「見てよ、これ! ほら!」
青白い顔に、撫でつけたプラチナブロンドの髪。顎の尖った少年が、買ったばかりらしい杖を振り回している。杖の先から、緑と銀の火花がぱちぱちと散った。
日刊予言者新聞で何度も見た顔を、そのまま小さくしたような顔だ。マルフォイ家の息子に違いない。
少年がこちらに気づいて、顎を上げた。
「何だよ。見世物じゃないぞ」
「ごめん。いい杖だなと思って」
サミュエルは、にこりと笑った。
「サンザシだね。芯は一角獣の尾の毛かな」
「……なんで分かるんだ?」
「火花が素直だったから。一角獣の毛は、持ち主に一番早く懐く芯なんだ。初めて振ってあれだけきれいに火花が出るなら、相当相性がいいよ」
少年の口元がゆるみかけて、慌てて引き締まった。
「当然さ。オリバンダーも、こんなにすんなり決まるのは珍しいって言ってた」
「だろうね。それにサンザシは気難しい木だ。癒やしにも呪いにも向く分、扱える人間を選ぶ。――君、どこの家?」
「マルフォイ。ドラコ・マルフォイだ。母上は隣の店でローブを見てて、父上は本屋。僕だけ先に杖を選ばせてもらったんだ」
「やっぱり。僕はサミュエル。バーク家の」
「バーク!」
ドラコの灰色の目が、ぱっと輝いた。
「父上から聞いてるよ。ノクターン横丁の、バーク商会の跡取りだろ。父上はあの店の上得意なんだ」
「知ってる。いつもお世話になってます、ってお父上に伝えておいて」
そこから先は、簡単だった。
「九月が待ちきれないよ。でも一年生は、自分の箒を持ち込めないんだってさ。馬鹿げてると思わないか?」
「思う。君、飛ぶのは得意そうだし」
「得意なんてもんじゃないさ。去年なんか、マグルのヘリコプターをぎりぎりでかわして――」
「ヘリコプター?」
「マグルの空飛ぶ機械だよ。知らないの?」
「知らなかった。それで、どうやってかわしたの」
ドラコはたっぷり三分かけて、その話をした。サミュエルはちょうどいいところで驚き、ちょうどいいところで笑った。
「父上に頼んで、規則を変えてもらおうかな」
「それもいいけど」
サミュエルは、少しだけ首を傾げた。
「規則を変えさせるより、飛んでるところを見せて周りを黙らせるほうが、君らしい気がするな」
「……まあ、それもそうだな」
ドラコは満足そうに鼻を鳴らした。
ここまで、十分。
ドラコ・マルフォイの扱い方は、もうだいたい分かった。褒めてほしいところを、先回りして褒めてやればいい。あとは好きなだけ喋らせておけば、勝手に機嫌がよくなる。
「君、どこの寮に入るつもり? 僕はスリザリンに決まってるけど」
「さあ。帽子に聞いてみないと」
「ハッフルパフだったら、僕なら退学するね」
「それは困るな。ホグワーツ特急で、話し相手がいなくなる」
「じゃあ、特急では同じコンパートメントにしよう」
「考えておくよ」
「そういえば、君の杖は? まだ買ってないなら、ここで一緒に選べばいいのに」
「家にある古いのを使うつもりなんだ」
「お下がりかよ。バークの跡取りが?」
「古いものほど、いい仕事をすることもあるからね。うちの商売と同じさ」
「……ふうん。そういうもんか」
店の奥から、ゆったりとした足音が近づいてきた。
「お待たせしましたな、マルフォイさん。お代は、お父上のご勘定に回しておきますよ」
現れたのは、大きな薄い色の目をした老人だった。暗い店の中で、その目だけが月のように白っぽく光っている。
「父上のつけか。――じゃあな、サミュエル。九月に」
ドラコは杖を大事そうに箱へしまうと、ドアのベルを鳴らして出ていった。
店の中に、静けさが戻る。
老人――オリバンダーは、サミュエルをじっと見ていた。
「さて。あなたには、杖をお売りした覚えがありませんな」
「今日は見学です。杖作りの店を、一度見てみたくて」
「杖作りに、ご興味が?」
「道具を作るのが好きなんです。杖は、まだ作ったことがありませんが」
「ふむ。ひとつだけ覚えておかれるといい。杖は、作り手が選ぶものではない。杖のほうが、持ち主を選ぶのです」
「ええ。身に覚えがあります」
「ほう。では、杖は、もうお持ちで?」
「ええ」
オリバンダーの視線が、すうっと下へ動いた。サミュエルの腰。ローブの陰に吊るした、漆塗りの細長い箱。
老人の目が、そこでぴたりと止まった。
「……失礼。その箱の中身を、拝見しても?」
「お断りします」
「でしょうな」
オリバンダーは、少しも気を悪くした様子もなく頷いた。それでも、目は箱から離れない。棚の上の箱が、かたかたと小さく鳴ったような気がした。
「何の木か、何の芯か。私には見当もつかない。ですが――」
老人は、ため息のように呟いた。
「……これはまた、至高の一品をお持ちだ」
サミュエルは何も答えず、一礼して店を出た。
表では、ピッピーが包みを抱えたまま、律儀に同じ場所で待っていた。
「ぼ、坊ちゃま。さっき出ていかれたお坊ちゃまは……」
「マルフォイ家の息子だ」
「お、お友だちに、おなりで?」
サミュエルは少しだけ考えた。
「……そういうことになった」
*
表通りから一本外れると、空気が変わる。
ノクターン横丁。狭い路地に、日の光はほとんど届かない。干からびた首を吊るした店。毒蜘蛛を籠に入れて売る店。すれ違う魔法使いはみんなフードを目深にかぶり、誰とも目を合わせようとしない。
ピッピーは包みを抱えたまま、サミュエルのローブの裾にぴったりとくっついていた。
「おや、坊や。迷子かい?」
路地の暗がりから、しわがれた声がした。黒ずんだ長い爪の老婆が、盆に載せた人の爪のようなものを差し出してくる。
「迷ってはいません」
「そうかい、そうかい。気が向いたら、またおいで」
サミュエルは歩調を変えずに、その前を通り過ぎた。
路地の奥に、バーク商会の店がある。
「これはこれは、坊ちゃま!」
カウンターの向こうで、猫背の男が揉み手をした。店主のボージンだ。脂っぽい髪を撫でつけ、ねばつくような笑顔を浮かべている。
ガラスの陳列ケースの中では、オパールの首飾りがぬらりと光っていた。札には「触るべからず。呪いあり」。その隣には、萎びた人の手が燭台に据えられている。
「ちょうど先週、マルフォイの旦那さまもお見えになりましてね。坊ちゃまのご入学を、それはそれは楽しみにしておいででしたよ」
「さっき、息子のほうに会った」
「おお、それはそれは!」
「それより、頼んでおいたものは」
「はい、はい。こちらに」
ボージンが奥から運んできたのは、銀色の毛皮の束だった。光の加減で、輪郭がゆらりと滲む。じっと見つめていると、そこにあるのかどうかさえ分からなくなってくる。
「デミガイズの毛皮、二十枚。――しかし坊ちゃま、透明マントでもお作りになるので? これだけあれば、大人用が三着は――」
「マントは作らない」
「では、何を?」
「冬支度だよ」
ボージンは一瞬きょとんとして、それから媚びるように笑った。
「は、はは。さすがは坊ちゃま。お代は、旦那さまの帳簿に?」
「いや。僕の分から払う。父上には言わなくていい」
「……かしこまりました」
ボージンの笑顔が、ほんの少しだけ固くなった。それでもすぐに、揉み手が戻ってくる。
「そういえば、九月からはホグワーツだそうで。おめでとうございます。学校に持ち込みにくい品がご入り用でしたら、ふくろう便で一言いただければ――」
「必要になったら、こちらから連絡する」
「は、はい。お待ちしております」
*
夕食の席で、サミュエルは一言だけ報告した。
「今日、杖の店でドラコ・マルフォイに会いました」
「そうか」
ロビンソンは、仔牛のカツレツを切る手を止めなかった。
「杖の店に、何の用だ」
「見学です。どんなふうに作っているのか、見てみたくて」
「物好きなことだ。――で、どうだった」
「マルフォイですか。扱いやすい子でした」
「ならいい」
会話は、それで終わった。
*
その夜、サミュエルはトランクの中の工房にこもった。
部屋の隅には、いつもの線香を一本。白い煙が、ランプの明かりの中をゆっくりとのぼっていく。
作業台の上には、彫刻刀、乳鉢、真鍮の天秤、使い込んだ銀の小刀が、いつもの位置に並んでいる。油と古い羊皮紙の匂いに、今夜は毛皮の、森の奥のような湿った匂いが混じっていた。
その作業台に、デミガイズの毛皮を一枚広げた。銀の小刀で、毛を根元から刈り取っていく。刈った毛は、月見草の煮汁を張った木の桶へ。かき混ぜるうちに毛はほぐれ、乳白色のとろりとした液に変わった。
棚から取り出したのは、細い竹ひごを編んだ四角い枠だ。
日本で暮らしていた頃、山あいの村で一度だけ見た紙漉き。職人の手つきを、彼はいまでも細かく覚えている。
枠を液に沈め、すくい上げる。前後に、左右に、ゆっくりと揺する。枠の上に薄い膜が張り、水がしたたり落ちていく。
一枚漉くたびに、乾かし台へ移す。それを、何度も繰り返した。
乾いた紙は、ほとんど透けていた。光にかざすと銀色にきらめき、角度を変えると、ふっと見えなくなる。
試しに、紙の向こう側に手をかざしてみた。紙に覆われたところだけ、指先がきれいに消えている。手を引くと、指はちゃんとそこにあった。
悪くない。
サミュエルはその一枚を手に取り、折り始めた。
三角に折る。開いて、また折る。首を細く引き出し、翼を広げる。指先が迷うことはなかった。
手のひらの上に、小さな鶴が一羽できあがった。
梯子を上がり、自室の窓を開ける。八月の夜風が、カーテンをふわりと揺らした。
鶴を手のひらに載せて、そっと息を吹きかける。
鶴が、羽ばたいた。
一度、二度。紙の翼が夜気をつかみ、ふわりと浮き上がる。窓枠を越え、庭の上へ。月の光を受けて、銀色にきらりと光り――
そして、消えた。
行き先は、決めていない。ただ、ちゃんと飛ぶかどうかを確かめたかっただけだ。
彼はしばらく夜空を眺めていたが、やがて窓を閉め、カーテンを引いた。
作業台の引き出しの奥には、まだ折られていない銀の紙が、何十枚も眠っている。